台湾の春
(一)   七五・三 (1995/3)

 私は今、桜と梅とツツジが同時に咲いている国に来ました。たぶん沖縄もそうかも知れませんが、私が居るのはもう少し南の「外国」の台湾です。五人の日本人と、百人ほどの台湾人とが入り交じって一つの建物を造るために働いています。

 耳に入り込んでくる言葉は、ちんぷんかんぷんで、とんちんかんでどうしようもありませんが、仕事は図面を描いてやりとりすることと、日本語を話せる数人がいるので何とかなるようです。(日本人にも現地語を話せる人が居ます)この国の言葉は「ち」や「ん」という発音がとても多いのが気になります。例えば北京(ペイチン)、少女(シャオチェ)、君(チン)、金鳳(チンポウ)、(この二つは女性の名前)汽車(チーチョウ)(自動車)等々です。この「ち」も「ん」でさえも幾通りかの発音があるそうですが、巻き舌と頭に響かせる発音は反響のある部屋で聞くととてもきれいに聞こえます(特に女性の場合)。

 台湾は九州より一回り大きな国で、ヨーロッパではフォルモッサ(美麗島)という名で知られているそうです。それはオランダが発見した当時の暖かく緑の多かった時代のことでしょう。台湾を紹介するのに初めから欠点を紹介するようで気が引けますが、今私のいるこの国は、車とスクーターと排気ガスの国といっても過言ではありません(メキシコほどではありませんが。それは台湾では雨が降るからでしょう)。
 一昨日の日曜日は市内観光に出かけたのですが、前日の新聞の天気予報で寒冷前線が通過して公害が運び去られて空気がきれいになるでしょうとのことで、行く気になりました。台北市周辺に数多く存在する市では不快指数が一〇六から一一九まであって、スクーターに乗る人はマスクをかけてくださいと環境庁からの記事が載っています。
 道路は車優先で、車どうしは割り込み優先です。車の間隔が数メートル有れば割り込んできます。信号が赤から青に変わって、びっしり並んだ車やスクーターが一斉にスタートする様はすさまじいものがあります。スクーターは女性が多いようです。ヘルメットもかぶらず子供を抱えて飛ばしていきます。
 商店街には歩行者の通路がありますが、そこはスクーターの置き場になっていて人はほとんど通れません。これは台北の中心街も私の住んでいる近隣の都市も同じです。
 この交通状態の原因は地方交通網が全く発達していないからです。台湾の外周を回る鉄道が一本ありますが、他はすべて車を利用しなければなりません。大量輸送の施設がないのです。日本のように私鉄の資本家が成長しなかったからだそうです。また大きな製鉄企業がないこともその理由でしょうか。高速道路の渋滞は大変なものです。

 台湾の観光案内書には治安と物価が東京と同じで、貿易黒字による外貨保有高が日本を抜いて世界一ということが最初に書かれています。昨日の私の買い物調査では日用品では日本の七割程度、電気製品は日本の方が安いようです。日本の企業の名前は何でも揃っています。三越やそごうの百貨店には日本の雑誌は何でもあります。特に女性用の雑誌は色とりどりにずらっと並んでいます。タクシーの初乗りは五十円です。ここ台湾の紙幣は円で表記されています。それは千八百九十五年から千九百四十五年までの五十年間の日本の植民地時代の名残だそうです。それを元(ウエン)に読み替えます。日本の円に換算するときは四倍します。従ってメータは二百円からということになります。鉄筋や大工の手間は六年前は八百元でしたが現在は二千五百元(一日)です。日本では二万五千円くらいでしょうか。
 台湾には七年前まで野党は存在しませんでした。一九八八年にアメリカ在住の政府に批判的な小説家が暴力団によって暗殺されました。その暴力団は台湾政府・国民党と関係有る証拠が出たようで、アメリカ政府が公的に警告したそうです。それから火を噴いたような民主化を求める激動の時代をくぐり抜けて来て、今ではTVで毎日のように議会で与野党の取っ組み合いが放映されています。肩を怒らした女性議員が書類を議長に投げつけています。横にいる警備の二人が慌ててスクーターの風防ガラスを議長の顔に当てて防いでいます。
 一九八九年の北京では学生の民主を求める動きが武力で弾圧されましたが、ここ台湾では翌年に全島の学生のハンガーストライキに発展し、李総統は学生代表を議会に呼び込み、TVで全島民に放映する中で全条件を飲みました。そして一九九六年の春にその最後の約束である総統の直接国民投票が行われます。
まるで私が来るのを迎えるかのように民主化されてきました。今年の二月にも李総統は国民に謝罪し、二・二八事件の被害者の遺族に補償することが提案されています。(国民党が大陸から渡ってきた一九四七年の二月二八日に一般市民が国民党軍隊によって銃殺されました。その数は二十万人ほどといわれますが、その一割の二万人ほどの遺族が届け出るだろうと新聞にでています。)勿論野党は国家予算を使うことに反対で国民党の財産を当てるべきだとの意見です。
その千倍ほどの大陸での殺害を行った日本の場合、政府の国会での謝罪決議でもめているのと似ているようです。
 ここでは銃殺を行った側の兵隊やその遺族の人達は謝罪に反対をしていません。
 昨日の観光でも実にたくさんの日本人に会いましたが、ここ台湾では日本の企業の看板が至る所に並んでいます。台北市内だけで約二万人の日本人が働いていて、市の一画には百軒の日本人向けのカラオケバーが有るそうです。トヨタ自動車だけで四十五の関連企業を連れてきているといいます。現在日本人の学校が不足して困っているとのことです。
 
