尼子氏について

(このページの背景の模様は尼子氏の家紋をイメージしてます。)

経久

尼子の発祥

 尼子氏は、近江国守護職の佐々木秀義の一族と言われている。南北朝時代の有力ばさら大名佐々木道誉の孫の京極高詮の弟の高久が近江国甲良庄尼子郷にいたので、土地の名をとって「尼子」としたのが発祥といわれている。
 京極高詮が明徳の乱に手柄をたてたのが認められ、明徳三年(一三九二)足利義満に出雲・隠岐の守護職に任じられた。
 高詮は自分の代理として甥の尼子持久を守護代とし、出雲の月山富田城(島根県広瀬町)、七〇〇貫の地に送りこんだ。このときから尼子氏はこの出雲に住み着いたようだ。

 尼子氏の最盛期、尼子経久の台頭

 京極高詮から数えて六代目の特清のときの応仁元年(一四六七)に、応仁の乱がおこる。
 尼子氏は、持久の子清定の時代になっていた。京極特清は応仁の乱では東軍の細川勝元を援けたため、本拠地の出雲が、西軍の山名一族の山名六郎らによって狙われた。尼子清定は出雲の地を守って山名方の襲撃に応戦し、各地に転載して敵軍を破った。
 後に尼子氏の最盛期を担う尼子経久は応仁の乱がおこったときは一〇歳だったが、一一年間の争乱の中で一廉の武将として成長した。父の清定は勇猛な武将で、この人だったからこそ出雲が守れたといわれ、この戦乱が、のちに尼子氏が京極氏の手から独立する実力養成の基礎になった。
 応仁の乱のさなか、経久は十七歳から二二歳まで人質として京極氏のもとに預けられた。経久とは余り年の違わない京極持清の子の政経(政高)は、まだ又四郎といっていた経久に、自分の名の経の一字を与え、又四郎は経久と名乗るようになる。
 出雲から都へ出て来た尼子経久は、京文化を身につけたが、その半面に中央の空気の浅ましさを知り、また政経が大した人物でないことを知ることとなった。
 のちに中国地方の大半を押える実力者となる気概は、この人質時代に培われたらしい。
 経久が清定から家督を譲られたのは、文明十一年(一四七九)ごろ。守護代になると経久は、出雲や隠岐の段銭(税)などを納めなかったり、支配領をふやそうとして中央と争いをおこした。
 経久は名前だけで実力の無い、中央政府を見てきただけに、父の清定が命がけで守ってきた有力な領国の徴税を簡単に納めることに矛盾を持ったのだ。
 怒った京極政経は、経久追放の工作を進め、幕命だといって出雲中・西部の武将に呼びかけたため、文明十六年、経久は富田城を逐われ、そのあとへ塩治掃部介(えんやもんのすけ)が守護代として入った。
 しかし、この三年後の文明十八年の元旦、経久は富田の鉢屋氏を総括していた弥三郎の子治郎三郎・兵衛三郎兄弟の協力で、元旦、寅の刻(午前四時)、富田城の搦手に亀井秀綱・真木上野介・山中勘兵衛らとしのびこんだ。
 鉢屋の一族七〇余人は甲胃の上に藍色の礼服を着こみ、大手門から「万歳楽が参りました」と挨拶し、「あーらめでたやな、めでたやな、五十六億七千万歳、弥勒の出世、三会の晩」と鼓をうって踊り始める。
 富田城の将兵が二の丸・三の丸から集まったところをみはからい、経久らは長屋に火をつけて回り、猛炎の中、混乱する城兵に.鉢屋氏らはいっせいに隠していた武器をふるって襲いかかった。そのため掃部介は妻と子を刺し殺し、自らは側近の者に首をはねさせて自決した。
 こうして月山富田城をうばった経久は各地を攻略し、大永元年(一五二一)ごろには中国地方一一力国(石見・出雲・伯耆・美作・備前・備中・備後・安芸・播磨・隠岐・因幡)の太守となり尼子氏の最盛期を担った。
 強気で緻密だった英雄の経久を悲しませたのは、子ども運に恵まれなかったことだった。
 永正十一年(一五一ハ)九月、大原郡阿用(大東町)の磨石山城を攻めたときの夜 、傾く月影に向かって笛の名手だった長男政久が笛を鳴らしていたのを狙って、城内から放った矢が命中して政久は即死した。怒った経久は、城兵の皆殺しで報いた。
 また、経久は三男の興久を上塩治(出雲市)の要害山城主にしたが、興久はこれに加えて、近くの原手郡(大原郡の一部)七〇〇貫の地を望んだ。経久は備後国の一〇〇〇貫の地を与えるから「がまんしろ」と押えたが、激しい性格の興久は、間に立った亀井秀綱を疑って殺そうとした。
 経久は譜代の家臣を大事にする性格だったから、興久をきびしく咎めた。父親が秀綱をかばうのを見て興久は叛旗をひるがえすが、追いつめられて妻の父、備後国比婆郡本郷(広島婦庄原市)の山内直通を頼り、甲山城で自殺する。経久は痛恨を胸のうちにかみしめたことだろう。

