メコンの賜物〜Tonle Sap Lake
 
メコンの賜物
〜 Tonle Sap Lake
 

   ずっと道路を走っていると思っていたが、いつしか堤防の上にいた。進むにつれ家や田畑が徐々に眼下へと移動していく。やがて右手に運河のような水路が現れた。コンクリートではなく土で護岸を固めている。岸辺には船溜まりがあり、屋形船のように屋根を取り付けたボートが幾艘も並んでいる。きっと観光客用に違いない。
 カンボジアの地図を開くと、そのほぼ中央にひときわ大きな湖がある。面積は琵琶湖の10倍以上。「以上」というのは乾季と雨季とで全然値が異なるためだ。乾季には湖から流れ出した水がトンレサップ川を通じてメコンに注ぐが、雨季には増水したメコンから水が逆流し、湖は大きく膨らむ。その差は実に3倍。雨季になると琵琶湖が滋賀県全体を覆い尽くすようなものだ。
 こうしてポンプのように流域全体の水量を調節することから、トンレサップ湖は「カンボジアの心臓」とも呼ばれている。きっと、一年を通して遥か上空から眺めたら呼吸をしているように見えるだろう。
 シェムリアップ滞在最後のアクティビティは、このトンレサップ湖のクルーズだ。件の屋形船をガイドがさっそく一艘チャーターする。
 いざ出発。しばらくは水路の両脇に建ち並ぶ水上家屋を見ながら進む。ミャンマーのインレー湖でも水上家屋を見たことがあるので同じようなものかと思っていたが、どうやら構造が違う。インレー湖のものは水草を集めて基礎としていたため完全に水上に浮いていたが、トンレサップ湖のものは湖底に柱を打ち込んで土台を組み上げている。いわば高床式住居だ。
 ときおり雑貨を積んだ小舟とすれ違う。商店なのだという。ご用聞きの三河屋さんよろしく、各戸を回って品物を売っているのだ。そうかと思うと固定式の店舗もある。軒先に小舟が何艘か停泊している。こちらは客がマイボートで乗り付けては買っていくのだ。
 水路は次第に幅を拡げ、それにつれて家屋も姿を消していく。いよいよ湖本番だ。陸地が遠く離れていく。船が俄然スピードを上げ始めた。
 沖へと向かう途中で思いもよらないものを見つけた。水中から木が生えている。湖の中から幹が伸び、陸上と同じように空に向かって枝葉を拡げているのだ。しかも一本ではない。同じような木が周囲に何本もある。現代美術に勝るとも劣らないシュールな光景だ。
「ご心配なく。あの木はちゃんと地面から生えています。でも、今は水深が浅いので出ていますが、雨季になったらもっと水没します」
「ってことは、あの葉っぱのあるてっぺんが最高水位ってことか」
「水中に沈んだ葉っぱに魚が卵を産むのです。これらの木はトンレサップ湖の豊かな水産資源を支えてもいるのです」
 「エジプトはナイルの賜物」とはヘロドトスの言葉だったか。それをもじれば「カンボジアはメコンの賜物」だ。ナイルの洪水なしにはエジプトの農業が成立し得なかったのと同じように、メコンの流量変化に伴って膨らんだり縮んだりするトンレサップ湖なしには、この国の数少ない基幹産業である漁業が立ちいかない。
 気がつくと遥か沖合まで来ていた。360°どの方角を向いても水平線しか見えない。いくら目を凝らしても陸地のかけらもない。
 船頭がエンジンを切った。その瞬間、世界は静寂に包まれた。チャプチャプとした波音以外に聞こえるものは何もない。たゆたう船はただ揺られるだけで、どこへ進むこともない。遮られることのない陽光が水面に反射して、キラキラと目を開けていられないくらいに眩しい。
 まるで海、いや、海そのものだった。子供の頃に読んだ「太平洋ひとりぼっち」を思い出す。圧倒的な解放感とともに、底知れぬ不安感が襲ってきた。
 

   
Back ←
→ Next
 


 
静寂のカンボジア
 

  (C)2002 K.Chiba & N.Yanata All Rights Reserved