編集後記2001

 

La vita mai si' cara non e'.

 人生がかくも素晴らしいことはない―『仮面舞踏会』のグスターヴォの台詞がそのままあてはまるような夜だった。何と言っても、抜粋とはいえ『ファルスタッフ』の場面を半舞台形式で堪能できたのが嬉しい。こせこせとつまらぬ画策に明け暮れる男どもと、そんな連中はものともしないウィンザーの陽気な女たち(クイックリーのおばさんの独特の存在感が笑いを誘う)、そして何があっても悠然と我が道を行くファルスタッフ。十人の思惑の絡み合いとそこに生まれるおかしみを、音楽的にも視覚的にも楽しむことのできた上演だった。すべてを見通しているアッバードの笑顔の美しかったこと。
 久しぶりに聴く『仮面舞踏会』も愉しかった。破局に向かってひたすら進んで行くこのオペラに、何と多くの笑いが、生きる喜びが、ちりばめられていることか。
 選曲はいつものことながらこの人独特の味を出している。『ドン・カルロ』のパリ初演版が二十年ぶりに登場したのには恐れ入った。実際の上演でフランス語歌唱を採用するのはアッバードといえども稀なことではないか。『仮面舞踏会』で第二幕の愛の二重唱を取り上げずに幕切れの嘲りの場面を出したのも面白い。
 こうして、「世の中すべて冗談」で二十世紀は終わった。しかし、二十一世紀の初めにはまた新たなmottoを。かくて、アッバードの言葉を題辞に掲げるに至った―人生は夢に溢れている、そのいくつかは実現する。

 ジルヴェスターのプログラムと出演者を掲載しておきました。本年も「資料館」をよろしくお願い申し上げます。

(2001年1月1日 編集子)

 

オンラインで読む怪談

 或る夜、ふと三遊亭円朝『真景累ヶ淵』を読みたくなった。ちょうど出先で手元に本がなかったものだから、ウェブで電子テクストを読み始めたのだが、まだ新五郎召捕りまでもいかないうちに止めてしまった。筋書きは追えるのに、どういうわけかあのじとじととまとわりついてくるような薄気味悪さが全く感じられないのである。翌日の晩、ふとそのことを思い出し、岩波文庫を引っぱり出して布団の中で読み始めたのだが、これが前夜読んだのとは比較にならぬほど面白い。笑っているうちにいつしか背中がすうっと寒くなるのでそこで止めて寝る。翌日またその続きが気になり、とはいえあまり読むと怖くなるからほどほどにして寝る。そんなことを一週間ばかり続けてとうとう因縁噺を全部読んでしまった。さて、テクスト自体は同じはずなのに、何故ウェブで読むとリアリティが感じられないのか。もともと高座での語りだから読むときも無意識に音声化しながら読むのだが、ウェブ画面を見ながらだとどうもこの過程がうまくいかない。おそらく、自分の脳の機能の一部はインターネット時代に適応しきれていないということなのだろう。数十年経てば人間の脳が適応しおおせるかもしれない。だが、適応しきれないままに技術のみが進歩した場合、文化は確実に変質して行くだろう。

 ヴィーン国立歌劇場『シモン・ボッカネグラ』の公演記録を見直した結果、1986年10月の音楽監督就任披露公演の日付が判明しましたので、配役もろとも掲載しました。また、翌年10月7日の公演が脱落しておりましたのでこれも追加しました。

(2001年1月6日 編集子)

 

新たなる千年紀の初めに

 昨年秋のベルリン・フィル来日時には、アッバードの健康上の理由などにより報道陣はほぼ完全に締め出されていたのかと思いきや、さにあらず。Berliner Morgenpostの記者が11月26日に宿泊先にて談話を取っている(2000年11月28日付同紙)。ちょうどベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のスコアを勉強中だった由。日本公演についての主治医の意見まで率直に語っており、精神的には相当に余裕があった模様だ。ベルリンの歌劇場をめぐる事情やフィルハーモニーの組織に関しても例によって飾らない意見を述べている。さらに、2002年以降の計画のことも話題になっている。繰り返し語られているように、自由な時間が欲しい、それだけなのかという問いに、「自分にとって最も大切なもの、或は人生において最も大切なものを諦めることなどできるわけがない」と明言しており、具体的には漏らさないものの何か特別なプロジェクトのための時間が欲しいということを匂わせている。「何か一つのことに惚れ込んだら、絶対に奥深くまで突き詰めるつもりだ」。アッバードはつねに未来を見つめている。二十一世紀にもさらに新たな世界を開いてくれることを期待しよう。

 ヴィーン国立歌劇場『シモン・ボッカネグラ』の公演データを追加。ヴェルディの命日までには全部出しましょう。

(2001年1月13日 編集子)

 

