人々の網の目 - Web of People -


Since 2002-02-22


「人々の網の目 - Web of People - 」について(岡本真)

 「人々の網の目 - Web of People - 」と題したこの試みは(注1)、インターネットにおける個人の学術的な発信を紹介すること、そして私なりの観点からそれらを評価していくことを目指している。ここでいう「個人の学術的な発信」とは、制度的な枠組みのなかに、端的にいえば大学や研究機関に籍を置く者の発信に限らない。社会的な立場や属性を問わず、学術的な意味を持つとみなされる発信に注目する。その際、発信者が本名を明かしているかどうかは問わない(注2)
 なにをもって学術的とするかは難しい。だが一つひとつの見解や意見が一定の根拠を持って示されているかどうかは常に意識したい。その上で、これまで学術的とされてきたものに注目したいし、学術的とされてこなかったものにも注目したい。プロフェッショナルとされている者の仕事に注目したいし、アマチュアとされている者の仕事にも注目したい(注3)。こう考えるのは、研究を職業とする者、しない者のいずれもがインターネットをどのように利用するかに、私自身の関心があるためだろう。
 さて、なぜいまこの試みかという疑問に答えておくことも必要だろう。やや長くなるがおつきあいいただきたい。
 個人が知的活動を行い、その成果を発信することの意味は小さくない。特にインターネットを用いてそうすることの意味は大きい。これまで私はそう考えてきた。そしてそのような知的活動とその成果の公開をいま以上に促進したいとも思ってきた。もちろん、いま現在でもインターネットには個人によって著述されたもの、編集されたものがひしめいている(注4)。だが、こうした知的活動の成果がもっと増えれば、そして成果を生む知的活動そのものがより活発になればと思う。こう思いながら、私はこの数年間をインターネットを中心に他者と関わりながら、自分の頭を使うように努め、ときにはその成果を - 恥らいつつも誇りを持って - 公開してきた。
 その末での一つの結論として、知的活動とその成果の公開を促進するには、発信者への相応の動機づけが重要だと考えるようになってきた。つまり知的活動を行い、その成果を発信することが、自分に、あるいは他者に何らかの形でプラスになっていると発信者本人が思えるようにならなければいけない。そのようなモチベーションは、多くの場合、他者からの評価によってもたらされる。とはいえ、他者の仕事を評価することは難しい。そもそも評価の種類も一様ではない。業績としての評価もあれば、社会的な評価もある。あるいはもっと私的な評価が意味を持つこともあるだろう。
 特に、研究内容に立ち入っての評価は容易ではない。外形的な評価をこえて、内在的な理解にもとづいた評価が求められるからだ。そこでは評価の対象を内在的に理解することが必要になる。そしてその理解を基本とした上での評価が求められる。当然、このような内在的な評価は楽なものではない。内容そのものの理解が求められる以上、誰しも内在的な評価をできる範囲は限られている(注5)。だが別の見方をすれば、一人ひとりが、その人なら評価できる分野、その人にしか評価できない分野を持っているともいえるだろう。
 そこで一つの提案をしたい。自分にしかできないことを見つけ、内在的な理解にもとづいた評価に取り組んでみてはどうだろう(注6)。そしてそれを公開してみてはどうだろう。一人ひとりによるそうした作業の積み重ねが、他者の知的活動をときに刺激し、ときに励まし、その成果の公開を促進していくのではないだろうか。
 その上でさらに一歩踏み出したい。あるいは脇道にそれてみたい。つまり内在的な評価ができると思える分野にとどまらず、関心のないものにあえて関心を持ちたい。あえて関心を持つことは私たちが生きていくうえで避けられないことだ。おおぎょうにいえば、私たちの暮らしは異質な他者との出会いの日々以外のなにものでもない。この日々は他者を理解しようと努めざるを得ない日々でもある。関心があろうとなかろうと、「他者を他在において理解すること」が求められる日々でもある。自らの殻に閉じこもることなく、関心の対象を広げていきたい。そしてこの試みをその一助としたい。「なぜこの試みか」という疑問に答えるならば、そういうことになる(注7)
 そう考えた末での試みであるため、構成にも工夫をしてみたつもりだ。たとえば、ここでは分野による分類はしていない。あくまで機械的な50音順での分類にとどめている。つまり便利さとは一線を画すつもりだ。利用される方には探し回ることに、他者と出会うことに手間をかけて欲しい。そしてできればその手間を楽しんで欲しい(注8)。そうすることによってこそ、無数の人と人とが、他者と他者とが確かにつながっている世界 −「人々の網の目 - Web of People - 」−を実感できるだろう。(2002-02-17記)

[注]

注1)この名称はTim Berners-Leeの『Webの創成 World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか』(高橋徹監訳、毎日コミュニケーションズ、2001年)の第10章から拝借している。
注2)そもそも、公開されている氏名が本名であるかどうかは検証しにくい。本名の公開に形式的にこだわるよりは、自身の責任において発言し、ときには恥をかく覚悟があるかどうかを問題にすべきだと考える。この点については、黒木玄さんが「黒木のなんでも掲示板:利用上の注意」に掲げる「「匿名」による批判の禁止」<http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Rules.html#anonymous>を参考にして欲しい。ただし職業的な研究者や研究者を志す大学院生には本名の公開をこころがけて欲しいとは思う。
注3)ここでは職業的な研究者であるか否かを基準にプロフェッショナルとアマチュアを区別することを意識しているわけではない。「されてきた」「されている」と表現したことに注意して欲しい。
注4)たとえば論文や翻訳、エッセイや日記は著述されたもの、目録や年表、データベースやリンク集といった編集されたものといえるだろう。
注5)このような作業は職業研究者に可能であって、一般市民には不可能であるとは思わない。そもそもそのような二分法でとらえられるべきではない。アマチュアを自認する側からすれば、プロフェッショナルにはなんらかのアドバンテージがあると思えるかもしれない。確かに制度的な支援体制には差があるだろう。だがそれは本質的な差ではない。精神主義に陥るつもりはないが、要は一定の時間と労力を費やそうとする決意の問題だと考える。
注6)ここで自分の立場や属性が「その人なら評価できる分野、その人にしか評価できない分野」を自動的に保障するわけではないことに注意したい。社会学の研究者であるからといって、社会学についての内在的な理解と評価が可能なわけではない。また企業社会に生きるサラリーマンであるからといって、企業社会についての内在的な理解と評価が可能なわけではない。
注7)ここにいたるまで大勢の方の影響を受けてきているが、特に野村一夫さんの次の著作の影響を挙げておきたい。
野村一夫『インターネット市民スタイル 【知的作法編】』(論創社、1997年)
注8)将来的には楽しむためのささやかな「遊び」を技術的にも組み込むことを考えている。


 「人々の網の目 - Web of People - 」はオンラインジャーナル"ACADEMIC RESOURCE GUIDE"に掲載されたものです。同誌は電子メディアの学術利用をテーマにした旬刊誌(毎月5日、15日、25日発行)であり、どなたでも無料で講読できます。「人々の網の目 - Web of People - 」と同様、岡本真が編集・公開しています。

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