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祝福の旅

再UPにあたり、なぜ祝福の旅というタイトル名のなのか、すっかり忘れていた。
読み直してみれば、なるほどである。

祝福の旅 長谷寺編

 〜祝福の旅・長谷寺編〜 五月五日 子供の日
*掲載の写真は転載無断使用はおやめ下さい。

新大阪に向かう新幹線に乗り込むと、既に父六郎、兄和久が乗っていた。
今日は同門のNの結婚式が大阪であり、数年ぶりに三人肩を並べての旅である。
さて、兄、和久は何時もの如く大好きな新幹線のチキン弁当を楽しそうに食べている。
食べ物の思い出は忘れないもので、昔は新幹線に乗ると食堂車で食べた事やら、私達の子供時代の思い出話に花が咲いた。
招かれた披露宴は実に盛大であった。 (中略)

披露宴も終わり、予定のある兄と別れ、父と二人京都に向かう。
実はこの春に八十歳を迎えた父を祝い3月に旅行の予定であったが、思わぬ私の喉のトラブルで消えた為、声も治った今回、1日だけ奈良を二人で旅する事にした。京都に着くとまだ陽が残っていたので行く先も決めずにタクシーに乗ったが、夜間拝観出来るのは高台寺のみだったのでそこに向かった。

高台寺は太閤秀吉の妻、北政所、寧々さまが秀吉亡き後高徳院となって菩提を弔ったところだ。
中に入ると、なかなか広大な敷地で当時の権勢の程がうかがい知れる。
秀吉というのは、能楽の庇護者であり自らもかなりの愛好家であり、能楽師の雇用制度を作ったりした。
この流れが徳川将軍家の式楽としての能に繋がっていく。そういう意味で、能にはとてもゆかりがある人物なのだ。

装束にも使われる桐文様が至る所にある。


寺の庭を観て廻るうちに陽が落ちて苔の庭園がライトアップされて美しい。


二人で抹茶を飲みながら時を忘れた。ひとしきり堪能して京都から石山近くのホテルに向かった。
ここは今年3度目なのでスタッフも覚えてくれていた。
驚いたことに、なんとこの石山辺りは私が子供の頃に家族旅行したところだと父が言う。
その時、唐橋、石山寺、三井寺と観て廻ったらし
いが、小学校低学年だったから全く記憶にない。
 
大人になっての判断基準は幼児期に見た親の行動というが、まさか三月の沈黙の旅で無意識に行ったところ全てが二度目とは思わなかった。三つ子の魂とでもいうべきか。恐るべき刷り込みである。
謡いもそんな風に無意識に謡えたらよいのだが(笑)


翌日。

父は、長谷寺に行きたいとのリクエストなので京都から近鉄特急に乗り大和八木経由で長谷寺を目指す。今日は生憎と小雨。石山駅近くの兼平の墓に立ち寄ってから京都に出る。

兼平庵と書いてある。末裔の方が今も墓を守っているようだ。


初めに止まる停車駅は百万で謡われる西の大寺、西大寺。今日は通過。
大和八木から乗り換えて長谷寺駅につく。入り口まで歩いて20分だが雨なのでタクシーに乗る。

長谷寺は真言宗豊山派の総本山。壇信徒二百万人。お寺も全国に三千寺あり、僧侶五千人の規模を誇る。
以前お寺で
の能公演でお世話になったお坊様が長谷寺の戻っていることを思い出し山門の入り口でその方の名を告げると今は本堂に居られるという。上まで登れば会えるようだ。


さてこの山寺は、実に凄いスケールなのだ。山の上にある本堂まで動かぬエスカレーターのような石段が続く。
その道は回
廊のように上は瓦の屋根がついているのが、高台寺の龍の背中のような瓦の比ではない。
山の瀬を瓦の屋根の回廊が遥
か上まで登ってゆく。
それにしても隣を歩く80才になる能楽師は健脚である。
わたしと同じペースで数百段の階段を登る。身
内贔屓で恐縮だが、たいしたものだ。