自らの物語を紡ぐ

 しばらく前に、アッバードが自らの少年時代を語った言葉を読んでいた。自分の成功譚などはほとんど口にしない人だが、少年時代のことはときどき語っている。こういう場合に必ず出てくる話というのがいくつかあって、例えば、七歳の時にラ・スカラでドビュッシーを聴いて指揮者を志した話などは既にアッバード伝説を構築するのに不可欠な要素となってしまっている。決まって繰り返される挿話は他にもいくつかあり、例えば、子供のために書かれたLa casa dei suoniでも語られている。こうした挿話は、単なる客観的事実として捉えるよりも、むしろ指揮者にとっての主観的真実という側面に重きを置いて、すなわち、アッバードかく語りき、として理解する方が、より真実に近づけるように思う。同じ話を繰り返すことにより、アッバードは自らの物語=神話を新たに紡ぎだしている。それは、この人のファンタジーを通して見た記憶の中の世界であり、時には半ば夢と混じり合っている。一人の人間が如何に世界と関わり合っているかは、こういうところに現れるものだ。

 ヴィーン国立歌劇場公演記録、手持ちのデータをすべて掲載しました。いくつか問題点もありますが、これに関しては次回に校訂報告を出します。

(2001年1月20日 編集子)

 

電子テクストで駄洒落を調べる

 オンラインで円朝を読み損なった話を以前書いたが、そうは言っても電子テクストにはいろいろと恩恵をこうむっている。特に外国語の場合に電子テクストの存在価値は大きい。シェイクスピアの戯曲はすべてオンラインで原文を参照することができる。ダンテの『神曲』も、ニーチェの『ツァラトゥストラ』も然り。つい最近も、小田島雄志訳で『ヘンリー五世』を読んでいたら、微行中の王がオーヘンリーと名乗っているのに行き当たり笑ってしまった。まさか原文がO. Henryではあるまいと早速ウェブで原文を探し出し、小田島訳と引き比べてしばし遊んだものだ。こんな楽しみが全くの素人に許されるというのもインターネット時代だからこそである。駄洒落の一つを調べに図書館まで行く暇はなかなかないだろうから。そういうわけで、版権の切れた文学・思想上の著作の電子化は大いに歓迎したい。尤も、書物という形態が消えては困る、何も怪談を読む場合に限ったことではない。

 ヴィーン国立歌劇場公演記録の校訂報告を出しました。編集室内にありますので適宜御参照下さい。それから、マーラー・ユーゲント管の1993年のデータ追加は、山本兼司様の御指摘によるものです。ありがとうございました。
 本日はヴェルディ没後百年記念日、ベルリン・フィルでもアッバードが25日に引き続き『レクイエム』を指揮します。

(2001年1月27日 編集子)

 

ヴェルディ没後百周年に

 ベルリン・フィルとのヴェルディ『レクイエム』はこの上なく深い感動をもたらしてくれた。Dies iraeの劇的な展開、Sanctusにおける晴朗な幸福感、KirieからLibera meに至るまで、さながら一つの人生を経験するかのような時間が流れていた。死の永遠性を乗り越える可能性を、「生きることの意味」を、深く考えさせてくれる、心に刻まれる音楽であった。ベルリン・フィルの創り出すポリフォニーと歌われる言葉の響きは何と美しかったことだろう。
 指揮台のアッバードの深く澄んだ眼差しが印象に残っている。この人は音楽で自らの思惟や情念のすべてを表現できる、生と死、という言葉で語ることが極めて困難な問題すらも。これまでも、アッバードの演奏するヴェルディ『レクイエム』からは、生きることについて多くを教えられてきた。主として、十数年前のロンドン響とのエディンバラ音楽祭でのヴィデオを通して。そして今回もアッバードはまた新たな出逢いを生み出してくれた。改めて感謝の念に満たされている。

 「ヴェルディ没後百年記念日に」はマエストロがベルリンの新聞に寄せた言葉を訳したものです。また、La Repubblicaがベルリンでアッバードのインタヴューを取っていますので、外国語文献の項に邦訳を掲載しました。御感想などお寄せいただければ幸いです。

(2001年2月3日 編集子)

 

信じるということ

 アッバードはしばしば信仰のことに触れている。何を信じるかではなく、人間は何かを信じることなしには生きられないのだ、ということの方が重要だ、という意味のことをこれまでにも繰り返し語っていた。世界には何か信じるに値するものがあり、ひとはそれを信じることなくしては生きて行けない。或る人はそれを真実と呼ぶし、或る人はそれを神と呼ぶ。アッバードは音楽を信じ、音楽のなかに真実を聴き取っているのだろう。編集子も十四年前、アッバードの演奏するベートーヴェンを聴いて、初めて、世界は信じるに値する、と悟った一人である。アッバードの演奏する宗教曲が我々を感動させるのは、彼が、信仰の問題を特定の宗教に限ったこととしてではなく、神を持たない多くの現代人にも共有できる普遍的な問題として考えているからであろう。ベートーヴェンの『第九』を、そしてヴェルディの『レクイエム』を聴くたびに、世界への信頼を取り戻すことができるし、生の意味を新たに考えて行くことができる。

 ローマでのベートーヴェン・ツィクルスの初日は2月8日に成功裏に行われました。『エグモント』序曲、ブレンデルとのピアノ協奏曲第四番、交響曲第七番です。既に9日付のローマの新聞が熱い興奮を伝えています。「今後の演奏会から」にプログラムを掲載してありますので御参照下さい。
 1999年のマーラー室内管弦楽団との『ファルスタッフ』の配役を補完しました。

(2001年2月10日 編集子) 

 

