私の守破離

〜友人達の指摘をうけて〜

 日本人の美徳は決しておごらない、高ぶらない、謙虚で、自分を自慢しない、そう思って今日までやってまいりました。 地道と感謝を自分に言い聞かせ、足らないながら精進してまいりましだが、何分短気で角もあり、縁の切れた友人も数しれず、思いはつきません。また、威張って得したことなど、日本ではありませんでした。
アメリカでははったりをかます自己アピールは当然ですが。

 私は呉の海辺に生まれ3歳の頃から釣りを始め、野口英世や北里柴三郎のような立派な学者になるのが小学生からの夢でした。サーフ小僧だった私の釣りの相手はシロギス、マコガレイ、イシガレイ、アイナメ、クジメ、アナゴ,イシモチなどでした。この頃の釣り夢は呉にはいないイワナやヤマメ、アマゴでした。中学にの頃まだまだマイナーだったルアーを初め、この頃舶来ルアーをなけなしの小遣いで月に一個ほど購入するのがやっとでした。このつりに傾倒し始めたのは友人の「そがーなルアーみたいなおもちゃで魚が喰うか!!!」と父親の「そがいな釣れもへん訳のわからんもん集めるより勉強せぇ!!!」の一言でした。この頃の私の取り巻くルアーへの偏見は強烈でした。また、当時釣れるとされたバスはまだまだ今のようにあちこちにギャング放流されておらず現在の状況とは若干異なっておりました。その後父親は、弟がヘドンタイニーダッドで釣った35cm位のバスを見てからあまりルアーを馬鹿にしなくなりました。この頃から折れた竿の改造など遊びでやっておりました。それでアイナメなどのブラクりなどやってました。
(当然ルアーで釣りたくてマンズのジェリーワームを切り刻んだりして使ってました)

 学生時代は東北の渓流で鱒属を追っかけ、オカッパリでアイナメやクロソイをミスターツイスターのキラーシャドで投げまくり、まだまだ超マイナーだった海のソフトルアーなどやってました。このときのアイナメのマイレコードは防波堤で釣った46cm2.6kgでした。(東北では別に珍しくもないですが)その後はスズキなるものや目の赤い魚をおっかけたり、鉛の塊をしゃくったり(これまた大好き)、泳がせたり、近年まで、釣物の価値がなかなか認められなかった、海のドラド釣にポッパーで投げまくったり、深海のドーベルマンとか(4人で50匹10〜30kgという事も過去にあり)、何とか鱒とか、本流ハードロックの王様2.5kgとか。縦じまのスズキ(これは釣りまくりました)とか釣らせてもらったニベの怪物とかまだまだ炭火のように中々つり熱はくすぶって消えません。魚達は私の心をまだ掴んでくれているようです。

 もともと、私の先祖は江戸時代まで倉橋島の多賀谷氏城下で鍛冶職人をしておりました。職人気質は血筋でしょうか?

 かつて私は、某量産釣具ブランクメーカーにて丸6年間、何千、何万と言う釣竿をくみ上げ、出荷、検品、企画までやってほとんど毎日何十本という特注まで、死に物狂いでこなしてきました。作業環境はとてもいいとは言えず決していい仕事とは言えませんでした。また、釣りは単なる道楽(ある面その通り)、釣りでは休暇や時間をとることは事実上禁止でした。釣具と言えど所詮量産品。職人魂など伝わらず、どんな方が使ってくれるのかも分からず、人が楽しむ道具なのに当たり前のことですが気になるのはコストダウンと経費削減、売上のみで、言葉だけのハイテク、最先端でした。当然ながら、工員さんたちにとっては日銭稼ぎの商品がたまたま釣竿だった、それだけでした。また、単なる派手な側面だけで入社した若者達はあっと言う間に春蝉の抜け殻のようになってしましました。
 心を失った道具など武士の刀でもありませんし、釣師の命でもありません。見てくれはかっこよくても魂を失った抜け殻。多少派手派手しい宣伝やデザインでなくても温かみのある道具を作りたかった。だから私は今までの位置と安定を捨てて、今までとは違う路を選びました。勿論、大手一流メーカー品を選ぶことは無難で、確実で、安定を約束してくれるかもしれませんし釣師本人が思い入れを吹き込み生かす事もできます。そういう面では生かすも殺すも道具の持ち主、オーナー次第です。
 量産メーカーに真っ向から勝負する気はもうとうありませんが、釣竿工房月の釣竿をぜひあなたの右腕にしてください。

 これで私が単なる思い付きや、にわかビルダー上がりでない事少しお分かりいただけましたでしょうか?あくまでも物は人魂。それがお分かりいただけたら幸いです。

二千二年六月四日 釣竿職人 平野 元紀

ミッチェルと友人の釣った巨大魚
完成まであともう一歩のジギングロッド。エポキシコートはダブルで最低6回は重ねます

ダブルラッピング副巻糸三色。

カラフルな割に飽きがきません。