「管理人T.Kinoshitaのページ」へ

 

―亀山問題の現在―

アリョーシャの「あなたじゃない」の解釈をめぐるさらなる重大なテクスト歪曲と誤訳

―木下和郎氏のブログ「連絡船」に寄せて−  

                         木下豊房

誤訳問題を引きずりながらも、マスメディアの後ろ盾を受けて、亀山郁夫氏のブレークぶりは止まるところを知らないようである。

200884日付の<慶応MCC「夕学五十講」楽屋blog>を見ると、

(http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2008/08/post_258.html)

「慶応丸の内シティキャンパス定例講演会「夕学五十講」担当者」によって、亀山氏の講演内容が紹介されている。そこで亀山氏は100万部近い販売を豪語しながら、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳の手の内を語っているのである。

い わく、翻訳にあたって、「映画を見るように、音楽を聴くように『カラマーゾフの兄弟』を体験してもらうこと」に心がけたというのである。講座担当者が伝え るところによれば、「音楽のように翻訳するというリズム重視の訳は、誤訳を生む可能性を内包します。亀山先生は、訳にあたって第5稿まで目を通したそうで すが、5稿では原文を一切見なかったそうです。その結果、誤訳問題が週刊誌上を賑わす事態を招いたと反省されていました。(現在は、全ての訳を再チェック し、当初の翻訳思想を活かしつつ、あきらかな誤訳部分は修正したとのこと)」とのことである。

東京外国語大学学長にしてロシア文学専門家という権威をまとった亀山先生の、このような煙をまくごときご高説に感心した聴衆もいたかもしれないが、このブログを読む限りでも、うさん臭い匂いが立ち昇ってくる。

ブログにいわく、「『カラマーゾフの兄弟』の原文は、破壊的な文体で書かれており、逐語訳では現代人には難解で読むことができないそうです。それに対して亀山先生は「アルマーニを羽織ったドストエフスキー」に生まれ変わらせようと思ったとのこと」

これはもうベートーヴェンをイージーリスニングの曲に仕立てて、これが原曲のエッセンスだというようなものではないか。原曲に対して編曲、翻訳に対して翻案、「超訳」といったジャンルがある。亀山氏はどうして正直に、自分の訳は「超訳」あるいは「創作訳」だといわないのか。それだと一般の読者へアッピール するには限度があり、光文社の経営戦略からいえば、利益追求のためにはブランド名を利用して、これこそが本物だと偽装し宣伝するほうが、得策だからではないのか。

「『カ ラマーゾフの兄弟』の原文は、破壊的な文体で書かれており」などと、亀山氏はわけのわからないことをいっているが、ご本人の「訳文」こそ、原文を破壊して いるのではないか。 佐藤優のような、ご追従の人物が現れて、いわく、「亀山訳は、読書界で、「読みやすい」ということばかりが評価されているようです が、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」(文春新書『ロシア 闇と魂の国家』38 頁)などと、ロシア語を知らない読者を欺くことをいうので、マスコミもたぶらかされているのである。

その証拠に、私達が「検証」、「点検」でとりあげ、「その後」で指摘しているように、(参照:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm) 第1分冊全422頁に限っても、私達が指摘した誤訳117個所のうちわずか45個所が、3月15日の22刷までの段階でこっそり訂正されているに過ぎず、 なおあとの分冊は手付かずのまま残されている。第2分冊以降の分を含めるならば、さらに何百という誤訳が想定される。従って、「慶応講座」のブログで、「現在は、全ての訳を再チェックし、当初の翻訳思想を活かしつつ、あきらかな誤訳部分は修正したとのこと」というのは、明らかに嘘である。(もし仮に、本 当だと言うのなら、その一覧を見せてもらいたいものだし、これまでの読者のためにも正誤表を公表する義務があるのではないか)

亀山訳で問題なのは、おびただしい誤訳のほかに、意図的なテクストの改ざん、すりかえが行われていることである。

その一端を私は「テクスト改ざんと歪曲の疑い」と題して前に、一文を発表した(参照:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120e.htm