永遠の都にて

 ローマのベートーヴェン・ツィクルス初日の成功をイタリアの新聞は大々的に報じていた。La Repubblicaの記事は「ブラーヴォ、マエストロ」と興奮した筆致で始まっており、ローマの聴衆の期待と熱狂が伝わってくる。何と言っても、アッバードがベルリン・フィルとともに久しぶりにイタリアの首都を訪れ、しかもベートーヴェンの交響曲・ピアノ協奏曲全曲を毎日独奏者を変えて演奏するというのだから、これはまさに一つの事件であろう。遠く離れた日本にいてすら、何だかわくわくさせられる。初日の幕開けには、イタリア国歌に続いて、ヨーロッパ統合の頌歌として『第九』の「歓喜に寄す」が演奏されたという。新聞報道からは、溌剌としたアッバードの姿と、第七交響曲の、リズム動機をどんどんたたみかけてゆく熱狂的な演奏のさまが伝わってくる。読みながら、昨年の日本公演での、第七番の眩いような生命の輝きに溢れた演奏を改めて思い出していた。ツィクルスは15日の『第九』で幕を閉じたが、熱狂的な拍手は二十分以上続いたそうだ。17日からは、ローマに続いて、ヴィーンでのベートーヴェン・ツィクルスが始まる。

 La Repubblica紙の報道によると、『第九』のバリトンはドーメンだったようです。
 アッバード/ベルリン・フィルのローマ公演に伴い、RAIラジオ第三放送が一月末より二週間余にわたりAbbado Festivalを企画しました。ベートーヴェン連続演奏会がすべて同時中継された他、六十年代の貴重な録音も放送されました。日本からのメッセージも紹介された模様です。
 La Repubblica紙に掲載されたインタヴューの原文はアーカイヴから削除されたようですので、リンクを解除いたしました。御了承下さい。

(2001年2月17日 編集子)

 

『ファルスタッフ』の題名役は

 アッバードは、自らについても音楽についても、言葉で語ることの少ない人である。プローベでも口数の多い方ではない。しかし、記録されている言葉はいずれも、この指揮者のものの考え方や感受性を反映しており、音楽についても人生についても多くのことを教えてくれる含蓄の深いものである。とはいえ、その言葉をつねに文字通りに受け取っていると、ときに肩すかしを食わされる。アッバードの談話には、少なからぬ勘違い、のみならず、おとぼけやアイロニーも混じり込んでいるからである。それがまた魅力でもある。
 先日のLa Repubblica紙のインタヴューでも、今期のベルリン・ツィクルスのタイトルを間違えて喋っている。だから、ザルツブルクの『ファルスタッフ』の題名役がライモンディというのも、最初は勘違いではないかと訝しく思った。発表ではターフェルだったからである。しかし、ローマのベートーヴェン・ツィクルスで『第九』のバリトンがドーメンに変わり、その直後に、ターフェルが「個人的な事情」によりキャンセルしたとの報道がなされた(2月17日付Die Presse紙ほか)。かくて、ザルツブルクでも、ウンター・デン・リンデンに引き続き、ライモンディがサー・ジョンを歌う。

 「今後の演奏会から」の配役表を修正しておきました。なお、前回追加した七十年代のロンドン交響楽団演奏会は山本博史様の情報提供によるものです。これまでにお寄せいただいた情報のうち未整理のものがいくつかありますので、引き続き公開して行きたいと思います。

(2001年2月20日 編集子)

 

ローマからヴィーンへ

 「アッバードは無人のステージに二度出て来た。興奮し感動した聴衆がホールを埋め尽くし、腕を高く上げて拍手を送っていた。マエストロは目を輝かせ、胸に手を当てて、微笑みながら答礼する」編集子の日記を繰ってもほぼ二年ごとにかかる記述が現れるのだが、ここに引いたのは個人の日録などではなく、れっきとした新聞記事である(La Repubblica、2月16日付)。ローマでのツィクルスの掉尾を飾った『第九』を報じた記事の一つは、終始この調子である。新聞さえもかかる有様であるから、聴衆の熱狂ぶりは推して知るべし。同じ日のまた別の記事の筆者は、熱っぽくてまろやか、強靱で柔らかな響きに触れ、特に『第九』のアダージョにおける、第二主題と、それに続く第一主題の変奏は忘れがたい、と書いている。読みながら1996年の来日公演での感動を改めて思い起こしていた。ああいうベートーヴェンを聴く機会は自分にはもう訪れないのだろうか。ヨーロッパはやはり遠い。
 流石にヴィーンではローマほどの大騒ぎにはならぬようだが、演奏会は連日成功を収めているようだ。

 三月のベルリン・フィル定期演奏会のプログラムを追加しました。

(2001年2月24日 編集子)

 

