行きはよいよい、帰りは・・・〜Phnom Bakheng
 
行きはよいよい、帰りは・・・
〜 Phnom Bakheng
 

   アンコール・ワットの帰りにぜひ立ち寄りたい遺跡がもうひとつある。もっとも、お目当ては遺跡そのものではなく、そこから眺める夕陽なのだが。
 ちょうどワットの正面入口を出た向かいに、道路を挟んで大型バスやバイクタクシーの溜まり場となっている空き地がある。しかし、観光客のほとんどは迎えの車には見向きもせず、その奥へとずんずん進んでいく。アンコール三聖山のひとつ、プノン・バケンへと登る坂道があるのだ。
 石段が整備されているのは最初だけ。すぐに剥き出しの岩が転がり木の根が跋扈するけもの道となる。一日歩き回った脚には堪えることこの上ないが、童心に返ったようで逆に冒険心を掻き立てられる。子供の頃、難儀な木ほど登りがいがあったのと一緒だ。妻も落ちこぼれることなく、ぴったりと喰らいついて来る。彼女にとってもこのワイルドなハイキングは楽しいらしい。
「さすがに疲れた。ひと休みしよう」
 両膝に手をつき、その場で立ったまま肩で息をする。体格の良い欧米系の男性が、やはりハアハアと息を切らしながら通り過ぎる。ちらりと横目でこちらを見て、どこか羨ましそうな複雑な表情をする。そうだ、辛いのは自分たちだけではない。
 坂道を登り切ると広場に出た。ここが山頂か。だが、それにしては人気がない。みんなどこに行ったのだろう。
「あっちの方に何かあるよ。遺跡かな。ほら、ボロブドゥールみたいな形してる」
 幾層にも基壇が積まれたピラミッド型の石造建築物。あれがプノン・バケンの本体か。しかし、哀れにも今は夕陽見物の観光客たちがうじゃうじゃとひしめき、ほとんど土台と化している。
 プノン・バケンはワットやトムに先立つこと300年近く。ロリュオスと並ぶアンコール王朝最初期の遺跡だ。平原の中に忽然と聳える自然の丘を利用し、山頂には五つの祠堂を持つヒンドゥー寺院、麓には堀や塀を建設したという。アンコール遺跡に見られる特徴的な要素が既にあらかた盛り込まれており、他の遺跡の原型になったものと推測される。
 寺院頂部は平坦で思いのほか広い。人々は陽が落ちる西側に集中しているが、木立の合間からワットの中央祠堂が覗く東側もなかなか趣がある。カップルが基壇に腰を掛け語り合っている。そうこうしているうちに背後で歓声が上がった。そろそろ日没の時間だ。急いで南西の祠堂近くに陣取り、カメラを構えてその時を待つ。
 オレンジ色に輝く太陽がゆっくりと赤味を増していく。徐々に光を落とし、それにつれて円は楕円へと潰れていく。灰色に霞む空がヴェールのように輪郭をぼかす。やがて地平線の少し上で欠け始めた太陽は、そのまま地上に辿り着くことなく少しずつ視界から消えていった。
 気づくと辺りはすっかり暗くなっていた。足元すら覚束ない。懐中電灯は持ってきたものの、こんな少量の光では焼け石に水だ。そろりそろりと基壇の階段を降り、広場を過ぎ、手探りで岩だらけの坂を下りる。一寸先は闇。道と木の区別すら判然としない。当然、街灯などあるわけがない。
 いつもに増して慎重に歩いているつもりだった。それなのに、何かに引っ張られるように足が先へ先へと進み出す。まるで舞踏病にでもかかったかのようだ。無理に立ち止まろうとすると、かえってバランスを崩し転倒してしまうだろう。このまま勢いに任せて行くしかない。
「足元に気をつけろ。気をつけろ。気をつけろってば。わーっ」
 スピードが乗ってきた。もうだめだ。もう他人のことなど構っていられない。文字通り転がり落ちるように、僕は暗闇の中を全速力で駆け下りた。声を張り上げ、おそらくは鬼のように必死の形相をしながら。
 一瞬、妻の顔が目の前をよぎった。無事でいてくれ。それだけを願うのが精一杯だった。
 

   
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