天女リ・インカーネーション〜Siem Reap
 
天女リ・インカーネーション
〜 Siem Reap
 

   朝からアンコール・トム、アンコール・ワット、プノン・バケンと歩きに歩き、充実した一日だった。こんなに足腰を酷使したのはいつ以来だろう。なにせ立て続けに山を三つ登ったようなものなのだ。極度の疲労と満足感で、思わず帰りの車の中で寝そうになる。
 そんな本日の仕上げはアプサラダンスショーを見ながらのディナー。シェムリアップの街中にある屋外レストランだ。地面に直接テーブルと椅子が並べられている。前方には一段高くなったステージ。どこか小学校の校庭を思わせる。
 席に着くと同時にアンコールビールを注文した。出てきたビールは期待以上にきちんと冷えていて、一口飲んだ瞬間から汗や熱だけでなく疲れまでもが蒸発していく。夜風が心地よい。今夜はぐっすり眠れること間違いなしだ。料理はバイキング形式。客席の後方にある、屋台のように明かりが灯る一角に取りに行く。
 ほどなく音楽とともに数人の男女がステージに登場し、フォークダンスのような踊りを始めた。揃いの衣装に身を包んでいるが、それでも普段着とあまり変わらない。「農村の踊り」だそうだ。なるほど、確かに素朴だ。
 続いては獣の面を被った男と冠の女による二人踊り。モチーフは有名なヒンドゥー神話「ラーマーヤナ」。一転して衣装がきらびやかになる。ストーリー性があり、知らない人でもそれとなく意味がわかる。王子の求婚を受けるかどうか、王女が迷っているシーンなのだろう。
 さっきからずっと次の料理を取りに行きたいのだが、面白くてなかなか席を立てない。ショーが始まる前にもっと食べておけばよかったと思ったが、今となっては後の祭りだ。
 そうこうしているうちにお待ちかねのアプサラダンスが始まった。バリ島ではケチャとともに演じられるヒンドゥー独特のあの踊りだ。天女に扮した見目麗しい乙女たちが次から次へと何人も出てくる。ひとりだけスカートの色が違う。彼女がプリマドンナなのだろう。不自然なまでに指先を反らし、複雑に腕をくねらせ、どこか思案気に首を傾ける。そうかと思うと今度は片脚でけんけんのように跳ね回る。
「アプサラダンスはカンボジアではアンコールの時代から踊られてきました。でも、ポル・ポト時代に踊り子は全員殺されてしまった。教えてくれる人はいなくなりました。だから彼女たちは一から自分たちだけで学んだのです」
 そう、はっきり言って彼女たちは上手くない。バリと比べるまでもなく、学芸会に毛の生えた程度のレベルであることは素人の僕にも一目瞭然だ。だが、だからといって見るに値しないとは限らない。尊いのはテクニックだけではないからだ。
 おそらく彼女たちは自分たちが背負っているものの重さを知っている。不幸にして一度は断絶してしまった祖国の伝統文化。自分たちが再興しなければ、千年の長きにわたり積み重ねられてきたすべてが永遠に失われてしまう。それがいかに取り返しのつかないことであるか、彼女たちは間違いなく自覚している。微笑みの奥に秘めた強いまなざしが、首筋を伝う一筋の汗が、そのことを雄弁に物語る。それが見る者の心を打つのだ。
「ショーの最後に彼女たちと写真を撮ることができますよ。どうぞ、遠慮しないで。彼女たちも外国のお客さんと一緒に写るのが嬉しいんですから」
 演じる側が覚悟を差し出すのなら観る側は心してそれを受け止めなければならない。アイドルタレントとの記念撮影とは訳が違う。これは彼女たちを認めるか否かという問題だ。その努力と国の将来を思う心に敬意を払うか、それとも人として礼を失するか。
 カーテンコールが終わった。ステージの上に並ぶ踊り子たちの輪の中に入るべく、僕はガイドにカメラを預け階段を上った。
 

   
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静寂のカンボジア
 

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