1975年の”駐馬店ダム”決壊事件


05/08/26 南方週末 銭鋼

 (概略)
 1975年8月特大の台風が中国を襲った。河南省駐馬店の板橋および石漫攤の大型ダムと2個の中型ダム、さらに58カ所の小型ダムが決壊した。以下は1999年発行の「中国歴史大洪水」を主資料とし、また数人の生存者から聞き取ったものである。





                         木の上の方に水位が来た印が残る↑



 中国ではこれを”75・8”大洪水と呼んでいる。
 被害は河南省の29の県と市、1700万畝の田畑が水に浸かった。1100万人が被害を受け、26000人が亡くなった。倒壊家屋596万戸、うしなった牛は30万頭、豚は72万頭、京広鉄道の損壊は102キロ、回復に18日、運行停止は48日に達した。経済損失は約100億元になった。

この被害はこれまでの歴史、おそらく今後も歴史上の最大として記録され続けるだろう。

訳注:畝、 日本の畝は約1アール。中国の畝はその6.7倍。

 1975年8月4日、台風3号が台湾を経由して福建省に上陸。普通は上陸後直ぐに消滅するが、この時は熱帯の気象が強烈で、上陸後速度が落ちて勢力は落ちず、揚子江に沿って大陸中央を蹂躙した。
 北京の気象観測所は避雷を受けて故障、台風の行くへを観測できなくなった。

8月4日から8日までの降雨量は1631ミリに達した。8月5日から7日の3日だけで降雨は1605ミリを記録。
当時の世界最大記録はアメリカのミシガン地方に降った782ミリが最大であった。1日の降雨量1060ミリも世界最大である。

  訳注:先月、05/08、九州宮崎に降   った降雨量は1300ミリ。
 日本の年間平均降雨量は1600ミリ。 

 8月5日、板橋ダムは最高水位117メートルに達した。これは危険水位を0.3メートル超えていた。これが8日に決壊し、以下下方のダムが連続して決壊していった。

当時の中国は1957年から69年に掛けて「大躍進政策」の下、全ての工事は人海戦術で建設するという政治目標があり、これらダムは人力を集めて構築された。当然工事全体が欠陥だらけで強度が足りないことは専門家なら誰でも知っていた。だが「右翼日和見主義」とのレッテルを貼られることを誰もが恐れた。
 
さらに中央政務院は「治理の方策」を決定。それは”水を多く蓄えることで水害に備え、排水機能は2の次”と言う目標であった。しかしこれは専門家から危険ではないかという疑問が提出されていたが、採用されなかった。
 こうして大量のダムが建設された。駐馬店地区だけで100個のダムが建設された。
 その結果、ダムとダムとの本流の傾斜が緩やかになり、水流は緩慢となった。これで大量の降雨で支流からの水が合流すると本流がその水量を受け入れることが出来ず、直ぐに河全体が溢れる構成となった。
 しかし「ダム構成が重大な問題を持つ」事は誰も指摘しなかった。

当時の国務院副総理潭震林はダム完成後現地を視察し、「問題は全て解決された。今後この方式を下流域に広める」と述べている。
 当時唯一人”陳星”と言う人がこのダム構成に問題があると指摘していたが他の専門家によって無視された。

1961年、3年続いた自然災害の後、大躍進政策の「行き過ぎ」があり、政策の見直しがされた。専門家の現地視察も行われた。だが「ダム決壊」を指摘する人は皆無だった。
 
 そして当時の予測では千年に一度の大降雨量がその2倍の大きさで襲ってきた。

8月5日、早くも降水量が多く、板橋ダムの管理室が水に浸かり、電話が使えなくなり、その後下流への危険信号が送れなくなっている。周辺の村全体が60センチほど水に浸かっていた。民家で倒壊が始まっていた。老人子供の救出が始まり、警察は「档案」の保存に懸命となった。
 8月6日、駐馬店地方も洪水となり救援活動が始まった。当ダムはゲートの放水を最大に切り替えたが、ダムの水位は上がる一方であった。
 ダム容壁を大砲で破壊し放水量を増加しようとしたが、近隣には大砲があっても玉がなかった。16時頃から暴雨が11時間連続する事態となった。数度の緊急会議が開かれたが「ダム決壊」を予測する人は居なかった。 前述の陳星氏がダム容壁爆破を提案しているが、この意見をダムへ送る通信手段が切断していた。
 7日21時頃から中型・小型の周辺ダム決壊が始まった。
 ダム周辺の水没した村の水位がさらに増加し、人々は恐怖に包まれていた。
 