亀山氏の詐術に対する私の怒りは彼による『悪霊』のマトリョーシャ解釈に端を発するが(参照:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost119.htm)、ここにまた一つ、間違ったテクスト解釈とそれにもとづく不適切な訳文に対する告発の声が誠実な一般の読者から出てきた。

(参照:http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20080713

こ のブログの主・木下和郎氏(偶然にも私と同姓で、まぎらわしいので、以下「和郎氏」と呼ばせていただく)は、書店勤務の方で、『カラマーゾフの兄弟』を原 卓也訳で熟読してきた人である。氏はアリョーシャがイワンに告げる、犯人は「あなたではない」という対話の場面に見られる亀山訳の不自然さに違和感をもっ た。その詳しい経緯は和郎氏のブログで見ていただくことにして、ロシア語の知識を借りずに、和郎氏が原訳との対比で不自然に感じたポイントを、私はロシア 語を専門とする立場から、まず、コメントしておきたい。

1) 亀山訳:

「ぼくが知っているのはひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのはあなたじゃないってことだけです」(第4巻258

 ロシア語原文:

Я одно только знаю, - всё так же почти шепотом проговорил Алеша, Убил отца не ты. (「ぼくが知っているのはただひとつ」と、あいかわらず、ほとんどささやくように、アリョーシャは言った。「お父さんを殺したのはあなた(・・・)()()ない(・・)」−拙訳)

 原訳:

「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません(・・・・・・・・・・)

まず誰の目にも明らかなのは、原文(斜体・イタリック)に基づく拙訳と原訳に共通した、傍点による「あなたではない」の強調が、亀山訳では、後述のようにおそらく意図的に無視されていることである。これは一見、些細なことのように見えるかもしれないが、和郎氏が亀山氏の「解題」を読んで見事に見抜いているよ うに、ここにはロシア語の専門家を装って、原文に不案内な読者をあざむくあざとい仕掛けがほどこされている。

亀山訳「検証」で、NN氏がいみじくものべている言葉:「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く」に共感しつつ、和郎氏が洞察力を働かせたのは、正しかった。

「解題」(第5279283頁)、「奇妙な語順」と題する章で、亀山氏はもって回った意味ありげな調子で次のような長広舌を弄しているが、これはありえない屁理屈としかいいようがない。

「また、文体上の複雑なしかけが、人間精神の奥深くまで照らしだす例もある。次に引用するのは、『カラマーゾフの兄弟』全体の中心に位置し、物語の流れに決定的な転換をみちびき出す言葉である。

「父殺し」の犯人を挙げろ、と問いつめるイワンに対して、アリョーシャは次のように応える。

「ぼくが知っているのは、ひとつ(…)父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」(第11258ページ)

“I only know one thing…Whoever murdered father, it was not you.”

部分を取り上げればとくに問題はないように見えるが、後半の「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」のロシア語は、リズムとイントネーションが最大限に威力を発揮するセリフである。

Я одно только знаю, … всё так же почти шепотом проговорил Алеша, Убил отца не ты.279280

 

このあとまだ続く亀山氏の長広舌の引用を続ける前に、読者に注意を喚起したいのは、私が先にこの個所の原文を示した時、指摘したように、Убил отцаウビール アッツア、お父さんを殺したのは) не ты.ネ トウィ、あなたではないの フレーズで、「あなたではない」の個所が斜体(イタリック)で強調されていることである。亀山氏は「解題」のこの原文の引用においても、この斜体をおそらく故意に無視したうえで、白々しく「リズムとイントネーション」を云々している。いったい斜体はイントーネーションの重要なポイントではないというのか?

次に続く口舌は、ロシア語の専門家の目から見れば、口から出まかせとしかいいようがないでたらめである。

Я одно только знаю, … всё так же почти шепотом проговорил Алеша, Убил отца не ты.

 この語順のもつ異様さはさまざまな研究者の関心をひいているが、意味だけくんで単純に言い換えるならば「あなたは父を殺しませんでした」となるだろう。ロシア語は、語順は基本的に全部自由なので、あとはニュアンスの違いによってどう変わるかということになる、

 語順の異様さとは、父親を殺したという厳然たる事実が最初に提示されているにもかかわらず、その主語(つまり犯人の名前)が、最後まで留保されている感じに現れている。」(280

 第 一に「ロシア語は、語順は基本的に全部自由」というようなことはありえない。一般に英語などと比較してロシア語語順の「自由度」をいうことはあるが、この 場合のような主語の倒置は、文末にくる主語が強調されていると理解するのがロシア語習得者の常識である。しかも斜体表記で示されている以上、二重に主語が (そしてこの場合それに付随した否定詞が)強調されているのである。それなのになぜ、「その主語が、最後まで留保されている」などというのか?

