そして人は無言になった〜Tuol Sleng Genocide Museum
 
そして人は無言になった
〜 Tuol Sleng Genocide Museum
 

   トゥール・スレンに行く前にガイドが呟いた一言を今も忘れることができない。
「次が最後の観光です。悲しい場所です」
 淡々と、それ以上でもそれ以下でもないというように彼は言った。自然な口振りが逆に印象的だった。表情から昨日の卑屈さが消えていた。きっと、もう何かを繕ったり装ったりする必要がないのだ。
 そして彼は無言になった。話したくないというより、語るべき内容がないという感じだった。いくら言葉を費やしたところで説明することなどできない。努力するほどたぶん嘘になるだろう。同じ時代、同じ境遇に身を置いた者でなければ理解などできるはずがない。
 細い路地に車が停まった。モルタルの粗末な家屋が建ち並んでいる。塀で仕切られた一角には、一カ所だけ開かれた門の傍らに歩哨小屋に似た小さな建物がある。それがチケットオフィスだ。僕たちの他に観光客は見当たらない。行き交う人もほとんどいない。うら寂しい界隈だ。
 門をくぐったところで、配られたパンフレットのタイトルにまず目を奪われた。
「トゥール・スレン・『ジェノサイド』・ミュージアム。『虐殺』博物館ってこと?」
 ガイドブックやパンフレットには「トゥール・スレン博物館」と書いてあった。だが正式名称は違うのだ。その事実に気づいた時、カンボジアの人々の心の奥底に流れているものを垣間見た気がして、あっと思った。
 エルサレムのヤド・バシェムでさえ正式名は「歴史博物館」だった。あの執念深いユダヤ人をもってしてもナチス・ドイツの所業そのものを公的な建造物の名に刻むことはしなかった。日本の原爆ドームに至っては「平和記念公園」とあえて反対側からアプローチしている。
 イスラエルも日本もその意味では未来志向と言える。悲惨な過去を努めて客観視し、未来への教訓にしようという前向きな意思が感じられる。だがトゥール・スレンは違う。この名称に未来への視点はない。あるのは過去への怨念と憎悪だけだ。
 復讐なのだ、と思った。トゥール・スレンを保存し外国人をはじめとする多くの観光客に公開しているのは、ただ一点、復讐のためだ。でも、いったい誰に対して?
 2002年を迎えた今、ポル・ポト派は事実上崩壊し、虐殺に責任を負うべき主だった幹部も既に多くが鬼籍に入っている。それなのに、依然として死刑囚を晒し首にするようなネーミングを続けることにどんな意味があるというのか。
 かつて高校だったという「博物館」は中庭を取り囲むように建物が逆凹字になっている。コンクリート造りの三階建てだ。見学順路は向かって左から。校舎の中に入ると、庭に面した廊下に沿って以前は教室だった部屋が並んでいる。
「ここは尋問室でした。でも、ほとんど尋問は行われませんでした。連れて来られた人はすぐに処刑されてしまったからです」
 足を踏み入れた瞬間、漂うそれがすぐに死臭だとわかった。20年以上の歳月を経ても、染み付いた臭いはまだ消えていない。床や天井の所々に飛び散った血痕が残っている。がらんどうの部屋の中央に鉄製のベッドがひとつ。壁には白黒のパネルが一枚だけ飾られている。
「プノンペンを陥落させたベトナム軍が、この建物に入った時の様子を撮影したものです」
 しばらくの間、それが何を写したものなのかがわからなかった。被写体が本来あるべき姿からあまりにかけ離れていたからだ。ベッドに、床に、夥しく拡がる一面の漆黒……。
 これは本当に現実を写したものなのか。誰かの頭の中にある空想を描いただけではないのか。写真ではなく絵画なのに、ふとした弾みで言い間違えてしまったのではないか。しかし、ガイドは何も言わなかった。黙ったまま、僕が状況を理解するのをただじっと待っていた。
 目を逸らすことができなかった。理解することができなかった。そして僕は無言になった。
 

   
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