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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1７４ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky
Society 2024.2.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home page:
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報告者紹介・高橋誠一郎（たかはし せいいちろう） 研究テーマ：日露の近代化の比較。主な著書に『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』（群像社）、『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』（以上、成文社）など。 近刊『ドストエフスキーの「悪霊」と日本の文学――黙示録的な世界観との対峙』群像社 ニュースレター№174 2024―――――――2――――――――――――― 第273回例会報告要旨 黙示録* に引き寄せた『悪霊』解釈の問題――高橋和巳の視座で『悪霊』を読み解く
高橋誠一郎 発表の流れ はじめに １、高橋和巳の視点でステパン氏とピョートルの関係を読み解く ２、シャートフのロシア・メシア思想と黙示録の「再臨」論 ３、スタヴローギンの「告白」の問題と体罰としての鞭打ち ４、ピョートルの策謀と人神論者・キリーロフの自殺 おわりに ガザ危機と「ハルマゲドン」を熱望する人々 はじめに 黙示録に引き寄せた『悪霊』の解釈の問題とアルベール・カミュ 長編『悪霊』で「あらゆる国民は、自身の独自の神をもち、この世の他のあらゆる神を妥協なく排除するかぎりにおいてのみ国民なのです」と語ったシャートフは、キリストの再臨が「ロシアで行われると信じて」いると黙示録の独特の解釈を示している。 ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けていたモチューリスキーも『悪霊』の創作ノートを丁寧に読み込んで「（ドストエフスキーは）世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と二項対立的な価値観を『評伝ドストエフスキー』で記している。 さらに、モチューリスキーは「公爵（スタヴローギン）がすべて」という創作ノートの記述に従って、「小説全体がひとりスタヴロ－ギンの運命であり、すべてが彼についてであって、すべてが彼のためである」と解釈していた。 亀山郁夫氏も『謎解き『悪霊』』では黙示録の「二匹の獣」という記述と創作ノートの記述を踏まえて、スタヴローギンを筆頭に「ピョートル（猿）」が続き、そこから「キリーロフ（人神哲学＝無神論）」とシャートフ「（メシヤ思想＝ロシア正教）」の二人が派生するという人間関係の図を示している。 しかし、後に詳しく分析するようにキリーロフとシャートフは、従属しているというよりも上位に置かれたピョートルに対する厳しい批判者として描かれていると思える。 大江健三郎も『悪霊』の後半には「スタヴローギンと仲間の革命家たちとのしっかりした議論がありますが、私は、それを読むたびに、対話する相手にくらべてスタヴローギンはそれほど大きい人物ではないと感じてきました」と語る一方で、キリーロフは「面白い」し、シャートフは「『悪霊』の中でもっとも尊敬すべき人物」と評価している（「ドストエフスキーが二一世紀に残したもの」『二一世紀 ドストエフスキーがやってくる』）。 私は2022年11月の例会ではまず黙示録への言及もあるサヴィンコフの『蒼ざめた馬』と比較することで、ドストエフスキーが「神の罰」という形ではなく「自然の法則」という ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№174 2024 科学的な装いをした「生存闘争」の理論を悪用した人間の問題として「殺すこと」を厳しく批判示していることに注意を促した（「『罪と罰』と『白痴』における『黙示録』のテーマと堀田善衞の『黙示録』観」『ドストエーフスキイ広場』№32）。 さらに、『白痴』においてはレーベジェフが黙示録に強い関心を持ったナスターシヤに語った言葉や、ムィシキンの誕生パーティーの場面で披露した独自の黙示録の解釈の記述をとおして、ドストエフスキーが恐怖感を煽るような黙示録の解釈の危険性に注意を促していたことを示していることを示唆した。 一方、黙示録との関連で興味深いのは亡くなる前年の1959年に『悪霊』を元にした同名の戯曲を著したアルベール・カミュが、長編『ペスト』（1947）ではアルジェリアのオランを舞台に、疫病の蔓延を「神の罰」と捉えてひたすら耐えることを説いたパヌルー神父の黙示録的な視点を批判した医師リューとともに患者の救命に奮闘した死刑廃止論者のタルーの活躍を描いていたことである。 『日本の悪霊』を著すことになる高橋和巳は、長編評論『暗殺の哲学』でたびたびカミュに言及している。それゆえ、本発表ではカミュの戯曲『悪霊』を踏まえた高橋和巳の視座でドストエフスキーの『悪霊』を読み解くことにしたい。 （注* 本稿では『ヨハネの黙示録』は黙示録と略記する） 第272回例会傍聴記 木寺律子氏「ドストエフスキーの創作における主題の変容と展開をめぐって―近刊拙著『ドストエフスキー：エピソードの変容』の紹介と今後の研究の展望―」を聴いて 齋須直人 今回の発表では、2023年末に出版された、木寺氏の単著『ドストエフスキー：エピソードの変容』（春風社）についての紹介と、この本の第10章に含まれる『カラマーゾフの兄弟』のさくらんぼのジャムについての考察の発表だった。さくらんぼのジャムについては、2023年の日本ロシア文学会関東中部支部で行われた木寺氏の発表での内容、さらに本書の内容にも含まれなかった余談的な事柄も含まれた。 『ドストエフスキー：エピソードの変容』は、木寺氏が2011年以降に書いた論文のうちの多くに加筆修正して一冊の研究書にまとめたものだ。各章のテーマは多岐にわたるが、どれもドストエフスキーの複数の作品に見られる類似したエピソードに着目したものだ。ドストエフスキーは一生を通して共通する主要な問題は複数の作品で扱い、最後の作品に至るまで深めていった作家ということができるが、それだけに、複数の作品で類似するエピソードもしばしば見られる。こうしたエピソードは類似しつつも異なっており、それらを比較することで作品についての理解が深まるようになっている。類似するエピソードは、単独で論文のテーマになるようなものから、ささやかな指摘に止まるようなものまである。現在ロシアで刊行されて いるアカデミー版ドストエフスキー全集でも、作品間のエピソードの類似点についても註釈に書くように努めているらしい。 ニュースレター№174 2024―――――――４――――――――――――― 本書に収められている論考の特徴として、今回の発表にもあったさくらんぼのジャムのように、一見大きなテーマに繋がっているか分からないような具体的な事物も含む、作品の細部の読み込みがなされていることが挙げられる。また、資本主義化が進むロシア社会や自殺の問題などの作家と同時代のコンテクストを丹念に確認しながら論じていくスタイルも挙げることができるだろう。ドストエフスキーは多くの人に論じられるため、重要ではあっても誰もが論じている有名な部分が、ありきたりな着眼点から論じられることも少なくない。一方、本書ではドストエフスキーの作品のさほど論じられてこなかった箇所にも着目しており、私としても知らないことを沢山教えて頂くことができ、たいへん勉強になった。このような本書が着目した点といえば、例えば、シベリア時代の中期の作品とその後の作品とのつながり、女性の教育と就職、作品のコミカルな面やハッピーエンドなどの明るい側面、ゲルツェンとの関係などが挙げられる。 こうした成果を上げることができたのは、木寺氏が長年ロシアやその他の国で開催される国際学会に参加し、世界のドストエフスキー研究者との対話の上で成果を発表してきたからでもあるだろう。実際、本書の内容のうちの多くは、ロシア語の論文でも読むことができるため、世界の専門家がアクセス可能である。また、例会でも仰っていたように、長年ドストエーフスキイの会に参加され、対話を重ねてきたおかげでもあるだろう。 個人的には、ドストエフスキー研究の困難な点として、多くの論文が先行研究を踏まえた上でかなり具体的なものにならざるをえず、その結果、一人の研究者の個々の論文をまとめ上げて一冊の本にするとき、しばしば全体のテーマの共通性がないものになってしまいがちであるということがあると思っている（一方で、ほぼ書き下ろしで、統一したテーマで書かれたものの多くが、まとまりはあったとしても先行研究に対する新規性が不明確であったり、緻密さに欠けたりする）。木寺氏は統一したテーマで一つの本にまとめ上げる困難を、共通のエピソードへの着目を軸にすることで解決したと思われる。一冊の本になることで、それまで木寺氏が書かれてきた論文の手法や問題意識の共通性がより明瞭になった。こうして、論文を単著にまとめ上げることの意義を示して頂けたので、私としてもいつか後に続けるよう研究を続けていきたいと思うことができ、勇気づけられた。 事務局便り ○「広場」33号の原稿もほぼ出揃い、校正作業も終盤で、間もなく最後の技術的な統括作業に移行します。予定通り、4月中旬には刊行予定です。 ○「広場」33号で注目していただきたい点として、昨年8月名古屋での第18回IDS国際シンポジュウムで新会長に選ばれたイタリアのステファノ・アロエ氏の総会での挨拶を、齋須氏の訳により収録したことです。ウクライナ情勢をめぐり、会員の間でも対応が異なる中での、ドストエフスキー研究者として守るべき原則的な立場をマニフェスト的に代弁してくれたものとして共感されるでしょう。 （木下） 事務局連絡用アドレス; tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1７3 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky
Society 2023.12.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介・木寺律子（きでら りつこ） 1977年生まれ。1995年大阪外国語大学入学、2000年大阪外国語大学大学院博士前期課程入学。2008年に博士号を取得して、同志社大学のほか、様々な大学で非常勤講師としての勤務を開始。2021年から現職の京都産業大学外国語学部ヨーロッパ言語学科准教授。2023年12月に『ドストエフスキー：エピソードの変容』を春風社から上梓した。 ニュースレター№173 2024―――――――2――――――――――――― 第272回例会報告要旨 ドストエフスキーの創作における主題の変容と展開をめぐって ―近刊拙著『ドストエフスキー：エピソードの変容』の紹介と今後の研究の展望― 2023年にドストエフスキーに関する単著『ドストエフスキー：エピソードの変容』を出版することができたのは、何よりもまずドストエーフスキイの会の皆さんのおかげである。長年に渡ってこの会でドストエフスキー文学を勉強することができていることにたいして、まずはお礼申し上げたい。そして、お礼と共に本書の内容を紹介する。 本書の内容は10章に分かれ、最近およそ10年間で執筆した論文約10本が元になっている。目次は以下の通りである。 はじめに エピソードの変容 第一章 SFとしての『おかしな男の夢』と『悪霊』 第二章 個人雑誌『作家の日記』の中の『おとなしい女』と『おかしな男の夢』 第三章 『未成年』と当時の資本主義経済 第四章 『小さな英雄』から『未成年』へ 第五章 婦人解放運動の過程で：『未成年』と『おとなしい女』 第六章 『罪と罰』におけるドイツのイメージ 第七章 『罪と罰』におけるおとぎ話の要素 第八章 『おじさんの夢』のコムイルフォー：自意識と演技 第九章 ハッピーエンドのドストエフスキー文学 第一〇章 亡くなった兄の思い出：宗教思想と無神論の狭間で ドストエフスキー文学の多くの作品には独特のパターンがあり、類似するエピソードが複数の作品にまたがって繰り返し描かれる。これらのエピソードはさまざまな作品の間で微妙な変化する。この類似点と相違点を丹念に見ていくことで、作家ドストエフスキーの辿った思想上の軌跡を知ることが出来るのではないかと考え、これを考察したというのが本書の主旨である。 全体として、ドストエフスキーのシベリア流刑直後の様々な中編小説には、晩年の長編大作で思想的な意義を担って描かれる様々なエピソードの萌芽が見られるといえる。特にシベリア直後に描かれた作品では喜劇的なエピソードやハッピーエンドとなっているものが、後の作品では哲学的な問題を担う深刻な作品になっている様子が興味深い。『スチェパンチコヴォ村とその住民たち』に描かれるコミカルなエピソードが『カラマーゾフの兄弟』の有名な場面に発展している様子に至っては、私も一読者として大変な衝撃を受けたものの、アカデミックな考察がほぼ不可能なほどであるが、これも紹介する。 本書には含めなかったものの、『死の家の記録』と『カラマーゾフの兄弟』の間にもちょっとした類似するエピソードがある。これについても補足してお話ししたい。 とはいえ、一つの小説内部の問題を考察した章もある。特に今回の発表では、 これまであまり本会で話してこなかった『カラマーゾフの兄弟』におけるサクラン ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№173 2024 ボのジャムの問題をより詳しくお話ししたい。 本書では、ドストエフスキー文学の芸術的な特徴や作家ドストエフスキーの思想の変遷をとらえることを目的としてこのような方法を採用した。しかし、執筆後に気づいたのは、心理学の分野で最近なされている「エピソード記述」という手法との関連である。文学研究の場で論じられるさまざまな手法が、心理学や児童教育、福祉等の分野で応用して実践的に使用されることはよくあることであろうが、エピソード記述という手法にも本書のドストエフスキー文学研究との意外な関連を発見した。こういった実用的な視点も踏まえた上で、本書の内容紹介をしたい。 第271回例会傍聴記 木下豊房氏「ドストエフスキー研究の大いなる先駆者В.Л.コマローヴィチの苦難の生涯について」を聴いて 齋須直人 木下豊房氏はここ数年で、中世ロシア文学の専門家ドミトリー・リハチョフの書いたドストエフスキー論５編を訳して『ドストエーフスキイ広場』に掲載した。また、リハチョフの回想録も翻訳している。今回は、中村健之介氏の翻訳によっても知られるドストエフスキー研究者コマローヴィチの生涯と研究についての発表であった。 発表では、2018年にモスクワの世界文学研究所から出たコマローヴィチのドストエフスキー研論集である、『《ひた向きな志向》－Ф.М.ドストエフスキー論と研究』(こちらから参照可能:https://www.rfbr.ru/rffi/ru/books/o_2113654)に掲載されたコマローヴィチの生涯についての解説や、リハチョフの回想からコマローヴィチの生涯の部分が参照されていた。コマローヴィチは、第二次世界大戦におけるレニングラード攻防戦のさなかの極限状況で餓死したが、その様子がリハチョフの回想に詳しく述べられている。木下氏によると、コマローヴィチはロシア文学研究所（プーシキン館）の指導教官ピクサーノフから文献学的手法「目的志向性発生論」を受け継き、それを自身の草稿研究に活かしている。要するに作家の創作ノート等の作品構想の生成過程を丹念に追いながら研究するもので、この手法が現在のロシア文学研究所の研究でも受け継がれているのではないか、とのことだ。 特に興味深く感じたのは、ドイツにおけるドストエフスキー受容とコマローヴィチの仕事との関連だ。コマローヴィチは、ドイツ語で自身の研究成果を発表しており、ある研究書では彼の書籍の中に有名なフロイトの「ドストエフスキーと父殺し」の論文も入っている。20世紀前半のドイツでは、独自のドストエフスキー受容がなされ、私見ではドストエフスキー作品の「危険で悪魔的な」側面が強調されている。つまりこの作家の「明るい」(весёлыйというより、светлыйの方)側面を強調するような、現在のロシアのドストエフスキー研究者が真っ先に反論するようなドストエフスキーの読み方がなされていた。こうした環境で、コマローヴィチのドイツ語の研究成果はどのように受け止められていたのだろうか。 今回の木下氏の発表の動機の一つに、現在の日本のロシア文学研究者である我々が学問的な研究姿勢を忘れてしまっているのではないかという問題意識があっ ニュースレター№173 2024―――――――４――――――――――――― たと見受けられる。実際、ロシアでのドストエフスキー学会に参加すると、文献学的に着実な手法こそが学問的なものであるという見解が支配的であり、それに比べると日本の研究は文献学以外の手法にもより寛容であるなど、日露で研究の傾向は異なる。木下氏が危惧しているのは、おそらく日本の一般の書店に出回るドストエフスキーに関連する書籍の中で、研究者の書いたものの一部がこうした学問的に厳密な手法を用いていないものも含まれているのではないか、ということだろう。私自身も、書店で手に取れるドストエフスキー関連の本については近年の研究を踏まえた上で着実に論じられたものが稀であるという印象を抱いており、この問題意識は共有しているつもりである。 同時に、日本で海外文学の翻訳を読む読者が少なくなり、大学での海外文学の授業のシェアも減りつつある現状についてどのように考えるか、という論点も重要である。これまでロシア文学研究所の研究者が行ってきたような、あるいは早稲田大学露文科が担ってきたような学問的な研究をいかにして海外文学やロシア文学を愛読する読者、あるいはこれから読み始めようとする読者に還元するのか、という問題である。 確かに、ここしばらくの日本の海外文学関連の書籍に、これまで木下氏が批判してきたような商業主義的側面はあったかもしれない。ただ、そもそも海外文学がさほど読まれない状況、また、商業主義と批判されるような書籍であっても十分には売れていない現状において、着実な研究をそのまま提示するだけで読者に受け止めてもらうことは可能なのだろうか、という懸念もある。いかなる方法を考えればよいのだろうか。これは大学でロシア文化やロシア文学に関係する講義をする私自身にとっても大事な問題であり、木下氏やドストエーフスキイの会の会員の皆さんと考えていきたい。 事務局便り 〇2023年～24年へと、国際、国内ともにいろんなスポットで火の手が上がり、炎上し、山火事のように広がっていく、いよいよ再び不確定性の時代の再来の様相を呈し始めたかのようです。ドストエフスキーはそのような時代に強く受け入れられ再発見されてきました。グローバル化が進行する中で民族意識は希薄化され気味ですが、宗教的メンタリティはより強固に牙城を譲ろうとしないでしょう。 ドストエフスキーはロシア人民衆の宗教的エートスに全人類的な普遍性を見ていましたが、これはとかく誤解されがちな公式的な大ロシア主義の宗教思想とは異質な流れにあったことを、ロシア文学・思想の研究者としては、具体的により明らかにしていく義務があると私は感じています。 〇「広場」33号の原稿締め切りも間近で、年が明けると、本格的に編集作業に入ります。23年度例会報告者の論文を基本に、本誌でなければ得られない国際的な研究の動向、翻訳による基本的な研究情報、文献の紹介を行います。例年通り4月中旬発行予定です。ご期待ください。 （木下） 事務局連絡用アドレス; tkino@chiba.email.ne.jp |
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ドストエーフスキイの会 ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1７２ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society
2023.10.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介・木下豊房 （きのした とよふさ） 1969年、本会発起人の一人、「発足の言葉」を起草。2002年まで千葉大学で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2000年、国際ドストエフスキー研究集会（千葉大学）を主宰。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（1993、成文社）『ドストエフスキー・その対話的世界』（2002．成文社）、『ドストエフスキーの作家像（2016、鳥影社）その他。訳書に『ドストエーフスキイ夫人・アンナの日記』（1979、河出書房新社）、ゴロソフケル著『ドストエフスキーとカント』（1988、みすず書房）その他。 ニュースレター№172 2023―――――――2――――――――――――― 第271回例会報告要旨 ドストエフスキー研究の大いなる先駆者В.Л.コマローヴィチの苦難の 生涯について
木下豊房 ドストエフスキーの母国ロシアで、没後、作家の手稿、印刷稿、創作ノート、書簡、回想など原資料を基に、文芸科学としての作家研究が始まったのは、1920年代前後からで、すでに一世紀の歴史がある。おそらくその最初のメルクマールとなる出来事は、1917年夏にペテログラード（ペテルブルグ）大学歴史・文学部を卒業して、将来の研究スタッフとして嘱望されていたワシーリイ・レオニードヴィチ・コマローヴィチが指導教授により、モスクワ歴史博物館所蔵のドストエフスキーの手稿の調査を命じられたことであろう。そのために彼は、当時クリミヤ在住のアンナ・ドストエフスカヤに連絡して、許可を受けなければならなかった。 コマローヴィチのアンナ夫人との手紙のやり取りは、時あたかもペトログラード、モスクワで武装蜂起があり、レーニンのボリシェビキが政権を奪取するという波乱の世相を背景としていた。アンナ夫人はこの若き研究者に全幅の信頼を寄せ、1917年11月には、第三者には見ることのできない夫の創作ノートその他すべての資料を彼に渡すように指示した。 コマローヴィチは1918年にはペテログラード（ペテルブルグ）のプーシキン館所蔵の、『悪霊』の未発表の章『スタヴローギンの告白』を印刷に回す準備をしていた。1921年には、彼はプーシキン館所蔵のドストエフスキー関係文書の目録作成、研究、公開の仕事に着手した。このようにして、コマローヴィチは最大のドストエフスキー手稿フォンド三か所のうちの二か所、モスクワ歴史博物館とプーシキン館（ペテルブルグ）に自由に出入りする特権をあたえられ、文学作品の創作史の研究という、ドストエフスキーの文芸科学研究のトップランナーとなったのである。彼の目的は大長編小説群の起源を明らかにすることだった。 『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』その他の重要な手稿断片や校訂稿が、彼の手によってはじめて整備された。1923年に手稿フォンドが歴史博物館からロシア共和国中央公文書館へ移管されるに伴って、新資料を利用しての作業が続いた。 ところがここで思いがけないことに、資料出版の優先的な権利が、ドストエフスキーの遺産を厄介払いしたいソビエト政権によって、仲介者を介して、注釈ともども、ドイツのミュンヘンの出版社に売却されてしまったのである。版権を買ったのはピーパー書店（Piper Verlag）で、1905年にはドイツ語版20巻全集の商業出版に成功、また、カンジンスキーの美術グループ「青騎士」のカタログの出版などを手掛けた出版社だった。 このような経過で、コマローヴィチが準備し、注釈をつけた成果は、ドイツ語版で、『知られざるドストエフスキー』(Der unbekannte Dostojevski,
1926) と『F.M. ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の原型‐ドストエフスキーの源泉、プランと断片。V.コマローヴィチの注釈』（Die Urgestalt
der Brüder,1928）の二冊となって、異国で刊行された。 ちなみに、興味深いことに、フロイドの有名な論文「ドストエフスキーと父親殺し」は、コマローヴィチのこの著の序文として登場したのだった。コマローヴィチは長文の「前書き」で、フロイドの論文に反論し、ロシアの宗教哲学の伝統を踏まえての異なる解釈を提示している。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№172 2023 存命中のコマローヴィチは、その才能と学問的業績によって、В.В. ヴィノグラードフや Б.В.トマシェフスキー, Д.С. リハチョフ, Л.П.グロッススマン, М.М. バフチンといったロシア最高の文芸学者と同列に数えあげられるべき存在であったが、彼は痛ましいことに、レニングラード封鎖時の1942年2月、凄惨な悲劇的な死（餓死）で命を落とした。そして、自分の同輩達のように、「雪解け」の時代（1950年末～1960年代）を待って名誉回復・再起し、現代文学の歴史に名を留めるという機会を失ってしまった。 とはいえこの素晴らしい学者の遺産を出版する試みが無かったわけではない。プーシキン館で研究者として多くの時間を共にし、自分をコマローヴィチの弟子と見なしていたリハチョフは、1967年に編纂、編集を自分で引き受けて、この先輩学者の著作出版の計画を、ソ連アカデミー・ロシア文学研究所（プーシキン館）の文献科学史委員会に申請した。しかしそれは認められなかった。1980年代、1990年代にも同様の出版企画があったが、いずれも実現しなかった。1990年のモスクワ・世界文学研究所による企画委員会の若きメンバーであったオリガ・ボグダーノワが中心になって、ようやく2018年にこの大いなるドストエフスキー研究者の全貌を知ることのできる宿願の論文集『《ひた向きな志向》－Ф.М.ドストエフスキー論と研究』(«Весь устремление»
Статьи и исследования о Ф.М.Достоевском») が、科学アカデミー・世界文学研究所（モスクワ）から刊行された。それは900頁を超える大著である。報告ではこの論集のボグダーノワの序文のほか、彼女の「〈忘れられた〉ロシアの文学研究者В.Л.コマローヴィチ」（モスクワ大学紀要、文学2012, №6）その他の論文、リハチョフの回想記などの資料を基に、この知られざるドストエフスキー研究者の苦難の生涯を紹介してみたい。 第270回例会傍聴記 熊谷のぶよし氏の報告「『永遠の夫』の筋立て」を聴いて 近藤靖宏 ヴェリチャーニノフが見た夢に登場する男の正体は誰か？それは彼が不義の子リーザを預けたポゴレーリツェフ家の当主であると熊谷氏は推理する。彼が夢を見るシーンは二か所ある。第一の夢でヴェリチャーニノフは謎の男を殴り快感を覚える。それは彼が学生の時ポゴレーリツェフの妻となるクラウディアと恋仲であったことからポゴレーリツェフはヴェリチャーニノフにとって潜在的に三角関係の恋敵だったから。第二の夢で謎の男は帽子に喪章をつけていた。それはポゴレーリツェフ家がトルソーツキイに代わってリーザを弔ったから。このように書くと容易な推理のように思えるが、そもそもここに関心を持つ読者はまれだろう。 熊谷氏はポゴレーリツェフの人物像やヴェリチャーニノフとポゴレーリツェフ家 との関わりに関する記述が少ないことにかえって注目する。よく分からないが隠れたところに真実があるということか？また、一見ストーリー全体との関連性は薄いが分量の多いザフレビーニン家訪問のエピ―ソードを重視する。私もこの章には強い関心を持っているので熊谷氏の発表に沿ってやや詳しく記述したい。 リーザが死んだ後、トルソーツキイは結婚すると言い出し、一緒にザフレビーニン家を訪問するようヴェリチャーニノフに依頼する。ヴェリチャーニノフは同行するが、持ち前の社交術を駆使してザフレビーニン家一同から高い評価を勝ち取る。一方のトルソーツキ ニュースレター№172 2023―――――――４――――――――――――― イはザフレビーニン家一同から馬鹿にされ、娘たちに虐められ、お目当てのナジェージダ にも嫌われる始末。ヴェリチャーニノフは間接的にトルソーツキイの面子を潰してしまったわけで、彼は虚栄心からついやってしまったと後で後悔する。その後悔は彼が「より高尚な虚栄心（≒良心、悔い改め）」を持つようになったことを表している。 この章にはヴェリチャーニノフがナジェージダのためにグリンカのロマンスを歌い、ナジェージダがそれに魅了されるシーンがある。私はこのたびこの歌曲「楽しいひと時、きみ唇を開いて」（Когда в час весёлый откроешь ты губки）をYouTubeで聞いてみたが、何というか野卑な印象を受けた。語り手によれば、これを歌いこなすには純真な情熱、もしくは完全な詩的同化が必要なのであってそれがなければ失敗するとのこと。放蕩無頼なヴェリチャーニノフにも純真な面があったということか？彼は学生の時グリンカから直接この歌曲を聞いている。そのときヴェリチャーニノフはクラウディアと恋仲であったことから彼にとってこの歌曲はクラウディアとの美しい思い出と重なることになる。これが夢に出てくる男の正体を探す鍵となるから重要なのだ。 私は『永遠の夫』を読んだ際、語り手がヴェリチャーニノフに寄り添っているにもかかわらず、妻を寝取られた善良な男、トルソーツキイの歪んだ復讐心やヴェリチャーニノフとの駆け引きに目が行き、ヴェリチャーニノフの内面に関心を持つことはほとんどなかった。多分そのように書かれている物語だからだろう。しかし熊谷氏の発表はヴェリチャーニノフが見た夢を手掛かりにして彼の内面に切り込む内容であった。残念ながら現在の私は熊谷氏と同じ視点に立てていない。だから今回は私が把握できる範囲でこの傍聴記を書かせていただいた。 事務局便り ○9月例会の開会に先立っての運営委員会で、次年度会誌「ドストエーフスキイ広場」33号の編集員会議を起ち上げました。この会議は運営委委員が自発的に任意に参加活動するもので、企画立案、編集作業、アドヴィス、校正など軽重を問わず分担して行うもので、会員に完全に開かれたものです。 ○「広場」の主要論文執筆者は例会報告者を中心にある程度固まっていますが、エッセイに関しては、これから年末年始にかけて、会員に広く募集中です。従来通り、400字5枚までは掲載費無料で、超過分は400字当たり400円、その単価で執筆者に該当部数が還元されます。最終締め切り日は2024年1月20日です。ただし投稿希望については、年内にお知らせください。 事務局連絡用アドレス; tkino@chiba.email.ne.jp （木下） |
ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1７1 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2023.8.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介・熊谷のぶよし（くまがい・のぶよし） 「ドストエーフスキイ広場」での発表論文は以下の通り。「イワンの論理と感情」「「ネヴァ河の幻」出現の経緯」「ラスコーリニコフの深き欲望」「アリョーシャに心はあるか」「イワンにとっての「神の観念の破壊」」 ニュースレター№171 2023―――――――2――――――――――――― 第270回例会報告要旨 『永遠の夫』の筋立て 熊谷のぶよし 『永遠の夫』は、小説で提示された謎が、筋立ての読解によって解明することの出来る小説だ。 ドストエフスキーの主要作品は、バフチンの指摘を待つまでもなく、主人公たちの対話によって成り立っている。筋立ては、このとき対話を生み出す環境としての意義にとどまり、小説の読解の主要な要素とはあまり見做されない。また、ドストエフスキーの小説では常に謎が生まれるが、多くの場合、謎は解明される道筋が示されることなくそのまま放り出されている。しかし、この小説では生み出された謎は筋立てを検討することで解明されていく。筋立てによって解明される謎という、ドストエフスキーの読解においてはあまりないことが、この小説では中心となっている。 小説の冒頭において、主人公ヴェリチャーニノは過去の悪事の記憶が何者かから止めどなく送られて来るという苦しい考えにとらわれている。それが誰なのか彼には見当がつかない。謎の人物は遂には夢に現れることになるがその人物が誰かをヴァリチャーニノフは思い出せない。この夢の直後に彼はかつて自分がその妻を寝とった男であるトルソーツキーの訪問を受ける。そこで連想により謎の男はトルソーツキーと結び付けられることになる。読者も同じように思うだろう。謎はここで一度氷解する。 小説の終盤において、謎の男はふたたびヴァリチャーニノフの夢に現れる。ところが、驚くべき事にその顔はトルソーツキーとは「まったく別の人物だと確信」される。しかし、それが誰かを語り手は明らかにせず、読者だけが謎のままに残されることになる。夢に現れるこの男とはいったい誰なのか、これが読者に提示されたこの小説の謎だ。 この謎の男の正体は、トルソーツキ―の初恋の相手クラーヴヂアの夫ポゴレーリツエフだ。ポゴレーリツエフ家での彼ら夫妻と共有する時空は、ヴェリチャーニノフにとってはペテルブルクでの苦悩の日々とは切り離された聖域となっている。しかし、そこにある美しく崇高なものはその成立の当初から虚偽であった。その虚偽を隠蔽しようとする抑圧がヴェリチャーニノフを蝕んでいた。彼の全ての不調の原因はこれにある。そして、それが欺瞞として理解された時、ヴェリチャーニノは彼の憎しみの対象としてのポゴレーリツエフをはっきりと認識することになる。 そこに至る過程で、ヴァリチャーニノフは自分とポゴレーリツエフとの関係をトルソーツキーと自分との関係に投影して理解し始める。この重なり合う二つの関係は、トルソーツキーとの命を懸けた闘争において、完全に一致したものと認識される。これによりヴァリチャーニノフはポゴレーリツエフへの憎しみを明瞭に自覚することになる。 この認識は美しく崇高なものの放棄につながるが、この認識によりヴァリチャー ニノフは抑圧から解放されて完全な治癒を得ることになる。 筋立ての整理、検討とそれに伴う少しの心理的洞察は以上のような読解に読者を ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№171 2023 導くことになる。発表では筋立ての検討によるその発見のプロセスを説明する。 この小説の筋立ては二種類の時系列によって構成されている。一つは、小説の現在として主人公が活動していて行く時系列で、もう一つは、その進行の合間に語り手が述べた過去の出来事を再構成して得られる過去から現在までのヴァリチャーニノフの来歴としての時系列だ。筋立ての検討による謎の解明は、現在の時系列で生きるヴァリチャーニノフの視点から再構成された過去の時系列を参照することによって行われる。 またこの解明を可能にする条件として、この小説を記述する者が作者そのものではなくて語り手であることが求められる。語り手であることのメリットは、ヴァリチャーニノフに寄り添うことで彼の視点での無知と過ちを語り手が共有できるところにある。発表は図を利用して、わかりやすいものになることを心がけたい。 第269回例会傍聴記 『ドストエーフスキイ広場』32号の掲載論文合評会
冨田陽一郎 合評は掲載順に行われた。巻頭の木下論文については、熊谷さんがヴァーチャルの概念を「宗教自体がヴァーチャルリアリティだと思えてくる」とのべたのに対し、ヘシュカスムという宗教的境地へ至る前段階としての「空想家」の境地を批判する視点で、ロシアの研究者がこの用語を使っているとの論者の説明があった。 永田さんのエッセイ的作品は、センセーショナルな部分もあり読んで強い印象を受けたという声も多かった。伊藤さんの論は比較的わかりやすく、キャラとキャラクターの違いや、サブカルチャーと文学作品のアダプテーション（接続）について、日本文学におけるキャラの一面性の強調などについて、私が意見を出した。千葉さんのバフチンと小林秀雄の論については、多くの意見が出た。「同化と離脱」についてなどで、福井さんも、小林秀雄とベルクソンについてなど持論を展開した。千葉さんは、バフチンのポリフォニー・多声的な要素の平行性とソクラテスや小林秀雄の垂直性を取り上げ、アテナイの神殿からうけた神託、形而上学と、ソクラテスの内側のデモンの声という、形而下学（あるいは内側の形而上学）を対比させて論じた。それを受けて私は、ドストエフスキー文学にはキリスト教のような、他者と和解し自己の真実の声を手に入れようとする隣人愛やフラタリニテ、兄弟愛の要素が見出されるという印象を受けた。杉里さんの論考は、ロシア語を精密に分析する内容であった。木寺さんから、「杉里さんは英語に近い感覚でロシア語を捉えているのではないか」という意見があった。国松さんからは、金田一さんのロシア語時制論を杉里さんは縦横無尽に使いこなしているという意見が出た。アトスにある聖母子像をドストエフスキー家が拝みにいった話などの余談も出た。（ドストエフスキー家 は先祖がロシア正教の聖職者の一族であるという話が、評伝などには書いてある。）池田さんは、地球物理や地下水の研究をされていた方で、札幌映画サークルで文芸 映画の解説を書いていた方であるが、ポルゾイという大きなロシア犬のことについ て、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で非常にリアルに書いていることなどを述べられた。杉里さんは、罪の問題と許しの問題について触れて、現実の中 ニュースレター№171 2023―――――――４――――――――――――― の物語から、自分の中の物語を巧みに紡ぐドストエフスキー、新聞をよく読み、ア ンテナが広かった彼は、無から物語を作っているわけではないと述べ、それを聴いて私は、フィクションというよりも、「もう一つの現実」を作っているのが小説作話である、と納得した。木下先生の勧めで木寺さんがロシア語から翻訳した、ドストエフスキーの父親の死についての話は、フロイト説や黒い父親説にＥ・Ｈ・カー、小林秀雄等が、疑義を呈している話を私がした。木下先生は、慎重かつ明瞭に、フロイト説や黒い父親説、父殺し説に反論された。福井さんのロシア哲学史についても話が出た。千葉さんの内容に対して熊谷さんが、垂直と平行だけではなく斜めの線もあるとコメントした。最後になぜドストエフスキーが他の作家と同様に、自分の身代わりや分身、代弁者として登場人物を創作し小説を展開するのに、他の作家とは違うのか、という点についての話になった。ドストエフスキーは文学のすごい強度をもっている、しかし程度の問題なのだと杉里さんは言及した。しかしそれではなぜバフチンがドストエフスキー文学を他の作家とは違った「詩学」「ポリフォニー」として捉えているのか、という点についての疑問が生まれた。私は、一個人の意見ではあるが、それはドストエフスキーの精神疾患の一種の人格障害、多重人格的な要素に由来するのではないか、という仮説を述べた。 最後に木下先生がまとめの言葉を仰って、合評会は盛会の内に幕を閉じた。 事務局便り ○「広場」32の合評会の雰囲気はおおむね富田傍聴記に見られる通りであるが、内容の質としては課題の残るもであったのではないか。原因の一つは以前のように個々の論文につき論評者を選定せずに、任意の意見表明に任せたため、勢いむらが生じ、全体に底の浅い論評会であったと思う。以前のように個々の論文には、相応の読解者を立てて、その読みをもとに議論することが質を高める道だと思った。あえて問題を提起する。 ○9月例会の日に、例会に先立って、次年度刊行の「広場」編集委員会を立ち上げるのが、恒例となっている。編集員会の企画、作業には、運営委員が自発的に参加出来ることになっている。常連のほかに新顔のメンバー参加を期待したい。 ○８月24日～28日に名古屋外国語大学で開催された国際ドストエフスキー・シンポジュウム（IDS〕には、本会から高橋誠一郎、伊東一郎、齋須直人、町田航大、永田怜絵、清水真伍、木下豊房（ペーパー参加）の会員が参加し、報告した。 ○若手研究者の中心的存在として活躍している齋須直人さんが、自身のブログでまた朝日新聞デジタル版で、注目すべき記事を公表している。ブログの方は、23年に来日したロシアの研究者ザハーロフ氏の講演をめぐる本会の若手研究者木寺、町田さんの「コメントと回答・質問」、朝日の方は、ウクライナ問題をめぐって「親ロシア派」というヘイト的な言辞が飛び交い始めた現状への警告である。本会ホームページの表紙メニューから入る「内外のリンク」にURLを貼り付けておくので、それよりクリックしてご覧いただきたい。 （木下） 事務局連絡用アドレス; tkino@chiba.email.ne.jp |
ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1７０ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2023.6.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレター№170 2023―――――――2――――――――――――― 〇 合評会の参加方法について 昨年と同じZoomによる合評会となります。ご参加の場合、下記締め切り日までに 「連絡用アドレス」に申込のメールを送信してください。返信メールでZoomログイン用URLをお伝えし、そこからZoomに入っていただくことになります。返信メールは７月２7日（木）予定です。 ＜連絡用アドレス＞ ＜合評会参加メールに記載していただく内容＞ ・氏名・住所（最近変更した場合） ・感想や質問がある方は、論文筆者名を記入した上で内容をお書きください。匿名でも結構です。いただいた。感想・質問に関しましては、７月２７日（木）送信のメールにて共有させていただきます。 ＜申込締切日時＞ ・７月２６日（水）１７時 途中退出、途中参加も自由です。また、顔出し無し、発言せずに聴講もできます。 第268回例会傍聴記 町田航大氏の「『作家の日記』はなぜ「日記」なのか：ジャンルをめぐるドストエフスキーの苦心」を聴いて 千葉 雄 ドストエフスキーの評論である『作家の日記』で論じられたものは、帝国主義的侵略や戦争讃美や排外主義などと結びつけて保守反動の思想として扱われることが多い。とりわけウクライナへのロシアの侵攻により、ドストエフスキーとこの戦争を結びつける言説まで見受けられる。今回の例会の発表で町田航大氏は、『作家の日記』をこのような保守反動のレッテルによって「単純化」して見る読み方では捉えきれないテクストの内奥を示した。ロシア語の言葉が使われる作者や時代の文脈を丹念に分析することによって、同時代の他者の言葉の引用が豊富に使われ、作者自身の言葉であっても多義的・両義的であって、冗談や言葉遊びなどの要素が多く見られることが示された。そこから、この評論がドストエフスキー自身の思想や感情の率直な表明であるモノローグではなく、「作家」の言葉や思想が描写されるフィクションであるということを論じている。 発表の中で町田氏は、『作家の日記』1876年10月号、12月号、翌年1月号の時期において「単純さ」という語が次々と異なる文脈で用いられることを提示した。町田氏によれば、このことによってドストエフスキーは「単純化に向かう時代の風潮を客観視し、『単純』という言葉自体を複雑化する上述の遊戯によって抵抗を試みた」のである。この「単純さ」という言葉の遊戯が続いた後の『作家の日記』1877年1月号の中での「『偉大なる愛の事業のために』流された血」によって社会が浄化され蘇生されるという戦争観も、町田氏によれば、「単純さへの見せかけの転向」であり、作 者の言葉は依然として単純化していない。ここでの「偉大なる愛の事業のために」と ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№170 2023 いう言葉は、理想に殉じた当時の革命民主主義者に対する共感が表れたネクラーソフ の有名な詩からの引用であり、行動に対する肯定の他に知識人のロマンに対する冷笑 という文脈もあり、戦争肯定の文章も両義的になる。質疑応答の議論の中で、単純に言われることは実は単純ではなく複雑であるが、複雑なことも単純にしか言えないという現象と本質のずれであるイロニーという論点が提出された。さらに、思想とはイロニーと言えるような思想の重厚性であって、イデオロギーは単純化へと向かってしまうという点が議論された。 町田氏の発表に触発され『作家の日記』を読み直したのだが、単純に見える文章が非常にレトリカルであることに気づかされた。ロシアが戦争に踏み切った月に出された1877年4月号で戦争への過激な主張がなされた後の節で、奇妙なことに二世紀前の皇帝の言葉を載せた文献が引用されている。この中に、ギリシャの迫害された人々を救うために「我が血を最後の一滴まで流す」（пролью свою кровь до последней
капли）という皇帝の決意の言葉がある。これと同じような単語を使いながらが、この後の節の『おかしな男の夢』で主人公に「私の血が最後の一滴まで流れる」（пролита была моя кровь до капли）ことを渇望する言葉を語らせている。おかしな男は、ユートピアの星に行き、皇帝と同じく流血（戦争）の種を植え付けてしまい、十字架にかかって償うことを渇望するが自分で自分を殺すことができないのである。皇帝の言葉が引用される文章の前の節は、「流された血は世を救うか？」（Спасаетъ-ли пролитая кровь?）となっている。この題名とおかしな男の言葉にある「流れる」が受け身であるのに対して、皇帝の言葉は能動態である。ここから、一見戦争で血を流すことによ って社会や国家が浄化されるという表向きの言葉の裏に、人間の血を流すことは（おかしな男が決意できないように）そんなに容易なことではないんだぞという意味が隠れ、ましてや能動的に自分の血を流そうとする皇帝の決意に対する意図的な当てこすりが感じられる。さらにこの受け身と能動の違いには、神によって絶望の中で受動的に十字架にかけられたイエスの贖いの血との対照が連想される。この贖いこそは、『作家の日記』の全体のテーマである。ここには、ギリギリのところで作家が行ったレトリックによる必死の抵抗があるように思われる。さらに1877年3月号にもコンスタンチノープルをめぐる好戦的な主張や偏見に満ちた排外主義に見える「ユダヤ人問題」の節も、読者を巻き込んだ個別性と一般性（普遍性）の言葉の遊戯を経て、それらの主張を転倒させているようにも見える。 質疑応答の中で、露土戦争論などのドストエフスキーの保守反動の思想をもっと素直に読んで文学作品との関連性を探った方が妥当ではないかという反論が出た。評論で一貫してさまざまなバリエーションによって論じられる、ロシア民衆の「謙抑」や他者を生かすための「自己犠牲」などの保守的な思想は、晩年のプーシキン記念祭の講演や『カラマーゾフの兄弟』で花開くようにも思われ、非常に興味深い論争として拝聴した。 町田氏の丹念に非常に重要な問題を扱う発表を通して、社会的な言葉によって存在が証明される「作家」という公共的な存在が、素直に私的な気持ちを吐露する媒体である「日記」を書くという『作家の日記』の逆説の意味を教えられた。改めて感謝したい。 事務局便り ニュースレター№170 2023―――――――４――――――――――――― 2023年度総会報告 〇令和4年度決算を公表します。『広場』発送の業者委託、会専用ZOOMアカウント契約を行ったことにより従来にはない経費が発生しましたが、『広場』印刷業者を変更したことによる経費節減で増加分をカバーすることができました。今後もこれらを継続して持続可能な財政運営を行います。 令和4年度 収支計算書 （令和4年5月6日〜令和5年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 太田香子
〇2023年度の運営委員として以下のメンバーが承認されました。連絡用メーリングリストで情報を共有し、意見を出し合って、会活動は運営されます。「広場」の編集は、運営委員が自発的に編集会議に参加し、各自の出来る範囲で協力して、補い合いながら進めてます。編集会議は9月例会の時に、毎年新たに起ち上げます。 太田香子、木寺律子、木下豊房（代表）、国松夏紀、熊谷のぶよし、近藤靖宏、齋須直人、清水真伍、下原敏彦、菅原純子、高橋誠一郎、千葉雄（新規）、堤崇弘、泊野竜一、永田怜絵、福井勝也、町田航大、渡辺好明 〇このところZoom 形式による例会が定着してきていて、高齢者や地方の会員の方には恩恵である反面、対面形式を望む声も少なくありません。理想としては、対面とＺoom 形式の併用ですが、それには技術的に幾つかクリアしなければならない問題があり、今年度は実現の可能性を探りながら進むことになります。（近藤・木下）
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1６9 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2023.4.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介・ 町田 航大（まちだ こうだい） 早稲田大学大学院文学研究科ロシア語ロシア文化コース博士後期課程1年。修士課程では、「『カラマーゾフの兄弟』における「キリストの発見」の意義：旧約聖書ヨブ記との構造的相関に着目して」と題した修士論文を提出。ドストエフスキーの思想性・宗教性を19世紀後期ロシアの歴史的文脈に即して再考することに主眼を置き、現在は『作家の日記』に関心を向けている。 ニュースレター№169 2023―――――――2――――――――――――― 第268例会報告要旨
第267回例会傍聴記 金沢美知子氏の「「スタイル」の覚醒：ドストエフスキーと新たな価値観の 出会い」を聴いて 木寺 律子 金沢美知子氏の口頭報告の内容は多岐に渡っていたが、主に作家F.M.ドストエフスキーの生い立ちと彼が育った環境を考慮に入れ、作家ドストエフスキー本人の資質だけでなく当時の時代的・社会的背景の影響に着目して、ドストエフスキー文学が確立していく様子を追ったものであった。どちらかというと、作家の晩年の長編大作よりも、ドストエフスキーが作家としてのデビューを果たした頃の様子などに焦点が絞られていて、特に、ドストエフスキーが強い影響を受けたオノレ・ド・バルザック（1799-1850）の文学との関連、N.V.ゴーゴリ（1809-1852）との関連に多くの時間が割かれた。 バルザックは、資本主義社会の人々の世俗的な野心、すなわち金銭欲、出世、恋愛の成功などを描く。ドストエフスキーがバルザックの影響を受けながらも、バルザックのようにさまざまな人間をタイプ化して描き分けることはせず、人々の関係や内面を掘り下げて描くのには、作家本人の資質だけではなく、ロシア社会の特徴がある。金沢氏はこれを、資本主義の発達が十分でなく田舎の影響が強かった「ロシアの後進性」によるとする。 興味深かったのは、18世紀文学を専門にする金沢氏が、19世紀のドストエフスキー文学の特徴を理解するにあたっても、ドストエフスキー以前の文学史を踏まえて論じた点である。金沢氏によると「1810-1820年代の帝政ロシアは、まだ明らかに18世紀の文化を引きずっている」状態で、この中でドストエフスキーが1821年に生まれた。 18世紀のロシアの人々は、フランスやドイツの文学作品を原語や翻訳で読むこ とが多く、読者も自国ロシアの作品を期待してはいないわけではないものの、な ニュースレター№169 2023―――――――４――――――――――――― なかそう多くは書かれなかった。こういった状況下で、当時はロシアの作家が自身の創作を発表する際にも、西欧の翻訳物であるかのような体裁を装って、小説の導入部分に、自分が西欧を旅行した時に見つけた原稿を紹介するといった主旨の序文をつけることがあった。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には長い序文がついていて、『おとなしい女』や『地下室の手記』にも前口上があるが、18世紀の作品ではこれが通常のスタイルであったのである。それでもドストエフスキーの作品には、これはフィクションであるという前口上がついていることがあるが、18世紀には、フィクションであるという前口上は少なく、これは本当の話であるとか、外国で見つけた原稿の翻訳であるという前口上が多い。フィクションをどう捉えるかという意識は当時と現在では異なっていて、歴史書にもでっち上げを書くことはありえ、嘘と本当の融合を深刻に考えることはなかった。ところが18世紀後半から、創作の中に現実と虚構の問題があることを読者も作家も意識するようになった。こういった事情を踏まえてドストエフスキー文学の特徴を考察すると、ドストエフスキーが大変リアルな小説を描くにも関わらず、自分が経験したことを自伝的に書いているのではなく、他人を描いて他人を自分のものとして取り込んでしまえるのが、よりよく理解できる。 もっとも、作家ドストエフスキーの生い立ちは金沢氏が指摘したような暗いものではなく、ドストエフスキーの父親は自然死していて、これまで長く言われてきたように殺害されたのではなかったこと、この父親は決して気難しくはなかったこと、ドストエフスキーが田舎を知らない都会派であったとは言い切れないことなどについては、発表後の質疑応答の時間に複数の会員からの反論があった。 金沢氏は、発表の冒頭でウクライナ情勢の話もされ、これについては質疑応答の時間にもゴーゴリとの関連で話題になった。今は、この話題なしには済まないような状況にあるといえるか。 事務局便り 〇「ドストエーフスキイ広場」32号、会員の皆様のお手元に届いたことと思います。いつになく執筆者も多く、多彩な充実した内容になりましたが、今回、画期的なのは、新しい印刷所を探し、製本から会員への発送も業者に依頼してできるようになり、作業が大幅に合理化されたたことです。従来、発送は手伝いの人を動員し一仕事でしたが、これで楽になりました。ただ、同封する会費請求書のスタイルも若干変わりましたので、その点、ご了解願います。 〇もう一つ新しいことは、Zoom形式の例会も定着してきたことから、会で自前のZoomアプリ使用権を3月例会から購入しました。これまでは、試行ということもあって、大学関係者から使用権を借用していました。コロナ禍から余儀なくされたZoom例会でしたが、やはり対面例会を期待する声も少なくないようです。ただ、東京での対面例会に出席困難な地方の会員や高齢者には、Zoom形式は有難く、対面例会になってもZoom形式を併用できるような方策を探りたいものです。 （木下）
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1６8 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2023.2.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介 東京大学名誉教授、日本トルストイ協会会長。主な仕事に、『可愛い料理女』（彩流社）、『18世紀ロシア文学の諸相』（編著、水声社）、『ロシア文学』（編著、放送大学教育振興会）等。ロシア・ロマン主義および18世紀ロシア文学を専門とし、ドストエフスキーについては特に初期作品からの手法の展開を研究してきた。朝日カルチャーセンター（新宿）において「ドストエフスキー再考」（ウェビナー講座）と「原書講読」を継続開講。 ニュースレター№168 2023―――――――2――――――――――――― 第267回例会報告要旨
第266回例会傍聴記
二つの傍聴記・ 清水真伍氏・「ナスターシャ・フィリポヴナの「美」の二面性－世界をひっくり返す美のダイナミズム」 千葉 雄氏・「バフチンとの比較からみた小林秀雄のドストエフスキー読解」―を聴いて 福井勝也 お二人の例会報告の傍聴記を仰せつかった。当日最後の締めくくりに、司会者から二人に何か共通した内容の質問がないかと促された。しかし参加者からは特に声があがらずに終了となった。二報告は標記のもので共通した主題は考え難いが、手元にあったNLの報告者紹介を見て当方勝手に思ったことがあった。それは両氏の正確な年齢は不詳だが、お二人とも各々別の私大を卒業され一旦社会人になり、それから別々の大学院に進み、そこで専門研究された成果を今回報告されたことだ。昨年末、芦川進一氏の『予備校空間のドストエフスキー』という新著を読んだこともあり、若い方々のここ十年位の「ドストエフスキー体験」が気になって、お二人が各々どのようにドストエフスキーに辿り着いたのかが気になった。無論、お二人は既に優秀な研究者（の卵？）であることは、その発表からよく分かったが、研究報告だけでは分からないこともある。 清水氏の発表は、比喩が適当かどうかもあるが、優秀なビジネスマンのプレゼンの如く、視覚映像を駆使し時間内に過不足無くその論旨を巧みに画面展開するものであった。主題は、これまでも様々に論じられた『白痴』における「美」の問題であったが、その「二面性」が的確に整理されて説明され分かりやすかった。しかし副題にあるとおり「世界をひっくり返す美」に元々焦点があったようで、もう一つの「美は世界を救う」という極言との相克（ダイナミズム）がより問題ではないかと感じた。会場の諸先輩研究者からも的確な助言を含む感想が寄せられ、有意義な質疑応答のうちに前半が終了した。 後半の千葉氏の報告は、バフチンのポリフォニー論との比較から、小林秀雄のドストエフスキー読解の特質を明らかにする試みであった。それは、一見凋落を辿ったか ニュースレター№168 2023―――――――４――――――――――――― に見える小林のドストエフスキー論の再評価の試みであって、逆にここ半世紀程テキスト論として席捲したバフチン理論の射程を見定める意欲的な研究の始まりとして報告を聴いた。 その主題は、当日配布資料の「補論」でより鮮明になった。すなわち報告で繰り返された小林の「デモンの声」によって「ポリフォニーの構造の中にも、作者の超越的な視野、作者の特権的な声というものが併存できる可能性を小林の読解を通して見いだせるかどうかの試み」だと宣明された。このことは既配布資料末尾で、パーヴェル・フォーキン氏の『カラマーゾフの兄弟』を「小説の形式をとった作家の『信仰告白』」であるとした要約から、「フォーキンのような上記モノローグ的な読解とバフチンの対話的な読解のつながりを小林秀雄の読解に見出せるかもしれない」との具体例を敷衍した提言だと理解した。 当会には、新谷敬三郎、木下豊房、清水孝純各氏等の小林に関連する貴重な議論の蓄積がある。今回報告の元になった博士論文で千葉氏は、丁寧にそれらの先行研究に触れている。しかし今若い世代の千葉氏が、小林秀雄の議論の再評価に挑むにあたり、新しくもなお普遍的なドストエフスキー問題への洞察がなされたのだと感じた。千葉氏に、どんな「ドストエフスキー体験」があったのか、お聞きしたいと思った。それは、バフチンと小林が、共通してドストエフスキーの文学に発見した中身と通じているはずだ。即ち、人生の謎について考えること、それは取りも直さず自分の存在を問うことに尽きる。その根底に遡れば、両者は同時代の思想家として同じ「人間の謎」に直面した者どもであった。しかし、その探求の位相を異にした。大雑把な議論をしているつもりはない。もし私見を少しだけ述べさせてもらえば、小林の言語論は記憶の言語論であって、その背景にはベルクソンの『物質と記憶』がある。千葉氏が問題にする、小林の「デモン」は「超越的な声」であって、それ自体「記憶」という「言語」の＜潜在性＞からもたらされるものだ。小林の議論の広さと深さは、ベルクソンの言語論によるもので、バフチンのそれと位相を異にするが対立矛盾しないだろう。とすれば、千葉氏の今回報告は貴重な提言として十分に評価できる。 （2023.2.4） 事務局便り
〇昨年総会で決定された重要事項でしたが、ニュースレター などでの周知不徹底により、会員の皆様にご迷惑をかけている件につき、あらためてお知らせします。年間学生会費3000円を廃止し、今年5月以降の分は年間一般会員費4000円に一本化させていただきます。会費請求時に同封されたメモもご一読の上ご了承をお願いします。 〇「広場」32号の編集作業は順調に進行しており、200頁を超える多彩な内容で、4月刊行も予定通りです。会員の皆様のご期待に応えるものと所期しています。 （木下） 事務局連絡用アドレス; tkino@chiba.email.ne.jp |
ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1６7 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2022.12.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介 清水真伍（しみず しんご）
東京大学大学院スラヴ語スラヴ文学研究室修士課程二年。上智大学外国語学部ロシア語学科を卒業後、民間企業でロシアとの水産物の貿易業務に従事。現在は『白痴』をはじめとしたドストエフスキー作品における「美」の概念を研究している。 千葉 雄（ちば ゆう） 青山学院大学文学部史学科卒業後、社会人を経て、東京外国語大学大学院に入学しドストエフスキー文学とその日本への影響を中心に研究。本年9月に東京外国語大学博士後期課程修了。博士論文のタイトルは「ドストエフスキー文学にみる内在性と超越性：ミハイル・バフチンのポリフォニー論と小林秀雄の洞察の実存論の比較研究」。今回、その論文の内容の一部を報告させていただく。 ニュースレター№167 2023―――――――2――――――――――――― 第266回例会報告要旨 ナスターシャ・フィリーポヴナの「美」の二面性―「世界をひっくり返す美」のダイナミズム― 清水真伍 「美」はドストエフスキー作品のキーワードの一つである。『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など様々な作品で「美」に関する議論が戦わされている。しかし『白痴』のムィシュキン公爵が言うように「美とは謎」であり、『カラマーゾフの兄弟』のミーチャが言うようにそれは「美」とは「定義できっこない」からである。事実、歴史上多くの哲学者が「美」を研究し、その定義付けを試みてきた。「美」が普遍的な定義を持たない以上、「ドストエフスキーにとっての美」の研究が必要となる。 さて、かかるドストエフスキーの美学研究において『カラマーゾフの兄弟』のミーチャの台詞に基づいて「聖母の美」と「ソドムの美」の二項対立が導入されるのが一般的である。『白痴』のヒロイン、ナスターシャ・フィリーポヴナはかかる「美」の二項対立において「ソドムの美」の象徴とされてきた。たしかにロゴージンやトーツキイ、ガーニャやエパンチン将軍など様々な男性登場人物の情欲を掻き立てるナスターシャ・フィリーポヴナの「美」は「悪魔的」であり、「ソドムの美」の象徴と言うにふさわしいかも知れない。しかしナスターシャ・フィリーポヴナの「美」にはソドム的な側面がある一方で、ムィシュキン公爵が彼女の肖像写真を見て「善い人だったらなあ！」と期待を込めて叫んだように、精神的かつ善良な側面があるようにも思われる。 本発表では『白痴』のテキスト分析を通してナスターシャ・フィリーポヴナの「美」の表象の二面性を考察し、彼女の「美」が作品においてどのような機能を持つのか、その二面性が作品全体においてどのような意味を持つのか、彼女の「美」を端的に表現したアデライーダの言葉「このような美があれば世界をひっくり返すことも出来るわ！」の意味を考察し、ナスターシャ・フィリーポヴナの「美」の再評価を試みる。 バフチンとの比較からみた小林秀雄のドストエフスキー読解 千葉 雄 ミハイル・バフチンと小林秀雄は、一見するとドストエフスキー文学への対照的な読解を行なっている。バフチンは地上の水平的な対話の次元においてドストエフスキーの文学を読み込むのに対して、小林はこの水平的な対話に楔を入れる「デモン」（ソクラテスのダイモニオン）による超越的な次元を認め、またこの対話的繫がりを失う「断絶」の局面にある主人公の「孤独」を読み取ろうとする。 柄谷行人は「風景」論において、「固定的な視点をもつ⼀⼈の⼈間」の主観によってあらゆる要素が位置づけられる、作為的な「幾何学的遠近法」の構図を取り入れた 近代文学について論じている。柄谷によれば、近代人はこの遠近法の生み出す風景を ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№167 2023 超え出ることはできない。バフチンと小林は、それぞれ正反対の読解をしながら、ド ストエフスキー文学にこのようなモノローグ性を超え出た地点を読み込もうとする。バフチンは、主人公が「声」を持った存在として描かれていることを指摘することに より、作者の創作に用いるモノローグ的な構図を解体させ、他者が押しつけるレッテルから越え出ようとする自立的な存在として主人公を批評した。一方小林においては、あらゆるものを解体させる透徹した意識による作者の観察「眼」を分け与えられた主人公の主観から描かれている点を論じることにより、従来の小説にあった機械的因果律による構図を崩壊させ、他者が自己を規定するあらゆるものを乗り越えようとする自立的な主人公像を批評した。バフチンの論じた作者の対話的創作手法とは対照的な、主人公の内面に同化するモノローグの徹底を批評することにより、かえって従来のモノローグ⼩説の枠組みを超えたドストエフスキーの文学の地点を捉えている。 この両者の批評する声と眼の違いが、水平的な地上の対話とその対話に対する超越的な次元や裂け目を論じる両者の対極の読解を生み出している。小林の読解における「超越性」の次元は神学的・預言的な言葉としてドストエフスキー文学において展開可能なものであり、「断絶」は他者との対話的繫がりが無化される、主人公の罪の存在論的な経験として議論できるものであろう。 第265回例会傍聴記 伊藤夢紬氏の報告「日本における二次創作から考えるドストエフスキー」を聴いて 近藤靖宏 発表はここ10年ぐらい前から一部で行われていきたドストエフスキー受容の在り方を取りあげたもの。だからこの文章には最近日本語として定着しつつある用語が登場する。（その箇所にはアンダーラインを付ける。ネット検索にご活用ください。） その特質を一言で言えば登場人物のパロディだ。発表者は二次創作という用語を用いるがパロディと言い換えて差し支えない。ドストエフスキーの作品には「現在のサブカルチャー、学校空間における典型的人物類型」が頻出する。それを題材にして別の物語を創作する。例えば『カラマーゾフの兄弟』第11編・小悪魔には興奮したリーザがアリョーシャに当たり散らすシーンがある。彼女のように異常な行動で回りを困らせる人物をメンヘラという類型で呼んだりする。他にも中二病、陰キャ、コミュ障など言われてみればピッタリ当てはまりそうな登場人物は確かにいる。またこういった二次創作は「原作を性的に読み替えて制作」されることがある。例として『悪霊』のシーンを「同性愛的描写」に変換した漫画が紹介された。その背景にはBL（ボーイズラブ）というジャンルがある。原作は第2部・イワン王子で、そこには突然ピョートルがスタブローギンの手にキスをするという過剰かつ性的に解釈しうる行為が出てくる。 なぜこのような二次創作が生まれるのか。ここで「痛い」（イタいと表記するともっとよい）というキーワードが登場する。発表者は作者ドストエフスキーの性格が作中の登場人物に反映しているからではと考える。その例が『貧しき人々』のマカール・ジェーブシキン。急遽追加された資料は、物語の序盤4月8日の手紙のやりとりで、発表者は彼の文章がいかに気持ち悪いかを要所にアンダーラインを引いて説明した。 ニュースレター№167 2023―――――――４――――――――――――― 一方のワルワーラはそれに淡々と答える。要するに彼女は彼の執拗な求愛をうっとうしく思っていた。だから物語の終盤、彼女は彼をまるで下僕のように使ってひどい態度で接していたんだと腑に落ちた。なるほどマカール・ジェーブシキンはイタい。 ここで紹介された作品はライトノベルや漫画であり、これらの目的から内容は必然的に喜劇になる。しかし仮に自らがタイプ分けされているということ登場人物たちが知ったなら拒否反応を起こすだろう。また、こういった二次創作が生まれた背景にはスクールカーストに象徴される社会の分断がある。 高橋誠一郎氏の報告「『罪と罰』と『白痴』における『黙示録』のテーマと堀田善衞の『黙示録』観」を聴いて 田村 太 高橋誠一郎氏は「大胆さ」をおそれない。『罪と罰』の日本における受容史から「立憲主義」の危機を論じ、黒澤明の映画『白痴』でドストエフスキー『白痴』を読む、そんな手並みを見せてくれるのはいつも氏だけである。こうした氏の大胆な切り口は、研究上のパースペクティブをうちだせないまま細部の分析や「実証的な」調査に終始しがちな者にとって、目のさめるような印象をあたえる。それにこの大胆さは氏の真摯な知性や鋭敏な時代感覚、そして「文明」をめぐる粘り強い思考に支えられており、 荒唐無稽なものではない。氏はなににもまして誠実（искренность）である。 今回の氏の報告もそうした性格を感じさせる仕事だ。ロープシン・ドストエフスキー・堀田善衛を組み合わせながら、終末と破壊のイメージに関するインデックスとしての「黙示録」が危機の時代においてどのように変奏されてきたか、氏は大づかみにデッサンしていく。その見据える先には、刻一刻とリアリティを増しつつある軍備拡張や核戦争への強い危機感がある。 ここでロープシンに限って言えば、氏の読み方はどちらかというと古典的なものである。ロープシン作品を聖書やドストエフスキー文学との関連で読むことはメレシコフスキーやマサリク以来の伝統をもつからである。ところが氏はその伝統を大胆にアレンジしてみせた。つまり、「黙示録」のテーマを縦糸として「核」（チェルノブイリ原発事故）・「暗殺」（元首相狙撃事件）・「戦争」（ウクライナ侵攻）といった現代のトピックスを配置することにより、もっぱらロシア近代史のコンテクスト上で読まれるロープシンをその流れに組み込んだ。ここからドストエフスキーとロープシンと堀田善衛を並べて論じるという新たな試みが生まれてくる。これは比較文明論的な切り口を得意とする氏の快挙である。もちろん、ロープシンの「黙示録」を考えるのであれば、「戦争」を描いた『漆黒の馬』（1924）もあわせて考察すべきであったが、それは次なる課題であろう。 「戦争と革命の世紀」においてロープシンはつねに同時代作家である。氏のような研究者がロープシンを論じるのも自然なことだ。果たして氏の描く『蒼ざめた馬』はどこへ疾走するのか、現代の「文明」はいかなる「黙示録」のテーマを繰り返そうとしているのか、氏の研究の今後の展開を心から待ちたい。 事務局便り 事務局連絡用アドレス; tkino@chiba.email.ne.jp |
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報告者紹介 伊藤 夢紬（いとう むつみ）
一九九五年生まれ。京都大学文学部スラブ語学スラブ文学専修に聴講生として所属。今回の報告とも重なる、日本における二次創作から見たドストエフスキー作品の特徴に関する卒業論文を昨年度、上記専修に提出。 高橋誠一郎（たかはし せいいちろう） 研究テーマ：日露の近代化の比較。主な著書に『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』（群像社）、『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』（以上、成文社）、『「罪と罰」を読む（新版）――〈知〉の危機とドストエフスキー』（刀水書房）など。 ニュースレター№166 2022―――――――2――――――――――――― 第265回例会報告要旨 日本における二次創作から考えるドストエフスキー 伊藤 夢紬 21世紀以後の日本、特に2010年代より、ドストエフスキー作品の二次創作物（原作と同じ登場人物を用いて、異なる作品世界で物語を展開するもの）が散見される。約２世紀前の人間が創造したキャラクターが、現代作品のそれと同程度の訴求力を持っていることは驚くべきことである。本発表は、この動向から新しいドストエフスキー読解の可能性を探る試みの報告である。 まず初めにいくつかの二次創作作品を瞥見し、その表面的特徴を説明する。その後、原作における対応する特徴をおさえて、二次創作され得る妥当性を確認する。特徴とは具体的に、１）同性愛的描写の存在、２）マンガ的な性格の極端さの２点を主なものとする。 次に、伊藤剛などの議論を参考にして、二次創作を欲望させる・可能にするより本質的なものを探ってゆく。ゲイリー・モーソンの議論を利用して、物語における外部性・偶然性がその核であると主張する。また補足的に、小説という媒体においても「キャラ」を感じてしまう日本的特殊理由として、ある仮説に触れておく。 第三に、ドストエフスキーとトルストイの比較を行う。「キャラ」に注目して両者の差異を弁別することで、その作家的素質の違いを浮き彫りにすることを試みる。またバフチンにおける両者の比較について、彼の結論を本報告の視点から解釈する。 最後に、「キャラ的感受性」の強い作家ドストエフスキーとして、彼の歴史性・同時代性を考察する。ドストエフスキーは, 文学史的にディケンズやバルザックと並んで「都市の文学者」と呼ばれることもある。大都市の出現によって、人間は見知らぬ大量の他人に取り囲まれることになった。その集団的な都市体験こそがまさに、キャラ的感受性の先鋭化をもたらしているのではないか。 『白痴』における「黙示録」のテーマと堀田善衞の『橋上幻像』 高橋誠一郎 『白痴』の第2部で「われわれの時代は例の第三の生き物である黒い馬と、手に秤を持った騎士の時代です」と『ヨハネの黙示録』（第6章第6節）を解釈したレーベジェフは、鉄道が「『生命の水の泉』を混濁させる疫病」か、という第3部での議論の後では「人類の友」を名乗った『人口論』のマルサスを「人類を滅ぼす食人種でもあるのです」と批判して12世紀の「人肉食」にも言及している。 このような強引な議論の展開には驚かされるが、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」は「生存闘争」を必然視し、「戦争、飢餓、伝染病」なども必要悪と見なした『人 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№166 2022 口論』や社会ダーウィニズムから強い影響を受けていた。 『罪と罰』のエピローグで描かれている疫病によって人々が殺し合いを始めて人類がほとんど滅亡するという悪夢は、「黙示録」的な光景であるばかりでなく、司法取調官のポルフィーリーが指摘していたラスコーリニコフの理論の帰結ともいえる核兵器の時代の悲惨さを予告するような悪夢でもあった。 ドストエフスキーの作品を精読していた堀田善衞は、原爆投下を「神の罰」と捉えたユダヤ人の「黙示録」観を短編『国なき人々』（1949）で詳しく記し、長編小説『審判』（1963）では原爆投下にかかわったパイロットの罪と苦悩を鋭く掘り下げた。 美術紀行『美しきもの見し人は』（1969）で『ヨハネの黙示録』の特徴を分析した堀田は、長編小説『橋上幻像』（1970）の第1部では「人肉食」の問題をとおしてニューギニア戦線での日本軍の惨状を浮き彫りにし、短編『至福千年』（1984）では、ユダヤ人の虐殺や「人肉食」も行われた第1回十字軍の問題点と惨状を活写した。 それゆえ、『白痴』における「黙示録」のテーマとのかかわりをとおして『橋上幻像』を読み解くことは、ヒトラーの「非凡民族の理論」や信者は最終戦争に生き残るという「黙示録」の解釈に囚われたアメリカのカルトやオウム真理教、統一教会だけでなく、プーチン大統領の無謀なウクライナ侵攻の問題の理解にもつながると思える。 第264回例会傍聴記 木下豊房氏の報告「初期中編小説『女主人』における物語のヴァーチャル性と主題の宗教性」を聴いて 千葉 雄 今回の木下氏の報告では、難解な初期の小説『女主人』が題材として取り上げられている。木下氏は、ムーリンらの信仰が去勢派やグノーシス派であるという説を退け、萌芽的に作家の中で直観していたヘシュカスム（静寂主義）だったのではないかという説を打ち立てる。木下氏によれば、ヘシュカスムとは、公式的な教会からは神秘主義思想として抑圧されていたが、民衆の中に根づいていた信仰の流れにあるもので、聖者伝や聖典を読み、世俗に在っての修道や静寂の中の祈りや改悛や予言を重んじる宗派である。小説のテクストの中にも、これらを連想させる語彙が見られるという。 木下氏は、子供時代の宗教的な環境や後にヘシュカスムの修道の道に入った人物たちから与えられた青年時代の影響などから、無意識のうちにヘシュカスムの観念が作家の中に萌芽的に存在したとする。 この小説では、ロシアの教会史を研究していた主人公オルヂノフの中にある思想に関して、「彼の内部に何年も巣くっていて、いまだあいまいで不鮮明ではあるものの」、「結実と完成の時期はまだ遠く」にあるが、「彼の心からの脱出を願っていた」と述べられている。これこそが、若き作家の萌芽的に抱いていたヘシュカスムの思想とパラレルになっているというのだ。木下氏は、ゾシマ長老やアリョーシャなどヘシュカスムを体現する人物が完成した『カラマーゾフの兄弟』から『女主人』まで時間を巻き戻していき、回顧的に考察している。『女主人』の段階では、その観念は完成した形として存在するものではなく萌芽的なものにとどまる。そのような論証することが ニュースレター№166 2022―――――――４――――――――――――― 困難にも思われる微妙で複雑な人間の思考の世界に対して、回顧的に追いながら状況 証拠による論拠を積み上げることで丹念に分け入ることにより、非常に説得力があるように思われた。 私の理解した木下氏の報告の要点は、ムーリンやカチェリーナの幻想性を去勢派や鞭身派といった民衆の信仰の民俗学的次元の現実として見るのではなく、バーチャル性の中にありながらそれが理想性と結びつく肯定的なものとしてあり、そこに（主人公と同じく）作家の萌芽として無意識的に直観していたヘシュカスムの観念が介在していたということにある。 ヘシュカスムとのドストエフスキーの関わりに関する氏の見解は、非常に興味深い。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の思想には、静寂な祈りによる安定の中にありながら、人間の地上の生や喜びを肯定し、偽善的ではない世俗の中での禁欲という深い信仰がある。しかし、それが正教の公式的な教会の信仰に由来するとは到底思えないし、去勢派や鞭身派などの異端的な民衆の宗教への着目から生まれているようにも思えなかった。その点で、木下氏のヘシュカスムへの着目はとても刺激的で説得力があるように思われる。しかし、私の理解が浅いためか、それがバーチャル性と結びつくときに多少の違和感を感じざるを得ない。そして、それが作家の（あるいは主人公の）観念の中での「バーチャル性としての理想主義」の段階にとどまっていることが、この小説の限界のようにも思われた。『カラマーゾフの兄弟』において、ヘシュカスムというものを、祈りによる他界との接触による神秘的で霊的な生命の結びつきのうちにありながら、具体的な生きた人間の現実の生活の場での「霊的リアリズム」の信仰として描くことができたところに、作家の宗教思想の「結実と完成」があるのではないか。そこには、流刑地での民衆たちとの接触、神への懐疑やニヒリズム、生活上の憂いや苦悩といった作家の人生上の経験が深く介在しているであろう。コマロヴィチの述べた「“生きた世界の恩恵”による“夢想性”の浄化」とは、この最後の小説において完成したのではないかと思われた。 事務局便り 〇 このところオンラインによる例会を重ね、運用にも習熟して、その利便性を享受しています。特に資料の活用にはペーパーでは得られない便利さがあります。ただ齋須さんなどホストには特別の負担を掛けています。一方で、対面形式を望む声も強くあって、何とか両立できないかというのが、差し迫った課題です。 〇9月の前回の例会時に、会誌「広場」来年号（32号）の編集会議を起ち上げました。例年のペースです。今年度例会発表者の論文を中心に、エッセイ、書評を募集しています。12月末日締め切り、事情による最終締め切り日1月20日。 エッセイは400字×５枚まで会員は執筆無料、超過分は400字当たり400円負担で、その単価で部数が還元されます。 〇会員の清水孝純さんが『ドストエフスキー『悪霊』の概要展望と深層構造―悪魔のヴォードヴィル的空間―』という新著を鳥影社より刊行されました。定価2500円＋税です。 （木下） 事務局連絡用 tkino@chiba.email.ne.jp |