 次に続く口舌はもはや噴飯ものである。

「兄 弟同士の信頼関係のなかで、あたりまえの「事実」をめぐってのどこか思わせぶりな言い方は、かなり違和感を与え、端的にいって、居心地がわるい。ここには 父を殺したのは「あなたかもしれない」「あなたである」と言っているのと同じくらいの意味が、その曖昧さのなかに隠されているということだ」(280

  自分の見当違いの推論に引き込むために、一般読者のロシア語不案内につけこんで、アリョーシャの定言命令といっていいほどのきっぱりとした言葉をわざわざ 裏返して、曖昧さをしのび込ませる−これは『悪霊』の少女マトリョーシャ解釈で、母親に折檻される少女の泣き声に、マゾヒスト感覚を押し付けて、高校 生レベルの読者に自説を信じ込ませようとしたのと同じ悪質な手口で、明らかな詐術である。その上塗りともいえる、見当違いな解釈と驚くべき誤訳が大手を 振って登場する。

「さらに、アリョーシャの次の言葉にも注目したい。居心地が悪いという以上に、やはり壮絶としか言いようがないセリフである。

「<あなたじゃない>って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます! いいですか、死ぬまで、ですよ」(281) 

ここに引用されているアリョーシャのセリフのロシア語原文はどうなのか?

«Я тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты!  Слышишь, на всю жизнь»

(<あなた(・・・)()()ない(・・)!>ということをぼくは命をかけて(あるいは、一生をかけて)いったのですよ。いいですか命をかけて(あるいは、一生をかけて)―拙訳)

原訳:

あなた(・・・)じゃ(・・)ない(・・)、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて」

原文に沿った訳と比較して亀山訳を読む時、これは「居心地が悪いという以上に、やはり壮絶としか言いようがない」誤訳、いや、信じ難いあきれた誤訳だとしかいいようがないだろう。なぜなら「ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!」という訳は、どう転んでもありえないからである。

上記引用傍線部«на всю жизнь»ナ フシュ ジイズニ、命をかけて、一生をかけて)は、アリョーシャが «не ты! »ネ トウィ、あなた(・・・)()()ない(・・)と いう自分の言葉にかけた責任、覚悟を強調するフレーズであって、亀山訳のように、「あなたが死ぬまで」という訳はどこを押しても出てくるはずがない。なぜ 亀山氏はこのような見え透いた誤訳をやるのか? それはアリョーシャの言葉からイワンにとっての絶対的な意味を取り除き、反対に曖昧さを押し付け、いわく 「こうなれば、アリョーシャの言葉はもはや、「殺したのはあなたです」といっているのと等しい重みを担うものとなる」と、自分の見当違いの解釈の方向へ無 理やりに舵を切りたいがためにほかならない。さらには、「オオム返しのアリョーシャの精神性からすれば、Убил отца не ты という奇妙なせりふは、逆に神が、この語順で言えと《命令》していることになるのだ」(282)と、亀山氏は自分ででっち上げた言葉の曖昧さを神に由来するとまで放言するのである。

 こうした前提に立って行われる亀山氏のイワン解釈はとうていまともなものとはいえない。そのあたりの見当違いの解釈は、和郎氏がブログで丁寧に指摘している通りである。和郎氏がロシア語には不案内ながら、原訳との対比で、疑念をいだいている他の個所を見てみよう。

 いま問題にした「あなたじゃない」の個所の前後に、次のような叙述がある。

亀山訳:

「じゃあ、おまえはいったいだれが殺したっていうんだね?」、どこか冷やかな口ぶりで彼はたずねた。その問いの調子には、何となく傲慢なひびきが聞きとれるようだった。(第4巻257

ロシア語原文:

