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桜が満開の4月15目、福島の実家に居た祖母が亡くなった。その葬儀は、参列した私たち家族にとって、忘れられない長い長い一日となった。
−−3年前、祖母は、脳卒中で倒れ、寝たきりとなった。正直、寝たきり老人の介護が、こんなに大きな問題を投げかけてくるとは、思いもかけなかった。父も母も、そして私も・・・・・・
うちの家族にとって、それまでの叔父一家は、従兄弟同士もほとんど兄弟のようにして育った、身近な気のおけない親戚だった。それが、祖母の介護をめぐって、互いの存在を忌み嫌うほどに、険悪な間柄となってしまった。ほとんど一方的に発せられた絶縁宣言は、親ばかりか従兄弟たち子供にまで波及し、街であっても睨み付けられ、入院や葬儀の連絡すらしてこないほどにエスカレートしていった。
倒れた時点の祖母の希望に沿うかたちで叔父の家が引き取ることになったものの、「長男の嫁」なら当然果たすべき暗黙の役割があると叔母は考えたらしく、仕事に追われて、介護を叔母に任せきりにした長男の嫁であるはずの母を、あることないこと非難し始めた。
話し合いを行おうにも、家族全員で、縁を切るの、祖母の葬式には呼ばないのと、その憎悪の対象は、母ばかりか私たち家族全員に広げられていった。
結果としては、叔父一家の主張が通るかたちで、祖母は叔父の家から一歩もでることなく、私たち家族には自分の意志を、何も告げることなく、静かに旅立っていった。
小さな町のことだけに双方におもしろおかしく告げ口をしにいく外野も多く、火葬場でも、葬儀場でも私たち家族は、身内ではなく、全くの他人として扱われた、無視され続け、憎悪むき出し感情を向けられたままの、一連の行事がすむまでの間は、本当に長い長い時間だった。
「祖母のことをもっと考えなさい」と誰もが主張するものの、その自我の方が優先されて、祖母の最後を最も哀しいものにしてしまった。葬儀には間に合ったものの、祖母の死には何もかもを間に合わせることができなかった。
遺影の中の祖母は、昔の威勢のいい力強さの面影はなく、ぼんやりほほえんでいるだけ。なにか問題があると一族をしきってきた存在だった祖母は、自分で自分を処すことができなくなったとき、醜い諍いの中で、誰を非難するでもなく、静かな沈黙の死を選んだ。年老いていくことがこんなにも悲しいことになってしまっている、現実を肌身をきられる思いで感じた祖母の死だった。母の友人の見舞金も返してくるほどに世間体もなく憎悪を露にする叔父一家の態度。女が家を切り盛りすることが当然の田舎町にあって、仕事をし続けることに、家族や親戚が協力してくれたことに対する感謝を忘れがちだった母。それぞれの嫁の立場、金銭的負担等の肝心の問題を互いが納得するまで話し合いをしなかった父。その解決になんの役にも立てなかった自分、誰しも非難される部分があった。祖母の死に直面して、はじめて、他人事にように感じていた自分の行動を激しく後悔した。
大きな犠牲を払った上での小さな収穫もあった。普段はろくすっぽ世間話もしない兄弟だったが、家に辿り着いて、上の兄が言った「何があっても、あんなふうにはなりたくない」という言葉に目で下の兄が応えていた。
その日の夕方、新幹線を降りて一人になって、やっと祖母の死に対する悲しみの感情があとからあとから湧いてきた。それから1週間して夢に祖母がでてきた。私の家で、私の手を握って息を引き取っていく夢だった。起きてからも、しっかり握られた感触が、手に残っていた。
その後、私はホームヘルパーの講座に通い始めた。
叔母と対話が不可能な以上、少しでもそこに何があったのかを理解するためには、実体験することが早道のように思えたからだ。専門的なことは無理だけれども、車椅子で移動する、片足で階段を登る、おむつをつけてみる。世話をされる側にたって介護される側の気持ちを理解させる授業は、私にとっては結構役に立った。
人の老いがどういうものなのかを正しく理解すること、自分にとっての介護する目的を見いだすことは、家族であってもとっても大切なことのように思えた。
不幸な高齢者を増やさないためにも、自分の死のあり方を見据えるためにも、老いを理解することはとっても大事なことなのだ。
だれしも幸福になる権利がある。それは老い先短い老人でもいっしょのはず。「生まれてくれてありがとう」って赤ちゃんの誕生が喜んでも、寝たきり老人が死んで「死んでくれてありがとう」なんて世の中は寂しいと思うし、少なくとも言われたら私は哀しい。
ホントは叔母さんに聞いてみたい、ばあちゃんが、いったい叔母さんにとってなんだったのか。ばあちゃんが可哀想だと恩うのは、私の側からみた都合のいい考えなんだろうか。
(了)