静寂のカンボジア〜ポル・ポト時代の傷跡
 
Tuol Sleng Genocide Museum/Killing Field
 
 
ポル・ポト時代の傷跡
 

  1975年、政権の座に就いたクメール・ルージュ(ポル・ポト派)は、急進的な共産主義政策を推進するあまり、強制労働や組織的な虐殺などで国民の実に1/4とも言われる人々を死に追いやりました。「歴史」というにはあまりに新しすぎる残酷な記憶が、未だ国民を悩ませ続けています。  

 
トゥール・スレン虐殺博物館
 


   
鉄条網
虐殺の中心だったトゥール・スレン刑務所、別名「S-21」。プノンペンの街中にあるこの建物は当時の高校を転用したものです。教育の場が大量殺人の舞台となったのです。三階建ての校舎が逆U字型に庭を囲む造りになっていて、外壁や廊下には今も鉄条網が残されています。
   

   
尋問室
入口から向かって左の建物は尋問室として使われました。かつて教室だったはずの部屋の中には、布団もない鉄製のベッドがひとつ。その上に容疑者を足枷で括り付け、尋問は行われました。いや、正確には尋問すら行われませんでした。ここはただ「死への待合室」だったのです。
   

   
発見の時
ポル・ポト派をプノンペンから追い出したベトナム軍がこの建物に入った時、尋問室のベッドの上には息絶えた人、床には夥しい血が拡がっていました。殺されたばかりだったのでしょう。その時ベトナム軍が撮った写真です。絵画ではありません。人間はここまで残酷になれるのです。
   

       
 
20年以上経った今でも、部屋の中には死臭が残っていました。こびり付いた血はいくら洗っても取れなかったのでしょう。私たちはしばらくその場を動けませんでした。
 
墓地
敷地の一角に墓地があります。ベトナム軍によってトゥール・スレンから「解放」された人々が眠っています。もちろん、解放されたのは死後。
 
記録写真
収容された人々はまず写真を撮られ、その後に殺害されました。これらの写真は「革命の成果」として、文革時代の中国・毛沢東政権に送られていたとも言われます。
 

   
拷問場
「S-21」に収容された人々の容疑は主にスパイ。自白を強いるための拷問も頻繁に行われました。たとえば、鉄棒に逆さ吊りにし水を溜めた甕に頭から沈めるとか。それらの拷問道具も当時のまま残されています。悪趣味ですが、実物を見なければこのおぞましさを共感できないでしょう。
   

     
独房
教室を区切って独房も造られていました。壁は即席の煉瓦積み。一部屋の広さは畳一帖あるかないか。窓はなく、ほとんど光も射し込みません。鎖につながれた囚人はこんなところで死を待っていたのです。壁際に小さく開いた穴がトイレ代わりでした。ポル・ポト派が政権の座にあった3年8ヶ月の間、トゥール・スレンには2万人もの人々が送り込まれました。そのうち生きてここを出ることができたのはわずか7人。この尋常ならざる虐殺は誰が指示したのか、何が理由だったのか。なぜ止めることができなかったのか。人々はまだ語ろうとはしていません。
     

   
拷問の様子
当時の拷問の様子が描かれた絵が残されていました。水責めの準備(左)と、長い鉄棒に一列に脚をつながれ床に寝かされた人々(右)。これが家畜でも動物愛護団体から抗議がくるでしょう。囚人は「モノ」であり、殺害は「処理」だったのです。そして、囚人のほとんどは無実でした。
   

       
 
遺服
リサイクル品として売られていたとも聞くので、残っているのは政権末期に収容された人々のものなのでしょう。ショーケースの中に密閉されています。
 
ポル・ポト
本名サロト・サル。貧しい農村に生まれながら国費留学生としてパリに学ぶ。内戦続きの祖国を憂い、仲間とともにクメール・ルージュを創設。希望に燃えるエリートでした。
 
髑髏の地図
展示の最後を飾るのは犠牲者の頭骨(もちろん本物)で作ったカンボジアの地図。しかし、あまりに悪趣味だと内外から強い非難を浴びたため、今は見ることができません。
 

 
キリング・フィールド
 


  プノンペンから車で30分あまりの郊外にあるチュンエク村。トゥール・スレンで殺害された人々は空き地に掘られた穴に「捨てられ」ました。最盛期には遺体を運搬するトラックが一日に何度もプノンペンとの間を行き来したそうです。しかし、このような場所はここだけではありません。カンボジア全土に何ヶ所もあるのです。  

       
 
遺骨
現在では掘り出された遺骨が一ヶ所に集められ保存されています。しかし身元は判明していません。あまりに短期間に大量の人々が殺されたため調べようがないのです。
 
墓地というには…
率直な感想を言いましょう。ここはまるでゴミ捨て場です。ポル・ポト派にとって国民とはそのような存在だったということなのでしょう。あまりに哀しすぎるけれど。
 
慰霊塔
カンボジアの人々はほぼ例外なく虐殺で肉親の誰かを失っています。ガイドさんも「ここのどこかに父が眠っています」。私たちに返す言葉はありませんでした。
 


   

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