Кто же убийца, по вашему, - как-то холодно по-видимому спросил он, и какая-то даже высокомерная нотка прозвучала в тоне вопроса

(「おまえの考えでは、誰が犯人なのだ」と、彼は何か冷たい様子を見せてたずねた。その問いかけには、何か傲慢とさえいえる調子が響いていた。−拙訳)

原訳:

「じゃ、だれが犯人だ。お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった。

さらにもう一つの個所

亀山訳:

とはいえその口ぶり(アリョーシャの)には、もうわれを忘れ、自分の意思というより、何か逆らえない命令にしたがっているような趣が感じられた。(第4巻258

ロシア語原文:

Но говорил он уже как бы вне себя, как бы не своей волей, повинуясь какому-то непреодолимому велению

(しかし彼はもはやわれを忘れ、自分の意思ではなく、何か打ち勝ちがたい命令に従うかのような口調でいった −拙訳)

原訳:

だが彼はもはや、さながら自分の意思ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた

 以上の二つの例で、和郎氏が問題にするのは、亀山訳に見られる「切迫感のなさ」である。これは主として、下線部の言い回しにかかわる。「傲慢なひびきが聞きとれるようだった」、「命令にしたがっているような趣が感じられた」。 これらのニュアンスめいた訳語は、原文に照らしても明らかに余分の夾雑物であって、ある意味で訳者のスタンスを露見させてもいる。つまり、ドストエフス キーのテクストにはありえない、別個の第三者の視点をもぐりこませているのである。翻訳者の立場をわきまえず、テクストを勝手に改ざんしたり、歪曲した り、余分のニュアンスを付け加えたりして、ロシア語原文が分からない読者に対して、作者ドストエフスキーを僭称する役どころを演じる亀山氏のポジション が、はからずもここに露呈しているというべきであろう。

 和郎氏が疑問を呈している他の亀山訳語について、簡単にコメントしておきたい。

「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。(亀山訳第4巻258

「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。(原訳)

下線部の原語はстолб(柱 ストルブ)を語幹とする остолбенел アストルブェネール)で、文字通りの意味は「棒立ちになった」である。米川訳はこの訳語を採用している。和郎氏の指摘の通り、亀山訳の切迫感のなさは否めない。

「いつ、おれがそんなことを言った?……おれはモスクワにいたんだぞ ……いつ。言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。(亀山訳第4巻258

「いつ俺は言った?……俺はモスクワに行ってたんだぞ……いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。 (原訳)

下線部の原語は потеряноパテーリャノ で、 「見失う」という意味から来た単語であるから、「度を失って」、文脈によっては「途方にくれて」でも間違いではない。ちなみに米川訳は「茫然として」。ただここでは、ショックの強さを表現するニュアンスからいえば、和郎氏が疑問を感じたように、原訳「度を失って」に対して亀山訳「途方にくれて」のインパク トの弱さは否めない。

父を殺したのは」(亀山訳)、「お父さんを殺したのは」(原訳)の違いについて、和郎氏が、亀山訳は「父殺し」のテーマにつなげるために、「父さん」から「父」に切り替えたのではないかと推測しているが、その直前までアリョーシャには「父さんを殺したのは兄さん(=ミーチャ)じゃありませんから」(257)と、「父さん」と呼ばせており、ここで急に「父を殺した」に切り替えるのは、日本語として不自然。和郎氏の指摘どおり、確かに亀山訳の思惑が透けて見えるというべきだろう。

 これら周辺の訳語のデリケートなニュアンスを含めて、「お父さんを殺したのはあなた(・・・)()()ない(・・) というアリョーシャの立言に対するイワンの反応を和郎氏は注意深く問題にしていて、テクストに沿ってイワンのそれまでの長い思想的、内面的葛藤をたどって きた読者としては、亀山訳の曖昧さに、当然、決定的な疑問を抱かざるをえないだろう。テクストからは読みとり不可能な曖昧さをあえてアリョーシャの言葉に 捏造して、アリョーシャのこの言葉の暗示によってはじめて「イワンにとっては、悪魔との戦いが最大の課題としてのしかかり、彼の存在を根源から揺るがすような発見へと、彼自身を導いていく」、「イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つ」(282)などと、テクストの流れとはかけ離れた場当たり的な説を振り回す亀山氏に我慢ならないのは、ひとり和郎氏だけではないだろう。