 私の仕事について少し書いておきましょう。 日本四九パーセント、台湾五一パーセントの電気の製造メーカーが工場を建てようとしています。大きな工場の場合日本や欧米が管理を行うようで、台北駅の五十階建ての三越百貨店のビルは熊谷組だそうです。工場が立ち上がっていく少し先の図面を描いて建物を完成させていきますが、私の場合その持ち場の指導だけすれば良いとの日本での約束でした。しかしその図面を描ける人が少ないということで、先に来ている日本人達は皆必死になって図面を描いています。中には「俺が必死になって描いているのに笑っているのは何事だ」と台湾人に怒鳴っている人もいます。
 外国まで来て日本式の職場風景に出会ってがっかりしていたのですが、それは後になって他の事情があることが解りました。日本の場合、建設現場にはやくざが地所周りといって金銭取立てに脅かしに来ますが、それはここでは有りません。また日本では鉄筋工と大工には他の職人はビールや酒を届けますが、そんな習慣もここではありません。日本でも八年ほど前に高卒の女性が鉄筋工になって週刊誌にまで載りましたが、ここでも若い女性が長くて重く肩に食い込む鉄筋を運んでいます。トイレも女性用のが有ります。
 ここではどの業者も図面はCAD(パソコン)を使い、書類伝票もパソコンを使っています。そして六月にはパソコンの世界的な見本市がここ台湾で行われます。

 現場で一番日本語の上手な呂さんを紹介しましょう。呂さんは五十九歳で、小学校の二年まで日本語の教育を受けました。しかしその時代は毎日毎日空襲でほとんど日本語を学ぶことが出来ませんでした。彼の両親は学校へ行っていません。
 頭に羽根飾りをつけたインディアンに服を着せたような写真を見たことがあるでしょうか。それは台湾の山地先住民族です。その民族も含めて日本人の統治時代、九十二・五パーセントまで学校教育を広めましたが、それでも期間が短かったのでしょう、年寄りが日本語を話せるとは限りません。
 しかし今から二十年前から呂さんは日本の企業に順次雇われて、今では彼が居なくては会議は進みません。いつもにこにこしていて、とても若く見えます。若さの秘訣は、毎朝の太極拳と時々の水泳だそうです。地方都市で温泉プールを経営しているところがあるようです。その太極拳の精神として、いつも心を穏やかにすることが必要だと言っています。私も教えてくださいと呂さんに頼んだら、身体の動きがとてもゆっくりで、膝間接を少し曲げた状態で体重を支えるので初めての人は大変難しいと言います。
もう一人の鄭さんは三十歳です。ある時彼の父親と一緒に日本式の高級料亭に招待されました。お父さんは六十二歳です。酒が回ってくると国民党の長く苦しい時代のことを話し始めました。時々ウエイトレスが入ってくるので、そんなことを話しても大丈夫ですかと訪ねたら、五年ほど前から大丈夫になったと言います。それまでは直ぐに頭に黒い袋をかぶせて連行されて帰らない人となったそうです。でもそのときの話はまた別の機会にしましょう。
 ただ今回紹介したいのは、台湾人とその言語のことです。現在の総統は国民党ですが台湾人です。三権とも台湾人になり、今度選ばれた台北の市長は民進党の台湾人です。台湾のほとんどの人は家庭では台湾語を使います。(山地先住民をのぞいて)台湾語は巻き舌を使わず、国民党が公用語にした北京語と全く違います。そして国民党と戦い、官憲の強襲にビルの中で抗議の焼身自殺をするなど民主化に命を懸けてきた民進党は大衆と話すときは台湾語しか使わないと言います。今現地の言葉を勉強しようかなと考えている私にとってどちらを選ぶべきなのでしょうか。
 最近台湾政府は大陸への出国を自由化しました。大陸側は台湾に親族が居ればこちらへ入れます。国民党の年寄りが大陸の親族を訪ねて帰国しようとしたそうですが、大陸は文化的、衛生的にあまりにも遅れているので生活できず戻ってきたという話も聞きました。
話は余談になりましたが、鄭さんの父は別れ際に私と二人になると自分の息子をぎゅうぎゅう追いつめても良いから仕事を仕込んでほしいと真剣な目で頼んできました。これが世界の親の共通の気持ちなのでしょうか。私自身の毎日の心がけも、うかうか出来ない気持ちにさせられます。

 さて最後に日本のニュースについて書いておきましょう。東京のど真ん中を襲ったサリンの事件を台北食堂のNHKのニュースで見ました。私が台湾に着いたその日の昼に事件を知りました。
 ここではケーブルテレビが発達していてNHK衛星放送の二チャンネルが見られます。全部で五十チャンネルほど有ります。なのに、なのに、大相撲の優勝者については誰かが解らないのです。それは夜仕事から帰ってくる頃にはもうNHKでは映画の時間になっていて、他のチャンネルは日本の相撲なんか影も形もありません。(ここの八時が日本の九時です)そして台湾が六月にGATTに加盟すれば、ケーブルテレビ会社がNHKに聴視料を払わなければならないので、見られなくなる可能性もあります。(台北ならその日の日本の新聞が売っています)
 いろいろ書きましたが一人になるとやはり言葉が使えないのがとても不便です。
昼は台湾人達と脂濃い弁当を食べて、その後皆全員昼寝です。職場のテレビでは日本放送は入らず、食後全員が昼寝をして静まり返った中で、台湾の株式情報が次々と流れていて、そのバックミュージックが単調で、しかも繰り返し繰り返し流れています。これから上手くやっていけるかな。
今回はこの辺で。