 一瞬の雨上がりがあり、人々が「雨が止んだ」と歓喜する声が広がったと思うまもなく、板橋ダムが決壊し、8億立方メートルの水が洪水となって周辺と下流域全体を襲った。それは人間の抵抗を全く受け付けなかった。
 災害の一番多きいのは沙河店地方で、住民6000人の内827人が受難した。公社の3.6万人の内1.8万人が受難。魏湾大隊の1700人中1000人が亡くなった。

この地域で生き残った人を記者が訪ねた。

「当時ダム決壊を予測する話など聞いたことがない。洪水が来て誰もが大声で”助けてくれ”と叫んだが、その声も大雨でほとんど聞き取れなかった」という。
村人、魏長河という人は家族6人居たが4人死亡した。 

ダム決壊で蓄積水は5時間かかって全て放流し終わった。見渡す限り土が見えず、唯黄色の濁流が怒涛の如く流れていた。

数百万の被災民の中に伝染病が広まった。記録では113.3万人と書かれている。

記録によると、
 8月13日、新薪東部では、まだ200万人が水中にいた。
 汝南では10万人が水に浸かっていた。
上蔡では60万人が水に囲まれていた。華被公社の4000人は周辺の草木を食べ尽くし、1週間何も食べなかった。牛や馬も死屍累々となった。
 宿鴨湖ダム周辺では5万人が5日間何も食べていない。
 平興では40万人が水に囲まれたままで、腸炎・脳炎が流行した。医療班が送られたが薬品がなかった。この時の様子に「病人も泣いたが、医者も泣いた」と記されている。

 8月17日、まだ水に囲まれている人は101万人、木の上に登っている人や筏に非難している人3.1万人。
8月18日、88万人が水中に置かれ、発病者32万人。病気の中身は下痢が3.3万人、チフスが892人、肝炎223人、風邪が2.4万人、腸炎が8万人、高熱1.8万人、外傷5.5万人、中毒160人、眼病7.5万人、その他2.7万人、等となっている。
 
半月かかって水が退きだした。現れた土表には人間や家畜の死体が累々と続き、強烈な太陽を受けて腐乱していた。又地表に真夏の太陽が注いで何処も深い霧が立ちこめていた。
 当時現地救援に向かった人の話では、腐乱した遺体が木々の上部にぶら下がっており、その周辺をハエが真っ黒になって群がっていた、と言う。

 この大災害がダム大量増設の原因によって起こったことが確認され、登小平の許可を受けて李先念がダム爆破の命令を出した。
 
中央政府のヘリコプターによる現地視察が行われ、陳星氏の意見によって排水を行う方式が採用された。


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 訳者注:
”1961年、3年続いた自然災害の後、大躍進政策の「行き過ぎ」があり、”

 中国政府はまだ公にこの災害を「自然災害」を主とした理由に置いていて、「政策失敗による農民の大量餓死」で有ることを認めていない。報道も禁止されている。
 人民公社は、毛沢東が「全ての生活を共同ですることが共産主義」という思想を実行しようとした。生活の中身は3食も共同で同じものを食べた。毛沢東はこの当時の農民の様子を見て「農民が喜んでいる」と感じている。
 当時ソ連から「人民公社」で大量死の経験があり危険である、と言う警告を受けていたが、イギリスをも凌ぐ鉄鋼生産を上げるためとして共産主義化を急いだ。

人海戦術は、「全ての社会的富は労働が生む」という社会主義思想に基づいて毛沢東が「産めよ増やせよ」政策を採り、これも共産主義へ近づく政策として学者達に絶賛された。(反対したのは北京学長のみ)

「右翼日和見主義」を怖がる。
 建国直後から中央政治委員で毛沢東に反対意見を言う人が出なくなった。餓死者が1000万人を超えた時に(1961年7月)、国防部長のホウ徳懐が「私信」で毛沢東に”見直し”を提案し、それが「右翼日和見主義」として糾弾され市内引き回しとなった。
 周恩来も毛沢東に盲従したため、現在では中国の中高年齢の人には尊敬されなくなっている。
 何故毛沢東の独裁が可能であったか。
 法治政策を採らず人治政策を採ることで国内の敵階級を撲滅することが最優先という思想で、(国民全体を公平に扱うことはブルジョワ思想として排除された)、その結果社会的仲裁機関や裁判所が建設されなかった。
 裁判官が国家試験で採用されることが決まったのは2002年から。現実には暴力団や酒場の「舞女」等が採用されている。