この寺の創建は687年。道明上人が天武天皇の為に銅板法華経説相図を敬造し能海士にでてくる房前の大臣こと藤原房前の援助のもと本尊十一面観世音菩薩を造立することに始まる。

因みに観世流の祖である観阿弥、世阿弥、音阿弥の頭文字を繋げれば観世音になり、当時の信仰の程がわかる。観世発祥の地である結崎座の結崎はすぐ近くにあり、能楽の創始者たちがこの寺とゆかりがあるのは想像に固くない。(観阿弥は長谷寺の能興行に参加していた)


さて、今日ここは観音霊場八番目としても有名で、お遍路さんの姿の人もいる。
また牡丹の寺としても知られていて、私たち
が訪れた時に丁度回廊伝いに牡丹が咲き乱れていて花やかであった。



途中、右手の横道に入ると能「玉葛」に出てくるに「二本の杉」、そして定家や俊成の墓がある。
ぬかるんだ苔に気を付けて
お参りをする。

(刻まれた文字もすでに消えて、詳しいことはわからなかった。)
途中 紀貫之ゆかりの梅があった。


再び回廊に戻って、汗を滲ませながら登るとその先に漸く本堂が現れる。
清水寺のように本堂からせり出しの舞台がある。

そこからの眺めは実に美しく、鮮やかな緑に山が彩られていた。
 
訪ねたお坊様は、本堂で待っていて下さり遙々来た私共にお茶を出してもてなしてくれた。


色々話すうちに、ほんの一週間前に私が訪れた東京所沢のお寺の住職と旧知の仲で、跡取りの息子さんの結婚式の媒酌の労をとられる為東京に来るとの事。
その跡取りさんが、なんと九皐会の女性能楽師のAさんのお相手であるのだから驚
きである。
世間は狭いものである。


後日談になるが、かくして6月2日に所沢の宝玉院でめでたく仏式の結婚式をあげられたAさんは、ご主人は仏の道を。自身は能の道を夫婦手を携えて極めることになったのだ。
なんともめでたいご縁が続いて同門と
して嬉しい限りであった。お幸せにね。

今回は、実にめでたいご縁の旅。まさに祝福の旅であった。


さて話は戻るが、長谷寺では若い修業僧に本堂を案内頂いた。
凄い観音様で10メートル以上もある。残念ながら撮影禁止。
父と一緒だったせいか、内陣近くに寄せていただき、近くで拝ませて頂いた。
さすがに日本一の木造立像観音様であった。


お坊様に別れを告げて本堂を出ると、緑の山に霞が煙り神々しい景色を拝むことが出来た。
我々が山を下り始めたらすぐ
に声明が聞こえ始めた。
もしかしたら予期せぬ客にお勤めを遅らせて頂いたのかもしれない。
山に響く声明の響きは実に美
しかった。感謝。




山を下り門前のお土産屋で亭主とよもやま話をしながら団子を食べたが、旅ならではのひと時で人心地ついた。
ここで知っ
たことだが、先ほどのお坊様は土産屋の亭主も知るたいへんな高僧だそうで、気さくな方だったから、そうとは知らずに気軽に訪ねてしまった(大汗)
「このお山では偉い方ほど腰が低いんですよ」亭主の言葉が耳に残った。


帰りは鈍行に乗ると結崎に止まった。先ほど書いた通り観世発祥の地である。
現在ではここに記念碑がある。
世阿弥から650年後の未来世界で、能が演じられているとは、さすがの世阿弥さんも想像しただ
ろうか。
「命には限りあり、能に果てあるべからず」(世阿弥)
陽も暮れかけたので下車せず、車窓から遥かな昔を思いやった。

やがて佐保の川をうち渡り、西の都を後にして私たちは再び 花の東京へと帰って行った。

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