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報告者紹介 木下豊房（きのした・とよふさ） 1969年、会発起人の一人、「発足の言葉」を起草。2002年まで千葉大学で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2000年、国際ドストエフスキー研究集会（千葉大学）を主宰。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（1993、成文社）『ドストエフスキー・その対話的世界』（2002．成文社）、『ドストエフスキーの作家像』（2016、鳥影社）その他。 ニュースレター№165 2022―――――――2――――――――――――― 第264回例会報告要旨 初期中編小説『女主人』における物語のヴァーチャル性と主題の宗教性 木下豊房 ドストエフスキーの数ある小説の中でも『女主人』は理解しにくい作品であろう。『貧しき人々』を始めとして、1840年代の初期作品のほとんどすべての主題がゴーゴリの自然派の流れを汲む小官吏の意識とドラマを描いたものであったのに対し、この小説に限って、主人公は夢想家の青年インテリであり、物語はその主人公と民衆のフォークロワ的世界、民衆の宗教感覚から抜け出てきたような神秘的、謎めいた老人と若い女の関係をめぐって展開する。しかも主題は『カラマーゾフの兄弟』で中心をなす教会と宗教性である。『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』を除けば、教会が登場するのはこの作品だけというのも、特異な点である。 ドストエフスキーは生涯を通じて、公的なロシア正教会にはほとんど関心を示さず、尖塔の輝きなどシンボリックな風景として描く以外に、ほとんどの小説ではその内部を描いていない。作家はおそらく公式の教会とは一定の距離を置いていた。信徒として教会に通った形跡もない。彼が社会的に正教会と関係を持ったのは、幾人かの聖職者との個人的な付き合いだけだった。 それだけに『女主人』でとりあげられた宗教的主題－しかも彼が西欧のロマン主義文学、ユートピア社会主義思想の強い影響下にあった時代のそれとはどのようなものか、ロシアの研究者の間でも、いまだ議論は終わっていない。大方の見解として、公的正教会の教義から外れた形で民衆の間に影響力を持っていた異端派、分離派教徒にドストエフスキーは関心を示していたという点では一致している。しかし具体的な想定となると、いちじるしく異なる。先ず基本的に、作品の枠組みをどう読みとるかによって解釈が大きく違ってくる。 小説は、夢想家オルヂノフ－カチェリーナ－ムーリンの空想的、幻想的な世界の話の筋と、ヤロスラフ・イリッチ（『プロはルチン氏』で登場する警官）や門番、老婆など、自然派の日常世態的な場景の二つの枠から構成されていて、読者が読みこむことによって、非現実な物語の場と現実の話の場を識別できるようにドストエフスキーは独特の工夫・方法を凝らしている、と指摘したのが２０世紀初頭の世界的なドストエフスキー研究の草分けの一人、А. ベーム(1886—1945?)であった。 ベームはすでに、オルディノフの幻想・幻覚の非現実性が、現実と見分けがつかないほど混淆いることを指摘しているが、これをヴァーチャル・リアリティの問題として、近年、論じているのがモスクワの研究者オリガ・ボグダーノワである。彼女は現代ロシアでのヘシュカスム（静寂主義）人間学の研究者セルゲイ・ハルージイの「人間学的境域」の概念から「ヴァーチャルな（存在の活性化を指向する）境域」を援用して論じている（2012年）。 しかし小説構成上の二つの枠を区別することなく、一枚のキャンバスとして読 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№165 2022 み、オルヂノフ（＝若きドストエフスキー）の民衆の宗教への関心、異端派、分離派教徒への興味を「去勢派」と断定するО.ディラクトルスカヤの見解をめぐっての議論が盛んである。 И.Г.エヴラムピエフは、作者は分離派の民俗学的な描写に興味はなかったと、「去勢派」説に疑念を呈しながら、オルヂノフが志向した宗教性を「グノシス主義」に近いものと見ている（2009年）。С.С..ブィトコも「去勢派」説には説得力がないとしながら、オルヂノフはただ民衆の一般的な心情や魂に共感を寄せただけだとしている（2019年）。ムーリン「去勢派」説の.ディラクトルスカヤにしても、結論的には、オルヂノフの矛盾の解決の方向をヘーゲル主義に求めている。ベームはドストエフスキーの反教会の姿勢を読みとりながら、ムーリンの発言に『カラマーゾフの兄弟』大審問官の思想（人間の「自由」の問題）の予告を見ている。このように、現在までのところ、この小説の宗教的主題についての研究者の議論は一定しない。本報告ではこのテーマについて、別の角度からの新しいバージョンを提起したい。 第263回例会傍聴記 「ドストエーフスキイ広場」 31号合評会を傍聴して 大山 麻稀子 大学研究者のみならず在野という裾野を広く包括し、且つ長年に渡って活動を続けているドストエーフスキイの会は、良い意味で、他に類を見ない研究会だと思います。 皆さまのそれぞれの知力と胆力と熱意のこもった論文と、それに対する質問・感想を拝聴し、大いに刺激を受けると共に、自分自身の勉強不足も痛感しました。 巻頭の木下論文は、先生ご自身がゾシマ長老の思想の中で最も特徴的とみなす「謙虚さ」についての幅広い論考であり（ドストエフスキーの作品世界にとどまらない）、感想も意欲的なものが多かったように思います。私個人としては、論考の中で持ち出されるソース同士を繋ぐ糸を見つけることが難しく、研究論文として読みづらかったところがあるものの、先生ご自身のドストエフスキーに対する謙虚な姿勢をよく理解できました。また、その論考を通して、多くの読者に何かしらのインスピレーションやヒントを与えるという点で優れていると感じました。 清水論文は、まるで先生が傍らに立って『死の家の記録』を解説してくれるような錯覚を覚え、ドストエフスキーというよりも清水先生の人柄に惚れ込んでしまいそうになりました。熊谷さんもおっしゃっておられましたが、「ラスコーリニコフにおける自分の罪に関する無感覚は、『死の家の記録』の中で指摘された囚人らの、自己の罪への無自覚の延長線上にあるといえるでしょう」という清水先生のご指摘は、重要なものだと思いました。 熊谷論文は、新参者の私からすれば、まさにこの「ドストエーフスキイの会」を体現しているような論文に思われました（生意気な言い方で申し訳ありません）。実に実直で誠実な読者による、丁寧な読み込みと論考。福井さんや高橋先生も述 ニュースレター№165 2022―――――――４――――――――――――― べられていた通り、「神の観念の破壊」という人類の大問題をドストエフスキーが物語る展開に沿ってきっちりとあぶり出してくださったことに、深い敬意を払わずにはいられませんでした。 近藤論文も、私からするとやはり、「ドストエーフスキイの会」を体現しているように思われ、大変興味深いものでした。テキストに対する丁寧な読み込みと自由な発想。賛否両論？の感想がありましたが、面白いことに変わりはなく、木下先生がおっしゃるように、「«двойник»という題名そのものの解釈にも関係して」くる問題提起と思われました。 長縄論文は、先生ご自身のロシア思想に対する深い造詣を基とし、テキストを丁寧に読み込まれて論じられており、研究論文として最も安定しているように感じられ、問題提起と結論も非常に明快でした。また、寄せられた質問に対する回答もやはり明快でした。「ドストエフスキーにおいて『ルーシ』と『ロシア』とは同じ概念ではない」という長縄先生のご指摘は貴重なものであり、その緻密な研究姿勢は、この会にも新たな風を運んできてくれる気がしました。 伊東論文は、バフチンのドストエフスキー論の核心となるポリフォニー論の分かりにくさを開示、解説されたものでした（とはいえ、私にとってはやはり難解で、ここで自分の勉強不足が露呈。この原稿を書いている今でも疑問が盛りだくさん）。個人的にも興味深かったのは、バフチンの「ポリフォニー」論が他の人文諸科学の認識論的反省を促した、という先生の指摘です。質疑応答の場では、熊谷さんも鋭いご意見を述べられておられました。場を移してのざっくばらんな会話が可能だったならば、伊東先生にバフチン理解の手ほどきをもう少し受けたかったです。 この後、全体ディスカッションも続きましたが、時間がかなり押しており、私は参加できませんでした。会の途中ではエッセイを執筆された金沢先生からのメッセージも届き、あらためてこの会の裾野の広さに感嘆した次第です。 文学以外の表現手段が次々に現れ、文学が片隅に押しやられつつある現代において、このような会が存在するのは稀であり、参加できるのは幸せだと感じた合評会でした。 事務局便り ウクライナの戦争は人道的悲劇にとどまらず、文化史的な悲劇です。私が今回の報告でとりあげるドストエフスキー研究者・アリフレド・ベームやドストエフスキーの若き日の親友シドロフスキイも、キエフやハリコフ生まれの人物で 故郷からペテルブルグに出て、名を知られるようになった人物です。プーシキンと並んで19世紀ロシア文学の祖と言うべきゴーゴリもウクライナのポルタワ県出身。このように歴史的、文化的な一体性がずたずたにされる現実を見せつけられるのは、やりきれぬ思いがします。ドストエフスキーもともすれば大ロシア主義 、拡張主義の思想家 と見られがちなのには警戒しなければなりません。 （木下） 事務局連絡用 tkino@chiba.email.ne.jp |
ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.1６４ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2022.6.28 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレター№164 2022―――――――2――――――――――――― 〇 合評会の参加方法について 昨年と同じZoomによる合評会となります。ご参加の場合、下記締め切り日までに 「連絡用アドレス」に申込のメールを送信してください。返信メールでZoomログイン用URLをお伝えし、そこからZoomに入っていただくことになります。返信メールは７月２８日（木）予定です。 ＜連絡用アドレス＞ ＜合評会参加メールに記載していただく内容＞ ・氏名・住所（最近変更した場合） ・感想や質問がある方は、論文筆者名を記入した上で内容をお書きください。匿名でも結構です。いただいた。感想・質問に関しましては、７月２８日（木）送信のメールにて共有させていただきます。 ・Zoomの使用法に不慣れな方はその旨お書きください。日時を定めてリハーサル等で対応することも考慮いたします。・その他、お気づきの点があればご記入ください。 ＜申込締切日時＞ ・７月２６日（火）１７時、途中退出、途中参加も自由です。また、顔出し無し、発言せずに聴講もできます。 これまで例会は、首都圏の会員の参加によって開催されてきました。Zoomの利用により今までお互いに知り合えなかった全国の会員の情報交換の場にもできればと思います。頂いたメールアドレスの管理には十分注意し、会活動のお知らせ等必要な目的以外に使用することはありません。通信への負荷その他、事前に予想できない事情で中断その他、トラブルが生じた場合には、ご容赦ください。 第262回例会傍聴記 町田航大氏の報告「いま、ドストエフスキーはいかに歪曲されているか」を聴いて 杉里直人 2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して早くも4カ月がたつ。世界は一日にして激変し、ロシアとウクライナを取り巻く政治、外交、経済はもちろん、文化から食生活まで激甚な影響を被り、その先行きはまったく予断を許さない。それは古典作家の受容や読解という、戦争とは直接関わりにない領域にまで及んでいる。なかんずく『作家の日記』を初めとする政治・社会評論で時代と状況に対して積極的な発言をしたドストエフスキーの場合、その影響は測り知れず、ロシアとウクライナの みならず、世界各地で様々な観点から、2・24以前には考えられなかったような暴論も含め、議論は沸騰している。 かかる混乱のさなかにあって、今回の町田さんの報告「いま、ドストエフスキーは いかに歪曲されているか」はきわめて時宜にかなったものであった。町田さんは、ロシアとウクライナのジャーナリズムで展開された、双方にとって都合のいい手前勝手なドストエフスキー利用を、豊富な具体的事例を挙げて、広い視野から沈着冷静に分析した。町田さんによると、双方が自分たちの主張に沿う形で、作家のテクストを本来の文脈を無視して恣意的に切り取っていること、意図的にか、無知によるのか、ド ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№164 2022 ストエフスキーの主張は単純化・断片化され、曲解・改竄されて、ときには、原文からはおよそありえないような正反対の結論が導きだされることすらあること、その多くが耳目を惹くための煽情的な歴史修正主義にもとづいており、《情報戦》（嫌な言葉だ！）の武器として悪用されていること、しかもその種の現象は、2・24に始まったことではなく、2014年のロシア軍によるクリミア併合前後から始まっているとのことである。 胸の悪くなる主張の一つ一つに、尖鋭・的確な検討のメスを加えたうえ、町田さんは、第三者による冷静で客観的な分析・批判・研究の必要性を強く訴え、そのケース・スタディとして『作家の日記』1877年11月号第2章第3節を自ら翻訳し、その読解に不可欠な2，3の重要な問題について懇切な解説を寄せている。 なお、今回の報告の全文が早稲田大学ロシア文学会ニューズレター «Вести» № 57に、『作家の日記』の記事の全訳・解説が同文学会ホームページに掲載されているので、ぜひそちらをご覧いただきたい（https://www.waseda.jp/bun-russia/?p=389）。いずれもたいへんな力作である。 杉里直人氏の報告「《童の夢》はいかに作られているか」を聴いて 町田航大 杉里氏の発表では、『カラマーゾフの兄弟』第9編第8章における、ドミートリー・カラマーゾフの精神的再生の契機をなす《童の夢》全体の詳細なテクスト分析が行われた。この場面は「全世界の人びとに対する自己の罪の自覚」という作品全体の重要 な主題を提示しているが、今回、氏はテーマ自体ではなく、もっぱら動詞や構文などの形式的特徴について考察を行うことで、この場面に対する新たな知見をもたらした。 杉里氏は、《童の夢》を「A 夢を見るまで」「B 夢見１（情景描写）」「C 夢見２（御者との会話）」「D 夢見３（感情の爆発）」「E 目覚め１」「F 目覚め２」の6つの単位に区分し、各単位のロシア語原文の形式的特徴を分析した。最初に氏は時制に着目し、AとFが過去時制で客観的に語られ、その枠の中でBからEが現在時制で主観的に叙述されているという対比が、《童の夢》に没入して再び目覚めるというミーチャの幻視体験を文体によって際立たせていると指摘した。未知のヴィジョン（幻視）や過去の出来事を今まさに生起しているように描く、こうした現在時制の用法を「歴史的現在」と言うらしい。また氏は上記の6単位それぞれについて、主語と述語の語順や単文・複文の相違といった構文上の特徴を抽出し、この単位と単位の間の構文上の差異がいかなる効果を生むかを説明した。具体的には、Aは単文の連続に よる簡潔かつ平常な進行、Bは倒置法の等位の複文が多用されることでの複雑化、Cは「疑問視＋主語・述語」の文の畳み掛けによる感情のクレッシェンド、Dは長文だがその内部で均衡と統一が取れた「総合文」という複文によるまとめといった各々の特徴を解明することで、これらを一つの流れとして読んだ際に感じられる勢いやリズ ム等の段階的変化について説得的に論証した。 アカデミー全集版で原文を見るとわずか2頁に収まる《童の夢》だが、杉里氏はこの短い原文テクストを驚くほど徹底的に分析した。そして、一つ一つの文章単位がそれぞれ独自のニュアンスをもって連なることにより、幻視体験におけるミーチャの細かな心理的変化が、作者によって非常に計算され、意識的に表現されていることを明 ニュースレター№164 2022 ――――――― 4 ――――――――――――― らかにした。 発表の締めくくりで杉里氏は、こうした原文の細部に込められた意味は、ロシア語とは異なる他言語による翻訳では伝わらないと述べていた。それは事実だと思う一方で、ネイティヴのロシア人も文章をすらすらと読みこなせてしまう分、かえって《童の夢》に見られるような細かい形式的特徴を見落としてしまうのではないかとも感じた（実際、日本の読者が漱石の小説をこれほど丁寧に精読するかというと疑わしい）。ゆえに杉里氏の指摘は、外国語としてロシア語原文を読む立場だからこその発見であるといえるだろう。ドストエフスキーを「遅読」することの意義を改めて実感させていただくことができた。 事務局便り 5月29日の総会で、以下の決算書が承認されました。 令和3年度 収支計算書 （令和3年5月6日〜令和4年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 福井勝也
◎会の運営員会・「広場」編集会議は以下のメンバーで構成され、メーリングリストを通じて意見を交換し、合議で会活動を推進することが承認されました。 熊谷のぶよし/近藤靖宏/福井勝也/渡辺好明/高橋誠一郎/国松夏記/木下豊房/堤崇弘/下原敏彦/太田香子/永田怜絵/町田航大/清水真伍/齋須直人/木寺律子/ 菅原純子/泊野竜一（以上、順不動） 事務局連絡用 tkino@chiba.email.ne.jp |
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Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ
Dostoevsky Society 2022.４.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介 杉里直人（すぎさと なおと） 一九五六年生まれ。ドストエフスキー研究・翻訳。最近の論文に「ドストエフスキーは細部に宿る」（井桁貞義・伊東一郎編『ドストエフスキーとの対話』水声社、二〇二一年所収）がある。翻訳書にバフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』（『ミハイル・バフチン全著作』第七巻、水声社、二〇〇七年）、ドストエフスキー『詳注版 カラマーゾフの兄弟』（水声社、二〇二〇年）ほかがある。 町田航大（まちだ こうだい） 早稲田大学大学院文学研究科ロシア語ロシア文化コース修士課程所属。 同大学文学部東洋哲学コースを卒業後、社会人を経て、大学院からドストエフスキー作品の宗教性をテーマに研究している。現在、『カラマーゾフの兄弟』における旧約聖書ヨブ記の構造的影響についての考察を軸に修士論文を執筆中。 ニュースレター№163 2022 ―――――――2――――――――――――― 第262回例会報告要旨 《童の夢》はいかに作られているか 杉里直人 今回の報告では、『カラマーゾフの兄弟』第九編第八章「証人たちの供述。童の夢」の挿話《童の夢》を取りあげる。《童の夢》は原文で一頁半、七十五行の短いエピソードである。ドミートリー・カラマーゾフはフョードル殺しの重要参考人として、遊興先で身柄を確保され、検事と司法取調官による徹夜の取調べを受ける。この《地獄めぐり》の試練に彼は心身ともに疲弊し、取調べが終わったとたん、突然睡魔に襲われて、眠りこみ、奇態な夢を見る。だが、その夢がまったく思いもよらない奇蹟的な治癒効果を発揮し、彼に魂の新生をもたらす。《童の夢》は主人公におのが存在自体の根源的な有罪性を自覚させる決定的なモメントになる（啓示としての夢）。これは『カラマーゾフ』のクライマックスの一つである。プロット構成の面では物語の折り返し点にあって、同時刻にアレクセイが見る夢《ガリラヤのカナ》と並行関係にあり、主題論的にはイワンの《反抗》のモチーフ《子どもの涙》と対応関係にある。 本報告では形式的な観点からテクスト分析を行なう。《童の夢》の叙述はもっぱら単文の積み重ねによって簡潔・スピーディに構築され、まれに挟みこまれる複雑な総合文が主人公の感情の昂揚、その魂の死と再生をひときわ鮮明に描出する。その文体はいとも特徴的である。たとえば、夢見本体は不完了体・現在時制（いわゆる「歴史的現在」）が優勢であり、前後の覚醒時の完了体・過去による記述を枠構造として持ち、画然たる対称をなしていて美しい。ほかにも、「なぜ」という疑問副詞の十二回の使用、同語の執拗な反復、暗色の支配する世界から明への色彩の急激な転換、《光》のモチーフの出現など、ドストエフスキーは修辞的な技巧の限りをつくして、テクストの細部に陰影豊かな仕掛けを施す。 『カラマーゾフ』での類似の記述や、『罪と罰』の《馬殺しの夢》なども合わせて取りあげ、その共通点と相違点をも明らかにしたい。 いま、ドストエフスキーの言葉がいかに歪曲されているか 町田航大 ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻は世界中に恐怖と衝撃を与えている。ロシア文化研究者は、この戦争のショックとロシア政府に対する憤りが、文化的に密接した関係にあるウクライナとロシアを安易な対立図式によって分断する事態を招き、その分断がロシア文化に対する見方にも悪影響を及ぼすのではないかという懸念を表明している。 発表者も同様の問題意識から調査を行ったところ、このウクライナとロシアの対立と分断が、ドストエフスキーの言葉の解釈という領域に入り込んでいる事例を確認した。それは、ドストエフスキーが自身の個人雑誌『作家の日記』（1876-1877）のなか ―――――――――――3―――――――― ニュースレター№163 2022 でロシアや西欧、スラヴ民族について当時語った言葉が、クリミア併合から現在に至 る経過のなかで、ウクライナ、ロシア双方の一部メディアによって恣意的に切り取られ、両国の対立を煽る目的で利用されている現象である。 本発表はそのような事例を紹介しつつ、作家・評論家ドストエフスキーの紡いだ言葉が、戦争のもたらす混乱のなかで単純化されてしまう問題について報告する。その上で、作家や文学が歪曲にさらされる危機に対しどのように対応していくべきかを考えたい。 従来のドストエフスキー研究では、小説作品に対する多種多様なアプローチがなされてきた一方、『作家の日記』をはじめとする評論作品にはあまり関心が向けられてこなかったように思われる。ロシアの民衆やキリスト教などに関するドストエフスキー自身の見解を『作家の日記』から参照することはあっても、この作品そのものが有する具体的性格や文体的特徴、この作品内で提示された作者の見解の背景などについて、歴史的文脈に照らした綿密な研究が十分なされてきたとは言い難い。本発表ではこうした状況をふまえ、作者自身の意図と無関係に『作家の日記』を引用する行為がいかなる問題を孕んでいるかを指摘しつつ、『作家の日記』自体の専門的研究を行う意義を改めて問い直したい。 第261回例会傍聴記 永田怜絵氏の報告「『ステパンチコヴォ村とその住人』のアフェクト理論（情動論）による分析」を聴いて 熊谷のぶよし 当日の例会は清水真伍氏「小説『白痴』に見るカロカガティアの思想」の発表が、清水氏の体調不良のため中止となり永田氏のみの発表となった。 情動（アフェクト）は言葉によって名指されて感情（エモーション）となる。この時の言葉による情動の抑圧は心理的外傷（トラウマ）となる。押し込められた情動は非言語的なものとなって噴出することがある。この情動の噴出は過去のトラウマを示している場合がある。図式的だがアフェクト理論をこう理解している。 感情は語りによって表現され、語りえないものとしての情動は描写によって表出する。この枠組みよって、永田氏は「弱い心」におけるネヴァ河の幻影の分析（『ドストエーフスキイ広場』３０号の論文「ドストエフスキー作品の情動理論的分析」）で、描写におけるアフェクトの噴出を鮮やかに示した。今回の発表では分析の枠組みは登場人物の間主観性の場へと移される。間主観性は言葉にもとづく感情によってではなく非言語的な情動によって成立しているからだ。 精神分析によれば心理的外傷は自己の語りによって治癒するとされるが、永田氏は、文学的挫折によって「言語/文学によって」心理的外傷を負った人物であるフォマの治癒の契機を、他の登場人物との関係性に見出そうとする。 トラウマからの治癒、情動、言葉にされた感情は、それぞれフォマに対する、ロスタネフ、ファラレイ、ヴィドプリャーソフとの関係性に割り当てられ、アフェクト理論による分析がなされた。 ニュースレター№163 2022 ――――――――4――――――――――――― フォマはロスタネフに「閣下」と呼ばせることに成功する。永田氏は、バトラーの 承認理論とアルチュセールに言及しつつ、次のように結論付ける。フォマは他者から の名指しを拒否し、自らの望むべき存在へとなろうとしている。ロスタネフはフォマの承認願望を叶え、トラウマを癒した、と永田氏は述べる。 牡牛の夢を見るファラレイにはフォマの分身を見る。ファラレイとはフォマが抑圧したロシア性、土着性であり、コントロールすることができないプリミティヴなアフェクトがファラレイの夢として現れる。ファラレイを舞踏に狩り立てる制御できない力はアフェクトそのものである。永田氏は、フォマによるファラレイの連呼とセルゲイによるファラレイの連呼の一致を指摘し、ファラレイとはフォマの歪んだ鏡に映った分身であり、抑圧したロシア、自らの故郷であり、ファラレイの執拗な夢や制御できない踊りであり、ファラレイの美貌こそにアフェクトが表れていると述べる。 非アフェクト的な人物であるヴィドプリャーソフは、改名と綽名付けを繰り返す一連の運動が発狂につながったとする。バフチンの引用で綽名の否定、破壊、殺害の契機を指摘し、綽名はヴィドプリャーソフにとって、世界と無遠慮に接することを要求し、自らの志向、西欧的な詩人へなろうとする野望を阻止しようとするものであるとする。ヴィドプリャーソフはファラレイと違ってフォマのいうことをうのみにする「優秀な」召使だったが、西洋的な詩人になろうとする。彼の罪＝欲望、詩を書くこと、西欧化への憧れは、発狂に値するのかと永田氏は問いかける。また、言語に発するトラウマからの治癒は、言語と身体双方の介入による生身の他者によってしか治癒されない。フォマはそれで治癒されたがヴィドプリャーソフは改名を農奴たちに受け入れてもらえず、精神的破滅に至ったと述べる。 アフェクト理論による刺激的な読解を聞くことが出来てとても勉強になった。 ただ、トラウマからの治癒に関しては一つ疑問が残った。フォマの閣下と呼ばれた いという欲求をそのまま受け入れることはフォマの欲望の充足ではあるが、はたしてそれはトラウマの治癒だろうか。治癒はフォマの他者に対するねじくれた心理的支配の放棄という形でしか現れないのではないだろうか。また、喜劇に対する情動理論の適応ということであれば、笑いについての位置づけが気になるところだ。 アフェクト理論はたぶん論理自体が発展の過程にあるのだろう。ドストエフスキーを論じつつこの理論の今後の発展を見せていただきたいと思いました。 事務局便り 〇今年度の総会・例会もZoom例会開催となります。地方の会員の方にとってはとても便利な企画だと思いますので、気楽にご参加ください。専用アドレスkaidost@yahoo.co.jpか、もしくは下記事務局アドレスに5月25日までに連絡くだされば方法をお知らせします。資料は前もってお送りします。 ご自分の映像を出したくない方は、音声だけでの聴取、意見発表も簡単にできます。入場退出も自由にできます。 〇「広場」31号はすでにお手元の届いていると思います。7月末の予定の例会は、例年通り、合評会となります。コロナ状況が落ち着いたら、いずれ対面例会を再開し、その場合も可能ならばZoom併用を考えています。 事務局用アドレス； tkino@chiba.email.ne.jp |
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Dostoevsky Society 2022.2.25 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介 清水真伍（しみず・しんご） 1995年生。東京大学大学院スラヴ語スラヴ文学研究室修士課程一年。大学の卒業論文は『「エヴゲーニイ・オネーギン」の日本語への翻訳方法の分析―韻律と修辞の問題を中心に―』。大学院では「ドストエフスキーにとっての美とは何か？」を中心問題に据え、現在『白痴』をテーマにした修士論文を執筆中。 永田怜絵（ながた・さとえ） 東京大学人文社会研究科スラヴ語スラヴ文学研究室修士課程所属。 学部からドストエフスキーを研究している。修士論文はアフェクト理論（情動論）を応用して論じた。 ニュースレター№162 2022 ―――――――2――――――――――――― 第261回例会報告要旨 小説『白痴』に見るカロカガティアの思想 清水真伍 「小説の主たる構想は、完全に美しい人間を描くことです」。ドストエフスキーが姪のソフィアへの書簡で書いているように、「美」とは小説『白痴』の中心テーマの一つである。しかし「美」はまた定義することの極めて難しい概念でもある。『カラマーゾフの兄弟』においてドミートリイ・カラマーゾフは「美ってのは恐ろしく悍ましいものなんだ！恐ろしいってのは定義できっこないからで、定義できないってのは、神様がある問題を課したってことなんだ」と言っている。果たしてドストエフスキーの言う「美」とは、どのような「美」なのであろうか？ ソクラテスやプラトンに代表される古代ギリシャ哲学において「美」は「善」の概念と同一視され、その思想はカロカガティア（善美）という言葉で表現された。そしてカロカガティアを達成することが人間の理想と考えられたのである。「美」を「善」との関係において考える傾向はその後の西洋哲学にも継承され、中世の神学者トマス・アクィナスやカントの美学思想の中で論理的に深められていった。 『白痴』における「美」を分析していくと、西洋哲学における「美」の概念とのある共通点が見えてくる。それは『白痴』における「美」、さらに言えばムィシュキン公爵の「美」も「善」の概念と強く結びついており、ムィシュキン公爵のうちにカロカガティア（善美）が実現されているようにも見えるということである。 今回の発表は西洋哲学におけるカロカガティアの概念の発展の過程を通時的に紹介したうえで、『白痴』のテキスト分析を通して、どのような形でムィシュキン公爵に「善美」の実現が見出され得るのか、またその仮説にはどのような問題点があるのかを述べ、『白痴』における「美」の概念の今後の研究に向けて、一つの問題提起をすることを試みるものである。 『ステパンチコヴォ村とのその住人』のアフェクト理論（情動論）による分析 永田怜絵 本発表では、修士論文の一部である『ステパンチコヴォ村とその住人』についてアフェクト理論を用いた分析・研究結果の発表をおこなう。『ステパンチコヴォ村とその住人』は喜劇というジャンルの性質から、文学研究の対象になりにくく、五大長編小説のつなぎとして過小評価されてきたきらいがある。しかし、この作品はドストエフスキーが流刑後、文壇への再デビューを飾る重要な中編であり、独立した作品として分析・評価する必要がある。先行研究では主に暴君フォマ・フォミッチ・オピースキンに焦点を当てて論じられてきた。本研究では、アフェクト理論の特徴である、情動は間主観的なものである点、言語と情動の関連に着目し、フォマの暴虐が言語によって傷つけられたためであり、その言語的／心理的傷を癒すのは家主ロスタネフとの関 係においてであることを、第一章第九節における『閣下』の場面より検証した。さら ―――――――――――3―――――――― ニュースレター№162 2022 にフォマと召使ファラレイとの関係に着目し、ファラレイの繰り返される夢や踊りに過剰性＝アフェクトを指摘し、それを抑え込もうとするフォマはファラレイの美を恋 焦がれている点を明らかにした。三点目は、フォマと従僕ヴィドプリャーソフとの関係において、ヴィドプリャーソフの命名の失敗から、自らを望むべき名前に変えることに成功したフォマとヴィドプリャーソフの差異を検証し、フォマには治療者としてのロスタネフが存在したが、ヴィドプリャーソフの場合、その存在の欠如が精神的破滅へと導いたと論じた。結論として、情動は言語に先立つものとされるが、言語によって傷つけられ、言語によって存在する主体の情動的な治癒は、言語と身体双方の介入が必要になる。つまり生身の他者の存在によってしか治癒され得ない。ドストエフスキーはステパンチコヴォ村という閉鎖された空間において生まれる過剰な情動を暴力や願望として描き、その情動を人間関係において変化させた。 第260回例会傍聴記 伊東一郎氏の「<声>とは何か―バフチンにおける「ポリフォニー」概念の両義性について」を聴いて
冨田臥龍 伊東一郎氏の報告を興味深く聴いた。全体として、バフチンのポリフォニーの概念が音楽学から借用されたものであることは自明のことだが、バフチンが比喩としてこの概念を用いた時、どのような意味変容がもたらされたのか、に焦点をあてて再考する試みであった。 形式主義的なものとして音楽学で定義されるこの概念（クンデラもこの文脈で理解している）だが、しかしバフチンは、このポリフォニー概念を、客観化・客体化できない意識に光を当て、この意識を実体としてではなく関係として把握するためにこの概念を音楽学から導入したと氏は解釈される。 バフチンの対話概念は、作者と主人公が独立したいわば他者同士として対話するというもので、この関係性をポリフォニーと呼んだわけであり、画家がモデルを対象化して描くという、非対称関係ではないという。 この対話という考え方は、小説内の登場人物における個人の内的独白の内部などにも潜む広範囲なもので、これをバフチンは「内的対話」（ミクロ・ダイアローグ）と呼んだという。 バフチンが自身の方法論を「メタ言語学」と呼んだのも、主体―客体関係による分析としての言語学を克服する試みとする狙いがあった為であるという。 二声的な言葉という言葉も同様で、声と音響の関係性もそうだが、作者と登場人物、神と神の被造物たる人間の、非対称性を孕みつつも対称的、対等的な対話的関係性を示唆しているという。 ここまでが報告の要約である。ご報告の後で、氏は私の質問に答えて、音楽史的には、①モノフォニー ②ポリフォニー ③ホモフォニーの順で発展していった事、氏の翻訳なさった、ミハイル・バフチン『小説の言葉』の中では、①言語的多様性（ラ ズレーチエ）と②二つの声を持つ言葉という二つの概念が鍵であるとのご示唆を頂き、 ニュースレター№162 2022 ――――――――4――――――――――――― 大変勉強になった。私としては、バフチン理解にあたって、「対話」という概念の重さに気づかされた印象であった。 「清水孝純氏の『死の家の記録』を読む」を聴いて 太田香子 清水孝純先生による発表は「『死の家の記録』を読む」という表題の通り、『死の家の記録』で述べられているエピソードや人物の紹介を中心としながら、清水先生ご自身の見解を述べられるというものであった。 本作では、ドストエフスキー自身の流刑体験を基に、シベリアでの監獄生活の様子が多彩な囚人たちの人物描写とともに描かれている。清水先生は、本作のテーマも後の五大長編と共通し、「人間の謎、不可解さ」を追求するものであるとされた。また、作品の構造として、語り手である囚人が体験する時間軸に沿って、出来事が一直線に著述される反面、個々の出来事や囚人たちについてのエピソード集としての側面も持ち、二重性を有していると指摘され、作品の構造や、「人間のオンパレード」とも呼ぶべきその内容から、後のドストエフスキー文学の原動力と言えると結論付けられた。 清水先生の語る囚人たちのエピソードと、「本作は現代的な作品である。人間は限界状況に置かれたときに実存が出てくる」との清水先生の見解に促され、久しく遠ざかっていた本作を紐解いてみた。各々の囚人たちの個性の多様さや個々のエピソードの面白さはもちろんのこと、階級の異なる者同士の心理的な距離、金銭と自由の持つ重みなど、言うならば「社会そのもの」が描き出されていることに改めて気づかされた。特に、コロナ禍の現在においては、自由を奪われ、再び自由になる日を待ちながら日々をやり過ごす囚人たちの思いがより痛切に感じられる。 コロナをはじめ、格差や無差別殺人など、社会の抱える問題は年々大きくなっているように思われる。「死の家」での出来事は私たちの生きる現実の問題と無縁ではなく、語り手（ドストエフスキー）の見解は現実を生きるうえでの示唆に満ちている。今回の発表を通して「現代的な作品」としての本作の魅力を知ることができ、大変感謝です。 事務局便り 〇4回目のZoom例会開催となります。アドレスkaidost@yahoo.co.jpに参加の通知を頂ければ、返信でZoomの入室のアドレスをお知らせし、それをクリックしていただければ自動的に会場へ入れます。ご自分の方の画像のOn,Offは自由にできますし、入退出も自由です。資料は前もってお送りします。大変可能性の大きいネット空間です。地方の会員の方にとっては、何よりの便利なツールだと思います。ご質問は事務局なり、上記アドレスへお寄せください。 〇「広場」31号の編集は予定通り進行しており、4月9日の発送を予定しています。論文、エッセイともにかつてなくバラエティに富み、「作家生誕200年特集号」と銘打っています。
