プランクトン
”フィエステリア・ピシシーダ”
1988年、アメリカで新種のプランクトンが確認された。その名は
”フィエステリア・ピシシーダ”。
生きたサカナに反応して毒素を放出し、これを大量死させ、少なくとも24の形態を持ち、その毒素は空気感染によりヒトに記憶障害をもたらす。今やこのプランクトンはアメリカ東海岸全域で確認されるようになっている。
1980年代半ば、アメリカ合衆国・ノースカロライナ州・ムース川河口付近でからだに穴を穿たれたサカナの大量死がたびたび起こるようになっていた。1991年、ノースカロライナ州立大学のジョアン・バークホルダー教授ら大量死の現場において、プランクトンの大量発生を確認。それは1988年、同大学の実験用水槽で同じくサカナの大量死が発生した際、発見された新種のプランクトンと同じ種であった。バークホルダー教授はこれを
”フィエステリア・ピシシーダ” と命名する。
”フィエステリア”
はプランクトンの一研究者の名であり、”ピシシーダ” は
「サカナ殺し」を意味する。
バークホルダー教授によれば ”フィエステリア・ピシシーダ”
は通常アメーバ状の形態を持ち、バクテリア、藻類などを食糧としているが、ひとたび生きたサカナが接近すると
”鞭毛”
を持つ形態へと変化し、水中を泳ぐようになる。そして毒素を放出し、数時間内にサカナに昏睡などの中毒症状を引き起こさせるのである。サカナは次第に皮膚を侵食されたり、出血、呼吸不全、細菌の繁殖などによって死に至る。サカナが死ぬと
”フィエステリア・ピシシーダ”
はアメーバ形態へ戻り、サカナの死骸を喰らう。同大学で行なわれた実験でも水槽に生きたサカナを入れると
”鞭毛”
形態をとる固体が増え、サカナが死ぬとそれが減ってアメーバ形態が再び増えることが確認されている。なお死んだサカナをいれた際は顕著な変化は見られなかった。
一方 ”フィエステリア・ピシシーダ”
は藻類も捕食するが、このとき捕食した藻類の葉緑素を使って光合成をも行なう事ができる。また”フィエステリア・ピシシーダ”
は乾燥にも強い。和田新平・日本獣医畜産大学講師(魚病学)によれば
”フィエステリア・ピシシーダ”が確認されたタンクの水を抜いて乾燥させた後、水槽に新たに水を入れると再び
”フィエステリア・ピシシーダ” が発生したという。
”フィエステリア・ピシシーダ”
は上記のアメーバ形態、鞭毛形態の他、球状の外殻を持った”休眠”
形態など、確認されているだけでも実に24もの形態を持ち、その場の環境に合わせて自由に変体をおこなう事ができるのである。
さらに、未確認ではあるが、彼ら
”フィエステリア・ピシシーダ”
の放出する毒素は空気中にも拡散すると考えられている。
バークホルダー教授を始めとする研究者12人は
”フィエステリア・ピシシーダ”
がいる水槽近くで一日1〜2時間の作業を続けていたが、5〜6週間後に記憶障害や皮膚炎、呼吸困難、頭痛などを発症している。数週間から数ヶ月で回復したが、重度に発症した場合、読み書きの能力の低下や自分の名前を忘れる者もいた。
これまで ”フィエステリア・ピシシーダ”
が確認されたのはアメリカ東海岸の約十ヵ所で、いずれも川の淡水と海の塩水がまじりあう汽水域である。その他発生地に共通する特徴は、閉鎖的で水深が浅く、水が淀みやすい地形、リン鉱脈、家庭、養豚場などの排水が流れ込んでいる場所などがあげられている。これらの水域は本来栄養が豊富で微少生物の大発生がおきやすいという。日本ではまだ確認されてはいないが輸入しているサカナや渡り鳥などによって日本にもたらされる可能性は決して低くはない。
だが、”フィエステリア・ピシシーダ”
が我々人類に投げかけたのは、それ自身の脅威だけではない。
人類による環境の改変が予想だにしない生物を産み出し、あるいは無害な生物を有害なものとし、またあるいは有害でありながら少数であった生物を大量発生させる。”フィエステリア・ピシシーダ”は人類有史以前からこの星の片隅にひっそりと生きていた。しかし人類の環境改変が彼らの環境をも大きく変えてしまったために、大量に発生し、人類に「牙をむいた」のである。”フィエステリア・ピシシーダ”
だけではない。今も世界のどこかで未知の生物が現れているかもしれない。アメリカ東海岸の惨状は明日の日本の姿かもしれない、ということを
”フィエステリア・ピシシーダ” は示唆しているのだ。
またこれにより人類の環境の改変を批判するヒトもいるだろう。だが環境の改変なしに今のヒトの姿はなかったことも事実であろう。
「環境の改変とそれによる環境との戦いを続けていかなくてはならないこと」は人類が有史以前から連綿と受け継いできた
”業”である。今の我々の知恵と技術ではこれを克服する事はできない。だがいつか人類は、どのような方法にしろ、その
”業”
すらも克服していくであろう。人類がベターな生き方を模索していくかぎり、いつか必ずその日は訪れる。その日がくるまで人類は生きているくかぎり、環境の改変とそれによる環境との戦いを続けていかなくてはならない。そして常にその場においてベターなあり方を目指していく。”フィエステリア・ピシシーダ”
の多様な姿はそれを、そして同時に生物というものが持つ可能性を示しているともいえるだろう。
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