 和郎氏がキルケゴールの「死にいたる病」を引用して、イワンの「不幸な意識」の構造を説明しているのは、正しいし、国際的なドストエフスキー研究者の場で発表しても評価に耐えるうる視点である。

ちなみに、NHKに「わが国ドストエフスキー研究の第一人者」(ETV特集)と持ち上げられた亀山氏、マスコミで亀山現象の仕掛け人を務める沼野充義氏は私の知る限り、国際的なドストエフスキー研究の場にはおそらく一度も顔を出したことのない人達である。国際ドストエフスキー学会(IDS)(http://www.dostoevsky.org/)主催の国際シンポジュームは、1971年にスタートして以来、3年目ごとに開かれて、昨年7月には、ブタペストで第13回を迎えた。20008月には、IDSの支援のもと、私が主催して千葉大学国際ドストエフスキー研究集会「ドストエフスキーの眼で見た21世紀人類の将来」を開催した。参照:(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost008.htm

また本国ロシアでは、毎年、旧居ペテルブルグの博物館では作家生誕日1111日を中心に、また別荘スターラヤ・ルッサの博物館では5月の末に、また不定期には少年時代の思い出の地ザライスク=ダラヴォーエで、ロシア内外の研究者が大勢集まって、研究集会が開かれている。これらの国際学会、ロシアの学会には、日本からも大学院クラスの若手研究者も含めて、すでに20名以上は参加し、日本の研究者のレベルは国際的にも評価されている。ところが不思議なことに、亀山氏も沼野氏もこのような場には無縁の人である。

もしドストエフスキー研究者として、世界の研究者の目を意識する国際的なセンスがあるならば、マトリョーシャ・マゾヒスト説やアリョーシャの定言(「あなたじゃない」)の曖昧説、またイワンの「大審問官」のキリスト僭称者説など、恥ずかしくて持ち出せるわけがない。

こうした人達がマスコミで持ち上げられ、出版社の投機的思惑に奉仕するためにドストエフスキーを利用するという、昨今の日本の現象はまことに異様というほか はない。事情を知らない新しい読者に誤訳の宝庫を何十万と売りまくって、これがドストエフスキーだという間違ったイメージを振りまき、さらには光文社古典 新訳文庫の「感想文コンクール」という名目で、朝日学生新聞社の後援をもとりつけて、青少年にまで、触手を伸ばそうとする出版社の策略はもはや破廉恥というほかはない。そこにはロシア文学者の沼野充義氏が審査委員として名を連ねているのである。

和郎氏は「あなたじゃない」にまつわる亀山誤読のひどさを明らかにした後の結論としてこうのべている。「めちゃくちゃです。こんなひとが『カラマーゾフの兄 弟』を訳したんですよ。個々の誤訳がどうとかいう以前の問題でしょう。そもそも亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』が全然読めていません。『カラマーゾフ の兄弟』に限らず、彼にはどんな文学作品をも読み解く力がないと私は思いますね。彼には、それぞれの登場人物も理解できていませんから、当然、彼らの関係 もわかっていません。彼らが何をやりとりしているのかもわかっていません。そんなひとが訳したら、どういうことになるでしょうか?」(8月7日の記述)

http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20080807

このような亀山評価は、実は「検証」、「点検」の公表を進める段階で、NN氏と私が、そして森井友人氏が、オフレコで盛んに口にしあっていた見解であった。 また私と同じロシア文学者、ドストエフスキー研究者であって、とりわけ亀山マトリョーシャ解釈に厳しい批判を投げかけている大阪府立大学教授・萩原俊治氏 の声に響いているものでもあった。これはロシア語が読めるか読めないかにかかわらず、原文あるいは良心的な先行訳に忠実な読者ならば、誰もが到達する結論 であろう。

もう一点、和郎氏の炯眼が見抜いた、亀山解題のいい加減さを、これはもう私のコメント抜きで、和郎氏の言葉を引用して紹介しよう。

<その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、……

亀山郁夫「解題」第5314頁)