 尼子晴久浮沈の生涯

 石見では、筑前博多の神屋寿員が、周防の大内義興のバックアップを得て、石見銀山の開発にとりかかり、そして義興のあとを継いだ義隆により、次第に大銀山としての姿をあらわした。このころ安芸では毛利元就が台頭していた。不幸が続き、気力が衰えた経久は、尼子の夢を託し、天文六年、政久のニ男晴久(初め詮久)を後継者とした。晴久は二四歳だった。
 この年の八月、晴久は石見銀山を急襲し、三年後に大内氏に奪還されるまでに夥しい銀を冨田城に運んだ。
 天文九年ハ月十日、気鋭の晴久は四万八〇〇〇騎をひきいて、毛利元就の本拠地である安芸の郡山城攻撃に出発した。元就は天文元年に、晴久と兄弟の盟約を結んでいたが、既に経久が老衰し、尼子氏の将来を見越して大内に急接近したため、若い晴久は元就に敵意をいだいた。
 床に就いていた経久は郡山城攻撃を必死にとどめたが、血気にはやる晴久を止めることはできなかった。そして経久の見通しのように、地理の不案内と、長い兵站線、そして長期間の滞陣のため、翌年一月十四日、晴久は無残な敗北を喫し退却した。この年の十一月、経久は、八四歳で死没する。
 尼子が大敗北の痛手をうけると、この際、一気につぶせと今度はは大内義隆が、三万余騎を従えて天文十一年一月十二日、山口の築山の館を出発した。
 尼子の本拠地、富田城に肉迫したのは、翌年の二月十二日というから、一年がかりで出雲へ来たことになる。ところが晴久は奮起して大内軍にあたったため、五月七日には義隆の軍は総敗北となり、義隆の養子晴持は、揖屋灘(八束郡)で、乗っていた舟が沈没し水死した。
 晴久は今度はは逆に、大内に荒らされた失地回復のため、七月には石見に出陣して銀山を再び確保し、弘治二年(一五五六)まで一三年間、豊富な銀を富田城へ運んだ。  一方、出雲攻略に失敗した大内陣営は、この敗戦が因となって家臣団に亀裂が入る。そして天文二十年九月一日、重臣の陶隆房(晴賢)がクーデターをおこし、義隆は山口郊外の大寧寺で悲惨な死をとげた。
 のち毛利元就は厳島で陶隆房を討ち、毛利と尼子との対立の時代に入る。
 度重なる攻撃に耐える尼子氏の強さの要因は、月山富田城の堅固なこともその一つに揚げられるが、尼子氏最強の戦闘集団、「新宮党」の存在が大きく揚げられる。
 毛利元就は新宮党をつぶすため反間の術をはかった。尼子晴久はその術にはまりに新宮党が謀反を企てていると勘違いしてしまい、新宮党の主だった面々を惨殺してしまった。
 また永禄三年(一五六〇)十二月二十三日、晴久は四十七歳で急死してしまった。こうして尼子氏は急速に衰えていく。