私たちのベートーヴェン

 ローマに比べると新聞報道の量こそ少ないようだが、ヴィーンでのベートーヴェン・ツィクルスは空前絶後の大成功だったという。特に最終日の『第九』は素晴らしく、終演後の聴衆の熱狂は三十分以上も続いたそうだ。この二週間あまり、夢中で各紙の記事を追い、日本にいながらも昂揚した気分を味わっていたのだが、終わってみると、かくも素晴らしい音楽を聴かずに過ごしてしまったという虚脱感に捉えられて、茫然とするより他はない。現地からの報告を読みながら、かつてアッバードの指揮で聴いた三回の『第九』を次々と思い出していた。これまでの出逢いが忘れられないだけに、人生からこぼれ落ちてしまった至福の時間が惜しまれてならない。ベートーヴェンの音楽はいつでも私たちのそばにあるし、これからも私たちとともにあるだろう。そして、ベートーヴェンの音楽がある限り、私たちは未来を信じることができるだろう。アッバードの演奏はいつもそれを伝えてくれた、おそらく今回もそうだったのだろう。
 ところで、ローマ公演を契機にミラーノに戻ってきて欲しいという声がまた高まっているようだ。ラ・スカラ側の話では、数年前から何度か客演を呼びかけているのになしのつぶてなのだともいう(2月20日付Corriere della sera)。いずれにせよ、アッバード自身は、今後なにをやって行きたいのか、はっきりした展望を持っているだろうし、本当にやりたいことしかやらないだろう、それだけは言えそうだ。

 予定ではローマ、ヴィーンに続いてアテネ公演があったはずなのですが、これについては記事が見あたりません。とはいえ、キャンセルしたという話も聞いていないのですが。
 皆様からいただいたデータをもとに、ロンドン交響楽団の公演記録を少しずつ補完しております。その他、細かい修正が多数。

(2001年3月3日 編集子) 

 

音楽とともに生きる

 3月6日付Corriere della sera紙は、アッバードの淡々とした語調を伝えている。「私の人生は私が決める。医師の指示に従わなければならなかったとしたら、ベルリン・フィルと『トリスタン』を演奏するために日本に行くことはできなかっただろう。でも私は行くべきだと思った。行って良かった。あの頃から体調は良くなってきたのだから」。悪いことのなかからもつねに何かしら良いことは生まれてくるものだ、とアッバードは語る。なかでも、オーケストラとの間に新たな絆が生まれたことは大きな喜びだったという。そして、この、オーケストラと指揮者の間に閃いていた特別な感覚のことは、ローマとヴィーンでのベートーヴェン・ツィクルスに関する数多の報告でも繰り返し強調されていた。では、ベルリンの聴衆についてはどうなのか。「マーラーの第九番、この交響曲の終わりにはほとんどつねに沈黙の瞬間が生まれる。最後の音が消えてから最初の拍手が起こるまでの時間は、聴衆がどれだけ音楽をともに分かち合ってくれたかの指標になる。静寂が最も長かったのはベルリンであった」。
 行間からは、さらに豊かな仕事に楽しんで取り組もうとする、そして何よりも生きることそのものを楽しもうとする、溢れんばかりの意欲が伝わってくる。音楽とともにあるマエストロの人生が、これからも実り多い幸せなものでありますよう。

 アテネ公演は実は去年のうちにキャンセルされていたようです、読者の方から御指摘いただきました。

(2001年3月10日 編集子) 

 

FAZの記事から

 3月6日付Frankfurter Allgemeine紙に、音楽評論家のGerhard Kochがアッバードの談話を再構成した記事を書いている。実は、この談話と、前回紹介したCorriere della sera紙をもとに、翌日の各紙が一斉にアッバードの健康状態について報じたのだが、彼は決して個人的なことだけを語ったわけではない。記事のなかではノーノについてもたくさん触れられているし、マーラーを始めとする様々な作曲家とその作品に対する考え方も語られている。とりわけ、ベルクとマーラーに関する部分は興味深いので、今回はその箇所だけを紹介した。『ルル』のチェルハ版を積極的に評価しているというのが興味深い。尤も、大好きだと言いつついまだに指揮しないところをみると、やはり採用すべき版についてまだ最終的な結論に至っていないのだろうか。
 マーラーの作品については思い付きめいたことも語っており、こういう談話は、可能ならインタヴューのもとの形のままで読む方が面白いに決まっている。とはいえ、とても充実した内容の記事であるから、いずれ他の部分も抄訳で紹介できればと思う。

 ここのところ補完しつつあるロンドン交響楽団のデータは、主として山本博史様、谷口太郎様から提供していただいたものです。

(2001年3月17日 編集子)

 

ルツェルンでの新たなる出発

 新しくオーケストラが生まれる。ルツェルン音楽祭の記者会見で、インテンダントのヘフリガーが明らかにしたところによると、同音楽祭は新たにルツェルン祝祭管弦楽団(仮称)を設立する(3月17日付Neue Zuercher Zeitung他)。このアイディアはクラウディオ・アッバードから出たもので、オーケストラには、マーラー室内管弦楽団の団員の他、元ベルリン・フィル団員のパユ、ブラッヒャー、クスマウル、クリスト、さらにナターリア・グートマン、ザビーネ・マイアー、ハーゲン四重奏団が参加するそうだ。いずれもアッバードとは関係の深い演奏家たちだ。スイスの演奏家も加わる予定という。最初の演奏会は2003年8月に音楽祭の一環として三回行われ、以後2005年まではアッバードがこの新生オーケストラの監督をつとめるとのこと。「既に数年前に宣言したように、2002年からは年に一つの重要な企画だけをやって行くつもりだ。ルツェルン音楽祭のためのこの新しい企画に参加できることをとても嬉しく思う」(Corriere della sera、3月17日付)。ベルリン・フィル退任後は音楽を本来あるべき姿でやりたい、と昨年インタヴューで語っていたアッバードが、いよいよ既存の組織に拘束されることなく、若い音楽家とともに「一緒に音楽をする」ようになる。