「そ の彼」というのはゾシマなんですが、彼が修道院への道を踏み出したのは、「謎の訪問客」に出会う以前なんですよ。「謎の訪問客」は、決闘を放棄して、軍籍 を離れ、修道僧になろうとしている奇妙な人物ゾシマの評判を聞きつけてやって来たひとたちのひとりなんです。それなのに、なぜ亀山郁夫は 「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんて書くんでしょうか? もうこれが理解できない。めちゃくちゃです。あまりに杜撰 です。雑に過ぎる。わざとやっているのか? それとも、彼は本当にこの小説を訳したのか? でなければ、「解題」を誰かべつの無能な人物に代筆させている のか? 最悪なのが、小説を訳した人物と「解題」を書いた人物とが同一である場合です。最悪なのか? 最悪なんだろうなあ。 ── とまあ、こういうことです。>

「連絡船」の木下和郎氏のこのような鋭い告発、先行する「一読者の点検」の森井友人氏の鋭い指摘:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120a.htm

と いった一般のまじめな読者からこのような反応が出ている反面、ロシア文学を専門とする研究者の反応はどうだろうか。「検証」をおこなったロシア語を得意と する商社マンのNN氏、商社マンの経歴を持つ翻訳家で著述家の長瀬隆氏を別として、ロシア文学界ではっきりと批判の声を上げているのは、萩原俊治氏と私だけである。実は萩原氏と私は315日付で、日本ロシア文学会の理事、各種委員の役員60名に宛てて、今年秋の全国大会で、亀山氏の仕事をめぐる公開討論会を企画するように申しいれた。しかし5月末の理事会で、この要請は却下された。議事録の公開を要求したが、無回答のままである。

実は現在の日本ロシア文学会会長の井桁貞義氏、副会長の安藤厚氏はともにドストエフスキー研究者で、国際的にも評価される仕事をしている人である。光文社の同じ古典新訳文庫でトルストイの翻訳を出している望月哲男氏も本来はドストエフスキー研究者で、国際的にも知られた人である。亀山、沼野氏とは違って、いずれも国際会議、ロシアの学会の参加経験を持ち、国際的なセンスの持ち主である。学会のリーダーであるこれらの人達が沈黙しているのは残念というほかはない。とはいえ、私とても、NN氏 や森井友人氏のような、学界外の熱心な愛読者の後押しと促しがなかったら、亀山現象に苦々しく思いながらも沈黙していたかもしれない。研究者の社会的責任 といったら大げさだが、ロシア語を解しない良心的な読者の目にも、亀山氏の仕事の疑わしさがクローズアップされる以上、ロシア語を職業とする研究者は問題 の所在を明らかにする義務があるのではなかろうか。聞くところによると、光文社は同じ文庫で、10月には亀山訳の『罪と罰』を売り出し、NHKはラジオの第2放送で、亀山氏のドストエフスキー講義をオンエアーするとのことである。このような止まることを知らない彼の無責任な暴走振りを、ただ傍観していてよいわけはない。

日本近代の外国文学移入の歴史のなかでも、ロシア文学はその影響力の大きさにもかかわらず、英米、仏、独文学と比較しても、大学等の教職の口が極端に少なく、研究者の層も薄かった。ロシア文学の翻訳者といえば、一世代前までは出版界で職人的な仕事をして、一家を成しながら、40歳代を過ぎて教職に就く人がほとんどだった。

それに比べて、亀山郁夫といった人達はどうか? 翻訳者としての実力を地道に鍛えられることもなく、大学のブランド名を商売に利用することをねらったジャー ナリズムの甘言に乗せられて、実力にそぐわない仕事をしているのではないか。芸能人を売り出すのと同じ感覚で、マスメディアを利用して偶像をつくりあげ、 大々的な宣伝を打って出て、ベストセラーを狙う戦略― ここには本来の良心的な編集の機能が低下し、営業サイドの主導権でなりふり構わずに売り上げ本位 の実益に走る、出版界やジャーナリズムのいちじるしい質の低下という由々しい問題が伏在しているのではないのか。教養主義の克服というスローガンのもと に、日本の出版文化はひどい状況に陥っているのではないのか。その象徴的な光景が亀山現象と思われてならない。

「管理人T.Kinoshitaのペジ」へ