「一輪車 」

「一輪車 」 大杉 涼


	晩秋の澄んだ大気が
	俺の目の下を軽く掠めてゆく。
 
	忘れようとしていた記憶が
	抗いの意志を見せ始める。
 
	俺は一輪車でドライブをするのが好きだ。
	勤行川のサイクリングロードを
	錆び付いたゴム車を押して行くんだ。
 
	空気が甘いので
	腐ったハムのようにひしゃげるタイヤ。
 
	ぞぶぞぶぞぶ
	ぞぶぞぶぞぶ
 
	一輪車の速さは俺の歩く速さと同じ。
	俺に一番近い車。
 
	生きる速さと
	死ぬ早さ
 
	ぞぶぞぶぞぶ
	ぞぶぞぶぞぶ
 
	下館二高を過ぎると
	小松崎精神病院だ。
 
	やあ!
	今日も元気そうだね。
	イキイキ発狂してるね。
 
	病院の窓には鉄格子がはまってる。
	病院の窓からは世界が鉄格子の中。
	秤にかければ同じモンだ。
 
	日曜日の昼下がり
	光線の量がだいぶ少ない
 
	子供達は釣り上げた魚の短い手足を
	カッターナイフでサクサク切り落とす。
 
	ベンチで口づけを交わす恋人達は
	歯が邪魔だから
	ペンチでおたがいの歯を抜き合っている。
 
	スポーツカーで乗り付けた青年は
	俺の顔をギロッと睨みつけると
	両親(だと思う)の死体を川に投げ捨てた。
 
	ものすごい波音に驚いたナマズが
	気絶して一斉に浮き上がってきた。
	白いハラをみせて
	何万
	何十万と。
 
	まちかねたように農閑期の部落民が
	我先にとナマズを捕りに川へ飛び込む。
 
	投網がからまって窒息死する者。
	ヤスが目に突き刺さる者。
	どさくさ紛れに水銀を流す隣村の村長。
 
	俺はひたすら一輪車を押し続けた。
	ぞぶぞぶぞぶと。
 
	このサイクリングロードは結構長い。
	果てしなく長い。
	それでいいんだ。
	このままずっと
	一輪車でドライブ出来るなら
	何もかも捨てていいよ。
 
	ふと空を見上げると
	鉛の雲が幾重にも重なっていた。
 
	俺は秋の境界を越えていた・・・。

文庫索引に戻る