闇に吸い込まれる〜Siem Reap
 
闇に吸い込まれる
〜 Siem Reap
 

   シェムリアップに入るのは夜がいい。漆黒のジャングルに、飛行機が音もなく降り立つからだ。大自然の懐に抱かれていくかのごとき幻想的な感覚は、旅の始まりとして悪くない。
 昼前に成田を発ってバンコクに着いたのが夕方。小一時間のトランジットを経て乗換便に乗り込む頃には、ドンムアン空港は薄暮に包まれていた。定刻通りに離陸したバンコク・エアウェイズの小型機は、東に向かって、すなわち訪れ来る夜に向かって時間を遡る。窓の外が闇に覆われていく。心地よい疲れが眠気を誘う。
 目を覚ました時、それが着陸だとすぐには気づかなかった。窓の外は漆黒の闇。音もなければ振動もない。まるで五感が機能を停止してしまったかのようだ。機体が動いているのか止まっているのかさえわからない。バラバラと照明が点き人々が席を立ち始めたことで、ようやく「あ、降りるのか」と現実に返った。
 インドシナ半島に残された今では数少ない熱帯雨林のジャングル。シェムリアップはそのほぼ中心に位置する。世界に名立たるアンコールの遺跡群を後背に控え、首都プノンペンはもとよりバンコクやホーチミンなどアジア各国との路線も多く、実質的なカンボジアの空の玄関口と言えなくもない。しかし、空港の佇まいは微笑ましいほどに質素だった。典型的な東南アジアの地方都市、いや、プロペラ機しか就航しない小さな村のそれを思わせるほどだ。
 静寂が滑走路を支配していた。虫の声が遠くで聞こえる。周囲をぐるりと見渡しても、街外れの電柱のように心細い光を放つターミナルの他に灯りはない。いくら目を凝らしても樹木と空の境界がわからない。
 夜気が清々しかった。深呼吸をするまでもなく、適度に湿気を帯びた木々の息吹が胸いっぱいに浸み込んでくる。
 通関を抜け建物の外に出ると、現地ガイドが待っていた。まだ20代前半といったところか。送迎の車に乗り込むとすぐに自己紹介を始めた。日本語は多少おぼつかないものの、快活で礼儀正しい好青年だ。
 世界中から観光客がやって来るため、カンボジアにおける外国語ガイドの需要は高い。人気はやはり英語、そして旧宗主国でもあるフランス語、次いでドイツ語といったところ。最近では中国語や韓国語も増えているそうだ。日本語はカンボジア人にとって習得が難しいらしく、需要の割には供給が間に合っていないと聞いた。
 内戦とそれに続くポル・ポト時代の影響により社会の仕組みが一度完全に破壊されてしまったこの国では、観光業にかかる期待は大きい。伝統的に主産業である農業は未だ完全復活したとは言えず、工業化に向けた取り組みも始まったばかりだ。他にめぼしい産業が育っていない現状を考えると、観光ガイドは花形の職業なのだ。
 両脇を林に囲まれた道を車は一直線にひた走る。ガイドの話に耳を傾けながら、僕の目は車窓に釘付けになっていた。こんなに深い闇を今までに見たことがない。きっと、魑魅魍魎と化した森の精が棲んでいるに違いない。
 それでも不思議と怖くはなかった。むしろ人智を超えた大きな何かに身を委ねているような、そんな安堵感を覚える。優しい存在に護られていると感じる。
 ホテルは街の南端、シェムリアップ川に面した一角にあった。フロントで鍵を受け取り部屋に入る。じっとりと動かない湿気が、熱帯に来たのだと改めて確認させてくれる。ベッドに荷物を下ろし、窓を開け放つ。喧騒を孕んだ熱気が風に乗って微かに漂ってくる。
 窓の外を見ると、すぐ目の前まで闇が迫っていた。掴めるのではないかと錯覚してしまうほど近い。誘われるままに腕を伸ばしてみると、指先から吸い込まれていきそうな気がした。
 

   
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静寂のカンボジア
 

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