観測者たち〜Angkor Wat
 
観測者たち
〜 Angkor Wat
 

   村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を初めて読んだとき、夜明けの空を描くのになぜそのような表現を使うのかがわからなかった。あれは確か高校生の頃。優等生ではなかったから、夜通し遊んで明け方の道を歩いて帰ってくることもしばしばだった。見上げる空は墨絵のようで、雑居ビルにあちこちを切り取られて狭く、とても小説の題材になりそうな代物ではなかった。
 アンコール・ワット、午前6時。一直線に伸びる参道の石畳だけがうっすらと灰色に染まっている。両脇に拡がる野原も、その先の樹々も、遥か彼方に見える尖塔のシルエットも、まだ闇に沈んだままでどこが境界なのかがわからない。空は思ったより明るいが色はなく、試しにカメラのファインダーを覗くと光量不足でフラッシュのサインが出る。数秒は絞りを開けなければ何もまともに写らないだろう。
 しかし澄んだ空気は清々しい。気温もさほど高くなく適度に湿気を帯びているので、深呼吸をすると新鮮な酸素が肺の隅々まで行き渡るような気がする。
 歩いていくうちに次第にいろいろなものの輪郭がはっきりしてくる。風景が目覚め始めているのだ。曖昧模糊とした混沌から徐々に意識を立ち上がらせ、覚醒へと向かっている。
 そして空が色彩づき出す。地平線近くが透き通ったオレンジに染まり、上空へ向かうにつれて水色へと変わっていく。まさしく「限りなく透明に近いブルー」だ。他に表現のしようがない。村上龍の見た夜明けはこれだったのか。小説の舞台となった福生は米軍基地の街だ。航空管制の都合上高い建物は少ないはずだから、今と同じように空が広かったに違いない。
 アンコール・ワットの中央祠堂は、第三回廊の四隅にある尖塔とそれらに囲まれた中央に位置する本堂とから構成されている。正面から見ると左右に配置された塔が前後重なって三本にしか見えないが、斜めからは互い違いにずれた五本すべてが遠近感を持って捉えられる。
「ここが一番のポイントです。どうです、塔が五つあるのがわかりますか」
 いつの間にか経蔵を過ぎ、聖池のほとりまで来ていた。寺院の全貌を捉えるには、池を挟んで第一回廊と向かい合うこの場所が斜め位置でもありちょうどよい。水面は鏡のように穏やかで、祠堂が逆さ富士のように上下反転して映り込んでいる。ときおり風が吹き、さざ波が水に映った塔を電波のように細かく揺らす。
 アンコール・ワットは浄土、すなわち西方に向けて建てられた。ということは参道は西から東、朝に訪れると太陽に向かって歩くことになる。逆光となった祠堂は黒い大きな塊となり、昼間の何倍も迫力がある。形もごつごつしているので怪獣のようだ。
 池の周りには世界各国からやって来た観測者たちが何十人も集まっていた。それぞれグループで、あるいはひとり離れて、今か今かとその時を待っている。
 ふと、反対側に回ってみたくなった。寺院もさることながら、彼ら自身が被写体として面白いではないか。「アンコール・ワットの朝陽」を撮る観光客は多いだろうが、「アンコール・ワットの朝陽を撮る観光客」を撮る観光客はあまりいないだろう。
 土手沿いに歩いて第一回廊側に回り込む。案の定、なかなかに興味深い光景だ。テレビの視聴者参加型番組で客席を舞台裏から覗いているようだ。おまけにバリバリの順光。服やカバンの色がとても鮮やかに見える。おっといけない、そろそろ戻らなくては。
 空が青みを増してきた。澄んではいるが、もう透明ではない。視界が急速に明るくなっていく。1/15だったシャッタースピードが、ものの数秒も経たないうちに1/30、1/60と切り替わっていく。オートAEでなければとてもついていけない。
 そしていよいよその時は訪れた。祠堂の右肩が割れたかと思うと、光の槍が一直線に僕の目を突き刺した。何ものにも遮られない強烈な光のビーム。まさしく熱帯の日の出だった。
 

   
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