****牽牛と織女*****

 以下は中国に伝わる民話の一つです。
中国には三大民話というものがあり、これはそのうちの一つです。
 残りの二つは、愛し合った若者が貧しさ故に結婚できず、最後に娘が墓の上に身を投げると、蝶に変身して空に飛んでいくという「胡蝶」と、家族が貧しいある家庭で、徴兵令が来ても男の子を出せず、娘が男に変装して、出征し手柄を立てて帰郷するというものがあります。 
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 昔農村で一人の男の子が産
まれました。生まれて間もな
く両親が病気で亡くなりました。
 彼には結婚しているお兄さんがいて、そこで育てられることになりました。
 兄嫁は大変けちん坊で、彼には寝る部屋を与えず、食事も兄夫婦の残りものだけでした。
 彼は牛小屋の藁を寝床にしました。
彼は毎日牛の世話をして、兄夫婦の生活を助けました。彼には名前が付けられなかったので、近所の人達は彼を「牽牛」(牛引き)と呼びました。
 牽牛はその牛を大層可愛がりました。新しい草の生えているところを探したり、時には水たまりで身体を洗ってやりました。
ある時兄嫁は彼を呼んで「あなたは身体が大きくなったのでこれからは一人で生きていきなさい」と言いました。そして兄は「両親の財産のうち、おまえにはあの牛とその台車をやろう。残りは私がもらおう」といいました。
 それ以降牽牛は牛をつれて山に行きました。そして芝を刈って牛に引かせて街に行き、それを売って生活を始めました。 ある時その牛が突然人の声を話しました。牛が言うには「この方向にまっすぐ行くと、大きな池があり、そこで若い女性が水浴びをしています。そしてあなたはその女性と結婚するでしょう」
 牽牛が牛の言うとおり出かけていくと、池がありその側に大きな木があって、木の枝には透き通った美しい着物が掛けられていました。
 池をみると二人の娘が水浴びをしています。牽牛は一人の着物を取って木の陰に隠れていました。やがて娘たちは水浴びをやめて陸に上がってきました。
 一人の娘は自分の着物がないのを知り「あら、大変だ。私の着物がない」と叫びました。そこへ牽牛が現れて、「心配いらないよ。これでしょう」と着物を返しました。
 牽牛は娘たちに何処から来たのかと聞くと、娘たちは「私たちは天から来ました。私たち姉妹は毎日機を織って働いています。母は大変厳しい人で、私達に食べるものも十分に与えず、毎日遅くまで働かせます。今日は母が出かけて留守だったので、こうしてここへ遊びに来ました」と言います。
 そこで牽牛はそのうちの一人に言いました「この地に残って私と結婚しておくれ」と。
 牽牛は妹と結婚し、姉は天の母の元に帰っていきました。
 やがて牽牛たちは力を合わせて働き、小さな家も建てました。そして男の子と女の子ができました。
 またしばらく時が過ぎて、ある時牛が再び人間の言葉を突然話します。牛は自分の老衰した身体を眺めて牽牛に言いました。「私はもうすぐ死ぬでしょう。死んだら私の皮をはいで大事に使ってください。もし困ったことがあればその皮に向かって願い事を言うと、その願いが叶えられます」
 こう言うと牛は死にました。そこで牽牛は牛の皮をはぎ、干してから大事に使いました。
 上の男の子が五歳になったとき、天から織女の母が現れて娘の手を無理矢理引き、天に連れ帰ろうとしました。野良から帰ってこれを知った牽牛は子供と一緒にその後を追いました。織女と母は今まさに天の川を渡ろうとしています。牽牛は牛の皮に、「自分も空を飛べるよう」 願いをいいました。
 二人の子供の手を取った牽牛の身体も空を飛ぶことができましたが、でもあの大きな天の川を越えることはできませんでした。こうして織女は天に帰ってしまいました。
 毎年二人は天野川の両岸で夏の暑い日に出会うことがでます。そして牽牛を表す大きな星のそばには小さな二つの星が輝いています。

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 以上で中国の物語は終わりです。これがいつの頃か日本にも伝わってきました。そして日本の全国でそれぞれの仕方で七月七日が祭られています。
 私の子供の頃は小学校のクラス単位で、竹笹に短冊に願い事を書いて吊し、これを皆で鴨川に流しに行ったことがあります。
 名古屋方面の方は二本の竹笹を飾り、それを紐で繋ぎ、笹の間にはカボチャや茄子などを供えたそうです。日本の各地でその飾りや祝い方が違うようですね。
 七夕(たなばた)とはそもそも何語でしょうか。(中国語ではないようです。中国語では「チーシー」と発音します)。講談社の日本語大辞典では「棚機」と書いてあります。

 日本の民話で代表的なものは何でしょうか。「竹取物語」は源氏物語にでてきますから、平安時代には文章として存在したようです。