(2001年3月20日 編集子)

 

フィルハーモニーでのジャムセッション

 三月初のベルリンではアッバードがウィントン・マルサリスと演奏会をやっていた。今期のツィクルス・テーマ「音楽はこの世の愉しみ」に因んだものである。二人は二十年来の友人で、今回の企画はアッバードが提案したものという。ベルリンの各紙にも批評が出ていたが、ローマのLa Repubblicaの報告(3月7日付)は、愉しそうなアッバードの様子を伝えていて面白い。アッバードはほとんど踊らんばかりの弾んだ指揮ぶりだったそうだ。前半はストラヴィンスキー、ガーシュウィン、ショスタコーヴィチ、後半はマルサリスの作品『All rise』(ガーシュウィンよりはバーンスタインに近い、と同紙は書いている)。アンコールはマルサリスを中心としたジャムセッションで、ベルリン・フィル団員が独奏を披露した。アッバードはと言うと、ヴァイオリン奏者たちの間に座って、微笑みながら拍子を取っていたという。ベルリン・フィルが好き放題やっているのをとても愉しそうに見ていた、と。ちなみにアッバードはこのアイディアをずいぶん前からあたためていたようだ。1997年のイタリアの新聞に掲載されたいくつかの談話で、マルサリスとジャズの演奏会をやりたいとか、ビートルズが好きだとか語っているのをたまたま見つけた。

 Frankfurter Allgemeineに掲載されたアッバードの談話、前回はベルクとマーラーの部分しか紹介しませんでしたが、もう少し詳しく概要を紹介しておきました。

(2001年3月24日 編集子)

 

Liebe und Fiducia

 アッバードは口数の少ない人だと言われるが、興味ある話題ならいくらでも喋るようだ。『トリスタン』やモンテヴェルディや『シモン・ボッカネグラ』について延々と語っているのを読んだことがある。尤も、自分自身のことを語るのはあまり好まないから、インタヴューの類が少ないのは事実である。しかし、そうして語られた言葉の端々にはこの指揮者のものの考え方や感受性が現れているし、また、その語り口に独特のユーモアやアイロニーが感じられることもある。
 貴重な言葉を日本語に訳したものがいくつかまとまったので、この機会に当資料館に掲載したものの一覧を作ってみた。タイトルにした、愛と信頼、というのは1994年来日時にNHKの番組に出演したマエストロが色紙に書いた言葉である。番組ではドイツ語で話していたから、「愛」はドイツ語で書いたものの、信頼、はイタリア語の方が自分にとって自然だったのだろう。

 海外の新聞・雑誌に掲載されたアッバードのインタヴューや特集記事を御存じの方、宜しければ教えていただけませんでしょうか。もちろん古いものも大歓迎です。
 御蔭様で資料館も一周年です。読んで下さる方がいらっしゃることをいつも嬉しく思っております。

(2001年3月31日 編集子)

 

欲望は満たされることなく

 初日に先駆けて早くも報告が出ている。4月4日、ザルツブルク復活祭の『ファルスタッフ』のゲネラルプローベが行われ、成功を祝った。ドネランの舞台の息もつかせぬリズム、ライモンディを初めとする歌手たちの完璧な歌と演技、そしてアッバードの奇跡のような音楽に、熱い拍手が湧き、アッバードはくつろいだ笑みを浮かべていたという。ファルスタッフは決して満たされることのない欲望の象徴だと彼は語っている、「たくさんの女を愛するが一人も自分のものにできないドン・ジョヴァンニと同じように」。ウンター・デン・リンデンでジョナサン・ミラーと素晴らしい舞台を創り上げた指揮者は、今度はドネランとともに、人生の喜劇的な面を捉えたヴェルディの傑作を、新たな姿で生み出しつつある。ドネランを推薦したのはピーター・ブルックだったそうだ(以上、4月5日付La Repubblica紙より)。いよいよ今日はプレミエ、Va, vecchio John, va, va per la tua via!

 山本博史様の情報により、1980年のヴィーン・フィル、ロンドン交響楽団演奏会のデータを追加しました。

(2001年4月7日 編集子)

 

世の中すべて冗談

 「クラウディオ・アッバードに至極ふさわしい勝利」(La Repubblica、4月9日付)―アッバードの指揮する『ファルスタッフ』はこの上なく知的で明晰であり、にもかかわらず音楽は炸裂し聴衆は熱狂したという。サー・ジョンはライモンディ。アッバードの言葉を聞いてみよう「(ルッジェーロは)ファルスタッフに深く感情移入し、この人物の矛盾した側面―喜劇的な面からノスタルジックな面まで―を捉えることができる。こうしてファルスタッフを、少なくとも部分的には、あらゆる人間のおかれている条件を代表する普遍的な人物たらしめている(中略)。ファルスタッフと同様、我々はみな欺かれているのであり、誰一人としてこの世の戯れから逃れることはできないのだから」(Corriere della sera、4月8日付)。「エネルギーとアイロニーに溢れた」(同紙)アッバードの『ファルスタッフ』、本当なら生の舞台で味わってみたかったのだが、現実の人生はそううまくは運ばない。