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報告者紹介 伊東一郎（いとう・いちろう） 1949年生。早稲田大学名誉教授。ロシア文学、ロシア音楽文化史、スラヴ比較民族学専攻。著書に『ガリツィアの森―ロシア東欧比較文化論集』(水声社、2019)、『マーシャは川を渡れない―文化の中のロシア民謡』(東洋書店、2001)、共編著に『ドストエフスキーとの対話』(水声社、2021)、訳書にミハイル・バフチン『小説の言葉』(平凡社ライブラリー、1996)など。 清水孝純（しみず・たかよし） 夏目漱石とドストエフスキーとのかかわりから出発し、其の後軸足をドストエフスキ―研究に移し、国際ドストエフスキー・シンポジウムにも参加、発表を行ってきた。『罪と罰』研究で第１回池田健太郎賞受賞。現在『悪霊』論を準備中。『カラマーゾフの兄弟』論３巻がある。今後『未成年』論も予定している。 ニュースレター№161 2021 ―――――――2――――――――――――― 第260 回例会報告要旨 〈声〉とは何か―バフチンにおける「ポリフォニー」概念の両義性について
伊東一郎 バフチンの文学理論において「ポリフォニー」は「カーニヴァル」と並んで最も人口に膾炙した術語だが、バフチン自身がその著作の中で明確な概念規定をしていないために、その後の文学批評においてもきわめて恣意的に用いられ、また様々に拡大解釈されている術語である。今回の発表の目的は、バフチンがそのドストエフスキー論で提起した「ポリフォニー」という音楽学から借用した術語(このことはこの術語が「ホモフォニー」と対比的に用いられていることから明らかである)をバフチンがどのような意味と意図を込めてその論で用いたかを検証し、その理論的射程を測ることにある。 音楽学的なポリフォニーの構成要素は客観的に同定できる〈音＝音響〉であり、その限りでは、「ポリフォニー」は形式主義的概念である。しかしバフチンの「ポリフォニー」の構成要素たる「声」は、主体=人格の表現としての「声」なのであり、意識、視点などの多義的な意味論的負荷をになっていることから、バフチンの「ポリフォニー」概念の内実は複雑なものになっている。本報告では、音楽における「ポリフォニー」と「ホモフォニー」の区別を実例を示しながら具体的に明らかにした上で、この術語が形式と現象の二重性を指し示すためにバフチンによって戦略的に用いられていることを明らかにする。 周知のようにバフチンのドストエフスキー論には『ドストエフスキーの創作の諸問題』と題された1929年刊の初版と、『ドストエフスキーの詩学の諸問題』と改題されて1963年に出版された第2版がある。第2版は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(1965)で展開されているカーニヴァル論で初版を大幅に増補したものであるが、バフチンのポリフォニー論は初版において、カーニヴァル論に先行して、それとは独立して成立しているものであるから、本発表では問題を「ポリフォニー」に限定して話を進める予定である。 『死の家の記録』を読む 清水孝純 今回の発表のテーマは「『死の家の記録』を読む」です。この記録はいうまでもなく、ドストエフスキーのオムスク監獄での４年間の体験を基にしたものですが、一般的にいってその自伝的性格から、ドストエフスキーのその後の作品との関係で論じられてきたように思われるのですが、どうでしょうか。それはそれでよいのですが、ただそれではこの記録のもつ美しさ、面白さが減じてしまうようなきがするのでが。たとえば、囚人たちの入浴の場面です。濛々たる蒸気立ち込める中で囚人らの負ったおぞま しい傷痕が生々しい鮮やかさを帯びて浮かび上がる。これは醜悪極まりないものでし ょうが、囚人らの恐るべきエネルギーにささえられて、なにかしら感動的な光彩を放つことになるのです。ユダヤ人イサイフォミッチの話はこれまた全く異なる種類の話 ―――――――――――3―――――――― ニュースレター№161 2021 ですが、ユダヤ民族の特性をよくあらわしたものです。第１部の終わりにくる「芝居」は囚人らによる、ヴォードヴィル劇（軽い喜劇）ですが、ナンセンスに近い劇を囚人らが演ずるというもので、何とも罪のないものです。観客にあたるドストエフスキーは、通常の劇場でも同じものを見たが、囚人たちの演ずるヴォードヴィルの方がよかったとほめているのです。演劇といういわば虚の空間に自己を投げ込み、他者を演ずるということの、教育的効果もそこに潜在しているのではないでしょうか。 第２部になるとトーンはかなり変わるように感じます。というのも語り手が入院することによって、語りは思索的瞑想的になると言っていいでしょう。語り手は第１部の「緑の街」について、その執行者の恐るべき欺瞞をも告発するのです。さらに文中挟まれた、一つの語りの残酷さの中には、のちのドストエフスキーの描く人間の二重性の恐ろしさが引きだされているようにも思うので第２部は後期作品群への原衝動を秘めたものではないでしょうか。 第259回例会傍聴記 熊谷のぶよし氏の報告「イワンにとっての『神の観念の破壊』」 を聴いて 岩浅武久 「神がいなければすべてが許される」というイワン・カラマーゾフの言葉をめぐり、その言葉の真意を探る意欲的な報告だった。同じこの言葉がミウーソフ、ドミートリイ、パイーシイ神父、ラキーチン、スメルジャコフらによって、さまざまに語られ、「すべてが許されるのだから、盗みも、人肉嗜食も、人殺しも、何をやってもかまわない」という意味の言葉として理解されて、その解釈は読者にまで及んでいる。しかし熊谷氏は、イワン固有の文脈で発せられた言葉が、その文脈を離れて語られるとき、イワンの思想とまったく別の意味になってしまうところに注目する。悪魔がイワン自身の思想としてイワンに語る「地質学的変動」を、『悪霊』のキリーロフから考察し、神なき理想世界へとつながる思想が、ここで語られていると考えるのだ。それが「神の観念の破壊」である。しかしイワンの「神なき理想世界」は論理的・現実的基盤を持たないヴィジョンにすぎず、そのヴィジョンを託したはずの言葉にはイワン自身の世俗的欲求が忍び込む余地があり、そこからイワンの堕落が生じたと解釈される。 「神がいなければすべてが許される」と言えば、若き日に私がこの言葉に出会ったとき、これは「るり色の空をつき抜けるほどに高い、イワンの生命となり感情となった激しい倫理感」だと感じ取ったのを思い出す。それは、ミウーソフその他の人々によって語られる「神がいなければすべては許される」に対してイワンが示した反応によっても明らだと思われた。熊谷氏はこの言葉とイワンの関わりを周到に追い、それを「イワンの堕落」と表現された。「神なき理想世界」を指す、イワンの「神がいなければすべては許される」という言葉は確かにヴィジョンでしかない。だがヴィジョンでしかないものを他者に伝えようとしたとき、イワンはこの言葉を用いるほかなかったのだ。言葉はさまざまな意味を含有しており、その言葉を発した人間は、そこに含有される、思いもよらない意味にも責任をもたねばならない。同じ言葉を繰り返すとき、最初のヴィジョンとはまったくかけ離れた醜悪なものもそこに這入りこみ、そ ニュースレター№161 2021 ――――――――4――――――――――――― こから「イワンの堕落」が始まったのではないかと考えられる。それを堕落と呼ぶか、悲劇と呼ぶかは、評者の視点によって違ってくるだろう。唐突なようだが、その「ヴ ィジョン」から、熊谷氏がかつて論及された、ドストエフスキイの若き日の「ネヴァ 河の幻」を思い出す。私はこれに「ネヴァ河の幻視」という訳語を充てたが、それは「ネヴァ河の視界」でもよい。これもまた「ヴィジョン」にほかならないことに気づき、慄然とした。 長縄光男氏の報告「ドストエフスキーにおける『ルーシ』の概念」傍聴記 坂本 博 長縄光男氏の報告を感慨深く聴いた。と言うのも、私が一九七〇年代に一橋大学でロシア思想史を学んでいた頃、ドストエフスキーのような「保守反動」の思想家は、研究対象にならなかったからである。確かに時代が変わったのだ。 氏はドストエフスキーにおける「ルーシ」や「ゼムストヴォ」という用語を綿密に分析する。そこで使われるのは、氏がゲルツェン研究でも駆使したテキスト分析の手法である。これに基づいて、氏はドストエフスキーが理想とする社会とは何かを再構成しようとする。この理想社会ではインテリゲンチャと民衆が一体化している。民衆は本来、信仰と共同性を持っている。インテリゲンチャは西欧から「文明」を持ち帰るが、理想社会はもうそれを学び終えた。これは勿論、ドストエフスキーの頭の中にある理想社会であり、ユートピアである。民衆は自立的で教化する必要もないし、専制権力と闘う必要もない。なすべきことはただこの理想社会の理念を言論で広めることである。ここに浮かび上がるドストエフスキー像は、夢見る穏健な保守主義者である。 だが、このドストエフスキー像は従来の研究者たちの描き出したドストエフスキー、例えばロシア革命の預言者としてのドストエフスキー（ベルジャーエフ）や、全体主義の出現を見抜いたとするドストエフスキー（勝田吉太郎）に似ていない。氏はテキスト分析の手法によって、従来の研究に囚われない新たなドストエフスキー像を再構築することを考えておられるのではないか。ソ連が崩壊し、ファシズムが後退した現代、ドストエフスキーをアクチュアルな問題と強引に結びつける必要はないであろう。それこそ時代が変わったのである。氏の今後の研究から、どのようなドストエフスキー像が生まれるか、我々は心から期待したい。 事務局便り 〇Zoomでの例会開催は今回で3回目となります。だいぶ慣れてきましたが、新たに参加をご希望の方でZoomの使用方法について不安のある方にはリハーサルを行います。kaidost@yahoo.co.jpにおたずねください。その他のご意見等は下記アドレスにお寄せください。 〇「広場」31号原稿の締め切りは年内、最終期限1月20日ですが、到着次第、編集に着手しています。予定通り、4月中旬には刊行、会員の皆さんのお手元に届けられるでしょう。 |
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報告者紹介 熊谷のぶよし くまがい・のぶよし 発表論文は以下の通り。「ドミートリイ・カラマーゾフの二重性」「『永遠の夫』を読む」「戦士アリョーシャの誕生」「イワンの論理と感情」「「ネヴァ河の幻」出現の経緯」「ラスコーリニコフの深き欲望」「アリョーシャに心はあるか」 長縄光男 ながなわ・みつお １９４１年東京で生まれる。一橋大学卒。横浜国立大学名誉教授。ロシア社会思想史と日露文化交流史を研究。社会思想史関係の主な仕事①翻訳：ゲルツェン『過去と思索』（全三巻、筑摩書房、１９９９年）（金子幸彦と共訳）、ドミトリー・リハチョフ『文化のエコロジー』（群像社、１９８８年）、ゲルツェン『向こう岸から』（平凡社、２０１３年）など、②著書：『評伝ゲルツェン』（成文社、２０１１年）、『ゲルツェンと１８４８年革命の人びと』（平凡社、２０１５年）など。 ニュースレター№160 2021 ―――――――2――――――――――――― 第259回例会報告要旨 イワンにとっての「神の観念の破壊」 熊谷のぶよし 神がなければ「すべては許される」は、悪魔によって述べられた「地質学的変動」において、もっともイワンの主旨にそった姿で現れる。ここで、イワンはまず、人肉嗜食（カンニバリズム）を回避するものとしての「神の観念の破壊」を挙げ、神と不死を信じない者たちの愛に満ちた社会を思い描く。 しかし、この地質学的変動によってのみ到来すべき世界は当面出現しそうにない。この到来をあきらめ、ただ神の不在のみが残った時に「すべてが許される」が行動規範として浮き上がり、「新しい人間」は「人神になることが許される」。ここまでがイワンの人神思想のあらましだが、この思想は難しい。一方、ミウーソフの語るイワンの思想は、「地質学的変動」とは真逆の考えだ。イワンが言ったとされることは、不死がなければ、愛は成立せず、カンニバリズムさえ許される。神も不死も信じない人間にとって、悪行はむしろ推奨される、ということだ。 イワンの、神がなければ「すべては許される」は、ミウーソフ経由のイワンの語った内容と結びつき流布されている。こちらはわかりやすい。ラキーチンにもスメルジャコフも分かるし、スメルジャコフはこの言葉にのせられて、フョードル殺しまで行ってしまう。しかし、イワンの思想の本意は「地質学的変動」の側にある。そして、おそらく「すべては許される」とき悪をなさない、というところにイワンの思想のすべてがかかっていた。 イワンの思想の中心にある「神の観念の破壊」は難解だが、限られた生であるからこそお互い愛し合えるというヴィジョンは、宗教に頼らない日本人には身近な理想かも知れない。このことを『未成年』のヴェルシーロフ、『悪霊』のキリーロフを参照しつつ考えてみたい。 ドストエフスキーにおける「ルーシ」の概念 長縄光男 １８６１年の大改革前後のドストエフスキーの評論を読むと「ルーシ」という語が頻出する。これを邦訳に当たってみると、ほとんどが「ロシア」と訳されている。しかし、原文をよく読めば、「ルーシ」という言葉には「ロシア（ロッシーア）という語には収まりきらない意味が含まれていることが分かる。その一つの事例として『カラマーゾフ兄弟』におけるゾシマ長老の言葉と『作家の日記』の中の文章をと引用しておこう。 「ルーシの救いは民衆にかかっている(От народа спасение Руси)。そして、ルーシの僧院(русская монастырь)は昔から民衆と共にあった。もしも民衆が孤独の中にあれば、われわれもまた孤独の中に閉じこもる。民衆は我々と同じように神を信じている。神を信じない事業家はたとえ彼がいかに純粋な真心と天才的な頭脳の持ち主であっても、わがロシア（Россия）においては何事もなしえないであろう。やがて民衆は無神論者を迎え討ち、これを征服し、統一された正教のルーシ(православая Русь)が出現するに違いない。」（ⅩⅣ₋285） 「我々ロシア人には二つの故郷がある。すなわち、わがルーシとヨーロッパである」〔ⅩⅩⅢ－30、『作家の日記』1876年6月第1章第1節「ジョルジュ・サンドの死」より〕。 ―――――――――――3―――――――― ニュースレター№160 2021 これらの文章中の「ルーシ」を「ロシア」と訳してはドストエフスキーの主張の大半が失われてしまうことが分かるだろう。 本報告ではドストエフスキーがいかなる文脈の中で「ルーシ」という語を使っているかを精査することにより、ドストエフスキーの思想の一面を明らかにしたいと思っている。併せて、「ルースキー・ナロード」という語の持つ意味の変化についても、訳語の問題として考えてみたいと思う。 第258回例会傍聴記 「ドストエフスキーにおける「謙虚」（スミレーニエ）の意味について」を聴いて 齋須直人 木下豊房氏の報告「ドストエフスキーにおける「謙虚」（スミレーニエ）の意味について」は、2018年にブルガリアのソフィアで行われた国際ドストエフスキー協会のシンポジウムで、アレクサンドル・コチェトコフ氏の代読により行なわれたロシア語発表と一部重なる（私もその発表の場に居合わせたことを懐かしく思い出す）。日本語では今回が初の発表であった。内容的にも、ロシアでは読み切れない量の文献が既に存在するテーマであるのに対し、こうした内容に馴染みが薄い日本人に向けては、日本語で紹介すると生産的であると思われるものが多く含まれている。内容については後に論文化されるものを見て頂きたい。 今回の発表の最大の意義は、ドストエフスキーを読み解くために不可欠でありながらさほど日本で紹介されているわけではない「謙虚」概念を、典型的な誤解（私にとっても既視感のあるものであった）を指摘しながら論じたことにあると感じた。これによって聴き手の関心を促すことができたと思う。 ドストエフスキー研究という意味では、『カラマーゾフの兄弟』における記述と正教思想の重要な文献との間にパラレルなものを見い出す以上のことが可能である。作品と創作ノート、典拠となった文献で使用される一つ一つの言葉にこだわりながら、作家が個々の聖師父たちの著作をいかに創作に活かしたのかについて精緻に読み解く必要がある。こうしたキリスト教思想は単に作家の作品の底流にあるという次元に留まらず、実際にドストエフスキーは複数の宗教家の思想を創作ノートに様々なメモを書き記しながら作品を創作したからである。例えば、今回の発表で、「大地を濡らす涙」との関係で重視していたシリアのイサークの著作における涙についての記述だが、他にも、ドストエフスキーは「涙の恵み」についての記述を修道僧パルフェーニーの著作から『悪霊』の創作ノートに記している。パルフェーニーは『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ像の創造にとっても重要なものだが、こうした複数のテクストをいかに用いたのかを探ることが、ドストエフスキーの独自性を知ることにつながる。 ドストエフスキーに対する通俗的な理解において、作家本人がマゾヒストであるかのように捉えられることがあるという現象がある。これに対しての批判が含意されていたこともこの発表の重要な要素の一つであった。こうした現象はロシアにおいてもSNS等で散見されるものである。注意しなければならないのは、発表で示されたゾシマの説教＝ドストエフスキーの見解ということには必ずしもならないことである。作品世界の中では、マゾヒズムと捉える読者がいるような要素も、本物の「謙虚」と理解できるような要素も混在しており、それら個々の要素が直接的に作家本人や作品全体の属性というわけではない。通俗的読解に対して批判する場合は、こうした事柄に ニュースレター№160 2021 ――――――――4――――――――――――― ついて整理をすることでより説得力が増すだろう。 近藤靖宏「幻覚も幽霊もない『二重人格』」に寄せて 長瀬隆 第二作の表題ДВОЙНИК（ドヴォイニーク）はピーナッツの実のような二重体を意味しまた分離したそれぞれ片方をも指す。二重人格と訳されてきて、戦後米川正夫が分身と変えたのである。これは仏典に由来し、釈迦本尊のガンジスの砂のような無数の同質な微粒子を意味する。しかしドストエフスキーのДВОЙНИК（ドヴォイニーク）はたがいに相反する精神を抱え込んだ単体であり、それらが分離抗争するのだから適切ではないと考えた小沼文彦はこれを二重人格に戻した。 ゴーゴリの『狂人日記』を革新的に継承し『貧しき人々』で大成功した若きドストエフスキーは、第二作では『鼻』に挑み、ゴーゴリをも超えた天才に成ったと信じ舞い上がった。しかしあまりの不評に意気消沈し自省する。いずれも兄あての手紙に残っている。以後彼は絶えてДВОЙНИК（ドヴォイニーク）の語は使用しなかった。しかしこの語を意識しないで書いた作品は一篇もない。ようやく後年の『未成年』で、すなわちヴェルシーロフが意思に反して聖像を叩き割る場面で、それが彼の内部のДВОЙНИК（ドヴォイニーク）の仕業として、この語が16回にわたり集中的に記され、語り手によって医学書にある「精神的変調第一段階」と説明される。そして直後の『作家の日記』の評論「動詞ストシェヴァーツァの歴史」において第二作が回顧され、「３章まではよく書けている」が後は悪く、改作を目指したが上手く行かず放棄したと告白される。 それでは第二作はどのように書かれるべきだったのか。それを私たちは『カラマーゾフの兄弟』のイワンの描出に見ることとなる。それは顔形もそっくりな人物としてではなく、「ありふれた高等遊民的なロシア的ジェントルマン」であり、その者に対しイワンはもはやДВОЙНИК（ドヴォイニーク）とは呼ばず、「おれの幻覚、おれの半面、おれの醜悪で愚劣なものの化身」と呼ぶ。つまりより正確に言い換えられているのである。しかしこの「半面」はより多く語り手「私」の分身である。なにしろ「ゾシマ長老のことであの子（アリョーシャ）に悪いことをした」と言い、またイワン作とされる『大審問官』を茶化しているからである。 近藤靖宏氏の報告は第２のゴリャートキンが本体の幻影ではなく実存として描かれてということの証明であり、それは成されている。しかしそのことは意図と結果とが相反していることを意味する。混乱した作品から原文に当たってまで意味をくみ取ろうとする氏の努力は多大であり涙ぐましくも貴重であり私は感動した。泉下のドストエフスキーも感謝していることだろう。同時に申し訳なくも思っているはずである。 事務局便り 今回もZoomでの例会開催となりました。参加をご希望の方でZoomの使用用法について不安のある方にはリハーサルを行います。 kaidost@yahoo.co.jpにおたずねください。 その他のご意見等は下記アドレスにお寄せください。 |
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報告者紹介 木下豊房 1969年、会発起人の一人、「発足の言葉」を起草。2002年まで千葉大学で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2000年、国際ドストエフスキー研究集会（千葉大学）を主宰。著書に『近代日本文学とドストエフスキー』（1993、成文社）『ドストエフスキー・その対話的世界』（2002．成文社）、『ドストエフスキーの作家像』（2016、鳥影社） 近藤靖宏 40代団体職員。2004年ドストエーフスキイの会に入会、2007年より当会の会計を務める。『未成年』に関する例会発表を行ったことあり、今回が二度目の報告 ニュースレター№159 2021 ―――――――2――――――――――――― 第258回例会報告要旨 ドストエフスキーにおける「謙虚」（スミレーニエ）の意味ついて 木下豊房 「謙虚」、「謙遜」、「謙抑」、「自己卑下」などと翻訳可能な「スミレーニエ」(«смирение»)の意味を、ドストエフスキーの場合に単純に解釈するわけにはいかない。「謙虚はこの世で最も恐ろしい力である」（『白痴』の創作ノート）、「ロシアは謙虚さによって偉大である」（『カラマーゾフの兄弟』）という場合の意味は通俗的な解釈の域を超えて、謎めいてさえいる。 1995年にアメリカのロシア文化論研究者・ダニエル・ランクール‐ラファリエルの『ロシアの奴隷魂―精神的マゾヒズムと苦悩崇拝』（«The Slave Soul of Russia: Moral
Masochism and the Cult of
Suffering»）という刺激的な書名の本が出て、ロシアでも話題になった。 2005年には正教思想の人間学の研究者マルガリータ・レズニクが「謙虚・従順・マゾヒズム」（«Смирение,
послушание, мазохизм»）という論文で、「謙虚」（「スミレーニエ」）という正教の概念にマゾヒズムの根源を見るこのアメリカの研究者を批判し、著者が「謙虚はこの世で最も恐ろしい力である」というドストエフスキーの逆説的な言葉にとまどっていて、「禁欲者の傲慢」という、精神分析の陳腐な解釈に逃げていると指摘している。 2017年には「ヤンデクス・キユ」(«Яндекс Кью»)というネットの討論サイトで「ロシア人のマゾヒズムと自己破壊の渇望、強力な指導力要請の原因はどこにあるか？」というテーマでの活発な議論がおこなわれていて、マゾヒズム性が現代ロシア人の自己認識においても、重要なトピックであることが分かる。ここでも決まって正教モラルの「謙虚」、ドストエフスキーの人物達が話題にされている。作家の思想の正当な理解のためにも、この概念の本質を掘り下げてみる必要があるだろう。私は「広場」27号でゾシマ長老像を論じたエッセイ「『カラマーゾフの兄弟』におけるヨブ記の主題とゾシマ長老像、及びその思想の源流」で、この問題の一端にすでに触れている。今回の報告はその延長ということになろう。 幻覚も幽霊もない『二重人格』―あいつらはみんなグルになっているんだ 近藤靖宏 『二重人格』の新ゴリャートキンは幻覚ではなくて、本当にいたのではないか。今回の報告ではこの仮説を検証します。 そう考えるのは、新ゴリャートキンはゴリャートキン以外の人物にも見えてるのではないかと思われるシーンがあるからです。例えば、ピロシキを1つだけ頼んだはずが、店員から11個分の支払いを求められるシーン。新ゴリャートキンが先に10個頼んで勘定をせずに逃げたとしか考えられません。他にも多数あります。 ゴリャートキンは自分以外の人物がみんなでグルになって自分を貶めようとしていると確信しています。これは単なる被害妄想ではなくて、正しい観察です。そこまで気がついていながら、彼は自分が騙されていることを見抜けなかったのが残念なところです。つまりこの物語は誰かがゴリャートキンそっくりの人物を連れてきてドッキリを仕掛けたのではないか、と読むことができる訳です。以上が私の仮説の概要です。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№159 2021 ドストエフスキーの作品はリアリズム文学であるとされていますから、例えば生霊のようなオカルト的解釈は避けるべきです。また、全てはゴリャートキンの夢だったというような発想も可能ですが、これはまるで水槽の脳仮説のようにこの世界の存在そのものを疑っていることになり、あまりにも穿ちすぎている感があります。 むしろ私はドストエフスキー作品の喜劇としての面に注目したい、この作家なら日本のバラエティ番組を先取りするぐらいの先見性はあって当然だと思います。一見荒唐無稽ではありますが、それでもあえて真剣に検証します。 第257回例会傍聴記 「ドストエーフスキイ広場」（２０２１）の合評会報告 清水新伍 第257回例会である『ドストエーフスキイ広場』第30号の合評会は2020年より続く新型コロナウイルスパンデミックの中、感染対策としてオンラインでの開催となりましたが、多くの方にご出席いただき活発な議論が交わされました。以下、合評会で議論された7本の論文に対して事前に寄せられた感想および当日交わされた意見のまとめです。 〇町田論文：『カラマーゾフの兄弟』における旧約聖書ヨブ記の影響-イワンの「悪魔」の役割に着目して 町田氏の論文は、読後感の印象として重なるものを感じさせられた。それは、本論文が「聖書」起源の言葉をめぐる論題で、『カラマーゾフの兄弟』のイワンという中心人物に係る主題を丁寧に読み解くものであったからだろう。一見地味な主題構成ながら、これこそドストエフスキー文学の王道的な読み解きとして安定感を覚えた。キリスト教や聖書に不慣れな日本人と言われながら、ここまでの読み込みを可能にしたことに、ドストエフスキー文学の日本的影響の堆積の年月を思った。一般読者である太田氏の論文も「聖書」起源の言葉をめぐる論題であったが、町田氏が研究者、太田氏が一般読者である中でその差異を余り感じなかった。「ドストエーフスキイの会」ならではの両論文であると思い、「会」の＜未来＞を感じた。（福井勝也評） 当日は木下氏から研究者の先輩として町田氏の論文に対し賛辞が送られ、若手研究者にとっては大変な励ましになったと思われます。 〇永田論文：ドストエフスキー作品の情動理論的分析 コルニールロヴァ事件に関する作家の擁護に、「当時の女性の身体に関するファ 当日は永田氏の論文に対しても木下氏から賛辞が送られ、若手会員二人が激励される様子は福井氏の言うように会の「会の＜未来＞」を感じさせるものでした。 〇大木論文：イワンの「憂愁」について―意識の「クオリア」と「対象X」― 大木氏は、イワンの憂愁が語られる作家の言葉にあって、「それはイワンにもそう感じられた」という一節に眼をつけた。ここを「作中の外に現した作家の意識の視線と、これを作中で受け止めるイワンの「意識」の記述は、意識の二重性（異和）の表記として、カントその人より論理的である」と説明している。あるいは、「作家は、積年の「自意識の地獄」を相対化したと云っていい。」とも語っている。さらに今回、大木氏は脳科学の茂木健一郎の論文から、「意識の二重性は、 ニュースレター№159 2021 ――――――――4――――――――――――― 「創発」する意識の強いられた様相であり、その異和は、ドストエフスキーの表現、そしてカントの思索の「根拠」である」とまとめている。 私は、ドストエフスキーの文学表現をカント哲学（あるいは脳科学）で語ることは、ある程度のところまでは可能と考える。しかし結局不可知論の限界が訪れる。そこから、ベルクソンは『物質と記憶』でその独自の直感（ヴィジョン）の形而上学を切り開いた。こちらに、当方は近しいものを感じる。（福井勝也評） 〇木寺論文：『未成年』と当時の資本主義経済 当時の経済と経済に対する人々の受け止め方について、情報量が豊富。アルカージイの理想を一段目を金銭の問題とロスチャイルドへの憧れ、二段目を精神的で宗教的なものとするまとめは、説得力があり、この難解な小説の手掛かりとなる観点だと思う。また、金融を情報戦としてとらえる視点も、この小説の特色である、情報の錯綜を俯瞰的に捉える視点を提供していて、興味深い。（熊谷のぶよし評） 〇太田論文：『カラマーゾフの兄弟』における『一粒の麦』の意味について 一本の麦の意味するところについて、宗教的な解釈をしていないところの是非を問われるかも知れないが、逆に言えば、それは、解釈を宗教に逃げていないとも言える。 ＜二 コーリャ＞、＜三 アリョーシャの演説＞、＜四 アリョーシャの罪＞（ｐ９２～９６）の展開では、ストーリーから一歩離れた主人公の視点に立った洞察ができていて、説得力がある。 作家によって記述されていないコーリャとアリョーシャの心についての洞察だが、コーリャとアリョーシャが小説で体験したであろう、認識や感情の積み重ねが、その時の二人の心になっている、としてとらえたときだけ読み取れる、読解となっている。 〇松原論文：『死の家の記録』―自律的な罰への沈潜 「たとえば、教養があり、高度の良心と、自覚と、人間の心をもっている者もいる。こういう男の場合は、自らの心の悩みが、どんな刑罰よりも先に、自らの苦しみで当人を消耗させてしまう。彼は自分の罪に対して、最も厳格な法律よりも、容赦なく、無慈悲に、自ら自分を裁くのである。」これは、『死の家の記録』の書き手自身のことを言っているのではないかと思われる。だとすると、内罰を議論するに際し、本作品を記録としてのみとらえて、書き手に言及しないのは、不十分であるように思われた。（熊谷のぶよし評） 〇冨田論文：バフチンのドストエフスキー論に対する柄谷氏の見解について 当日は冨田氏のバフチン批判が論点となった。バフチン批判は大変勇気のいることであり、それに挑戦する姿勢は評価されたが、一方で批判を行う前に冨田氏自身が何かしらの作品論を書くべきとの意見が木下氏から出た。これはドストエーフスキイの会ならではの激励の言葉なのではないかと思われる。冨田氏はロシア語・ロシア文学の専門家ではないが、その中でも堂々とドストエフスキー作品を論じ、発表する機会が与えられる稀有な場である本会を活かし、是非次回以降の会においては氏自身の作品論が発表されることが期待される。 事務局便り 終息のきざしが見えない新型コロナウイルスパンデミックですが、次回の例会もZoomによるオンラインとなりました。Zoomの利用等についてご不明な点がありましたら、kaidost@yahoo.co.jpにおたずねください。前回同様、リハーサルも行なえます。 その他のご意見等は下記アドレスにお寄せください。 |
ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.15８ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2021.6.30 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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ニュースレター№158 2021 ―――――――2――――――――――――― 〇 合評会の参加方法について Zoomによる合評会の参加につきましては、下記締め切りまでに 「連絡用アドレス」に申込のメールを送信してください。 返信メールにZoomログイン用URLをお示ししそこからZoomに入っていただくことになります。返信メールは７月１６日（金）予定です。 ＜連絡用アドレス＞ ＜合評会参加メールに記載していただく内容＞ ・氏名 ・住所（最近変更した場合） ・感想や質問がある方は、論文筆者名を記入した上で内容をお書きください。匿名でもけっこうです。 いただきました。感想・質問に関しましては、７月１６日（金）送信のメールにて共有させていただきます。 ・Zoomの使用法に不慣れな方はその旨お書きください。日時を定めてリハーサル等で対応することも考慮いたします。 ・その他、お気づきの点があればご記入ください。 ＜申込締切日時＞ ・７月１４日（水）１７時 途中退出、途中参加も自由です。また、顔出し無し、発言せずに聴講もできます。 これまで例会は、首都圏の会員の参加によって開催されてきました。Zoomの利用により今までお互いに知り合えなかった会員の情報交換の場にもできればと思います。 頂いたメールアドレスの管理には十分注意し、会活動のお知らせ等必要な目的以外に使用することはありません。オンラインの例会は初めての試みであり、事務局も技術的なプロではありませんので、通信への負荷その他、事前に予想できない事情で中断その他、トラブルが生じる可能性があることをお含みおき頂ければ幸いです。 会員の皆様の参加をお待ちしています。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№158 2021 令和１年度 収支計算書 （令和1年5月6日〜令和2年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
令和2年度 収支計算書 （令和2年5月6日〜令和3年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
ニュースレター№158 2021 ――――――― 4 ――――――――――――― 〇 第18回国際ドストエフスキー協会（IDS）シンポジウム 開催日時；2022年3月4日～3月8日 開催場所；名古屋外国語大学 ＊ 「ドストエーフスキイの会」（JDS）も共催団体の一つとなっています。 詳細は、下記「日本ドストエフスキー協会」（DSJ）ホームページの開催要項(英語)をご確認ください。 事務局便り ◎６月１５日に運営委員会をZoom会議にて開催し、令和１，２年度の決算案を承認しました。本来、総会にて決定すべきところですが、対面総会は不可能ですので、会員の皆様がご一覧の上、異議がなければ最終承認されたものとさせていただきます。（会計：近藤） ◎ 会費につきましては、対面式例会の開催ができないこと等をふまえて、今年度に限り3,000円といたします。この特例は令和4年3月31日までにお支払いただいた年会費1年分に限り適用されます。 ◎今後の例会開催の方針としては、新型コロナウイルス禍の終息しだい、従来の対面型の例会発表を再開するとともに、合わせてZoomを活用した会員向けの配信を進めていく予定でいます。みなさまの積極的な参加をお待ちしています。 ◎広場３０号掲載の翻訳論文「ドストエフスキーにおける「粗雑な語法」 その他二編」及び「リハチョフとバフチン―リハチョフのドストエフスキー論に寄せて―」の質疑については、９月の例会（Zoom予定）での木下豊房の発表と合わせて実施する予定でいます。 ご意見等は下記アドレスにお寄せください。 |
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.157 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2020.2.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介 ： 国松夏紀（くにまつ なつき）氏 1947年久留米生まれ。早大露文・大学院、助手を経て桃山学院大学（名誉教授）。 ［特別講演要旨］ドストエフスキー『悪霊』から削除された／入らなかった１章 “У Тихона”(「スタヴローギンの告白」)を巡って（日本ロシア文学会関西支部会報2018／2019 №2）。「昭和九年のドストエフスキー」に寄せて（ロシア・ソヴェート文学研究会「むうざ」第32号2020年）。 ニュースレター№157 2020―――――――――2――――――――――――――――――― 第256回例会報告要旨 『カラマーゾフの兄弟』における「寛容」を巡って ―― В. А. トゥニマーノフ氏追悼に寄せて ― 国松夏紀 今回の報告は、主要3項目によって構成される。当初各項目は例会1回分として発想されながら、時間の経過とともに先行項目とせめぎ合って、ようやくその位置を確保した。 １ そもそもの発端は、一昨年（2018）日本ロシア文学会（於：名古屋外国語大学）での学会大賞、ゴンチャローフを含めた日ロ交渉史研究の成果により沢田和彦氏（埼玉大名誉教授）が受賞しその記念講演で配布された資料に、В. А. トゥニマーノフ氏の名前を見出したことであった。しかもそれは追悼文集、600頁を超える大冊であった。2006年5月、70歳を目前に急逝されて以来、気になっていた。この会とも縁は浅からず、「国際ドストエフスキー研究集会・2000」には来日、講演等の記録は「広場」10号に掲載されている。小生はそれ以前ひょんなことからトゥニマーノフ氏に知遇を得ていた。1996年夏のことである。この稀有な接遇に対して2000年の来日時には充分な返礼も叶わず、内心忸怩たる思い。遅ればせながらその業績の一端に触れて追悼の意を表したいと考えた。 ところが、ペテルブルクのロシア文学研究所（プーシキンの家）の研究員として、ドストエフスキーやゴンチャローフ等の全集編纂に当たり著作は200を超えるトゥニマーノフ氏のこと、身近に各種著作があり、早々と全面的報告などは無理と諦めた。が、折角の機会、追悼文集から木下豊房先生の文章、望月哲男氏の翻訳書『死の家の記録』の解説、そして拙論に言及しているトゥニマーノフ氏の論文などを紹介して追悼としたい。 【追悼文集の書誌データ】Sub specie tolerantiae. Памяти В. А. Туниманова / Ин-т рус.лит.(Пушкинский Дом) РАН.--- СПб. : Наука, 2008. ---