尼子氏の滅亡

 晴久のあとは長男義久が継いだ。
 毛利元就が元就は中国山脈を越え、先ず夢にまで描いていた尼子の所有する石見銀山に迫り、永禄三年、四年と攻めるが失敗する。しかし、ここでも譲略を用いて、銀山防衛の拠点、山吹城の城主、本城経光をくどき落とし、永緑五年六月に開城に成功した。
 元就は、作戦の一段階を終えたとして陣を整え、最後の目的である富田城を目ざした。
 その年の十二月には元就は白潟(松江市)に宿営し、途中の敵を落としながら、氷禄七年四月には富田城に迫つた。
 富田城は飯梨川右岸に立ち、東の独松山(三二〇メートル)、南の大辻山(三六五メートル)、 西の京羅木山(四二七メートル)に囲まれ、これらの山と急峻な谷でさえきられている。高さ一九七メートル、頂上の延長は三三〇メートル、幅の平均は二〇メートル。西側の低い台地は延長二五〇メートル余りで複郭をなしている。元就は、この名城を見て、舌を巻いたものだった。
「強攻策をとれば失敗する、持久戦で内部崩壊を狙え」と元就は指示した。
 果たして尼子方は、毛利軍の術中に陥った。若い義久は粘り強い包囲網の中、ストレスがこうじてきた。この一年が暮れ、翌八年になると、元就の放った流言蜚語を信じ、家臣を次々に疑い、ざん言を信じて有力な部将を切腹させたり、殺したりした。譜代の家臣たちは相次いで尼子を見放して去っていった。あくる九年になると、義久の心の乱れは益々エスカレートした。六月になると、毛利に降る者がさらに続出した。
 一方の元就は、作戦は成功したが、持病の間歇熱に悩まされ、自分の健康に自信がもてなくなった不安から「石見銀山の城に五〇〇〇貫の地を添える」(『雲陽軍実記』)といって、冨田城に対して和平を申し入れた。
 永禄九年十二月二十八日、義久・倫久・秀久の三兄弟は誘いに応じて開城した。しかし元就は盟約を破り、安芸の長谷(広島県高田郡向原町)の円明寺へ義久らを送って幽閉してしまった。
 持久以来、一七四年にわたった尼子家の命運は、遂に風前の灯と化した。
 しかし、消えかかった灯ををかきたてるように、山中鹿之助幸盛、立原源太兵衛久綱ら尼子家の旧臣は、尼子勝久を押したてて、永禄十二年六月、尼子家再興の旗揚げをした。
 勝久は、ざん言にあって滅ぼされ新宮党の尼子国久の孫、つまり国久の二男誠久の末子である。祖父や父が殺されたとき二歳だったが.乳母の夫、小川重遠に助けられて備後の徳分寺で成長した。宗家滅亡のあと、毛利の探索を恐れて京都近郊の東福寺に入り、僧となっていた。
 山中鹿之助らは、ひそかに探し出し、助四郎といっていたのを勝久と名乗らせて隠岐に渡り、軍船数十艘を整えて島根半島美保関の忠山に陣をはった。
 このあと元亀二年(一五七一)まで、二年二カ月にわたって出雲の山野で戦いを続けたが、ほとんどが連戦連敗。その後因幡に入ったが、戦況はやはり不利を続け、最後にたてこもった播州の上月城でも羽柴秀吉の救援が得られず、天正六年(一五七ハ)七月三日、 勝久は本丸の書院で池由甚三郎の介錯で腹を切り、二六歳という花の命を終えた。ここに尼子氏は滅亡した。
 山中鹿之助は勝久らの死を見届けたのち、上月城を明け渡し、心ひそかに出雲解放の夢を抱いて、毛利に降伏した。
 しかし、鹿之助の意図を見ぬいたのか、鹿之助を消すのが最良の策と考えた吉川元春(元就の二男)は、安芸国へ連行するといって備中国高梁川阿井の渡場まで来たとき、天野元明の家臣河村新左衛門が後方から斬りつけた。そして川へ飛びこむ鹿之助を追って二人がもみあっているところへ、福間彦右衛門・三上淡路守らが続いて飛びこみ、鹿之助の首をあげた。
 鹿之助は三四歳だった。阿井の渡し付近では、今でも悲運の武士の最期を哀れんだ昔語りが伝えられている。

参考文献
(歴史と旅 臨時増刊 戦国大名家総覧 1990年 秋田書店出版 )

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