 マエストロが『ファルスタッフ』を語るのを読みながら、ザルツブルクの舞台をいろいろと想像しています。プレミエに先立っての談話、いずれ御紹介したいと思います。

(2001年4月14日 編集子)

 

ファルスタッフを語る

 今年に入ってから、アッバードが新聞のインタヴューを受ける機会が増えているようだ。ザルツブルクの『ファルスタッフ』初日の前にも、少なくとも二紙に談話が掲載されていたが、その一つを紹介しておいた。『ファルスタッフ』の室内楽的性格を、間口のむやみと広い祝祭大劇場の舞台で、いかにうまく実現させたか、に始まって、『ファルスタッフ』の笑いの性格について、モーツァルトとヴェルディ、ボッカッチョとシェイクスピアの文化史的な関わりについて、ヴェルディの音楽のオーケストレーションや和声について、アッバードは雄弁に語っている。最後に、2003年以降の企画について触れながら、暗に一流歌劇場への客演の可能性を否定しているが、ここでは辛辣な批判は影を潜め、暖かく優しい語り口が伝わってくる。訳していて胸が熱くなった。演奏を聴く機会が少なくなるのは残念であるが、この十四年間アッバードの音楽と人間をひたすら愛してきた一人としては、マエストロが自らの理想とする形で音楽を作っていけることを、そして、本当にやりたいことに時間とエネルギーを注げることを、心から願うのみである。ベルリンでの最後の年が輝かしいものでありますよう、そして、2003年以降も幸せな日々を。

 自分の見ていないものを日本語にするというのはなかなかやりにくいものです。実際の舞台がどうなっていたのか、ザルツブルクでの実演を聴かれた方に教えていただければ幸いです。その他の御意見・御感想などもお気軽にお寄せ下さい。
 ベルリン・フィルの部屋の最上英明様が、1993年11月ベルリンでの『ボリス・ゴドゥノフ』の配役を調べて下さいました。その結果、レイミーは出演していないことがわかりましたので、公演記録を訂正しておきました。また、上記のサイトに来年のザルツブルク復活祭の予定が掲載されておりますので、早速「今後の演奏会から」に追加させていただきました。

(2001年4月21日 編集子)

 

追悼・シノーポリ

 ジュゼッペ・シノーポリが亡くなった。4月19日夜、ベルリン・ドイツ・オペラで『アイーダ』を指揮している最中、第三幕で突然倒れたという。急性心筋梗塞だった、享年54歳。
 初めてシノーポリの音楽を聴いたのは、フィルハーモニア管弦楽団とのマーラー・第二交響曲であったが、この演奏には大変なショックを受けてしまった。この曲はアッバードとシカゴ響の録音が好きで繰り返し聴いていたのだが、それにしても、シノーポリは、編集子がアッバードの演奏で感動していた美しい箇所の数々をすべて意図的に外しているように感じられたのである。単純に、嫌い、と言って済まされないものがあった。徹底的に対峙してみて何が嫌いなのか明らかにしないと落ち着かない。自らの世界観を問われているような気がした。実演で聴いたのは1988年のフィルハーモニア管との来日が最初だった。マーラーの第八交響曲だったが、このときもよくわからなかった。何故シノーポリはこうするのか、という疑いが終始まとわりついて離れなかった。
 何かが変わった、と感じたのは、シュターツカペレ・ドレスデンとの『エレクトラ』演奏会上演(1995年)からだった。このときは八十年代に感じられたような違和感はなく、音楽の斬新な魅力を味わうことができた。こういう音楽ならもっと聴きたい、と初めて思ったものである。
 自分とは感じ方が違う、と思いつつ、この指揮者は気になる存在であった。そういう意味で、やはり大きな存在だったのだろう。もっと聴いてみたい、と思っていただけに、突然の死は衝撃が大きかった。彼の残したものは何であったのか、然るべき評価がなされて欲しいと思う、「神話」と化してしまうのではなく。
 御冥福をお祈り申し上げます。

 「『ファルスタッフ』を語る」の訳文中に誤りがありましたので訂正しておきました。既に保存された方は差し替えていただきますようお願い申し上げます。

(2001年4月23日 編集子)

 

黒衣に徹する

 しばらく前に、ヨーロッパのある音楽関係者の回想録を邦訳で読んだ。内容自体は興味深かったのだが、さして本文の理解に役立つとも思われない訳注がむやみとちりばめられているのには閉口した。しかも、これは出版社側の責任だろうが、訳注が本文の中に同じ大きさの活字で挿入してあるため、さらに煩わしい。原著者がこんなことを言うはずがない、と訝しく思うと実は訳注なのである。著者の書いていることから自分でいろいろ考えてみるというのは、読書の大きな楽しみの一つだから、それを一々妨げられるのはうっとうしくて堪らない。翻訳者とか編集者とかいう存在は、最も良い仕事をしているときはむしろその存在が気にならないものだ(文学作品の翻訳に関してはこの限りではない)。さて、自戒を込めて「資料館」のありかたを問う。アッバードの音楽と人間について読者が自ら考えるよすがになれば、と願って、なるべく注釈なしの生データを見ていただくよう心がけてはいるのだが、それでも煩わしいと感じられる向きもあるかも知れない。願わくば蔭の存在であり続けたいものだ。