613с. 冒頭のラテン語が難しい。「寛容の姿のもとに」、或いは弔辞にある「寛容は彼の専門家としての信条であり、研究者・注釈者としての彼固有の位置を規定する賢明な人間の原則である。寛容については高度に全知の人間性についてと同様にくり返し語り書き、好きな作家たちの評価にも寛容 толерантность という言葉が使われているのだが、いま一つ判らない。 ２ 創作方法に係わる項目、前後項目に挟まれて後退、しかしなお、永年の持論Ⅰだけでも自己主張しておきたい。 Ⅰ．アキレスと亀の子（俊足のアキレスは鈍足の亀に追いつけない）、飛矢静止（飛んでいる矢は的に到達できない）等のゼノンのパラドックスは、実は帰謬法（もしくは背理法）の一部分であり、その論理構造は、間違った前提から出発し、不合理な結果によって前提の誤謬を証明する。この古代ギリシアのソフィストの方法とドストエフスキーの創作方法を対比しようとするもので、『カラマーゾフの兄弟』などは例として判然とする。 「神がいなければ、すべては許されてある」。イワンに指嗾されたスメルジャコフはこれを信じてフョードルを殺害したが、何も許されていなかった。イワンは発狂、自身は自殺。 この結果は、前提（神の不在）の間違いを証明する。2000年の国際研究集会では英語で報告、聴衆１名、司会はリチャード・ピース氏。 Ⅱ．トマス・アクィナス『神学大全』：数年前の夏休み、読解に熱中。弁神論の古典に挑戦。 ――――――――――――――――――3――――――――――――ニュースレター№157 2020 Ⅲ．ドイツの研究者ホルスト‐ユルンゲン・ゲーリック氏の著書
Литературное мастерство Достоевского в развитии.2016 の目次に、「モーゼ五書」ПЯТИКНИЖИЕ とあって五大長篇が並んでいるのは気にかかるところ。 （補）ニーチェ『ツァラトゥストラ』vs. 聖書。 ３ この項目が最近の刺戟によって覚醒したところである。杉里直人氏訳[詳注版]カラマーゾフの兄弟（2020、水声社）を通読する機会に恵まれ、一語一語を丁寧に読解する初心に帰り、新鮮な気持ちで読み返す中で、目に留まった言葉、великодушие を「寛容」ととらえ検討してみたい。 第255回例会傍聴記 杉里直人氏「『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して」を聴く
高柳聡子 ついに刊行となる『詳注版 カラマーゾフの兄弟』（水声社）の訳者、杉里直人氏による発表では六年間にわたる翻訳作業が紹介された。本書はドストエフスキーの代表作『カラマーゾフの兄弟』の邦訳としては十六番目のものとなる。十六もの翻訳が存在することがそもそもこの作品の複雑さと意義深さを証明しているが、杉里訳はその中でも他に類を見ない一冊となることは間違いなかろう。発表では、本書が極めて正確な「翻訳」であるだけでなく、研究書としても評価されるべきものだということがわかった。お話しはドストエフスキーの一読者として、また研究者として、そして翻訳者として身の引き締まる思いがするものだった。杉里氏は苦労話を終始「楽しい作業」と表現されていたが、やはり気の遠くなるようなお仕事だったと思われる。 まず驚いたことは、翻訳にあたって、これまでの全邦訳に加え、三種類の英訳、さらに仏訳と独訳も参照されていることだ。既存の邦訳にはある種の傾向をもつ誤訳もあるのだが、新訳としてクリアしなければならないそうしたハードルが冷静に見極められている。本発表では特に符号、辞書、注釈の三点を挙げて説明された。 符号の話では、コロンをいかに訳すかということ、疑問符の有無をどう解釈するかという問題が語られ、実例として挙げられたドミートリーの言葉では、「。」にするか「、」にするかというだけで決定的な意味上の違いが生じることが明らかだった。 非常に参考になったのは辞書の話だ。杉里氏は編纂者の解釈がすでに入っている露和辞典には基本的に依存しなかったそうだ。露露辞典は新旧アカデミー辞典とダーリの 辞書を不可欠なものとして挙げた。ドストエフスキーの時代と現在では語の意味にズ レが生じているものもあり、ダーリの辞書を見なければ正しく理解できない語もある、それでも解決できなければウシャコフやドストエフスキー語彙辞典、百科事典なども使用したそうだ。 そして、本書の最大の特徴であり功績といえる注釈には、ロシアでの最新のドストエフスキー研究が反映されているという。基盤となるのはヴェトロフスカヤの注釈だ。彼女の注釈を知っているか否かで、ドストエフスキー解釈の深みが変わってくるとしながらも、それでも尚ヴェトロフスカヤにも不備があるという。その彼女の注釈に欠けた部分を補ったのが本訳書となる。さらには、バフチンの訳者だからこそ可能な注釈も見受けられるし、 ニュースレター№157 2020 ――――――――――4――――――――――――――――― 杉里氏による新たな発見もある。個人的にはフョードルの道徳律をめぐるセリフがキケロの警句に淵源をもつものだという発見が印象深いのだが、埋もれたままで未発見の引用がまだあるのではないかという言葉は愛読者にとって刺激的なものとなったはずだ。 その他にも、宗教や風俗・政治など、ロシア人にとっては当たり前のことだが外国人にはわかりにくい語、とりわけ教育機関や司法関係の語への緻密に検討された注釈が登場することは非常にありがたい。 杉里氏は読者への配慮としての「読みやすさへの工夫はしない」と述べた。ドストエフスキーのテクストは改行なく数ページも続き、それが読みにくさの一因でもあるが、改行は作家の世界観であり、訳者の判断で勝手に切ってよいものだろうかと疑問を呈す。また、新しい言葉はすぐに古くなるため、聖書の言葉などにはあえて古語を用いたりしたという。しかしまだ未解決の問題もありドストエフスキーの底知れなさを感じると言われていたが、それでも本書が世界の翻訳史において訳者が目指すべきひとつの到達点となることは確実だろう。翻訳という行為、原書と訳書、作者と訳者との関係がポリフォニックなものであることを教えられる発表であった。 事務局便り 〇この所、二つの特筆すべき出来事があった。一つは杉里直人氏による詳注版『カラマーゾフの兄弟』の刊行であり、もう一つはモスクワのドストエフスキー博物館館長パーベル・フォーキン氏の亀山プロジェクトによる来日、講演である。ドストエフスキーに関する限り、この10年余、メディアを独占してきた亀山バージョンを粉砕する本格的なテクスト解釈（訳＋詳注）がここに登場した。 訳文1097頁、別冊注釈書255頁の大冊であり、安手な文庫本やタレント本が出版市場を席巻する現況、この重厚な企画を実現した水声社の果断さにまず拍手を送るべきだろう。それだけに、一般読者の懐では容易に賄い切れぬ18000円＋税という定価も致し方ないとすれば、会員の皆さんに私は、最寄りの公共図書館へリクエストを出して、まず手に取ってみることをおすすめする。昨年末にＮＨＫ２ｃｈの再放送（？）で見せられた、「エディプスコンプレクス、父親殺し―皇帝殺し＜カラマーゾフ―カラコーゾフ（アレクサンドル２世暗殺未遂のテロリスト）へのオマージュ」といった、研究史上ではアナクロの亀山バージョン（1930～40年代に流通）に対して、ロシアの研究者達の過去20年間の成果である父親ミハイルの人間像への新たな照明を踏まえた杉里解説の頁だけでも、一読に値する。 もう一つの出来事は、亀山氏の招聘によるモスクワ・ドストエフスキー博物館館長パーベル・フォーキン氏の来日講演である。彼は私の最近著の表紙の原画を提供してくれた友人でもある。彼の講演は「ドストエフスキーの“信仰のシンボル”に照らしての『カラマーゾフの兄弟』」であった。小説の出来事をアリョーシャの信仰の試練として読み、近年、ロシアの研究者達が関心を集中しているロシアの伝統的な修道士の思想との関連も暗示していた。亀山バージョンとは水と油の対極的なアプローチである。自分の視点の相対化という意味で亀山氏とその読者には大いに学ぶところがあったのではないか。ちなみに杉里詳注版では「ロシアの修道士」の章の注解は、ゾシマ長老像とその思想の原型、源流、僧院・スキト（庵室）制度などについての近年のロシアの研究者達の研究成果の取り込みという点ではものたりない。折しも私は「広場」27号（2918）に、ロシアの研究者達のこうした成果を紹介している。参考にしていただければ幸いである。
(木下） |
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.15６ News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2019.12.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：杉里直人（すぎさと
なおと）
1956年生まれ。早稲田大学、明治大学、東京理科大学非常勤講師。2007年に旧マヤコフスキー学院の受講生とともに『カラマーゾフの兄弟』の輪読会を始め、2016年に読了。現在は新しい仲間も加わり、5年計画で『悪霊』を読んでいる。主要訳書：バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』（水声社、2007年）。 ニュースレター№156 2020―――――――――2――――――――――――――――――― 第255回例会報告要旨 『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して 杉里直人 2020年1月に水声社より杉里訳『カラマーゾフの兄弟』が刊行される。1914年に二浦関造の手で初めて邦訳されてから106年、拙訳は16番目の日本語訳になる。 私は今回、第一に原文を一語一語、忠実に訳すこと、そのうえで平明な訳文の作成をめざした。とはいえ、『カラマーゾフ』は概して一文が長く、構文はねじくれていて、会話は高度のmodalityに富んでいるので、「原文に忠実」と「平明な訳文」の両立は容易ではない。難所にぶつかるたびに、そして無知や思いこみに起因する錯誤を回避するために、座右に置いた13の先行訳を参照した。拙訳には既訳に異を唱え、新しい解釈を提示する箇所がいくつかあるが、それは先人との時空を超えた対話を通してなされた。利用した8つの日本語訳のうち、語学的に正確で、周到に考えぬかれた原卓也の丹念な訳業、巧みな語り口、豊富な語彙、こなれた訳文という点で抜きんでた江川卓の仕事からは学ぶ点が多かった。5つの英・仏・独訳のうち、とくに2つの英訳（Pevear&VolokhonskyとMcDuff）は、日本語訳を批評的に対象化して、異なる見地から再検討し、代々の誤訳を洗い直すために有益だった。 翻訳作業では露和辞典に依存せず、常時複数の露々辞典を引くよう心がけた。主に利用したのは、ダーリ辞典（作家と同時代に編纂）、新アカデミー辞典（現在25巻まで既刊）、旧アカデミー17巻辞典、ウシャコフ辞典、ドストエフスキー語彙辞典、ミヘリソン表現辞典、19世紀刊行の方言辞典などである。ドストエフスキーを読む際、不可欠なのはダーリと新旧アカデミー辞典で、これらを徹底的に読みこめば、誤訳を確実に正すことができる。 拙訳のもう一つの特徴は詳細な注釈である（A5版190頁、1264項目）。140年前に異国で発表された古典作品を深く的確に理解するためには、目配りがよく偏りのない注釈が必須だ。ところが、従来の邦訳のうち、注釈の名に値するものを具備しているのは江川卓訳だけだった。これはナウカ版全集のヴェトロフスカヤによる画期的注釈（1976）に依拠しつつ、江川独自の研究を盛りこんだ労作である。これが成ったのは1979年で、その後40年が経過し、作品研究は長足の進歩をとげた。ヴェトロフスカヤは『カラマーゾフ』関連の単著や論文を集成し、2007年に600頁を超える大著としてまとめ、注釈部分（209頁）も最新の知見を反映させて大幅に増補・改訂した。拙訳の訳注ではヴェトロフスカヤ、江川のほかに、グロスマン（1958）、Terras（1981）の注釈も適宜利用した。 司法、教育などの社会制度、衣服、食事などの習俗、宗教儀礼、文化、自然といった、いわゆるレアリアについてはできるだけ具体的に解説した。ロシア人にとって自明で、注釈が不要な事柄でも、外国人読者にはなじみのない事象が数多くある。それらにはブロックハウス＝エフロン百科を始めとする各種事典類を頼りに、独自の注釈を施した。聖書関連ではコンコーダンスをフルに利用した。新規の試みとして絵画などの視覚情報を別丁で掲載した。 『カラマーゾフ』は《引用の織物》と言ってよいほど、古今のテクストが引用され、原著に対する顕在的・潜在的な論争、パロディ、もじり、嘲笑に満ちている。この点 ――――――――――――――――――3――――――――――――ニュースレター№156 2020 も可能なかぎり原典にあたって調査し、作品の読解に益する場合には注釈を付した。従来日本では言語遊戯、新造語・古語・外来語の使用など言葉の芸術家としてのドストエフスキーに関心が向けられることは少なかったが、作家は最後の長編で細部の彫琢に腐心し、さまざまな意匠を凝らしている。注釈では真に驚嘆すべきこの側面にも照明を当てることをめざした。 一連の作業のために作成したノートは最終的に29冊になった。このノートがなければ、私は『カラマーゾフ』の翻訳などという身のほど知らずの蛮行を企てなかっただろう。本例会では、なるべく多くの具体例をあげながら報告する。いくつかの新発見についてもお伝えできればと思っている。 第254回例会傍聴記 高柳聡子氏の「タチヤーナ・ゴーリチェヴァの思想におけるドストエフスキイ」を聴いて 齋須直人 高柳聡子氏の発表ではタチヤーナ・ゴーリチェヴァという人物についての紹介と、その著作の一つである著書『聖なる狂気について 現代世界のキリスト教 О священном безумии.
Христианство в современном мире』(2015)に所収のドストエフスキー論について、一つ一つの節ごとに詳しく内容説明がなされた。 ゴーリチェヴァはハイデガーなどの西欧思想を学びながらも熱心なロシア正教徒で、かつフェミニストという個性的な思想家である。通常キリスト教とフェミニズムは両立困難とされるが、ゴーリチェヴァの中では自然に両者が融合している。高柳氏の見立てでは、この結びつきを解くための鍵になるのが、ドストエフスキーである。キリスト教、フェミニズム、ドストエフスキーの作品の三者は「弱き者の自由と救済を求める思想」として互いに通じるものがある。さらに、1970年代のソ連の社会的状況ではこれらは「非合法」「反体制」という点でも共通しており、互いに手を結ぶことは困難ではなかった。ゴーリチェヴァはまさにこれらの思想を自らのうちに体現し、1970年代から非公式文化やロシアのフェミニズム運動家として活躍した。 私自身、ドストエフスキー研究者にゴーリチェヴァのドストエフスキー論が引用されているのを見て（例えば、ボリス・チホミーロフ「「思想家たちの形象による」思索の問題について」『ドストエーフスキイ広場』、26号、99頁）、彼女のドストエフスキー論を一度確認してみたいと思っていたので、高柳氏の発表は興味深く聴かせて頂いた。発表で扱われたドストエフスキー論の初出は1994年であり、ソ連崩壊後、キリスト教的観点からのアプローチが可能になってからあまり時間が経っていない時期である。当時の研究者にも興味深いものだったのではないだろうか。 ゴーリチェヴァはドストエフスキー作品の様々な特質について論じているが、この 論の主な特質の一つは、ドストエフスキーの作品の主人公たちの多くをユロージヴィとして理解しており、同時に地下室人としても理解していることである。また、主人公たちを「祈りの観照の中にある修道士」とも捉えている。このような、通常別々のタイプとして論じられがちな性質を、同時にほとんどの主人公たちの中に見いだして いる点は他の無数にあるドストエフスキー論でも見られないものである。ゴーリチェ ニュースレター№156 2020 ――――――――――4――――――――――――――――― ヴァはまた、ドストエフスキーの作品が、地獄のような状況・懐疑を経てこそ真の信仰に至ることができることを示していると考え、この点でドストエフスキーは希望の作家であると見なしている。これも、苦しい時代を生きた正教徒であるゴーリチェヴァであるからこそ生まれた見解であろう。 このドストエフスキー論では、実存主義の思想も参照しつつ、主にドストエフスキーの作品のロシア正教的本質について語っており、フェミニズム思想の要素を直接的に見出だすことはできない。そのため、ゴーリチェヴァのフェミニズム思想と彼女のドストエフスキー作品への理解との関係についてはさらなる検討が必要となると思われる。この検討はゴーリチェヴァにおけるキリスト教とフェミニズムの分かち難さをより明らかにすることにもなるだろう。 事務局便り 〇杉里直人さんの長い時間と手間をかけた渾身の新訳『カラマーゾフの兄弟』の兄弟がいよいよ刊行されました。この10年余、話題を一手に独占してきた亀山訳に対抗して、鮮やかな対照を成しつつ、これからつぶさに読み比べられるべき貴重な仕事だと思われます。亀山訳の方は、どういう経緯によるのか、先日の新聞報道によれば、２５０万円の年金付きの日本芸術院会員にご本人が選ばれる業績理由に奉仕したようです。亀山氏の翻訳と解釈が一般読者にとってスタンダードと通用してよいものかを懸念し、研究者として警鐘を鳴らし、批判してきた立場から云えば天と地が逆転し、うつつに悪夢を見せられているような気分からいまだ覚めやりません。しかしこれまでに数多の誤訳例、テキスト改ざんの例が明るみに出され、ここに入念な杉里新訳が現れた以上、よほどの信者でない限り、一般読者の眼にも、事の黒白は歴然と見分けられるに違いないと確信しています。 〇国際ドストエフスキー学会（ＩＤＳ）と本会は１９７５年初めからの付き合いで、４年ごとの恒例のシンポジュウムの番外編であった２０００年の千葉大での国際研究集会にも、ロシア、英米、東欧の主たるＩＤＳ研究者が多数参加して、ＩＤＳのプログラムとして認定してくれました。 世代交代も進行する歴史の流れの中で、２０１６年のスペイン・グラナダのシンポジュウムの後、総会で一旦決まった２０１９年のブルガリア・ソフィアの次期集会が、一部執行部の不透明な行政的措置でアメリカのボストンに変更されるという、本来のＩＤＳの体質になじまない事態が起こり、従来の日本からの参加者もこれへの対応に躊躇しました。今年７月のボストンには代って亀山、望月氏らが主導する会から亀山氏を除く二人が参加報告、亀山氏は次期２０２２年のシンポジュウムの日本・名古屋外大開催を働きかけ、ライバル候補なしで、成功したとのことです。 ごく最近になって、モスクワの博物館の館長で、私の親しい友人であるフォーキン氏からシンポジュウム日本開催については、若い研究者のためにも亀山氏と和解して協力してくれとの要望があり、亀山氏からも私直々に事情説明と協力の要請がありました。高橋さん、井桁さんの意見も聴いた上で、会との共催を条件に協力に同意する旨の返事を出しました。亀山氏の返事を見守りたいと思います。 〇１月例会後の二次会では訳者を囲んで、杉里新訳刊行を祝したいと思います。 （木下）事務局mailアドレス:tkino@chiba.email.ne.jp |
ドストエーフスキイの会
ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.155 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2019.10.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：高柳 聡子（たかやなぎ さとこ） 早稲田大学、東京外国語大学、専修大学非常勤講師。専門はロシア文学、おもに現代女性文学、フェミニズム史、女性誌研究など。著書に『ロシアの女性誌 時代を映す女たち』（群像社、2018年）、訳書に『集中治療室の手紙』（イリヤー・チラーキ著、群像社、2019年）他。 ニュースレター№155 2019―――――――――2――――――――――――――――――― 第254回例会報告要旨 タチヤーナ・ゴーリチェヴァの思想におけるドストエフスキイ 高柳聡子 「ドストエフスキイは希望の作家である。このことは、希望のための場所が残されていないかのように見える現代では、とりわけ重要だ。20世紀は、いくつものユートピアが生まれ、その正体が暴かれるという百年だった。あらゆるイデオロギーが暴かれていった。現代の知識人たちは、不可能なものを求めるリスクを、もはや負おうとはしない」（タチヤーナ・ゴーリチェヴァ『聖なる狂気について 現代世界のキリスト教 О священном безумии.
Христианство в современном мире』2015年、503頁）。 宗教哲学者タチヤーナ・ミハイロヴナ・ゴーリチェヴァТатьяна
Михайловна Горичева（1947－）は、レニングラードに生まれ、ドイツ語の技術翻訳を学んだ後にレニングラード大学哲学科に進み、ドイツやフランスの現代思想をほぼ独学で学びました。1974年にモスクワで開催された世界ヘーゲル学会をきっかけに、晩年のハイデッガーと文通をしていたことでも知られています。 また、1960年代には、夫で詩人のヴィクトル・クリヴーリン（1944－2001）とともに、文学や宗教学のセミナールを開催し、サミズダートで雑誌『37』を発行、二人の住まいはレニングラードの非公式文化の中心のひとつとなっていました。ゴーリチェヴァの名は、この「第二の文化」と呼ばれる非公式芸術の担い手のひとりとして、そしてソ連時代唯一のフェミニズム運動のリーダーとして語られてきました。 彼女は、1979年に、詩人のユーリヤ・ヴォズネセンスカヤらと、やはりサミズダートでフェミニズム雑誌『女性とロシア』を、その後『マリア』を発行します。これは、ロシアの女性たちが、正教思想に基づき、工場労働ではなく、神が与えた女性の役割に生きることを主張するもので、ソ連社会で仕事と家庭の二重負担に疲弊した女性たちの労働からの解放と信仰の自由を求める民主化運動となりますが、ただちに逮捕され国外追放になりました。 追放を機に、ドイツやフランスで神学や哲学を学びながら思想を深め、ソ連崩壊後は、ペテルブルクとパリを拠点にして、執筆や世界各地でのロシア正教についてのレクチャーを精力的に行ってきました。最近は、環境問題、とりわけ、動物保護運動に力を入れています。 半世紀以上にわたって、さまざまな活動を行ってきたゴーリチェヴァの思想の基盤となっているのは一貫して、神の教えです。そして、正教とロシアをめぐる彼女の言説には、ドストエフスキイへの非常に力強い信頼を見ることができます。 ゴーリチェヴァが、とりわけ強い関心をもって着目するのは、ドストエフスキイの主人公たちの多くが、ユロージヴイか、あるいはユロージヴイ的な人物である点です。彼女は、ユロージヴイ的な人物をいくつかの種類に分けて考察していますが、そのなかでもっとも高い評価がくだされるのが、フョードル・カラマーゾフです。いったい ――――――――――――――――――3――――――――――――ニュースレター№155 2019 なぜ彼が重要なのでしょうか？ さらに、おもに『地下室の手記』を取り上げながら、地下室（孤独・皮肉・苦悩）の人間のもつ聖性について指摘します。地下室の人が裸で叫ぶのは、「偽りの世界に対する偽りの庇護がない」からであり、これこそがユロージヴイの理想的な姿であると述べるのです。 こうした主張を展開する際、ルネ・ジラール（『ドストエフスキー：二重性から単一性へ』）やレフ・シェストフ（『悲劇の哲学 ドストエフスキーとニーチェ』）のドストエフスキイ論が引用され、共感が示されます。 ゴーリチェヴァのドストエフスキイ観は、全体的には新しいものとは言えませんが、フェミニズムやジェンダーの問題にまで言及している今現在の思想家が、ドストエフスキイを介して、伝統的なロシア思想につながっていることを証明できる興味深い事象となっているのです。 今回の発表では、今のところ日本ではまったく知られていないゴーリチェヴァのドストエフスキイ論をご紹介したいと思います。ゴーリチェヴァの思想を通してドストエフスキイの現代性を見いだし、同時に、ドストエフスキイを通して、精神的な人間を称揚するゴーリチェヴァが伝統的なロシア思想史の延長線上にいることを明らかにしたいと考えています。 第253回例会傍聴記 太田香子氏の 「ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』」を聴いて 下原康子 ニュースレター№155 2019 ――――――――――4――――――――――――――――― テーマは「ステパン氏の信仰告白から読み解く『悪霊』」である。ドストエフスキーが生涯をとおして悩みぬいた「神と不死」。まさしく直球ど真ん中の問題に真っ向から挑んだ若い報告者の情熱と純粋さに心打たれた。 事務局便り 〇昨年9月（247回）例会、１１月（248回）例会で早稲田大学文学部の教室を使用しましたが、今回もそのようになり、またこれから当分、文学部にお世話になりそうです。これまで親しんできた会場、千駄ヶ谷区民会館は去り難いのですが、申し込みには抽選があり、福井さんに大変ご苦労をお掛けしてきました。ここで先行きを考えて、選択肢を広げることにしました。もちろん、早稲田が使えないときは、古巣へ戻るということは大いにありうる話です。 〇先回の例会9月21日に、「広場」来年号の編集委員会が立ち上がりました。運営委員の中から自発的に集まったメンバーで構成され、熊谷、近藤、渡辺、福井、高橋、泊野、齋須、木下で発足しました。校正その他の編集作業では他の運営委員のご協力もお願いすることになります。 〇論文は例会発表者のものが中心ですが、エッセイ、書評については、広く募集しています。原稿締め切りは本年12月末日で、事情によって、最終締め切りは来年1月20日となります。執筆要綱については例年お知らせしている通りですが、改めてのお問い合わせは、以下の事務局アドレスでお寄せください。
（木下） 事務局mailアドレス:tkino@chiba.email.ne.jp |
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報告者紹介：太田香子（おおた きょうこ） 1986年生まれ。会社員。13歳で『罪と罰』を読んで以来、ドストエフスキー作品を読み続けている。ドストエフスキーの意図を丁寧に、正確に読み取ることに少しでも近づくことが変わらぬ目標。 ニュースレター№154 2019―――――――――2――――――――――――――――――― 第253回例会報告要旨 ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』 太田 香子 「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望まれず、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか？ 愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか？ もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら―神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか？ もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」（『悪霊』下巻 p.614 新潮文庫 江川卓 訳） 今回の発表では、『悪霊』の終盤、ステパンの臨終の場面での彼の信仰告白の言葉（冒頭に掲げた台詞）を手掛かりに、『悪霊』で表現されようとしていたテーマを探りたいと思います。当該箇所は、『悪霊』の成立背景を考えたときに、「スタヴローギンの告白」で表現される内容と重なる部分があることから、ドストエフスキーが『悪霊』を通して表現しようとしていた考えの核心を捉えるには欠かせない場面であると思われます。また、発表者である私自身が、学生時代に読んで人生観を変えられるほどの衝撃を受け、その後も折に触れ繰り返し読み返してきた箇所でもあります。今回の発表を通して当該箇所の理解を深め、さらにそこで表現されているテーマが、いまを生きる人間にどのようにかかわりがあるのかを考えたいと思います。 ステパンの信仰告白は抽象的な観念の表明となっています。また、『悪霊』全体を通してみたときに、それまでのステパンの人物像から予想される想定を上回る思考が表現されています。そのため、当該箇所のステパンの台詞の言い回し、言葉の選ばれ方に着目し、『悪霊』の全体を通してステパンの台詞の裏付けとなる箇所をいくつか取り上げ、比較検証を行うことで、ステパンの信仰告白で表現される概念が何と結びついているのか、またそれが意味するのはどのような思考なのかを検証します。 具体的には、「子ども」の概念をめぐるシャートフ、キリーロフ、スタヴローギンの立場の違いを切り口に、特にキリーロフの思想の特徴とそれに対するスタヴローギンの考えの違いを明らかにします。 また、マリヤ・レヴャートキナの回想、「スタヴローギンの告白」にあるスタヴローギンの夢の描写、ステパンの最後の台詞、の三つを比較検証することで、この三つの台詞相互の関連と、そこから読み取れるドストエフスキーが本作で表現しようとしていたと思われる考えについて考察を深めます。 そして、ステパンの最期の場面にある別の台詞にある、「左の頬を差し出せ」という言葉の意味が理解できたときほかにも会得することがあった、が何を意味しているのか、またなぜその台詞がステパンの人生の終わりに出てくるのかを考えます。 上記の考察を通して、冒頭に掲げたステパンの信仰告白から広がる、『悪霊』の読みの可能性を探っていきたいと思います。 ――――――――――――――――――3――――――――――――ニュースレター№154 2019 第252回例会傍聴記 「ドストエーフスキイ広場」（2019）の合評会報告 「会発足50周年記念号」の合評会では、巻頭エッセイと論文についての論評者による１０分程度の発表の後で活発な議論が行われました。議論が多岐にわたったために、今回の「傍聴記」は各評者に論評の要旨を提出してもらったものをまとめる形で掲載します。(当日司会 高橋誠一郎) 〇「五〇周年に寄せて―史料をもとに歴史を顧みる」 木下代表は資料から「会はつねに内にも外にも開かれた」基本原理を再確認する。福井氏は会の歴史を時代との関係から分析。会誌は講演会と連動して会外の論客と対話している。高橋氏は、『広場』発刊の当事者として証言。千葉大での研究会は国際的に開かれた場であった。（渡辺好明評） 〇川崎エッセイ：コンピューターアルゴリズムと地下室人 本エッセイの主題は、2018年の話題の書『ホモ・デウス』で予測される人類の危機、即ち、アルゴリズムが至上の価値となり人間の自由意志の価値を脅かす、という未来予測はそのまま『地下室の手記』の主人公が予見していたことである、という点に尽きる。合評会では『ホモ・デウス』の著者の主張の紹介および会発足50周年という節目を踏まえての考察をお話しした。講評に対しての意見として、ドストエフスキーはいつの時代でも、「今の時代を予見している」と評価されるというものがあった。同感である。だからこそ、「いま」を捉えなおすためにドストエフスキーは常に読まれ続ける価値があると改めて考えさせられた。（太田香子評） 〇清水論文：ドストエフスキイにおける癒しの人間学序説 ムイシュキンは読者が期待する人物像で語られることが多い。彼は「魂をないがしろにする人たち」の前に身を置き、彼らと「共苦」することにより彼らを癒すも最後はもとの白痴に戻ってしまう。論文ではこれを「共苦への殉教」であるという。このように読者は物語の結末に後から意味を与えることができる。登場人物であるリザヴェータ婦人までもが彼と共に過ごした日々を振り返り「こんなものはみんな夢です」と言うが、それでは彼が二度と戻って来ないようで寂しい。彼はきっとまたスイスから帰ってくると信じたい。幸いなことにこの論文は「序説」である。次回はきっとキリスト公爵ムイシュキンの復活が論じられるだろう。（近藤靖宏評） 〇冷牟田論文：ソーニャの愛と信仰、スヴィドリガイロフの「慈善」について 合評会では前者に関しては、エロスとアガペーとをすえて、後者については創作ノートにある「亡くなったマルメラードフ夫人の遺族に金を与えて、生活を保障する。ソーニャ無限の感謝」を引き合いに出し、報告した。本論文では、ソーニャにあっては神はひたすら信仰の対象であり、思考や批判の対象ではないという論者の観点と、悪を志向する人間に善がないとは言い切れず、スヴィドリガイロフの「慈善」的行為を、作者の次の認識、神への信仰と現実の幸・不幸は別物であるという論者の読解にこの論文の全てが、評説されているのであり、ドストエフスキーの信仰について勉強させて頂いた。（菅原純子評） ニュースレター№154 2019 ――――――――――4――――――――――――――――― 〇野澤論文：残された憧憬を訪ねて 極めて難解な論文で、著者の論旨を読み取れたという自信がない。その上で、思い切って要望述べたい。著者の論文は、竹田青嗣の哲学に準拠している。論文中で引用している『欲望論』は、竹田氏の哲学的な到達点で―遺憾ながら私は未読で、書評、解説論文、自身の解説インタビューによれば―、情動、欲望を中心に、既存の哲学を再構築しようとする革命的な考察であると聞いている。 そうであれば、スタヴローギンとマトリョーシャの関係は、「情動的所与」を中心に徹底的に読みなをされなければならないものと考える。しかし、本論文は、議論が既存の哲学の枠に収まり、一周遅れの感じがする。その枠組みを崩す論考をやっていただけないかと期待します。（熊谷のぶよし評） 〇泊野論文：ホフマンとドストエフスキー 泊野氏はドストエフスキーのホフマンからの影響について、下記の点を挙げられた。 1,『大審問官』での対話と『砂男』でのナターナエルとオリンピアとの対話との一致に見られるような、対話表現。2,小説内のメタ構造形式とプロット。3,両作家における「分身」というテーマ。 特にプロットの関係として、論者は『砂男』は小説の叙述形式がプロットに織り込まれているという構造に着目し、『大審問官』が『カラマーゾフの兄弟』における小説内小説であるように、ドストエフスキー作品には独立した複数のプロットが含まれている事を基に、両者の共通性を指摘された点は出色であった。（野澤高峯評） 〇赤渕論文：Ａ.Ｂ.ルナチャルスキーにおけるドストエフスキー論 全体としてよくまとまった分かりやすい論文であり、主に次の点について論じられた。ルナチャルスキーは、１）ドストは表面上では保守的な正教の思想の持ち主だったが、無意識のうちに革命に惹かれていたと論じた。２）29年に、当時としては珍しくバフチンを評価した（ただし、バフチンは普遍的な芸術形式として多声性を捉えたのに対し、ルナチャルスキーは社会と作家自身との分裂を多声性の原因とみなす）。３）初期ソ連において、ドストを擁護する役割を果たしていた。ただし、全体的に遠慮がちであり、もう少し踏み込んで論じることもできそう。（齋須直人評） 〇翻訳論文・Ｄ.Ｌ.リハチョフ：ドストエフスキーの年代記的時間 まずもって、会創立50周年記念号「広場」が発刊されたことを祝したい。巻頭の川崎氏記念エッセイは、再来年生誕200年を迎えるドストエフスキー（文学）の今日性を改めて喚起した。さらに若い女流研究者赤渕氏のルナチャルスキー論に新鮮な切り口を感じた。バフチンとの比較論から、未だ論じられぬドストエフスキーを予感させられた。この思いは、当方担当の木下氏訳リハチョフ論文で更に強められた。その核心は、ドストエフスキーの小説表現に特徴的な時間性にある。『未成年』等を通じて、リハチョフはそのことを語りの構造とともに明らかにした。木下氏の解説にもあるが、当方バフチン以上の衝撃を受けた。詳しい感想は、レジュメ詳細版の「読書会通信」最新号（web版も）に譲る。（2019.8.5）（福井勝也評） 事務局便り 〇本会に関わるご意見ご希望がございましたら、下記までご連絡下さい。
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ニュースレター№153 2019 ―――――――2――――――――――――― 第251回例会傍聴記 高橋誠一郎「堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」を聴いて 熊谷のぶよし 高橋氏による、今回の発表は、堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』（以下、『肖像』）の中にドストエススキーの思想を読み取る主旨で行われた。 『肖像』を前日に読了し、感銘の余韻の中で傍聴することとなったため、読後の印象が混交するところがあるが、それはお許し願いたい。 導入部では島崎藤村との関連から論じられたので社会思想的な観点からの発表になるのかと予想していたが、すぐさま、国家と死の関係性についての主題が提示される。『肖像』にはこの主題が通底している。 発表は、小説の展開にそって、題辞（エピグラフ）を軸にして『肖像』を読み取る手法がとられた。『肖像』は序章と第一部から第四部によって構成されている。 序章はベルレーヌ「語れや君、若き日に何をかなさせしや？」が題辞とされる。 続く第一部の題辞はドストエフスキー『白夜』の冒頭部分である。ここで、高橋氏は『肖像』の主人公のなかでの『白夜』と二・二六事件の考察とを対比させた。また、ゲッペルスの演説の後に聴くシャンソンに「異様な感銘」を受けたことを紹介する。主人公は、この経験を機に、法学部政治学科から仏文科に転科することになる。シャンソンは決して高級な芸術ではなかったはずだ。私は、主人公の浅草演芸一座との繋がりも感じた。 第二部ではアランの一節が題辞とされている。高橋氏はアランの『裁かれた戦争』の解釈とランボーの『地獄の季節』の小林秀雄訳における問題点を指摘する。前者においては、「戦争も生活の一つだ、地道に立ち向かっていけ、ってことになる」となるが原書は逆のことを言っていると、登場人物が述べていた。後者においては、原作に示唆されている『レ・ミゼラブル』との関連が排除されていることが 指摘された。また、主人公のレーニンへの関心が紹介されている。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№153
2019 第三部の題辞は『伊勢物語』の一節とアガサ・クリスティの「かくて誰もいなくなった」の一文となっている。主人公はとっさに「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」と口にする。この言葉は卒論のテーマにもなり、堀田のドストエフスキー理解の核心をなすと思われるが、その意味が最後までわからなかった。高橋氏の発表によってもその謎は残った。 第四部では、鴨長明『方丈記』の一節が題辞とされた。 小説中アリョーシャと名付けられた人物の姿が紹介された。大審問官を 延々と論ずるこの人物は、ついに「天皇陛下がキリストを含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしますんだ」と語るようになる。主人公は日本主義の本質を見ようと平田篤胤を読み出すが、その思想がキリスト教を取り込んでいることを知る。篤胤は『夜明け前』においても重要な意味を持っていた。今後高橋氏が論を深めていく中で、重要なテーマになるかと思われる。 「審美的な「死の美学」からの脱出と『方丈記』の再認識」で高橋氏は『肖像』を総括している。ここで指摘された「リアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュ」である『方丈記』は、「死が美学」とはなり得ない様相を露わにしたものだろう。主人公の「赤紙」にたいする「無礼」と感じる感性は、自己による国家の否定というよりも、「死の美学」に対する、はるかに直接的、即物的な侮蔑を示している。事実の直視をいう視点によって、主人公の芸術的感性が変わってしまった、ということなのではないか、と思った。 つまり、堀田が白夜に星が見えない事実を知っていたとするならば、引用された「白夜」の描写についての主人公の受け止め方は、いったい何を意味するのか。審美的なものから事実へとの移行が、この小説の主題の一つとしてあるのではないかと考えた。 今回の発表は、次作『堀田善衛と小林秀雄―「若き日の詩人たちの肖像」を読み解く』（仮題）執筆の準備作業と位置づけることが出来るだろう。新著が楽しみである。 ニュースレター№153 2019 ――――――― 4 ――――――――――――― 事務局便り ◎
