アニミズム〜Kbal Spean
 
アニミズム
〜 Kbal Spean
 

   それは確かに「川の中の遺跡」としか言いようのない代物だった。ただひとつ僕たちに誤算があったとすれば、それは水深というものをまったく考慮に入れていなかったということだろう。そう、クバル・スピエンはおそろしく「浅い」のだ。
 水底が透けて見える。河床までの深さはせいぜい10cmか20cm。川と言うよりほとんど水盤だ。潜るどころかズボンの裾をちょっとまくる程度で事足りる。いや、そもそも遺跡を鑑賞するためには川に入る必要すらない。河岸や河床の剥き出しになった岩に施された彫刻。それが見るべきもののすべてだからだ。
「こういうものだったのか」
「珍しいことは珍しいけど、思っていたのとはかなり違うね」
 水中にアンコール・ワットが建っているかの如き幻想を抱いていたのが間違いだった。遺跡というよりレリーフと表現した方がむしろ適切だろう。川の中のレリーフ。うん、これなら看板に偽りなしだ。身勝手な誤解を生じることはあるまい。そう思って見ると、シヴァやヴィシュヌといったヒンドゥーの神々をモチーフとして、なかなか味のある造形をしているではないか。
 川沿いの遊歩道を下っていく。水底や岸辺の岩に目を凝らしながら進む。この先数100mにわたってレリーフが刻まれているのだ。水面は鏡のように静かで、段差になっているところ以外には流れがない。対岸までは広いところでも10mあるかないか。乾季で水量が少ないため川幅はさらに狭い。雨季には水中に没しているであろう彫刻も地表に露出していて見やすい。
 しばらく行くと、河床一面に碁石を敷き詰めたような奇妙な一角が現れた。円盤状のレリーフが規則正しく並んでいる。干上がっている箇所は魚の鱗、あるいは鰐の背中のようでもある。
「あれはリンガです」
「リンガってシヴァ神の象徴の」
「そう、男性のシンボルです」
 それにしてはやけに平べったい。ヒンドゥー遺跡にリンガは付き物だが、モニュメントチックに一本だけ屹立しているケースがほとんどだ。これではまるで輪切りにしたソーセージを並べたみたいではないか。
「アンコールの人々にとってこの川は唯一の水源でしたから、たくさんのリンガを作ることで水を清めたという説があります」
 そこには自然崇拝への強い指向を感じる。人智を超えたものに対する謂れなき畏れ。たとえば、巨石に何か特別な魂が宿っていると考える。川の流れを大地の意思の現れであるとみなす。理屈では説明がつかないものの、アジアの民なら誰もが伝統的に抱いてきた霊的な感覚を、この遺跡は素朴に表現している。
 ハイキングの最後は滝だった。といっても高さ数mの小さなものだ。地震か何かで河床の岩が崩落してしまったのだろう。ぽっかりと穴が開いたように地層に段差が生じている。滝の下まで降り河原に転がる大きな岩に腰を下ろした。リュックからペットボトルを取り出す。山道を歩くこと小一時間、ようやくの休憩タイムだ。
 滝の飛沫が風に乗って流れてくる。周囲の森から木々の葉の青い香りが漂ってくる。マイナスイオン充填120%。思えばこんなに自然の息吹に触れる機会は久しくなかった。脚はパンパンだが気分はこの上なく爽快だ。
 すべてのものには神が宿っている。動物だけではなく植物や岩石、そして川を流れる水にも。擬人化された神を戴く一神教とは対極にある考えだが、僕としてはやはりこちらの方がしっくりくる。さすが八百万の神の国に生まれただけのことはあるものだ。
 

   
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