 1972年のヴィーン・フィル演奏会のデータを追加。正確な日程のわからない部分もあります。

(2001年4月28日 編集子)

 

フィデリオ

 1995年1月にラ・スカラで『フィデリオ』を振るとか、1996年5月にベルリン・フィルとミラーノで『エレクトラ』を上演するとか、以前そういう話は確かにあった。周知の如く、1994年5月にアッバードはラ・スカラと決裂してしまい、いずれもはかない夢に終わってしまった。『フィデリオ』はもともとフェッラーラ・ムジカの企画として考えられ、グリューバーが演出を担当する予定であったし、『エレクトラ』の方はベルリン・フィルの客演で上演するということだった。おそらくそのあたりの条件が当事者間で食い違ったのが決裂に至った原因ではなかろうか。このときの経緯をミラーノの新聞は派手に書き立てていたが、とにかく、爾来アッバードはミラーノでは指揮していない。とはいえ、やりたいことは時間をかけてでも必ず実現する人だ、『フィデリオ』もいつかやるのだろうな、と密かに期待していた。どうやらそう遠い先のことではなさそうだ。マエストロ自身が、ここ数年のうちにやる予定だと語っている。
 かくて、2002年以降もアッバードの活動からは目が離せない。重要な企画は年に一つ、と宣言しつつも、ベルリン・フィル定期には招かれているそうだし、フェッラーラでの仕事も大切に考えているようだ。さらなる幸せな御活躍を。

 アッバードは今日からベルリン・フィル定期でマーラーの交響曲第七番を指揮します。
 最近アッバードの談話が増えています。「『ファルスタッフ』を語る」に引き続いて、今回は、復活祭の直後のIl Giorno紙のインタヴューを翻訳で掲載しました。

(2001年5月5日 編集子)

 

ここでは時間が空間になる

 ベルリン・フィルの時期シーズン・プログラムが公式サイトに発表された。アッバードの指揮する分のみ転載しておく(「今後の演奏会から」)。定期に登場する回数は決して多くはないが、プログラムはいずれも興味深いし、演奏旅行も精力的に行っている。今期のツィクルス・テーマはパルジファルで、例の如くフィルハーモニーで演奏会上演を行った後に、ザルツブルク復活祭でペーター・シュタイン演出により完全な舞台で上演する。他に、アッバードの指揮では、シューマン『ファウストからの情景』やメンデルスゾーンの交響曲第二番が目を引く。必ずしもツィクルスの一環ではないようだが、インタヴューでも語っていたように、連想はつながっているのだろう。他に、これも自ら語っていた、ショスタコーヴィチの『リア王』をコジンツェフの映画に併せて上演するというのも実現させている。ツィクルスの企画としては、これもアッバードが興味を示していたバッハ『ヨハネ受難曲』を、ラトルが指揮するのも期待が持たれる。ラトルは他にも『グレの歌』、ベートーヴェン『第九』と大活躍である。

(2001年5月7日 編集子)

 

合唱幻想曲

 ベートーヴェンの『合唱幻想曲』をアッバードはことのほか好んでいるようだ。八十年代にヴィーン・フィルと定期で演奏し、ベルリン・フィルでも1991年のジルヴェスターで取り上げている。イタリアでも1997年のイタリア国旗制定二百周年記念演奏会で、ヴェルディやノーノとともにこの曲をプログラムに入れていた。ここのところ、ベルリン・フィルと再びベートーヴェンに取り組んでいるが、それに伴って、『合唱幻想曲』も新たに見直しているのだろう。今年のザルツブルク復活祭で演奏した他、来季のベルリン・フィル定期では、メンデルスゾーンの交響曲第二番との組み合わせで取り上げる予定である。この曲は、第九交響曲の歓喜の主題の原形としてピアノ協奏曲第四番と並んでしばしば引き合いに出されるものの、一般にあまり芳しい評価を受けていないようだ。しかし、アッバードは、決してベートーヴェンの作品のすべてを網羅しようという意図からこの曲を取り上げているわけではない。概して見過ごされているこの作品の魅力を新たに発見しているからに他ならない。実のところ、編集子も、アッバードの録音を聴いてこの曲を好きになった一人である。それまではほとんど聴くこともなかったのだが。

 マエストロは絶好調のようです。ベルリンでは、カラヤンよりも凄い、という声もきかれたとか。
 今月末よりフェッラーラで始まる一連の『シモン・ボッカネグラ』公演の配役等を一部補完・修正しました。最新のLa Repubblica紙(5月10日付)からですが、演出家の名前の綴りが、一月のアッバードのインタヴューとは全く違っています。談話を文字に起こすときには間違うこともあろうかと思い、最新の記事に従いました。

(2001年5月12日 編集子)

 