前回の例会開催日に総会を行いました。その際に承認された前年度決算書を掲載します。（会計：近藤） 平成３０年度収支計算書 （平成年5月6日〜令和1年5月5日）
会計 近藤靖宏
監査 渡辺好明
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.152
News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2019.4.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：高橋誠一郎（たかはし せいいちろう） 東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ：日露の近代化と文学作品の比較。著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、『黒澤明と小林秀雄』など。近著に『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』（会員と例会出席者には送料無料、税抜きで頒布、申し込みは→info@seibunsha.net）。 ニュースレター№152 2019 ―――――――2――――――――――――― 第251回例会報告要旨 堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に 高橋誠一郎 堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。 その第一部の題辞ではペトラシェフスキー事件で逮捕されてシベリア流刑になるドストエフスキーが書いた『白夜』冒頭の文章が引用されています。しかも、この長編小説で堀田は『白夜』ばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、『悪霊』などについての考察をも行っているのです（『ドストエーフスキイ広場』第２８号、「堀田善衞の『白痴』観」参照）。 前回の例会で福井勝也氏はアニメ映画の世界的巨匠である宮崎駿氏の言葉を引用しながら、「堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家」と位置付け、「白夜について」（1970）も堀田が自覚的に自分は『白夜』の主人公さながらにフラニョール（遊歩者）であることを表明し、ドストエフスキーのフェリエトニスト的側面に関心を持っていたらしいと指摘しました。 これらの指摘に私も全面的に賛成です。なぜらば、『若き日の詩人たちの肖像』で戦争末期の「学徒動員」を厳しく批判しつつ、「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記した堀田は、『方丈記私記』で鴨長明について「心よりもからだの方が先に身を起こし、足の方から歩き出してしまう行動人」と規定しているように、『白夜』への関心は『方丈記』につながっているからです。 さらに、私は堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』などを組み込んだ宮崎駿監督のアニメ映画《風立ちぬ》には、同時代を描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』からの強い影響がみられると考えています。このアニメではナチス・ドイツの秘密警察についても描かれていることも、ゲッベルス宣伝相の暴力的な演説の後に『白夜』冒頭の文章が対置されているこの長編小説の構造と深く関わっているでしょう。 この映画で描かれている関東大震災の直後に発生した火事の広がりの圧倒的な描写も、『方丈記私記』で描かれている東京大空襲後の烈風による「合流火災」の記述から影響を受けていると思えます。 それとともに注目したいのは、『罪と罰』の人物体系を深く研究して『破戒』を書いた島崎藤村が、長編小説『春』で自殺に至る北村透谷の苦悩や考察を詳しく描いていたのと同じように、『若き日の詩人たちの肖像』では芥川龍之介の自殺についての考察が、慶応仏文グループの芥川比呂志との交友などをとおして何度も行われていることです。 さらに、この長編小説では「マチネ・ポエティクス」のグループの詩人たちとの交友も描かれていますが、堀田はその一員であった福永武彦や中村真一郎の三人で、核 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№152 2019 実験場とされた島から飛来する怪獣を描いた映画《モスラ》（1961）の原作を書いています。 このことに留意するならば、アメリカ人の原爆パイロットをモデルとした『零から数えて』（1960）と『審判』（1963）の二つの長編小説が『若き日の詩人たちの肖像』(1968)と密接なつながりを持っていることは明らかでしょう。 すなわち、『若き日の詩人たちの肖像』は過去を振り返るだけでなく、現在を凝視し未来を見つめるような視点も有しているのです。 ただ、序章と四つの部からなるこの長編小説では詩人だけでなく演劇のグループや、多くの作家も実名で描かれるなど複雑な構造をしています。それゆえ、今回の発表で は筋や人物体系だけでなく、「題辞」という手法にも注目しながらテキストを忠実に読み込むことにより、主人公が成宗の先生（堀辰雄）に語る「ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」という謎のような言葉の意味に迫りたいと思います。 第250回例会傍聴記 福井勝也氏「堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶（Back to
the Future）」を聴いて 野澤高峯 標題は「堀田善衞のドストエフスキー」であって「堀田善衞とドストエフスキー」ではない。それを主眼とした氏の発表内容は、下記の通り広範囲に渡った。 １．いくつかの前提、やや長い前置き ２．「時代とともに成長する作家」（埴谷雄高）－ 共通する作家像（１） ３．「越境＜国境越え、ジャンル越え、時間越え＞する作家」－ 共通する作家像（２） ４．堀田の出発点としての東京大空襲から上海へ、何故に堀田は中国へ渡ったのか？ ５．『若き日の詩人たちの肖像 』（1968）におけるドストエフスキー作品（『白夜』他） ６．堀田善衛の『大菩薩峠』論（中里介山著、1913大正2年～1941昭和16年・未 完） ７．上海時代（1945.3.24~1947.1.4）「上海日記」 ８．新発見「上海と南京」「文学の立場」 ９．未来からの挨拶－Back to the Future－ 傍聴の報告に当たり各項目ごとに内容を紹介（特に「時間論」は興味深い）したいが、誌面の関係上、ここでは主に4，5項で取り出された「堀田善衞のドストエフスキー像」に絞りたい。それは、この内容が同時に堀田の作家像自体にも迫るものであったからだ。作家は『方丈記私記』において、死が生の中軸でなければならなかった政治を司った当時の権力者を批判するとともに、天皇に自らの生命を捧げ、大義に生きることのある種のさわやかさを自らが感じたように、作家の中に二つの鬩ぎあいがあったことに氏は着目した。ここに、昭和天皇がいて、日本の民衆がいる、その＜裸の日本＞に出会う体験は、ドストエフスキーのロシア（＝「シベリア」）体験と共振した、堀田文学の出発点だったと氏は直観し、真の愛国者というのはこうした二人をいうのであろう、と述べられた。私は大審問官論の「跪拝の統一性」の意味をここに ニュースレター№152 2019 ――――――――4――――――――――――― 見た。特に堀田が進歩的知識人として戦後派作家群に位置付けられていた事から、そのイメージを刷新し、併せて「越境＜国境越え、ジャンル越え、時間越え＞する作家」であることを氏が取り出したことは出色だったが、聴講者からは「堀田は天皇制に反対だった。堀田を愛国者とは捉えていない」という意見も出され、作品をアクチュアル（古典的？）に読む例会の特徴も垣間見られた。そのことは自体は大変望ましい事だが、文学における政治の優位性による「政治と文学」という古くからのテーマもそこにはいまだに見え隠れし、それは、以下にみる発表内容にも連なると私は感じた。そのことは現代においてドストエフスキー文学をどう読むかという、各々の受け取りにも関連し、その解釈と評価は聴講者により分かれるところであろう。 『若き日の詩人たちの肖像』を「報告テーマを語る上で、興味深い記述を種々指摘できる小説」と位置付け、この作品に作家のドストエフスキー像の核心を盛り込んでいる点を、氏は次の通り取り出された。作家が作品内で仮構したドストエフスキー狂の青年アリョーシャ（モデルは堀場正夫だと私は予想するが、氏は三島由紀夫を疑問符付きで想定した）は、大審問官論に執心後に太宰治を経由し、最終的に「惟神の道」を標榜した皇国青年に変貌した。そこにドストエフスキーの思想的一面から「近代の超克」を読み込み、ユーモアを理解しないアリョーシャたちを揶揄し、深刻一方な大方のドストエフスキー研究者を、余裕のない田舎者に見える、と主人公に語らせた深刻主義の相対化への注目は、作家のドストエフスキー像を浮上させた一つの象徴と言えよう。 『白夜』を本歌取りして作品に導入した、と読解した事を含め、氏が堀田を「ドストエフスキー未来派の文学者」と称し、そのドストエフスキー文学に対する幅の広いパースペクティブを顕在化させた意味は大変大きい。このことは、長年、ドストエフスキー文学と対峙し、日本文学へも造詣が深い氏ならではの、堀田文学のみならず、ドストエフスキー文学を現代において更新する一つの回答だと受け止めることができよう。 今回の発表を受け、最後に私からこの場を借りて一つの仮説を提示したい。太宰論にて世に出で、生前の三島由紀夫に最も近い文芸評論家と言われた奥野健男は、1963年に『「政治と文学」理論の破産』を発表し、ドストエフスキー文学を後ろ盾に堀田文学を既成の「政治と文学」概念に即した動きしかなしえていない、と批判した。私見では、堀田はこの奥野批評に対する反論をこの作品に込めた、という説を加えさせていただく。 事務局便り ◎会発足50周年で、2019年会計年度を迎えます。会の運営、「広場」編集体制もメーリングリストを活用して、これまでと同じメムバーで継続する予定です。 50周年記念号「広場」28号がすでにお手元に届いていることと思います。7月例会は恒例通り、合評会の予定です。皆さまのご参加をお待ちしています。 |
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ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.１５１ News
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Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2019.2.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：福井勝也 （ふくい・かつや） １９５４年東京都出身。１９７８年「ドストエーフスキイの会」入会、運営編集委員。 「全作品を読む会」世話人。「読書会著莪」会員（小森陽一講師）。「日本ドストエフスキー協会（DSJ）」研究会員。著書：ドストエフスキーとポストモダン』（2001）、『日本近代文学の＜終焉＞とドストエフスキー』（2008）主要論考対象：ドストエフスキー、ベルクソン（前田英樹氏に師事）、小林秀雄、大岡昇平、三島由紀夫、安岡章太郎など ニュースレター№151 2019―――――――2――――――――――――― 第250回例会報告要旨 堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶（Back to the Future） 福井勝也 廻り合わせから、次回例会でお話をすることになった。会発足50周年（2019.2.12）を経て最初の、そして30年続いた「平成」最後の例会ということになる。だからといって特別な内容ではないが、自分なりの感慨も重なって発表を引き受けさせて頂いた。 今回論じようと思うのは、作家堀田善衞（1918～98年、大正7～平成10年）の文学、そのドストエフスキー文学との関連である。当方はこの４年程、多摩の読書会で堀田の主要作品を仲間と読み合って来た。ちなみに、2014～15年には『上海にて』（1959）『方丈記私記』（1971）『定家明月記私抄 （正・続）』（1986-88）、2016年には『若き日の詩人たちの肖像 （上・下）』（1968）、2017年には『ゴヤ（第1～4部）』（1974-77）、2018年には『ミシェル 城館の人（第1～3部）』（1991-94）というざっとそんな順であったと思う。そして昨年の堀田生誕100年・没後20年という記念の年を経て、今年の初めに、最初に読んだ『上海にて』に戻るかのように南京事件を扱った長編小説『時間』（1955）を読み始めている。 この多摩の読書会とのお付き合いは、かれこれ四半世紀余になる。講師は当会でもご講演頂いた近代文学研究者の小森陽一氏であるが、小規模な市民サークルで月一度の読書会にずっと参加させてもらって来た。その対象作品は、その時々の選択によるが、漱石から村上春樹までかなりの数になる。 そしてこの４年程は堀田作品を読み合って来た。はじめに断っておけば、当方は堀田善衞のそれ程良い読者ではないかもしれない。しかしここ数年間仲間と読んで来て、作家としてのスケールという点で、われらがドストエフスキーの系譜に連なる文学者であると確信するようになった。その点で、堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家だと感じる。その傍証になるかは不明だが、アニメーション作家の世界的巨匠、宮崎駿氏が堀田文学の愛読者であるということがある。氏は、そのｗｅｂサイト（堀田善衞「時代と人間」）の連載欄でこんな風に語っている。 この連載では、堀田氏の考え方 ― たとえば「歴史は直線的に進むのではなく、多層的に存在している」というようなこと ― を、既にあるもの、既に完成したものとして書き、それによって堀田氏を説明するというスタンスをとってきました。しかし、第８回のスペインの項でもわかる通り、堀田氏も最初から、そうした思想へと到達していたわけではありません。戦後、本格的に小説執筆を初め、そこにおいて、いかに自分の体験を消化（昇華）していくかという挑戦の果てに、自分なりの思想を掴み取ったのです。そしてその思想も年齢や時代を経るごとに、深化し、さまざまな側面を見せるようになります。 片や、最近号の「読書会通信」で当方は次の様に書いた。「これらの堀田の生涯をかけた文学作品を貫く「キイワード」を二つだけあげろと言われたら、当方今回の前 置きで触れた、「天皇（制）」と「中国」と答えたいと思う。確かに『ゴヤ』のスペイ ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№151 2019 ンが、『ミシェル』のフランスもあるわけだが、堀田にアジアからヨーロッパに向かわせる起点になったのは中国の「上海・南京」であり、そのさらに前提となった東京大空襲下で堀田が偶然に見かけた「昭和天皇」とそれを取り巻く戦火で家を焼かれた「日本民衆」の姿であった。」（「通信」No．172、ｗｅｂ版もご参照ください。）
堀田文学の全体像を理解するためには、当方の「キイワード」ではおそらく＜内向き＞に過ぎるだろう。しかしこの間自分が堀田に絡めて、ドストエフスキーを再考するきっかけになったのが堀田の「天皇（制）」と「中国」であった。「通信（連載欄）」の「前書き」にも書いたが、「平成」が終わろうとしている時代の狭間にあって、現在日本人が直面する課題が、この「キイワード」と深く関係してくると思う。今回の発表は、堀田文学の視点から見た「ドストエフスキーと現代」であればとも思っている。 そして多摩の読書会（「著莪」）で考えたことを、その都度話題にして「感想」を書かせてもらって来たのが、われらが読書会「全作品を読む会」ということになる。今回例会でお話しする内容も、その辺からのもので「読書会」の成果だと考えている。 例えば、『若き日の詩人たちの肖像』（1968）の中で語られるドストエフスキー作品への言及、とりわけ当方が関心を抱いた「愛国者」に変貌してゆく一人の「若き詩人」が「アリョーシャ」と愛称されたこと。『ゴヤ』の描くスペイン戦争（対ナポレオン）での民衆をキリストに擬えて語る『五月の三日』の（宗教）絵画評。スペインとロシアをヨーロッパの西と東の「辺境」として語る堀田の地政学的知見。ミッシェル（モンテーニュ）の生きた宗教戦争の時代をドストエフスキーの言葉から見返す歴史的視線。さらに、作品に注目する契機にもなった堀田論考の、安岡章太郎の『果てもない道中記』（1995）に関連して読んだ「大菩薩峠とその周辺」（1959）の机龍之介論。これは日中戦争の時代まで書き継がれた中里介山作『大菩薩峠』（1913~1941）を、ドストエフスキーの作品（『罪と罰』『白痴』他）に言及し、その日本人の罪障観を天皇（制）の問題まで含めて論じようとした問題作だ。 さらには、宮崎氏指摘の堀田の「歴史を重層的なものとして見る見方」、さらにその視線を支えていると考えられる「時間論」「過去と現在が眼前にあって、未来が背後にあるもの」「未来からの挨拶」、今回新たな興味を抱かされたことなどもある‥‥。 （2019.2.9） 第249回例会傍聴記 熊谷のぶよし氏「「認知的共感」による『カラマーゾフの兄弟』の読解」を聴いて 齋須直人 今回の熊谷氏の発表は、心理学の概念である「情動的共感」、「認知的共感」、「援助行動」などをドストエフスキーの作品理解に導入する試みであった。「情動的共感」とは「他者と感情を共有すること」をベースとする共感で、「認知的共感」とは「他者の視点に関する認知的理解」をベースとする共感のことである。ポール・ブルームは、「情動的共感」の問題点を指摘しつつ、道徳的に行動するためには理性の力を基にした「認知的共感」に依る必要があることを主張している。熊谷氏は、ドストエフ スキー本人がむしろ、ブルームが主張するような理性信仰とも言える立場には批判的 ニュースレター№151 2019 ――――――――4――――――――――――― であったことを留保しながらも、ブルームの共感についての２種類の分類法を用いて『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たち、主にアリョーシャ・カラマーゾフの行動の分析を試みた。 文学作品の中の登場人物に対して、通常の我々の人格のような人格を想定し、心理学の概念で理解することはどの程度可能かという問題はあるだろう（例えば、ドストエフスキーと父殺しについての有名なフロイトの論文も、心理学の分析の対象は作家本人の人格であり、作家本人を分析する材料として作品を用いている）。しかし、熊谷氏が発表で何度も強調されていたように、ドストエフスキーの作品の登場人物たちは「小説の各場面の中だけに生きる者ではなく、描かれていない時空においても継続した人格を持って生きている」ように描かれている。そのため、これらの概念を用いての分析がしやすいという特徴がある。今回の発表では、アリョーシャが「認知的共感」に基づいた行動をすることで、他の登場人物（グルーシェニカ、スネギリョフなど）に対して適切な「援助行動」をとっている例が挙げられた。 アリョーシャが「認知的共感」主体の行動をとる人物とするならば、『白痴』のムイシュキンは「情動的共感」主体の行動をとる人物と言えるだろう。質疑応答の際に、福井氏から、今回の発表の内容については、小林秀雄が「もののあはれを知る」という言葉で表した事柄と同様なものであるとの指摘があった。また、木下先生は、ブーバーの「我―汝」「我―それ」の概念で、『白痴』を分析したことがあり、そこで木下先生が論じられた内容と今回の発表は類似しているという指摘があった。私の理解では、これら類似する概念での分析は、主に「情動的共感」、ドストエフスキーの言葉では「共苦（サストラダーニェ）」のもたらす悲劇的側面を論じるためになされたものだ。多くの人はこちらにより着目してきたようで、質疑応答の際に、発表で扱われたアリョーシャについてよりも、ムイシュキンに言及ようとした人が多かったのも、そのためであろう。一方で、熊谷氏の発表の特質の一つは「認知的共感」の実践的側面に焦点を当てたことであり、そのために、より冷静に行動するアリョーシャが分析対象になっている。この点に今回の発表の新しさがある。 また、「情動的共感」、「認知的共感」という概念による分析はドストエフスキーを読む我々読者に対してもそのまま適用しやすいという点でも、これまでの類似の論に比べて新しい。我々はドストエフスキーの作品をより深く読んでいく過程で、「情動的共感」によって作品の登場人物を理解する次元から、「認知的共感」によって「読者が投影する主観とは異なる視野と内面を持つ」登場人物を想定する次元へ移行することが促されているのではないだろうか。このことは今回の熊谷氏の分析が読者の登場人物に対する共感の在り方を常に念頭に置いてなされていることからも理解できる。今後、発表内容を論文にまとめていく過程でも作品内の登場人物同士の共感、我々読者の登場人物に対する共感を同時に念頭に置く必要があり、簡単な作業ではないと思われるが、これまで精緻な作品読解をされてきた熊谷氏なら成功させることができるはずだ。 事務局便り 〇 「広場」2８号は会発足５０周年記念号で、編集作業は４月発刊へ向けて、着々と進んでいます。ご期待ください。
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ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.150 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2018.12.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：熊谷のぶよし （くまがい・のぶよし） ６１歳、妻有、子供二人 ４０歳の時にドストエーフスキイの会に参加。 過去に例会で発表した題目は次のとおり。 「ドミートリイ・カラマーゾフの二重性」「『永遠の夫』を読む」「戦士アリョーシャの誕生」「イワンの論理と感情」「「ネヴァ河の幻」出現の経緯」「ラスコーリニコフの深き欲望」 ニュースレター№150 2018―――――――2――――――――――――― 第249回例会報告要旨 「認知的共感」による『カラマーゾフの兄弟』の読解 熊谷のぶよし 共感は人が文学に接する上でもっとも重要な心の働きです。心理学では「共感」は一般的に「情動的共感」（emotional empathy）と「認知的共感」（cognitive empathy）に分けられます。「情動的共感」は他者との感情の共有のことで、普通に「共感」と言えば、こちらの意味で使われることが多いでしょう。一方「認知的共感」は、他者の心の知的な把握のことで、むしろ洞察や推論として理解される内容です。 『カラマーゾフの兄弟』のなかで、共感という言葉にもっともふさわしい人物はアリョーシャでしょう。彼は、人の苦しみを自分の苦しみのように感じる能力を持つ「情動的共感」に優れた人物と思われがちです。しかし、改めてアリョーシャの共感能力が発揮される場面を見ると、彼がむしろ優れた「認知的共感」の持ち主であることが分かります。一例を挙げれば、イリョーシャの父、スネギリョフとのやりとりをリーザに説明する場面です。アリョーシャはスネギリョフに対して最善の対応をしましたが、それはスネギリョフの感情を自分のものとして共に苦しんだ結果ではありませんでした。アリョーシャの対応は、彼が、かつてゾシマから聞いた虐げられた人の心のあり方についての知識にもとづくものでした。ここで彼の行動を主導しているのは「認知的共感」の能力です。アリョーシャは「認知的共感」に基づいて「情動的共感」を働かせる人物といえるでしょう。この「認知的共感」に焦点を当ててこの小説を読んでみたいと思います。 小説において「認知的共感」は二つのレベルで働きます。第一のレベルは、各登場人物が他の登場人物に対してどのように「認知的共感」を働かせているかということです。第二のレベルは、読者が各登場人物に対してどのように「認知的共感」を働かせるかということです。第二のレベルにおける視点がないと、第一のレベルでの各登場人物間の「認知的共感」を認知することはできません。第二のレベルの視点の獲得は、読者が小説にどのように向き合うかということにつながります。 小説の向き合い方として、ある強烈な場面を全体の繋がりから切り離して深掘りしていく読み方や、統一的テーマを設定してその説明としてそれぞれの場面を解釈していく読み方がまずあるでしょう。こうした読み方は、読者の主観が投影されていて「情動的共感」にちかいところがあります。 一方、登場人物を、小説の各場面の中だけに生きる者ではなく、描かれていない時空においても継続した人格を持って生きる者として捉える読み方もあります。その時登場人物は、読者が投影する主観とは異なる視野と内面を持つことになり、その理解のためには読者の「情動的共感」を保留した認知が必要となります。ドストエフスキーの小説は、そのような登場人物の人格の継続性と他者性を読者に認知させる手法によって書かれています。「認知的共感」はドストエフスキーの小説を読む上で適合性の高い観点といえるでしょう。 今回の発表では、この観点によって作品の場面を検討するに当たって、「認知 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№150 2018 的共感」の一部をなす「心の理論」において、幼児の心理的発達を判定するために使用される「誤信念課題」＜アンとサリー課題＞をまず検討します。この＜アンとサリー課題＞は、ドストエフスキーの上述の手法を端的に表しているように私には思えます。 その上で、『カラマーゾフの兄弟』の中での、前述のスネギリョフへの対応、「一本の葱」、スメルジャコフの遺書の意味、リーザの変心、ニーノチカとコーリャ、「あなたではない」のアリョーシャの発言、等々を「認知的共感」の観点から検討していきたいと思います。 また、『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』ポール・ブルームも紹介したいと思います。この本は「情動的共感」に対する批判の書であると同時に、実行的愛と共感のあり方について新しい観点を提示しています。「認知的共感」と『カラマーゾフの兄弟』が結び付いたのはこの本によります。 以前より、ドストエフスキーの小説における、描かれていない事実の系列と登場人物の内面の実在性に惹かれてきました。それを洞察や推論という言葉を使って考えてきました。「認知的共感」の概念を知ることによって、洞察や推論が共感の概念に取り込まれる可能性を見出しました。その上で「情動的共感」との関係性が主題化できることが分かりました。共感については、検討すべきことが山のようにあり、まだ暗中模索の状態です。発表プランが当日までに変わる可能性もあります。今回の発表は結論に落とし込むと言うより、仮説を提示する問題提起の場としたいと思います。 第248回例会傍聴記 長縄光男氏の「ゲルツェンとドストエフスキー（予備的考察）」を聴く 小俣 智史 去る11月17日、早稲田大学文学部キャンパスにおいて、ドストエーフスキイの会とロシア思想史研究会の合同企画として「ゲルツェンとドストエフスキー（予備的考察）」と題した講演が行われ、両会の会員をはじめ多くの聴衆が詰めかけた。この日登壇されたのは、『過去と思索』（共訳）や『向こう岸から』などゲルツェンの著作の翻訳を手掛け、また『評伝ゲルツェン』（成文社、2012年）や『ゲルツェンと1848年革命の人びと』（平凡社、2015年）などゲルツェンの伝記・研究書で知られる長縄光男先生であった。 この日の講演の内容を以下に辿ってゆこう。まずはゲルツェンとドストエフスキー が生きた時代の背景から、両者の立場が位置づけられた。19世紀中葉、西欧では市民社会や資本主義の成立の後、経済格差、社会の分断が進行した。ロシアでもアレクサンドル二世の大改革により資本主義化が進み、西欧と同様に格差と分断が拡大していった。そうした時代にあって、ゲルツェンもドストエフスキーも西欧に対する懐疑 ニュースレター№150 2018 ――――――――4――――――――――――― 的視点を抱いていたという点で共通していた。しかしその懐疑は、ゲルツェンにおいては資本主義段階を飛び越える独自のロシア社会主義論へと結実し、一方ドストエフスキーを正教と専制を擁護するイデオローグへと変えたのであり、その点で両者の立場は対照的であった。報告では、両者の比較対照はその西欧観のみならず、それぞれの人間性や恋愛観、出自、経済力・金銭感覚といった点にまで及んだ。 続けて、報告では両者の関係を詳細に追っていた。ゲルツェンとドストエフスキーの出会いは1846年10月のことであり、当時一連の哲学論文や中篇・短篇小説により論壇に登場したゲルツェンのことをドストエフスキーはライバル視していたという。この出会いの後、ゲルツェンは国外へ亡命、ドストエフスキーはペトラシェフスキー・サークルへ接近したことにより逮捕・流刑の憂き目にあった。その後両者が再会したのは、1862年7月、パリでのことだという。この頃、両者は思想的に親密な関係にあり、ともに西欧のプチブル（ブルジョア）への批判を展開し、ロシアの農村共同体を評価していた。しかし、その先に何を見ていたかという点で、二人の考えは決定的に異なっていた。報告ではその決別の分岐点は、近代性あるいは個我の扱いにあるとされた。ロシアではまだ確立されていない近代的個我の重要性を説いたゲルツェンに対して、ドストエフスキーは近代社会において神から離れ、神を失った人間の分裂を問題視し、信仰による共同性を復元せよと説いた。このように、近代人を目指したゲルツェンと、その近代人の苦悩を描いたドストエフスキーという対比で両者の視点の違いは説明された。 報告では、1862年の再会の後も二人がヨーロッパで数度出会っていることが、日記や書簡から明らかにされた。この時期、ポーランド問題をめぐる論争が影響してゲルツェンの権威が下降気味であったのに対して、ドストエフスキーは作家としても保守の論客としても、その地位を確固たるものとしていた。二人は不仲であったのだが、それでもドストエフスキーはゲルツェンへの関心を失っておらず、その著作をひそかに探し求めていたという。こうした両者の関係から、ゲルツェンが死去した70年以降最盛期を迎えるドストエフスキーの思想や作品を読み解く際に「ドストエフスキーの中のゲルツェン」という問題は鍵になりうるのではないかという可能性を示し、報告は締めくくられた。 以上のように充実した報告であったが、題目に「予備的考察」と付されているように、この報告ではこれからも続く「ゲルツェンとドストエフスキー」研究の論点を提示したということである。続編を心待ちにしたい。 事務局便り 〇２０１８年も残り少なくなりました。今年は『白痴』が書かれてから１５０年、１８６８年は明治元年でもありました。来年２０１９年２月にはドストエーフスキイの会発足５０周年を迎えます。来年が次の時代へのスプリングボードとなるかどうか、みなさんとともに考える機会を持てたらと思います。幸いに会はエネルギーを持続しており、例会も快調なテンポで続き、「ドストエーフスキイ広場」２８号も、来年４月刊行に向けて、準備を進めています。
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ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.149 News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2018.10.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：長縄光男（ながなわ みつお） 1941年生。横浜国立大学名誉教授。専門は19世紀ロシア社会思想史。著書に『評伝ゲルツェン』（成文社、2012年）、『ゲルツェンと1848年革命の人びと』（平凡社、2015年）など。訳書にゲルツェン『過去と思索』(全３巻)（筑摩書房、1998－1999年）(金子幸彦との共訳)、ゲルツェン『向こう岸から』(平凡社、2013年)、最近の論文に「若いブルガーコフの回心の物語‐自伝的エッセーに即して」（科研費研究プロジェクト「競争的国際関係を与件とした広域共生の政治思想に関する研究」研究代表・大矢温、札幌大学、2014年、83－96pp.）、「若いゲルツェンと自然科学」（『ロシア思想史研究』第８号、2017年、19－30pp.）などがある。 ニュースレター№149 2018―――――――2――――――――――――― 第248回例会報告要旨 ゲルツェンとドストエフスキー（序論） 長縄 光男 ドストエフスキーについてはすでに様々なことが書かれ、また語られ、今では書き尽くされ、語り尽されているといった感があるが、管見する限り、我が国ではドストエフスキーをゲルツェンとの関わりで論ずるという試みは、いまだなされていないように思われる。本日の報告がこの空白を埋めることになるならば幸いである。 ゲルツェン（1812年－1870年）とドストエフスキー（1821年－1881年）という十九世紀ロシアの思想界を代表する二人の知的巨人を併置して対論させるということの面白さは、二人が人間的にも、思想的にも、社会的にも、つまりは、あらゆる点で対照的な位置にありながら、しかしその立ち位置は微妙に交錯し、しかし、さらに精緻に見て行くと、その交錯の背後にやはり大きな隔たりを認めざるを得ない、という点にある。しかも、両者のロシアのロシア思想の歴史の中で果たす役割に大きさからして、この対立と交錯と離反という経緯には、思想史的に見ても極めて興味深いものがあるのである。 しかるに、我が国における両者の知名度には著しい差があり、ドストエフスキーに比べればゲルツェンはいまだ無名の域を出ていないようにすら見える。このことには、我が国の知的権威ともいうべきマルクスとドストエフスキーによる芳しからぬゲルツェン評が少なからざる役割を演じているのだろう。例えばマルクスは同じ時期(1850年代)にロンドンで亡命生活を送っていたにもかかわらず、一度としてゲルツェンと顔を合わせることはなく、亡命者たちの集会においてもゲルツェンと同席することを頑なに拒み続けていた。マルクスから見れば、ゲルツェンは「時代遅れのロマン主義者」「パン・スラヴ主義者」「ロシア政府の回し者」だったのである。又、ドストエフスキーから見ると、ゲルツェンは亡命することによって祖国を失った根無し草で、従って、神をも失った憐れな存在であった。ゲルツェンが我が国で無名を、あるいは不評を託ってきたのは、おそらく、そうした先入的知識のせいではないかと思うのである。しかし、ゲルツェンに親炙し、長年ゲルツェン研究に携わってきた者の目から見れば、これらの評価は著しい誤解と偏見に基づいていると言わざるを得ない。今日はドストエフスキーとの関係を論ずることを通じて、ゲルツェンの「汚名」をいささかなりとも雪ぐことができればうれしく思う。 そうした理由から、今日の報告はゲルツェンに軸足が置かれることになるだろう。標題が「ドストエフスキーとゲルツェン」ではなく、「ゲルツェンとドストエフスキー」となっていることに、その趣旨を読み取っていただきたい。 概して言えば、ゲルツェンとドストエフスキーという二人の大きさからして、両者の知的交流の跡を一時間半という短時間の中で十全に論じきることはほとんど不可能である。このテーマは今後とも深めて行くとして、今回の報告では、① ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№149 2018 両者の生きた19世紀中葉という時代がヨーロッパとロシアにとっていかなる時代であったか、そして、その中で両者はいかなる思想的課題を担っていたか、②両者の人間性にはどのような違いがあったか、③両者の出自にはどのような違いがあったのかなどを論じ、⓸両者の関係史をたどりながら論点を提示するにとどめ、両者の思想性の違いについては、その大まかな方向性を示すことで終わらざるを得ないことをご了承願いたい。標題に言う「序論」とはその謂いである。 第247回例会傍聴記 坂庭淳史氏「タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話」 堀 伸雄 “ 映像の詩人”と呼ばれ、僅か８本の作品を遺し、54歳で亡命先のパリで肺癌のため客死した旧ソ連の映画監督
アンドレイ・タルコフスキーとドストエフスキーとの関わりは、タルコフスキー本人や関係者による回想や研究等により明らかである。然るに、自身によるドストエフスキー関連の映画化、とりわけ『白痴』については度々構想の俎上に上ったにも拘らず、実現に至らなかった。それはなぜか。今回の坂庭淳史氏のご発表への私の最大の関心はそこにあった。“映画”と“文学”を隔てる障壁の故か。否、むしろ、映画化構想の過程で、タルコフスキーのドストエフスキーに対する向き合い方が変化したからではないか。 坂庭氏は、濃密に作成されたレジュメに沿い、タルコフスキーの年譜を略述されたうえで、大学時代からの友人アレクサンドル・ゴルドーンの「タルコフスキーの作品には芸術家ドストエフスキーが形を変えて現れ、タルコフスキーを通してドストエフスキーが表現されている」との代表的証言を紹介された。それを裏付けるかのように、タルコフスキーは、その日記『殉教録』の中で「ドストエフスキーは神を信じたかったが、信じることができなかった。器官が退化した。」と言及、自らも神を感じるような器官は備わっていないとしてドストエフスキーへの共鳴を公言している。また、タルコフスキーは文学作品の映画化に際しては、その作品の理念、思想、監督自身の考えを現実世界に実体化すべきという基本的考え方に立脚していた。それがゆえに、タルコフスキーの日記には『白痴』の映画化に向けての苦闘ぶりが浮き沈みする。日記をさらに読み込むと、タルコフスキーの興味がムイシキンからドストエフスキー自身の人物像へと移行していくことが読み取れる。今回の坂庭氏の発表の核心となる点である。それを作品の面から検証すべく、氏は遺作『サクリファイス』（1986年公開）の映像を紹介しながら、「信仰」と「生」を切り口として解説された。この作品に『白痴』が色濃く投影されていることに加え、主人公アレクサンデルの中にムイシキンとドストエフスキーとが相交錯して内在する点に注目された。ムイシキンを演じた経験を持つ元舞台役者のアレクサンデルは、演じた役に自分本来の個性や自我が吸収されてしまうことに耐えられないとして、役者をやめてしまう。そこには、原作中の ニュースレター№149 2018 ――――――――4――――――――――――― 人物よりも作者ドストエフスキーという人物そのものに関心が移行するタルコフスキー自身の姿勢が垣間見える。舞台が主人公の誕生日に設定されていること、郵便配達人オットーとの間で神の存否に関する会話が交わされること、アレクサンデルとオットーがダ・ヴィンチの絵画『東方三博士の礼拝』を見入る顔のアップ、ムイシキンを演じた際に花瓶の場面が印象的だったとの娘の話、その直後、ガラス容器が床に落下するシーンなどの描写からは、外形的には『白痴』との関連を容易に想起させる。しかし、注目されるのは、突然勃発した核戦争の報に絶望し、神の存在に懐疑的であったはずの主人公が、自らの犠牲との交換に家族の救済を神に祈念し、その証としてオットーから“魔女”と名指しされた召使マリアと一夜を過ごした後、自宅に火を放つという筋立ての中に「信仰」と「生」についてのドストエフスキーとの対話が見て取れることであり、タルコフスキーのドストエフスキーの人物像への関心が強く伝わってくるのである。アレクサンデル、ドストエフスキー、ムイシキンの重なりを映像を通じて検証された坂庭氏の主張は、タルコフスキーの映画同様、瑞々しく新鮮であった。 最後に、氏は『サクリファイス』と黒澤明『生きものの記録』（1955年公開）との相関について触れ、『サクリファイス』の源流が『生きものの記録』にあることに付言された。機会を改めて、このテーマについてもお聴きしたいものである。 事務局便り 〇今回の長縄光男氏による例会は、「ロシア思想史研究会」とのジョイントの催しとして企画されました。長縄氏は御子柴道夫氏など共に、「研究会」の主導的メンバーです。前回に引き続いて会場は早稲田の文学部校舎ですが、前回は報告が早稲田の先生で、映像設備の関係で会場変更でした。今回は「研究会」が通常の例会で利用されているため、確保しやすかったことによります。ドストエーフスキイの会ももともと早稲田とは因縁が深いので、これからも折にふれて利用させてもらえれば好都合です。 〇前回はスペースの都合で「事務局便り」を省略し、お知らせが遅れましたが、9月15日の前例会の前に、「広場」来年号の編集委員会を発足させました。 前年のメムバー、熊谷、近藤、渡辺、福井、高橋、木下の他に、泊野さんに加わってもらいます。 〇「広場」28号の原稿募集中です。内容は従来通り、例会報告者の論文の他に、エッセイ、小論文、学会報告などです。締め切りは１２月末日。会員の方にはとくにエッセイのご寄稿をお願いしたいものです。４００字５枚まで掲載無料です。超過分は４００字あたり４００円自己負担で、「広場」１冊が還元されます。下記事務局までメールでご連絡ください。
（木下）
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報告者紹介：坂庭淳史（さかにわ あつし） 早稲田大学文学学術院教授。専門は19世紀ロシア文学・思想。最近の著書に『プーシキンを読む』（ナウカ出版、2014年）、論文に「黒澤明『生きる』とロシア文学」（『比較文学年誌』早稲田大学比較文学研究室、2015年）、訳書にアルセーニー・タルコフスキー『雪が降るまえに』（鳥影社、2007年）など。 ニュースレター№148 2018―――――――2――――――――――――― 第247回例会報告要旨 タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する 対話 坂庭 淳史 ソヴィエトを代表する映画監督アンドレイ・タルコフスキー（1932₋1986）は生涯でわずか8本の作品しか撮ることができなかったが、彼の映画は独特の映像美はもとより、そこに表現された哲学的思索によって現在でも多くの人々を魅了している。タルコフスキーは国内外の映画はもちろん、思想や文学についても造詣が深く、彼の日記『殉教録』や映像論などをまとめた著書『刻印された時間（映像のポエジア）』の中には、ベルジャーエフやシェストフ、トルストイ、あるいはトーマス・マンやヘルマン・ヘッセ、カルロス・カスタネダといったさまざまな人々の名が見られる。なかでもタルコフスキーが長年に渡って強い関心を持ち続けていたのが、フョードル・ドストエフスキーであった。今回の発表では、タルコフスキーの創作世界において、彼がドストエフスキーに対してどのようなまなざしを向けていたのか、あるいはドストエフスキーがどのような役割を果たしていたのかを考えてみたい。 タルコフスキーはドストエフスキーの精神的末裔とも称され、その思想の類縁性はこれまでにも多くの研究者たちによって語られてきた。彼があたためていた数多くの作品構想の中には『分身』や『罪と罰』といった題名も見られるが、彼の実際の作品の中でドストエフスキーの小説や思想と直接に結びついているシーンは残念ながら数えるほどしかなく、しかもわずかに触れられている程度でしかない。 ここで注目したいのは、以下の三つの事実である。 第一には、その実現可能性はともかく、ドストエフスキーその人についての映画の計画である。彼が最も信頼していた俳優アナトーリー・ソロニーツィン（1934-1982）を作家役と決めて構想したものの、この俳優の癌による早世とともに計画自体も立ち消えになってしまったようだ。しかし、タルコフスキーのドストエフスキーへの心酔ぶりはこの事実からも理解できるし、ソロニーツィンがその他のタルコフスキー作品で演じた役柄なども、タルコフスキーによるドストエフスキー像を考えるうえでは参考になるだろう。 第二に、小説『白痴』の映画化の模索である。彼が1970年代から1986年末に亡くなるまで記していた日記には、恒常的と言ってもいいほどに『白痴』に対する何らかの記述がある。他の構想と比べてみても作品の実現の可能性は十分にあったようだが、ゴスキノ（国家映画委員会）との長いせめぎ合いの末、撮影許可はとうとう下りなかった。それでも、『白痴』についてタルコフスキーが書き残した印象的なシーンや小説や登場人物の分析、映画化を想定した配役のメモ、あるいはドストエフスキー作品に基づくソ連映画へのコメントや、わずかながらに残されている黒澤明の映画『白痴』に関する言及などから、彼がどのような『白痴』を撮ろうとしていたのかを推測することができる。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№148 2018 第三には、1986年に公開されたタルコフスキー最後の作品『サクリファイス』でわずかに示されるドストエフスキー世界へのリンクである。冒頭のシーンで、この映画の主人公アレクサンデルが、かつては俳優であり、『白痴』のムイシュキン公爵を演じて成功した過去を持っていることが語られる。『白痴』やムイシュキン公爵に関してそれ以上に語られることはなく、この設定はさほど大きな意味を持っていないようにも思える。そのせいか、この設定はこれまで十分には注目されてこなかった。しかし、この映画を『白痴』（あるいはドストエフスキーの世界）に重ねるならば、そこにはタルコフスキーによる信仰と生にまつわるドストエフスキーとの対話が見えてくる。 今回の発表では、近年のタルコフスキー研究も紹介しながら、以上のことを中心に検討していく。 第246回例会傍聴記 「ドストエーフスキイ広場」（2018）の合評会報告 2018年７月14日に行われた「広場」合評会の報告をいたします。合評会は今回掲載された６本の論文の評者をあらかじめ定めて、評者による講評を中心に意見を述べ合う形をとりました。以下は各評者による当日のまとめです。 (熊谷のぶよし当日司会) 〇清水論文：「祭り」‐『悪霊』版ワルプルギスの夜 題名が示すとおり『悪霊』をファウストのヴァリエーションと見立てる。ヨブ記、ファウストとも最後の土壇場で神が介入し悪魔の目論見が裏切られるように、『悪霊』においてもピョートルが仕掛けた悪魔的破壊行為のプランは最終的にスタヴローギンを悪魔的偶像として取り込むことが出来ずに頓挫する。本論文はその破壊の過程をヴォードヴィルという喜劇の枠組みとして捉えて分析し、かつ結論部においてスタヴローギン（および彼の師ステパン氏）をその枠組みを打ち破る救済者的存在と位置づける。『悪霊』は屈折した形ではあるにしても希望が見い出せる作品であり、それを解くにはスタヴローギンに焦点を当てる必要があるとあらためて認識できた。（近藤靖宏評） 〇大木論文：「スタヴローギンの告白」について 大木氏から合評会後に丁寧な「感想」を頂いた。そのため、当日配布したレジュメを一部訂正した。ドストエフスキーは、「後光のない、昇天できない＜イエス＞」としてのスタヴローギン像を創造し、「小さきもの」を躓かせ、そこでだれをも躓かす自身の関係的な「罪」の絶対性を実験してみせた。しかしここにはきわどい「転倒」があり、＜脱倫理化したスタヴローギン＞が「ロシアのキリスト」になって顕れた。但し、彼の＜記憶映像＞としての＜マトリョーシャ＞が、どこまで実在の＜イマージュ＞であったか。問題が残る。改稿文は、次号「読書会通信」連載記事（web版も）に譲る。挑発的に勉強させて頂いた。（福井勝也評） ニュースレター№148 2018 ――――――――4――――――――――――― 〇高橋論文：『罪と罰』から『破戒』へ―北村透谷を介して 合評会では論文の内容紹介に大半の時間をあて、著者の広範な問題関心にもとづいて 『破戒』に関連する多方面のテーマが論じられていることを順に紹介した。
そして 最後に感想として、新谷氏や井桁氏の論考に基づく論述の部分が読みにくいこと、透谷の『罪と罰』評への具体的な言及がもう 少しあっていいのではないか、と述べた。透谷の忠君愛国批判を介して『破戒』にすでに当時の教育体制への批判的視点があったという指摘に教えられ、また
信州の山脈を眺めての主人公丑松の感動が、「人生に相渉るとは何の謂いぞ」の「山岳」をめぐる一節に対応しているという指摘が面白かった。（池田和彦評） 〇齋須論文：ドストエフスキーの土壌主義と「ロシア民衆の理想像」 ザドンスクのチーホン 1860年代のＤの思想に、「傲慢さ」「排他性」「閉鎖性」の西欧精神に対する「和解と総合の能力」のロシア精神（プーシキン）、さらに『白痴』のメモで、「真のロシアの精神と文明」を「ザドンスクのチーホン」に見る指摘は、「教父的インテリゲンチャ」の系譜を示すものとして注目。民衆の教育者としてのこの聖者の列聖（1861）とＤの土壌主義の民衆教育論との関連にも注目。貧民や弱者を「虐げられ侮辱された人々」（Ｄの作品名と同表現）と呼んだチーホンの「謙虚さ」は『白痴』、『悪霊』後は、「傲慢さ」に対置され、「作家の日記」では、「ロシア民衆の歴史的理想像」、「肯定的な美」の表現に転じるという仮説は大筋で同感。ただその具体的論証は課題。（木下豊房評） 〇木下論文：『カラマーゾフの兄弟』におけるヨブ記の主題とゾシマ長老像、およびその思 想の源流 受難に耐え抜くヨブと、それに対する三人の友人たちの因果応報的な見方と、「罪の連帯性」についてゾシマ長老と、イワンの肯定と否定の対照的見解とがパラレルな関係におかれている。『カラマーゾフの兄弟』においては、晩年の作家がゆきついたゾシマ長老の法話に見られる正教的倫理観が重要であり、その思想的源流が豊富な資料によって追究されている。氏はそれを東方正教伝来のへシュカスムによって培われたセルギイ・ラドネシスキイからオプチナ修道院に至る純正なロシア正教の精神に見て、それを思想的核とする「教父的インテリゲンチヤ」の系譜の中に作家を位置づける試みは斬新である。（大木昭男評） 〇宇山論文：『カラマーゾフの兄弟』の語りの構造をめぐる試論 本論文は、アリョーシャの語り口、正確にはアリョーシャの二人称の代名詞ТЫとВыの使い分けに着目し、アリョーシャとその他の主人公との関係性を推し量った。この分析により、作者はアリョーシャとスメルジャコフの関係について再考させることに成功している。ついで『ゾシマ長老の法話』における、未完の一人称小説の語り手としてのアリョーシャの役割に注目し、その機能について考察し、新たな提示を行った。具体的には、『ゾシマ言行録』で、真正の作者ドストエフスキーではない仮の作者が後景に退き、アリョーシャが語り手としての地位をドストエフスキーから委ねられていることを慎重に誠実に論証することに成功しているといえる。（泊野竜一評） |
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ニュースレター№147 2018 ―――――――2――――――――――――― 第245回例会傍聴記 泊野竜一氏「19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手―ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み―」を聴く 渡辺好明 泊野氏はまず「大審問官」の逸話が「長広舌と沈黙」という独特な対話表現を用いて、通常の対話よりもはるかに内的対話の表現となっていると提起する。そしてこの表現形式をE.T.A.ホフマンの『砂男』やV.F.オドエフスキーの『ベートーベン晩年のカルテット』における対話法を継承し、発展させたものとみており、それによって、作中における対話の構造分析と対話表現の意義を検討する。 しかし、饒舌と沈黙の間に対話が成立するのだろうか。気になるので帰ってからM.ブーバーの『対話』を調べてみたら、その中で「沈黙が伝えるもの」という項があり、そこでブーバーは「対話には音声を必要としない」し、「言語は一切の感覚的特性を捨てても、言語たり得る」といって沈黙の対話性を肯定している。そこで「真の対話は、――語られたものか、沈黙のままであったかは、問題ではない」といっている。そしてその例として、フランチェスコ派のエギディウスとルイ9世は「ただ一度だけ合うことがあったが、一言も言葉をかわさず」、お互いを確認し合ったという話を載せている（植田重雄訳 岩波文庫）。ブーバーは言葉以前の身体表現や表情による意思の相互伝達の可能性なども、広く言語として捉えているようだ。 H.ヘッセも『立てられた指』という詩を書いているが、これは『碧巌録』の中の「倶胝指頭禅」から題材をとっている。倶胝和尚は言葉を拒否し、黙って指を立てるだけで弟子を悟りに導こうとした。 ドストエフスキー、ブーバー、倶胝に共通するのは、一般的な言葉では表現できない内的な深い対話を想定しえたからであろう。それについては、ホフマンとドストエフスキーの中間にオドエフスキーをおき、『ロシアの夜』にならって哲学的な議論を「大審問官」の中に対話表現として継承したという泊野氏の主張には納得させられた。しかし倶胝の話までいってしまうと非言語的思考の領域に入るので、単なる沈黙の意味を越えて別の神秘的思考を必要とする。 例会における質疑応答では、最終的には「大審問官」の逸話に集中した。九州から清水孝純先生も参加され、「大審問官」について印象に残る発言をされた。 なお、泊野氏は2016年の『ドストエーフスキイ広場 NO.25』に「『カラマーゾフの兄弟』の対話表現方法が持つ意味について」を発表している。読み返してみて、今回の発表の前提として、さらに理解を深めることができた。それによると、エプシテインという人が、ロシア文学における言葉と沈黙について研究しているという。日本でもジョージ・スタイナーの『言語と沈黙』がせりか書房から出ているそうだが、沈黙の問題はさらに幅広い問題を我々に提起しているようである。 その際、饒舌と沈黙にとって対話が成立するかという問題がある。氏は、エプシテ ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№147 2018 インがキリストと大審問官の間に対話は成立していないという説も紹介している。こ の2人の間に対話が成立するかしないか、作者は明確には規定していない。対話が成立するためには、同じ土俵に立つ2人が互いに意思を疎通（誤解なく）させなければならない。しかし大審問官の逸話はともかく、自動人形に一方的に話しかける『砂男』のモノローグも、バフチンにいわせれば「たとえ一人しか話していなくても、我々はこれを対話であり、張りつめた対話であると感じる」となるが、これは読者の想像力を信じての発言であろう。 しかし泊野氏の論考は沈黙の意味を分析するのではなく、饒舌と沈黙によって生じる豊かな対話性に重点をおいている。したがって傍聴記は発表者の論旨とは離れたものとなってしまったが、そのようなことを色々考えさせてくれる内容であったことに、改めて感謝したい。 合わせてヘルマン・ヘッセとの比較論の可能性に寄せて ドストエーフスキイの会は来年で創立50周年になりますが、今までホフマンとドストエフスキーについての研究発表は1回もありませんでした。今回の発表者泊野氏も触れていましたが、ドストエフスキー16歳の時に兄ミハイルへ宛てた手紙に、ホフマンはロシア語で発表されたもの全部と、『雄猫ムル』はドイツ語で読んだと書いており、ドストエフスキーを読み解くには重要な存在といえるでしょう。 そしてドストエフスキーの初期作品『主婦』や『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』はホフマンの影響が濃厚であるにも関わらず、会で採り上げられなかったということは、やはり研究に偏りがあったと思われます。泊野氏にそのことを質問したら、外国ではホフマンとドストエフスキーに関する論文はたくさんあり、著書も出ているという。知らないのはロシア語の読めない一般読者だけだったということになります。 これは単なる一例で、同じことがヘッセについてもいえるでしょう。ヘッセがドストエフスキーについて論文を書いていることは知られていますが、これも会で採り上げられたことはなかったように記憶しています。 私事になりますが、昨年『ヴィルヘルム・グンデルト伝』（私家本）を出版しました。グンデルトはヘッセの3歳年下の従弟で、日本に30年住んだ日本学者です。ヘッセが自著『シッダルタ』第二部に、「日本にいるいとこW・グンデルトにささげる」と献辞を書いたのがこの人です。 それが縁で日本ヘルマン・ヘッセ友の会／研究会から講演を頼まれ、5月27日にしてきました。ただしこれはあくまで伝記的な内容で、文学論ではありません。その際ヘッセの会の事務局から、ヘッセの会とドストエーフスキイの会で発表会をコラボでできればいいですねという話がありました。しかし我が会では今までヘッセに関して発表した人はないどころか、2次会などでもヘッセの話が出たことは一度も記憶にありません。それでもしどなたか発表できる方がいましたら、ぜひやってもらいたいと思います。できるだけ会の間口を広げて、豊かで実りある場となることを希望します。 あるいはこのテーマも、すでに外国語で書かれた論文があるのかもしれません。したがって、そういう論文を読むことのできる立場の人が発表者としてふさわしいと思っています。 ニュースレター№147 2018 ――――――――4――――――――――――― ヘッセは評論として「ドストエフスキーの『白痴』論考」、「カラマーゾフの兄弟、 あるいはヨーロッパの没落」、「ドストエフスキーについて」を書いており、『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集』第7巻に収録されています（日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編・訳 臨川書店発行）。 しかし、ヘッセとドストエフスキーは全く違った資質の作家であり、作品を通じてこの2人を論じるのは難しいのかもしれません（渡辺）。
事務局便り ◎ 前回の例会開催日に総会を行いました。その際に承認された前年度決算書を掲載します。（会計：近藤） 平成２９年度 収支計算書 （平成29年5月6日〜平成30年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
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ドストエーフスキイの会ﾆｭｰｽﾚﾀｰ No.146
News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2018.4.15 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：泊野竜一（とまりの りょういち） 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース。研究テーマは、ドストエフスキー作品における対話表現としての長広舌と沈黙との問題、さらには19－20世紀ロシア文学における対話表現の問題の研究。2016年9月−2017年6月までモスクワ大学留学。具体的な研究内容として、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を取り上げる。そして、それらの間での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。 ニュースレター№146 2018 ―――――――2――――――――――――― 第245回例会報告要旨 19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手―ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み―
泊野竜一 2015年の225回例会では、ドストエフスキーが長編小説中、特に『カラマーゾフの兄弟』の《大審問官》で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられること、それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっていること、つまりこの対話は、見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈しているが、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっていたのであったということについて発表した。 しかしドストエフスキーに先行するE. T. A. ホフマンやV. F. オドエフスキーの作品にも《大審問官》の対話と少なくとも形式上は一致しているといえる対話が存在する。具体的にはまず、ホフマンの『砂男』に登場する学生のナターニエルとスパランツァーニ教授の令嬢オリンピアの対話が挙げられる。ナターニエルはふとしたことからスパランツァーニ教授の令嬢である美女オリンピアに恋をする。ところがオリンピアは教授の製作した自動人形であった。オリンピアは、彼女に恋したナターニエルの熱烈なアプローチに対してただ通り一遍の返答をすることしか出来ない。次に、オドエフスキーの〈ベートーベン晩年のカルテット〉に登場するベートーベンとその弟子のルイーザとの対話が挙げられる。〈ベートーベン晩年のカルテット〉は、若者たちが毎晩集まり、世を徹して語るという形式で書かれたオドエフスキーの額縁小説『ロシアン・ナイト』の第六夜で語られる物語である。この物語中でベートーベンはルイーザに対して芸術論を語るのであるが、ベートーベンの一弟子にすぎないルイーザは、ベートーベンの熱弁に対して一切返答することなく、ただひたすら彼の長広舌を拝聴しているのである。 先行研究から、ドストエフスキーはホフマンやオドエフスキーからさまざまなかたちで影響を受けている作家であると考えられている。本発表では、長広舌を揮う話し手と、通常の対話では脇役としての役割を担うはずの、沈黙し長広舌を拝聴する聞き手という対話表現に注目する。これらの作品の対話の具体的な分析を行いつつ、《大審問官》との関連性について考察する。その上で、１９世紀文学におけるこのような独特な対話表現の意義について検討していく。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№146 2018 第244回例会傍聴記 野澤高峯氏「スタヴローギンとムイシュキン」 ―人間的価値審級を読み解く―
福井勝也 今回の例会は、おそらくドストエフスキー文学の核心にある「語り得ぬもの」に挑戦したものであった。配布資料は興味深い大分のもので、その要点は十分に発表で伝えられずに＜勿体なさ＞が残った。司会も務めさせて頂いたが、この「傍聴記」では資料を読み直した「感想」を補足したい。野澤氏は、その資料の後半で次の様に記していた。 今までの考察において、ある結論として取り出したのは次の事だ。宗教的世界像が解体され、教会の権力構造から培われた「神」が無化されつつある時代に、無神論として作家が相対化した「キリスト」とは、「意味や価値の源泉は外側にない」と言う理路で考えれば、実存論的にはそれは人間の内在から意識（身体）に浮上する「語り得ぬもの」と言わざるを得ない。 （p.10） 今回の野澤氏の発表内容は、この数行に集約されていたと改めて思った。そしてこのために、作家生誕200年（2021年）を迎えようとしている昨今にあって、これまでのニーチェ、ハイデガー、バフチン等の思想的営為を踏まえ、その到達した＜哲学的思惟＞を＜人間的価値審級＞の問題として改めて論じようとした。この試みは、本質的な「困難性」を予め伴っていた。しかし同時に、このような議論こそ、本会の例会らしいドストエフスキー論であって、この種の本質論が希有になった今日、まずは評価すべきものだろう。それは、長年の現代思想・文学に対する氏の誠実な目配りによるところが大きいものと感じた。 そして先の引用文の直後に、小林秀雄「『白痴』についてⅡ」（1964）と山城むつみの「小林秀雄のクリティカル・ポイント」（1992）の核心部分が焦点化された。すなわち「語り得ぬもの」としてのムイシュキンの「或る一点（意識の限界点）」への着眼だ。かつて当方も拙論の対象とした批評文であり、野澤氏の今回の発表ではこの部分に特に注目した。 ここでは、小林秀雄という批評家の根本姿勢（「作者の書かなかったことは書かない」）にも係わり、「作者の体験（意識の限界点）は、この信念伝達不可能性こそ、この信念の価値或いは普遍性の最も深い根拠である様に思われたのである」との小林の「白痴論Ⅱ」からの肝要な一文も引用されている（但し、括弧内は野澤氏の追記と記されている）。 しかしながら問題なのは、その直後の件である。山城論文の部分的要約か、野澤氏自 身の言葉を含むのか、はじめは分からなかった。小林「白痴論」の例の「トルソ」 表現に絡んだ、次のような記述である（実はこの後、山城の原文に当たったが、野澤 氏が原文の数箇所を繋いだ合成文であった。如何か。無論、小林の文章ではない）。 ニュースレター№146 2018 ――――――――4――――――――――――― 「首」が無いということが、原理的にありうるべき唯一の在り方であり、捉え得ないものとしてのみ、捉えうるというパラドックスである。小林が封印したものは、「意識の限界点」上に現れた幻のキリストであるが、小林にはその「限界点」には肉薄できなかったからだ。彼にはドストエフスキーに見えたようには、キリストが見えなかった。「キリスト教」がわからなかったというのはそういう意味である。 （資料p.11） 基本的に山城の要約文と言えようが、正確には引用合成文であり、野澤氏の理解でもあると考えて一言しておきたい。無論、小林批評に係わる重要な論点だと思うからである。そもそも、前提になる山城の処女批評＜クリティカル・ポイント＞は、その後の氏の発言から、その議論に明らかな＜ゆらぎ＞が垣間見えた。それは小林のキリストへの拘りは、生涯続いた事実から来るもので、小林は最期まで（ドストエフスキーの）「キリスト」を封印などはしなかった。そのうえでなお、小林には「ドストエフスキーに見えたようには、キリストが見えなかった」とは、一体何を意味するのか。「キリスト教がわからなかった」という有名な小林の科白を、それに連続した回答として安易に了解してよいものなのか。 元々小林の「トルソ」論は、『罪と罰』と『白痴』という作品の相異から来ていて、小林は何度かドストエフスキーの小説は『罪と罰』で終わっていて、「頭」は「罪と罰」にあると明言している。こうなると、ムイシュキンを書いた『白痴』のドストエフスキー自身にも、「キリスト」が真実に見えていたのかという問題が残る。とすれば、ドストエフスキーに見えなかったもの（「語り得ぬもの」）を、小林も書かなかった（「語らなかった」）のだと言いうるかもしれない。今回の野澤氏の発表の＜困難さ＞を改めて再認識させられた。 野澤氏の資料でも紹介されていた批評家の竹田青嗣氏に『世界という背理』（1988）という小林・吉本（隆明）論がある。「傍聴記」最後に、そこからの一文を引用しておきたい。 小林の批評の方法が最後に残す問題があるとすれば、それは、わたしの見る限り、彼の批評の不徹底や転回からくるのでなく、むしろ一貫した方法的視線の本質から避けられないものとして現れている。だからそれはまた、西欧の近代観念に対立した実存論や存在論に内在する最後の問題点をよく象徴するものになっている。 （2018.3.28） 事務局便り ◎5月総会を境に、2018年会計年度を迎えます。会の運営もメーリングリストを活用して、これまでと同じ体制で進む予定です。 「広場」27号がお手元に届いていることと思います。7月例会は合評会の予定です。ふるってご参加ください。 |
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報告者紹介：野澤高峯（のざわ こうほう） 書家。「謙慎書道会」評議員、「日本書道芸術協会」認定師範、「書象会」無鑑査会員、「ドストエーフスキイの会」会員、「日本ドストエフスキー協会（DSJ）」会員 ニュースレター№145 2018 ―――――――2――――――――――――― 第244回例会報告要旨 「スタヴローギンとムイシュキン」―人間的価値審級を読み解く― 野澤高峯 近代文学の基本は「個性＝人間性」の表現だと言えるでしょう。そこには答えがなくとも、表現されていることのみで人間の苦境を救います。そのため文学作品は単に現実を描くだけではなく、それを超えたロマンを必ず含んでいます。しかし、そのロマンは、読み手の日常生活の現実感覚に耐えうるものであるか否かが問題となり、過去の文芸批評はこのロマネスクを常に問題として、観念批判（ロマン主義批判）をテーマとしてきました。ドストエフスキー文学はこの観念自体を作品の主題として、なおかつそれを背理として描いています。そのロマンの根拠となる「本来性・倫理性・審美性」（真・善・美）という価値審級（価値の秩序）をどのように扱っているかを、『白痴』と『悪霊』を中心に今回の報告で取り出したいと思います。それはドストエフスキーが無神論で提示した「問い」でもあると思われる為、無神論の現代的意味も浮上させたいと思います。 また、作品の登場人物は独立性が確保された描き方に徹していますが、スタヴローギンとムイシュキンは日常の現実感覚では予想できない謎めいた人物像で設定されています。価値審級を背景に、この謎も解読してみたいと思います。読解の方法としては形而上学や偶喩・説話的理説を排し、実存論的読解で作品に向き合いますが、同様にスタヴローギンとムイシュキン自身にもこの読解で存在論的に向きあいます。これは80年代からの主流であった文学理論、言語論とは逆行しますが、主軸を「エクリチュール」ではなく「パロール」に置き、尚且つ「言語」ではなく「意識」に置く読み方です。読解のスタンスと同様に作品の中でも、価値審級の取り出しにおいて価値の根拠を「本体」として、人間の外部には想定しません。「神はいない」という前提で解読し、「神」に迫る方法です。 今回の考察は『カラマーゾフの兄弟』の主題に迫る為の序奏ですが、考察で設定した無神論の「問い」の一つ目は、イワン・カラマーゾフ的無神論を背景とした次の「問い」です。 「神がいなければ、人間の欲望の存在それ自体が、「真・善・美」に向かう本性をもっているかどうか」 つまり、「本来性・倫理性・審美性」が作品でどの様に描かれ、物語にどの様な意味を持っているかを取り出す事です。私は「真・善・美」については性善説の立場ですが、形而上学を前提としない為、それに向かうことが人間の本来性とは捉えていません（「あってほしい」という願望と「あるべきだ」という要請はロマン主義となります）。それに向かう、その条件を設定することが重要です。 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№145 2018 二つ目は、ドストエフスキーが作品（『白痴』『悪霊』）の中での想定していた神とは何かという事です。ここでも無神論の「問い」として、ニーチェの無神論との比較を横にし、暴挙とも受け取られますが、キリスト教の教義も形而上学とみなしこれを前提としません。 考察のポイントは、スタヴローギンの人物像を、その「意識」の地平（超越論的主観）から捉え、『告白』の意味を探ります。また、ムイシュキンの人物像も、その「意識」の地平から捉え、「意識の限界点」とは何かを探ります。補助題材として小林秀雄の『白痴について』と山城むつみの『小林批評のクリティカル・ポイント』を参考に、その意味を探り、スタヴローギンとムイシュキンの遭遇した共通点を見極め、底辺にあるニヒリズムを基にした作品の現代性も浮上させたいと思います。
赤渕里沙子氏 「『悪霊』の「町」にみるドストエフスキーの集団と個人」
大木貞幸 赤渕氏の報告は、「『悪霊』にみる思想、信仰と集団の必然性」（報告要旨）のモチーフを、集団としての「町」の内外に絞り、作品と作家における倫理・道徳観の不可欠の要素としての集団性の様相とスタヴローギンの立場を模ろうとするものであり、報告後の議論を含めて、広く『悪霊』の問題性にわたるものであった。 若干の私見を交えての報告梗概―― シャートフの神の探究は、国民集団を動かす力として、己の存在を確認し死を否定する力、枯渇せざる「生ける水の流れ」に結ばれ、美と道徳の原理へと連なる。神は一国民の起源・終末の全体を代表する総合的な人格である。共通の神（コスモポリタン）とともに、神も国民も死滅する。（君は神を国民の属性に引き下ろすと揶揄するスタヴローギンに、彼は国民を神へ引き上げるのだと熱して応える。）作家は、国民／人類には人間の魂と溶け合うかのような理念があり、それが正確に感受されている限り国民には力に満ちた生活があると記している。 作家は、民衆は「環境説」など信じていない、と云う。むしろ環境との戦いの中で、環境を改造する自主と自尊を手に入れ、犯罪者の不幸への同情の底でキリスト教的な道徳義務を対置している、と。 作家は、『悪霊』のモチーフに関して、心の清い純朴な人たちでさえ、「来るべき人類の偉大な事業」への熱狂の中で、醜悪な悪行に手を貸すことになりかねないこと、とりわけ現代のロシアではと指摘する。語り手によれば、「五人組」はこの典型であり、ピョートルの組織と特別の「奇跡」に期する一方で、早々と加入に同意した純な「勇気」を悔いてもいる。（ピョートルに決定的な組織戦術を示唆したのはスタヴローギンである。） 当時の町の風潮は奇怪なものであった、と語り手は云う。屑のような連中が幅 ニュースレター№145 2018 ――――――――4――――――――――――― をきかせ、ものよく云わぬ人々が神聖なものを声高に批判し始めたのに対し、第一流の人々がこれに耳を傾けるような無軌道ぶりであった。町に滞在したスタヴローギンの印象は、吝嗇な小役人が未来の「社会的ハーモニー」に有頂天になっている、それに相応しい人間など内にも外にもただの一人も見当たらないという感慨に代表される。 作家にとっての「民衆」は、自身獄中で見知った農民を幻のように写す、脱獄囚フェージカに象徴される。彼は、キリーロフに寄り添ってピョートルの不信仰と堕落を難じ、武装したピョートルを素手で打ちのめして、作中数少ないカタルシスを醸す。 作家によれば、西欧文明の極度の発達によって、個人が民衆から分離し、人々は自由に代えて神を巡る生き生きした観念を失った。スタヴローギンは、そういう者として、信仰を求めつつ信仰に到達しえず破滅する。―― 若い報告者への質問は、「集団性」という着想に集中した。報告はいわば、私を含む多くの年配の参加者の「集団性」と政治に関わる固定観念を洗い直すかのようであった。議論は、シャートフ、ピョートルら「半身」たちのスタヴローギンとの関わりの問題、「町」の集団性と当代ロシアの社会的背景、比較文学的議論にまで及んだ。当座の結論としての、作家がとった「民衆」と西欧的個人に擬されたスタヴローギンの対比には不満の声もあったが、私は、報告要旨における社会の「揺らぎ」と「転覆」の志向、その一方で「スタヴローギンの集団を分裂させる」強烈な力が「集団性」の本質問題に中心化されるべき途上にあると受け止めた。ここからはまた、本編の構成的な曖昧さの問題、本編と「告白」の関係にも踏込みうるのではないかと感じた。赤渕氏の発言は終始謙抑なものであったが、大学院での課題としてルナチャルスキーの名が上がった時には、幾つか驚きの声が上がった。この「プロレタリアートの神」の創建を画策したボルシェビキ、初代「文部大臣」の事跡において、ドストエフスキーから革命、そして現代に及ぶロシアの「神」のかたちが浮かび上がるであろうことを予感した。 事務局便り ◎「ドストエーフスキイ広場」27号の刊行に向けて、現在、編集作業が進行中で、校正はほぼ完了し、和文、英文の目次の作成、表紙などのデザイン、行やフォントの全体的な調整の最終段階に入っています。完成、会員への発送は4月14日を予定しています。印刷・製本の業者への入稿は2月末～3月初めですが、製作費割引の特典を受けるために、入稿は1か月余の余裕をもって行われます。編集作業の全体的統括は熊谷さん、デザイン、業者への入稿、発送日と場所の設定は渡辺さんにお願いしています。校正、発送作業は、運営委員その他、編集会議に自発参加の有志によって行われます。27号も充実した会誌に仕上がりそうです。4月14日の刊行をご期待ください。 |
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News Letter of Ｊａｐａｎｅｓｅ Dostoevsky Society 2017.12.13 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 （Tel＆Fax：047-448-9213） Home
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報告者紹介：赤渕里沙子（あかふち りさこ） 現在、早稲田大学ロシア語ロシア文学コース4年生に在学中。2015～2016年、サンクトペテルブルク国立大学に留学。来年度から同コース修士課程に進学予定。ドストエフスキーとの関連で、19世紀から20世紀初頭までのロシア思想を中心に研究。 ニュースレター№144 2017―――――――2――――――――――――― 第243回例会報告要旨 『悪霊』にみる思想、信仰と集団の必然性 赤渕里沙子 『罪と罰』において、ドストエフスキーは既存の道徳に不信をもったある個人の精神世界を掘り下げ、社会に開示した。変わらぬ日常の中で、たった一人、変化を経験した個人がどのような末路を辿るのか、それが『罪と罰』では描かれている。時代が進んで、作家は再び罪を犯す人間についての作品に取りかかる。しかしそこでとりあげたのは、個人ではなく集団の心理であった。法と戦うラスコーリニコフという直線的な構図は、『悪霊』においてより複雑なものへと拡大される。疑いを抱いた青年ラスコーリニコフは、その不信の芽を植え付けた40年代の知識人、また、西欧のニヒリズムを体現する革命家、そして彼に魅了され賛同していくロシア国民をはじめ、様々な要素へと分裂し、より詳細に描かれていく。 この意味で、作家の問題意識が、個人の内面世界での考察を経て、改めて社会を舞台として展開されたのが『悪霊』といえよう。そしてそこで現れてきたのは、ただ一つ五人組という集団のみではない。物語において様々なレベルで形成され、それぞれに思想を抱く集団を観察することで、作品の詳細な理解へとつながり、また集団という概念を念頭に置くことで、スタヴローギンの苦悩を異なる側面から眺めることができると考える。 この『悪霊』執筆時に、ドストエフスキーがネチャーエフ事件から受けた印象というのも、そもそも集団性への関心が根底にあってのものだった。というのも、彼がこの事件に強いインスピレーションを受けたのは、平凡で善良な人間たちが、ネチャーエフによる思想の感化にさらされたときに、途轍もなく醜悪な殺人をやってのける、つまり集団が思想に食いつくされ、その道徳観が理解しがたいものへと変化してしまう、その過程に驚愕を覚えたからである。西欧から流れ込んでくる無神論的社会主義に若者たちが惹かれていった当時、集団と思想の相互関係への意識が、少なからずドストエフスキーに抱かれていたことは、作品の外において書簡や『作家の日記』でしばしば言及されていることからも明らかである。 『悪霊』においては、作家の集団性への意識はまず「町」という形で現れてくる。アントン氏による事件の叙述として進められる作品の語りが、実質的にはその情報の大部分に噂や評判といった町の人々の声が介在するもので、それらが登場人物たちの言動を左右する重要な要素として作用していることからも、それは観察できる。また、ピョートルやステパンによる外部からの思想的な脅威に対して、土着の内部として現れてくる「町」は、インテリゲンツィヤに対して浮かび上がってくるロシアの農民層とパラレルで捉えることができる。ドストエフスキ ーは、国民性として集団に共通して抱かれる思想というものに強い信頼を寄せていたが、彼が当時社会の抱える精神的な揺らぎに対してもっていた危惧が、安定的なロシアという土に根の繋がった民衆を象徴する「町」として現れたのだと考 ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№144 2017 えられよう。 一方で、対抗する勢力としてピョートルによってもたらされる無神論的革命思想は、人々の抱く既存の道徳を破壊することで、社会を変革しようと試みる。改革は政治形態の置き換えに留まってはならず、集団の精神的な変化を契機とする根本的な部分からの転覆を目指すのであり、その視点から、彼らもまた集団を形成して社会へとアプローチする。物語の舞台である町それ自体も、ピョートル率いる五人組や、それに対抗して現れるフェージカと放火犯たちの一派など、いくつかの集団から成る集合体で捉えられることを確認し、その一方で強烈に作用するスタヴローギンの集団を分裂させる力が、究極の思想としての信仰の非実現を導く要素の一つとして考えられるのではないかという可能性を提示していきたい。
齋須直人氏：「『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳 教育」を聴く 野澤高峯 齋須氏は現在、京都大学大学院に在籍し、日本とロシアを横断されドストエフスキー研究の最新事情を把握された、「日本ロシア文学会」にも論文を発表されている新進気鋭の研究者である。しかし、研究者の発表を拝聴するのが初めてだった私は、当日の拝聴に当たって大きな誤解をしていた事を、事後に気付いた。その反省を基に「傍聴後記」の意味合いで述べたい。 大きな誤解とは、当日の発表を研究発表と捉えず、批評家の発表と捉えてしまったことだ。読み手が作品で受けた感動を、批評家は批評として、私の様な一読者は解釈として、その感動を他者と共有すべく発語や文字にする機会がある。その際は作品の背後に作家自身や作品の構造という「仮構」を置くのは自由だが、自分の感動を他者のそれと交換する形に置き換える以外しかないし、その形が他者を動かさなければ意味がない。小林秀雄は「批評の方法が如何に精密に点検されようが、その批評が人を動かすか動かさないかといふ問題とは何の関係もない」と述べた。その点、研究者や翻訳家（最近は超訳も多いが）は、その方法に作家や当時の現実を見るのは、方法を精密に点検し対象を実証的に論証する必要があるからだ。批評家や読者はその研究結果を糧として様々な「仮構」を紡ぐことがある。私が当日、氏に対してその立ち位置を考慮できなかったことは大きな認識不足であった。 齋須氏が前提した通り、発表論考は研究の途中であることから、氏による標記のテーマについては学会研究の最新動向踏まえ、自らのモチーフをどう展開していくかという発表内容であったと受け止めた。しかし、そこには研究に対する確実な条件設定の跡が見られた。氏の論考の目的は下記の通りである。 ①ドストエフスキーの創作の特徴について考察しながら、思想家ドストエフスキーと芸術家ドストエフスキーとの関係について検討する。 ニュースレター№144 2017 ――――――――4――――――――――――― ②作家本人の教育における立場や宗教観を適宜参照しつつ、『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』において対話を通した教育がいかに描かれているか検討し、これら3作品の変遷をたどることで、ドストエフスキーの作品の道徳教育のモチーフがいかにロシア正教の要素を含むようになっていったかを明らかにする。 1つは作家の理念と言語芸術観の関係であり、2つ目は論考の中心的なモチーフでもあるが、テキスト作品選定での「子供」と「若者」への着目した事は、作家の背景になる時代性や、更には作家の宗教観に迫るものと受け止めた。 発表概要は「ニュースレター№143」掲載の「第242回例会報告要旨」を参照されたいが、氏はそのモチーフの内実について、例えばドストエフスキー理解の多様性によるロシア外での非宗教化等の問題意識を踏まえたように、私の印象は、新しい統一的な読解の可能性を示唆する語りであったように思う。但し、研究途中という事を考慮するも、発表内容は作品読解の方法論に重点がかかることになり、私も含め購聴者とは方法論に終始する質疑になったことは、遺恨ともなろう。今後の研究の完成に期待する。 ポイントは道徳教育というモチーフを基に「ドストエフスキーの人間観、教育観を背景とした「導く側」と「導かれる側」の対等性」を挙げ、作品内での人物の生成変化の可能性を切り開く姿勢で、隆盛（呪縛）を極めたバフチン理論にも、それを包括する形で迫っていく。その点、真摯な研究での最新事情を踏まえた果敢な挑戦に、一読者としては新しい風を感じる。 昨今のSNSの発達も背景にあるが、最近は日本文学界でも若手を中心に、一読者、批評家、研究者間の横断的な対話の場が増えており、そのぶつかり合いは文学という枠も破り、様々なジャンル横断も自明となっている。それを既に実践している齋須氏の今後の、更なる活躍に期待したい。 事務局便り ◎2017年も早、暮れようとしています。私たちはどのような時代に生きているのでしょうか。ドストエフスキー風に言うならば、「流れ行く現実のなか」ではなかなか実態は把握されえない、「後になって考えると」、というポストファクトムの形でしたか真相に迫りきれないとすれば、後悔しないためには、いま現在どのようなスタンスで生きるべきか、各人に問われるところです。 リハチョフが使った「文化のエコロジー」という概念が、私にはこのところしょっちゅう頭によぎります。地球上の生態系の問題として、絶滅種の植物、動物に適用される保護の概念は、経済的グローバリズムによって空洞化されていく社会共同体の文化の危機にも適用されるべきではないか。移民、外国人排斥の偏狭な排外主義、民族主義の背景には、エコロジカルなアレルギー現象があるのではないか。経済的グローバリズムの隠蓑としての、人権や民主主義概念の拡張の怪しさにも目を向けるべきではないか、と思うのです。以上、埋め草に舌足らずの年末の所感を申しのべました。 ◎「広場」27号は年内の原稿締め切りをもって編集に入ります。エッセイは今のところ3本の予定です。ご希望の会員の投稿をお待ちします。最終締め切りは来年1月20日です。 |
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報告者紹介：齋須直人（さいす なおひと） 1986年生まれ。京都大学文学研究科スラブ語学スラブ文学専修博士課程に在学中。論文「ザドンスクのチーホンの「自己に勝つ」ための教えとスタヴローギンの救済の問題について」(ロシア語ロシア文学研究49号、2017)、 «О влиянии
Достоевского на творчество Т.Манна во время мировых
войн (世界大戦期におけるドストエフスキーのトーマス・マンの作品への影響について)» (ドストエフスキーと現代―2014年
第29回 スターラヤ・ルッサ国際学会論集―、2015)、他。 ニュースレター№143 2017―――――――2――――――――――――― 第242回例会報告要旨 題目：『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育 齋須直人 ドストエフスキー本人の宗教的立場と結びつけつつ、この作家の作品に見られる道徳教育のモチーフを論じることには困難がある。ドストエフスキーの作品は、ポリフォニック小説として読まれるようになってから、作品内で作家自身の立場も相対化されることとなり、作家の作品創造の目的や、作品全体を通して作家が何を主張したかったかについて考察することについて慎重になる必要が生じた。そのため、この作家の作品を、あたかも一定の作品創造の目的があるかのように解釈することが多かれ少なかれ必要とされるような読み方、例えば、登場人物の成長物語（ビルディングスロマン、聖者伝など）として読むことが容易ではなくなっている。作品の中での教育のモチーフ（特に道徳教育）を読み解く際も、教育がある程度一定の価値観に従って人を導くものである以上、同様の問題がある。しかし、ドストエフスキーの作品の中で、成長物語や教育の要素は独自のあり方で存在している。そして、これらの要素と作家自身の立場を完全に切り離すことはできない。特に、作品を描くさい、ドストエフスキーが若者の道徳教育に強い問題意識を持っていたとすれば尚更である。報告者は、作品の芸術的形式に十分注意を払いつつ、作家の宗教思想と作品の全体性が矛盾しないものとして作品を読み解くことを目標とし、ドストエフスキーの作品における、対話を通した道徳教育を研究テーマの一つとしている。 1860～70年代、土壌主義者であるドストエフスキーは西欧の教育を受けた階級の人々と民衆との乖離をロシア社会の根本的な問題とみなしていた。彼はロシアのインテリゲンツィヤと民衆との一体化が、両者のロシア正教への信仰を基礎としてもたらされるものと考えた。特に、作家が懸念していたのはロシアの若者たちに、社会主義やポジティヴィズムを基礎としたニヒリズムが広まっていることだった。1870年3月25日のマイコフに宛てた書簡で、ドストエフスキーは「大罪人の生涯」の構想（結局書かれることなく終わった）について詳しく書いているが、それに際し、次のように述べている：「ニヒリズムについては何も言いません。待ってください、ロシアの土壌から引き離された、この上位層はまだ完全に腐っているのです。お分かりでしょうか、私には次のことが頭に浮かぶのです。つまり、この多くの最もろくでなしの若者たち、腐っている若者たちが、最終的には本物のしっかりした土壌主義者に、純粋なロシア人になるということが」。そして、後に、『悪霊』の創作ノートにおいて、作家は次のように記している：「我々は形(образы)を失ってしまった、それらはすぐさま拭い去られてしまい、新しい形も隠されてしまっている。(…)形を持たない人々は、信念や科学、いかなる支点も持たず、社会主義の何かしらの秘密を説いている。(…)全てのこれら確固としたものを持たない大衆を捕えているのは冷笑主義である。指導者を持たない若者たちは見捨てられている」。ドストエフスキーにとって、新しい世代への宗教・道徳教育についての問題は重要なものであった。彼は、迷える若者たちを導く肯定的な人間像(образ
положительного человека)を創造することを自己の課題とした。そして、この課題を『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』において実現しよう ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№143 2017 とした。 本報告では、作家本人の教育における立場や宗教観を適宜参照しつつ、これらの作品において対話を通した教育がいかに描かれているか検討する。これら3作品の変遷をたどることで、ドストエフスキーの作品の道徳教育のモチーフがいかに形成されていったかを明らかにしたい。『白痴』との関連では、1860年前後のヤースナヤ・ポリャーナにおけるレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの教育活動が、主人公レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン像の形成にいかに用いられたかに着目する。「大罪人の生涯」、『悪霊』については、これらの作品の登場人物である僧チーホンと主人公との対話を、ドストエフスキーが参考にしたと考えられる、ザドンスクのチーホンの思想、また、スーフィズムとの関連に着目する。 第241回例会傍聴記 高橋誠一郎氏 「『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察―長編小説『破戒』を中心に」を聴く 近藤靖宏 ドストエフスキーの作品は読み方次第でどうとでも解釈できてしまう。だからこそドストエフスキーの作品は善良な人だけが読んで欲しい。にもかかわらず善良な人が語るドストエフスキー論は何だか食い足りない。こういったジレンマを私は抱えている。だから私はヒューマニズムに溢れる高橋先生のドストエフスキー論のよき理解者にはなれないでいる。 今回の資料を読み返すと「『良心』の重要性」という言葉が三連続で登場する。 私にとって『罪と罰』には二つの問題点がある。エピローグの時点でラスコーリニコフが本当に自分の罪を反省しているのだろうかが不明瞭なのが一つ、それから彼の犯行動機が不明瞭であることだ。二つの動機があるようだが、例の非凡人の理論を実践してみたかったというのは今回の話とは関係ない。もう一つの動機が、零細な質屋を営む老女が悪い存在だというのだが、いかにも世間が狭い人の考えそうなことだし、仮に悪い存在だとして彼女を殺したところで、他の誰かが同じことをやるだけのことだ。こういったことを考えてモヤモヤしてしまう自分は多分『罪と罰』の良き読者ではないのだろう。 そんな私が高橋先生の発表の傍聴記を書くにあたって、島崎藤村の『破戒』を読んでみた。確かに登場人物が苦悩の末に己の秘密を告白するという結末や、脇役たちの配置の仕方が『罪と罰』とよく似ている。ただし自分が読む限り両者の創作姿勢はまるで異なるように思える。文章について言えば、『破戒』が極めて平明であるのに対して、『罪と罰』のそれは意図的に回りくどくしているかのようだ。それは前者の語り手があくまでも目に見える出来事の描写に徹しているのに対し、後者の語り手が登場人物の内面に切り込もうとしている（がそれは判然とせずに終わる）ということに関連しているのだろう。本来、ある人が何を考えているのかを他者が知ることは不可能であるはずなのに、何とかしてそれを知りたくなるという知的渇望に対して文学の立場からどう向き合うべきかについてのスタンスがそれぞれの作家では違うのだと思う。これが私なりの感想だ。 ニュースレター№143 2017 ――――――――4――――――――――――― もちろん高橋先生は、当時の社会的背景を示したうえでこの二つの作品には密接な関係があると主張される。確かにロシアと日本とは歴史的に西欧と比べて後進的であったし、外発的な開化を余儀なくされたことによる歪みに苦しんでいたというのも共通しているから、多少こじつけがあると感じられつつも、大筋ではその通りなのだろうと認めざるを得ない。高橋先生は、『破戒』という作品がいかにして成立したかを歴史的にたどって説明する。鍵となるのは北村透谷という島崎に影響を与えた人物だ。当時の自由民権運動に関わった人物であるが、運動の先鋭化についていけず、苦悩の末、志なかばで亡くなってしまった。それから正岡子規をも取り上げ、彼が現在でいうところの同和を題材にした俳句を残していることを紹介し、これも関連があることを示唆された。いかにも司馬遼太郎を愛好する先生の着想だと思った。 さて北村透谷であるが、この人物は『罪と罰』の良き読者であったのだろう、「殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥くるやうの事なかるべし」と評論したという。まるで私に対して言っているようではないか。それから高橋先生は、大阪事件について取り上げられ、活動資金を得るため仲間から強盗を一緒にやろうということを勧められた時に彼がそれを断ったのは、彼が『罪と罰』から教訓を得ていたからではないかとのことであった。大阪事件とは先鋭化した自由民権運動の活動家たちが朝鮮に内政干渉しようとした出来事のこと。国内の民主化運動をやっているのに外国の政治に関与するのは本末転倒であるし、強盗をやればみすみす当局に弾圧の口実を与えるだけであり、『罪と罰』など読まない人でも普通に考えてやめとくだろう、と私は考えてしまうのだが、この辺が高橋先生のドストエフスキーに対する愛情の現れなのだと思った。 二年前の合評会の傍聴記でも述べたが、文学は社会の問題に対してどう距離を取るべきかという点でスタンスが違うとどうしても議論が平行線になってしまう。無論、高橋先生はより密接すべきと考えているのだろう。一方、私は一定の距離をとるべきだと思っている。ただし少なくとも、いくら古典的作品であるにしても現代的意義は何かということをどこかで探求していないと文学の生命は失われてしまうだろうということは事実だと思う。
◎9月16日（土）の例会の日に、来年4月刊行予定の「広場」№27の編集員会を起ち上げました。メンバーは昨年と同じ、福井、渡辺、高橋、熊谷、近藤、木下です。例年通り、第一次締め切り、12月末日、最終締め切り1月20日としました。メインの論文は今年度例会報告者の執筆で予定していますが、エッセイ、寄稿論文については募集しています。最終的な掲載可否は、編集委員会の判断にお任せ願います。 会員に限り、報告論文は400字15枚、エッセイは5枚、寄稿論文は10枚まで無料、超過分は400字につき400円が執筆者負担で、その代り、部数で還元されます。 ◎来年2018年10月23日～26日に、ブルガリアの首都ソフィアで、国際ドストエフスキー研究集会がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で開催される模様です。『白痴』の公刊150周年ということで、黒澤明の『白痴』もテーマとしてとりあげられ、高橋さん所属の「黒澤明研究会」に協力要請が来ています。参加希望者は、詳しくは、高橋さんのＨＰ－http://www.stakaha.com/ からお問い合わせてください。 |
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報告者紹介：高橋誠一郎（たかはし せいいちろう） 東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ：日露の近代化と文学作品の比較。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』（以上、成文社）、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』（人文書館）など。 ニュースレター№142 2017―――――――2――――――――――――― 第241回例会報告要旨 『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』 を中心に 高橋誠一郎 内田魯庵が法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を購入したのは、大日本帝国憲法が発布されて言論や結社の自由や信書の秘密などの権利が条件付きではあるが保障され、司法権も独立した明治２２年のことであった。 憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台にしたこの長編小説に読みふけった魯庵は、「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、日本で初めて『罪と罰』の前半部分を訳出して２回に分けて刊行し、売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれた。 たとえば、自由民権運動にも参加していた北村透谷は明治２４年１月に著した「『罪と罰』の殺人罪」において、「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇（ためら）うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋（けだ）しこの書の主眼なり」と指摘し、大隈重信に爆弾を投げた来島やロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥（しりぞ）くるやうの事なかるべし」と記して、『罪と罰』の深い理解を示していた。 ただ、この記述には憲法発布式典の朝に文部大臣・森有礼を襲って刺殺するという大事件を起こした国粋主義者の西野文太郎の名前が挙げられていないが、その理由はその後の流れを見れば推測できるだろう。すなわち、この事件の翌年に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」が渙発されると、それから３ヶ月後には教育勅語奉読式においてキリスト者であった第一高等中学校の教員・内村鑑三が天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことを咎められて退職を余儀なくされるという「不敬事件」がおきたが、それは「立憲政治」を覆した昭和１０年の「天皇機関説事件」の遠因ともなっていたのである。 一方、長編小説『破戒』（明治３９）は人物体系や筋が『罪と罰』からの強い影響を受けていることが多くの批評家や研究者から指摘されているが、島崎藤村はそこで「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の状況を「忠孝」の理念を強調した校長の演説などをとおして詳しく描き出していた。 このような『破戒』の構造はロシアの「教育勅語」とも呼ばれる「ウヴァーロフの通達」が出された「暗黒の３０年」の時代に、ドストエフスキーが『貧しき人々』において寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」の問題にも言及していたことを思い起こさせるが、明治３７年４月には『貧しき人々』のワルワーラの「手記」が瀬沼夏葉によって訳出されていたのである。 さらに、当時のロシアの裁判制度の問題にも踏み込んでいた『虐げられた人々』の ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№142 2017 訳を明治２７年から翌年にかけて『国民之友』に連載していた内田魯庵は、日露戦争の最中に『復活』の訳を新聞『日本』に掲載して「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。 発表では『文学界』同人たちとの交友や北村透谷の『罪と罰』観が描かれている島崎藤村の長編小説『春』（明治４１）だけでなく、『破戒』を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石の『坊つちゃん』（明治３９）や『三四郎』（明治４１）などをも視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。 第240回例会傍聴記 『広場』26号合評会 熊谷のぶよし 合評会は、始終密度の高い質疑によって進行した。以下発表の順番に概要を示してから感想を述べる。なお、論文執筆者を筆者と講評者を評者と標記した。 〇熊谷論文 ラスコーリニコフの深き欲望 ――太田香子氏 評者は論文を簡潔に要約しラスコーリニコフが人々と強く結び付きたいという欲望を持っており、殺人事件後のラスコーリニコフの孤独が、エピローグにおいて乗り越えられたという筆者の論旨に概ね賛意を示すと同時に、それでは事件以前からラスコーリニコフが陥っていた孤独も、このエピローグの時に一緒に乗り越えられたのか、そしてその孤独とはどういうものだったのかという問題提起をおこなった。
評者は、まず本論文の主旨を次のように要約した。ドストエフスキーの作品創造の目的は、神の問題に肯定的に回答することにあり、作品の芸樹的達成はその手段、過程としてある。神の問題は作品の全体的な把握において肯定的に示されている。 さらに論文の要旨を順に紹介したが、翻訳文をこなれた日常語によって説明できるレベルには達していなかった。本論文の校閲者の立場から木下先生のチホミーロフについての紹介があった。 〇金沢論文 ドストエフスキーと「気球」 ――高橋誠一郎氏 気球の話は、ロシアのエコロジー思想との結びつきにまで拡張された。このエコロジーのテーマは、今後評者によって、例会の場で聞けるのだろうと思った。 本論文は注が充実したものとなっているが、評者は、本文ではなくその注のおもしろさについて語ることとなった。私は、グルーシェンカの救済者としての位置づけが印象に残ることを発言した。 〇芦川論文 イワン・カラマーゾフのキリスト ―大木貞幸氏 評者はこの長大な論文を章ごとに要約しコメントを加えながら進めた。その最後で、ヨブはイスラエルの自然の象徴であるという吉本隆明氏の論が紹介された。 また、私は、当論文で扱われている“常識”の位置づけについての重要さについて発言した。 本来、各講評についてバランスのよい報告をすべきところであるが、合評会の間、今回私の講評したチホミーロフ論文で論じられた芸術的創造と作家の信仰の枠組みが常に頭にあって、各筆者、評者の発言内容についても、その枠組における位置づけを気にしつつ傾聴することとなったので、着目点は偏ってしまっている。その上で、今回の合評会での論点を以下にあげる。 今回の合評会では、作家のキリスト教信仰とどのように向かい合うかということが、大きなテーマになっていたと思う。作家の信仰を前提としない読解では、作品の十全な理解は不可能であろう。しかし、作家の信仰の表明が作品で直接になされていない時、テキストに信仰の証明をどこまで読み込むことが許されるのかも十分考量されなければならない。このことについては、自殺にいたるスメルジャコフの変化のもとに、描かれざるアリョーシャとスメルジャコフの対話があり、それが自殺の原因となったといえるかどうかということで、議論となった。 また、信仰の表明ととれる言説も発話者による屈折を受けていると考えられるとき、それをどこまで作家自身の直接的な意見の表明と受け止めることが可能かという問題も提起された。極度に通俗化されアイロニカルな立場に立つイワンの悪魔の発言がどこまで作家自身の思想であるか、悪魔と作家の思想の距離が問題とされた。 チホミーロフは、作品の全体像としての作家は神の存在を証明するとした。しかしそれは漠然として作品に向かい合うことではないであろう。主人公の思索のプロセスの細部の中に全体の展望を見出すことになるのだと思う。今回の合評会でのさまざまな議論は、細部と全体に関わるものとなっていて、大変実りあるものであった。 事務局便り 〇7月の「広場」合評会も終わり、年次活動のちょうど折り返し点にきました。 このところ、2か月に一回の例会開催、年誌「広場」刊行と、快調なテンポで活動は展開されています。会員数も100名弱と横ばいながら定着し、活動の成果を評価してのことと思われますが、会費納入率もまず満足すべき状態にあります。 2年後には1969年の会発足から実に50年となります。比較的初期からの会員が多数を占めているものの、自然のなりゆきで、新旧会員の入れ替えも少しずつ進行しています。本会は発足当時から、ドストエフスキーの愛読者と研究者が相互にエネルギーを高めあう、開かれた意見交換の場として、機能してきました。通常の学会とは一味違って、十分な発表・討論の時間、会誌ではかなり自由なスペースで論文、エッセイなどを発表できます。少ない予算規模で、これだけ効率の良い活動ができているのも、会員皆様のご支持とご協力のおかげです。 |
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平成28年度 収支計算書 （平成28年5月6日〜平成29年5月5日） 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
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報告者紹介：清水孝純（しみず たかよし） ドストエフスキー研究ははるか昔からのことで、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』論その他道化論をこれまで発表してきました。現在は作品論を進める一方で、「現代とドストエフスキー」という問題を中心に研究を重ねてきており、D・H・ロレンス、ベルジャーエフ、中村雄二郎との関係を考察し、また昨年には『キリスト教文学研究』にドストエフスキーの終末論的予言性をヒトラーのカリスマの中に見るという論文を発表しています。IDSのシンポジウムにもたびたび参加して発表を行ってきました。漱石についても、ドストエフスキーとの対比を試みたりしています。 ニュースレター№140 2017―――――――2――――――――――――― 第239回例会報告要旨 悪魔のヴォードヴィル－『悪霊』における悪魔の戦略― 清水孝純 『悪霊』においてドストエフスキーは、ニヒリズムをその極点において捉えた。『悪霊』では真の主人公はニヒリズムという悪霊に他ならない。『白痴』もまたニヒリズムが主人公とは言えたが、しかしそこではニヒリズムはまだ隠れた主人公だったかと思う。イッポリートを除いてほかの登場人物はニヒリズムに侵食されてはいるものの、なお他の情熱に囚われている。作品中唯一ニヒリストといえるイッポリートにしても、自殺未遂後彼はかなり積極的に彼を取り巻く人間関係の中に入ってゆくのだ。ナスターシャ・フィリッポーヴナとアグラーヤといういわば恋敵同士を対決させる手引きをするのもイッポリートなのだ。というのも、イッポリートの若さは、なおニヒリズムを徹底させるには生命力に富んでいたというべきだろう。 『白痴』においていわば隠れた主人公ニヒリズムが、俄然主人公としてその恐るべき姿を現すのは『悪霊』においてだ。姿だって？ニヒリズムに姿があるのか？あるはずはない。ニヒリズムは人間に憑りつくものであって、形あるものではあり得ない。やはり一種の精霊というべきもの、否定する精霊、つまり悪霊なのだ。しかし悪霊の恐るべきところは、その憑依の巧みさといえるだろう。悪霊に憑かれ乍ら、悪霊による憑依を疑うどころか否定の力を自身のうちから得たものとして振る舞う。その否定の行使において、懐疑逡巡はない。こうして憑かれたものは、群れをなし、そこに否定のユートピアをつくる。この楽園、否定が放恣な姿を取って、観客を楽しませるこの喜劇的世界、そこでは背徳的なもの、醜悪なもの、思い切って野卑下劣なものが、高貴なるものと入れ混じり、妖しげに人の眼を魅了する。これこそ悪魔の演出する喜劇的世界といえる。通常の喜劇が人間社会を風刺、批評するのに対してここではそのような風刺性、批評性はない。なぜなら、そこではプロットそのものに笑いが仕掛けられている。プロット自体が既に社会に対する否定であり、嘲笑なのだ。観客を楽しませるのは、その否定の、また嘲笑のグロテスクなることだ。この喜劇はヴォードヴィルと呼ぶのがふさわしい。 ヴォードヴィルとはフランスで発達した一種の軽喜劇だ。1830年ごろはフランスで大いにもてはやされたものだ。ロシアにもそれが入って、ヴォードヴィルが創られ、上演される。グリボエドフ、ネクラーソフも手掛けている。ではドストエフスキーはどうか。V・N・ザハロフは『ドストエフスキー 美学・詩学要覧』（1997）の「モチーフとしてのヴォードヴィル」の項でドストエフスキーにおけるヴォードヴィルの受容について述べているが、ドストエフスキーの文学では、「他人の妻とベッドの下の夫」「スチェパンチコーヴォ村とその住人達」「伯父さまの夢」などをあげている。さらに興味深いことには、『悪霊』で、自殺直前キリーロフがピョートルに言ったこの遊星の世界は「悪魔のヴォードヴィル」という ―――――――――――3――――――――――ニュースレター№140 2017 表現に注目している。キリーロフはここで何故ヴォードヴィルという言葉を使ったのか。ヴォ―ドヴィルは邦訳では喜劇、茶番劇と訳されたりもする。なるほど「悪魔の喜劇」でも十分わかる。しかし元来喜劇は人間社会の愚劣・欠陥に対して鋭い批評をもって挑むものである以上、ポジティブに世界を描こうとするものだろう。しかし悪魔という否定の霊にとってその愚劣・欠陥こそ人間破壊のこよなき手掛かりであり、足掛かりなのだ。その愚劣・欠陥をこそ逆に賛美することを通して、それを拡大し、終局的には破壊へと導くことこそ、その狡猾極まりない戦略なのだ。戦略にふさわしい喜劇の様式こそヴォードヴィルといえるのではないか。『悪霊』を改めて「悪魔のヴォードヴィル」という視点から眺めて見る時、『悪霊』における悪魔の戦略もあぶり出されてくるのではないか。 第238回例会傍聴記 木下豊房氏の「『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題―イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって―」を聴く 大木貞幸 『カラマーゾフの兄弟』への旧約「ヨブ記」の影響の解明に向けた、序説とも云うべき考察として興味深く拝聴した。ネット検索を駆使した、先行研究への幅広い目配りにまず圧倒された。浅学を顧みず木下氏の展開を辿り、また福井勝也氏が教示されたユングの『ヨブへの答え』を踏まえながら、感想を記したい。 木下氏は、イワンが神の世界の否定の根拠とした子供に及ぶ「罪の連帯性」の概念への異和感から、当代ロシアにおける「連帯」概念を検証する。就中、カサートキナの考察から、ゾシマに連なる「連帯」＝「つながり」における罪概念と、イワンの罪概念の抽象性の対照を摘出する。また、東西教会の「原罪」、「洗礼」の概念において、カトリックの恩寵―自然の対立と正教における自然崇拝の要素を指摘し、カサートキナの「ヨブ記」考察に即して、ヨブの友人たちの第三者的な位置、応報論的なヨブの罪の非難にイワンの罪概念を重ね、自然崇拝の視点から描かれたゾシマの罪概念がヨブの「立場」に近いと結論づける。 ついで、氏はこのゾシマ像のロシア正教における源流を探り、作家がオプチナの長老たちの「セライム派」、ロシア人の敬虔な信仰の流れを探り当て、その輪郭を予言的に延長したものだとする。特に、同時代のアムブローシイの共苦、行動する愛、神への誠信などの教説には外面的類似以上のものがあるとし、さらに全ての被造物への神の慈愛と苦行の犠牲の愛、神秘的主題においてシリアのイサク・シーリン、自然描写の繊細な抒情性においてチーホン・ザドンスキーとの連続性を認める。 今回あらためて「ヨブ記」に言及するゾシマの説教を読み返し、心に沁みるものを感じるとともに、小説にはここそこに「ヨブ記」の主題が投影されていると思われた。スメルヂャコフの「まだ腹の中にいるとき自殺したかった」はヨブの ニュースレター№140 2017 ――――――――4――――――――――――― 「何故あなたは私を胎から出されたのか」からとられ、第７篇におけるアレクセイの「抗議」、「神は最も必要な瞬間そのみ手を隠した」は、己の不義と罪に関して問うヨブの「何故あなたはみ顔を隠」すのか、の弱められた主題のようでもある。もしかすると、イワンの「大審問官」の構想は、命を賭けて神に抗議しつつ、耳でなく眼前に顕現した神に屈服するヨブの主題の転倒した適用なのかも知れない。 ユングの著作は、独自の心理学の立場からユダヤ―キリスト教を結ぶ試みであ る。ユングはヨブの屈服において、人間の道義がヤハウェに勝ったとし、ここから旧約の神の「人間化」（「ソフィア」の再想起と「人の子」の準備）が始まり、十字架上のイエスの神への呼びかけに至って、神はヨブへの「答え」を果たしたとする。さらに、ヨハネにおいて暴虐と愛の神の二面性、「太陽の女」（ソフィアに連なる神の「母」）の幻視、聖霊による神の受肉の一層の進展を望み、前世紀の「マリア被昇天」の教義公布へと結ぶ。 ユングの云う「神」は神のイメージであり、「神の人間化」は集合的無意識の元型と意識化の相克と交差の脈絡にある。これをかりに旧約的「主題」と新約的「構成」の両軸ととらえれば、小説への聖書の「影響」の考察に関して示唆的である。例えば上述のごとくに「ヨブ記」の主題群が小説に投影されているのだとすれば、スメルヂャコフの究極の自己否定はイワンとの分身関係とイエス―ユダの類比的構成と交差し、アレクセイの躓きはゾシマ像の構成的な分裂を暗示するように思える。感激に満ちたゾシマの教えは、彼とミハイルのイエス―ペテロに擬えうる関係と交差し、このことによってゾシマの伝記の「謎」が残りつづけているのではないか。また作者は、「大審問官」における主題論的な「失敗」を転じて、横軸とも云うべき福音書の構成に踏み込んだのではないか――。 なお、ユングの考察は神と人間、恩寵と自然の対立を前提するカトリックを対象としており、神と人間と自然の神秘的な融和をとる正教に関しては留保が必要と思われる。 事務局便り ◎4月15日発行、発送の「広場」26号がお手許に届いていることでしょう。質量ともに充実した内容の、読み応えのある一冊に仕上がったかと思います。表紙の絵はこれまで通り、故小山田チカエさんですが、デザインは渡辺夫妻で、会心の作かと思います。7月の例会が合評会となります。ご精読の上、多くの会員にご参加いただきたいものです。 ◎4月3日にサンクト・ペテルブルグのセンナヤ広場近くの地下鉄で起きたテロ事件はやはり衝撃でした。『罪と罰』の舞台とされ、作家自身も居住した場所に近く、文学博物館にも隣接する地域であるところから、博物館館長はじめ友人達、ドミトリー・ドストエフスキーにお見舞のメールを送りました。ドミトリーからは「8人家族全員無事だ。あなたもお元気で！」の返事がきました。 |
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