再び『フィデリオ』

 実は、編集子は昔から『フィデリオ』が大好きなのである。聴いているといつも感きわまってしまうのだ。レオノーレのアリア「おいで、希望よ、疲れた者の最後の星を青ざめさせないで」や、フロレスタンのアリアにオーボエが絡むあたり、いつ聴いても心打たれる。そしてもちろん、フィナーレの前の『レオノーレ』序曲第三番も。そればかりではない、冒頭の若い二人のかみ合わないやりとりだって、なかなか愉快なものだ。尤も、このオペラ、筋書きが恐ろしく単純なせいか、最近はあまり上演に接する機会がない。しかし、ベートーヴェンの音楽には、台本の瑕疵など忘れさせるだけの生命力がある。だから、アッバードがいよいよこのオペラを振るつもりだと聞いて狂喜した。アッバードは同じ作曲家の劇音楽『エグモント』を繰り返し取り上げ、そのいくつかは音源が残っているが、いずれも輝かしい生命力に溢れた、心を揺さぶられるような演奏である。『フィデリオ』もきっと素晴らしい上演になるだろう。早くも期待が高まる。

 1995年、パリでのCOE演奏会を追加しました。フォミーナの曲は『永遠』というタイトルですが、参照したのが邦訳文献のため原語表記がわからず空欄にしてあります。
 電子メールというものは確実に届くものと思い込んでいたのですが、必ずしもそうではないようです。折角「資料館」宛にメールを下さったのに編集子が受け取っていないものがあることがわかりました。個人の音楽愛好家の方々からいただいたメールには原則として返信しているのですが、なかには返事も書かずに失礼してしまったことがあったかも知れません。かかる次第ですので御理解のほど、お願い申し上げます。

(2001年5月19日 編集子)

 

三十年後の『シモン』

 初めて『シモン・ボッカネグラ』を聴いたのはいつだったか。ともかくアッバードとラ・スカラの全曲盤だった。初めて聴いたときにいったい何を感じたのか、今ではよく覚えていない。気がつくとヴェルディのオペラの中でも『シモン』と『ドン・カルロ』に最も共感するようになっていた。後者はいろいろな指揮者の演奏を聴いたが、『シモン』はアッバードの演奏しか聴いていない。ラ・スカラとの録音のみならず、来日公演の録画、ヴィーン国立歌劇場とのCD、その他、いくつかのプライヴェート盤に至るまで。このオペラを実演で聴く機会もあったのだが、他の指揮者で聴くのが怖くて、結局これまで縁がなかった。
 シモンとアメーリア父娘の邂逅の場面を聴いていて涙が止まらなかったものだ。ここ数年はむしろ終幕でのシモンとフィエスコ、二人の男のやりとりに惹かれている。
 アッバードが初めてこのオペラを振ってから三十年近く経つ。ミラーノで演奏し、ラ・スカラと世界中で公演し、ヴィーンでも同じ演出の舞台を指揮した。そして、一昨年から再びベルリンで、ザルツブルクで取り上げている。このたびフェッラーラで始まった一連の公演はまた別の舞台だ。三十年間、ヴェルディのこの傑作はアッバードとともに歩んできた。

 ところで、アッバードが最初にこのオペラを指揮したのは、1971年12月のラ・スカラ開幕公演ではありません。年譜には以前から掲載してありますが、実はミラーノの前にも振っています。ベルリン・フィルの部屋の最上英明様の御協力により公演の詳細がわかりました。歌劇場名とオーケストラが違うことに御注意下さい。
 フェッラーラの『シモン』、そろそろ現地の新聞に報告が出るでしょう。

(2001年5月26日 編集子)

 

五月のフェッラーラで

 フェッラーラの『シモン・ボッカネグラ』の成功をイタリアの各紙が伝えている。シモンの最後の言葉「マリア」を支える弦楽器の悲痛な音色は限りない優しさに溢れ、聴衆は感動に打ちのめされて拍手が起こるまでに一分に及ぶ静寂があったという。もちろんマエストロは上機嫌で、活気に満ちあふれた元気な姿をみせていたそうだ。地元紙のLa Nuova Ferraraは連日のように『シモン』にまつわる記事を掲載しているが、なかでもプローベの模様を伝えた5月22日付の記事が興味深い。第一幕の会議の場面で、議場に乱入する群衆がおとなしすぎるのを不満に思ったアッバードが、「頼むから何もかも打ち壊してくれ」とけしかけたとのことで、その言葉がそのまま見出しになっている。合唱団のなかに本当の暴動を見たことがある人など居ないだろうから無理もない、ラ・スカラで『シモン』が上演された七十年代前半には、劇場の外で実際に暴動に出くわすこともあったけれど、と記者が書いているのも面白かった。

 プレミエの後、マエストロは人知れず姿を消してしまったそうです。真新しい自転車に乗って宵闇の中に消えて行ったのを確かに見たという人もいたとかいないとか。さて、そのフェッラーラでの『シモン』の配役を補完しておきました。合唱指揮者の名前に御注意下さい、ラ・スカラでかつて一緒に仕事をしたあの人です。

(2001年6月2日 編集子)

 

フェッラーラの夕べ

 5月31日、『シモン・ボッカネグラ』の公演を終えた後のフェッラーラで、アッバードはマーラー室内管弦楽団と演奏会を行っている。オーケストラ団員も指揮者も正装ではなかったそうだ。あらゆる常識を覆すプログラム、とLa Nuova Ferrara紙は書いている(6月2日付)。ベートーヴェンと一緒に何で「ケレスのアリア」なんかやるの、と言わんばかりだが、バルトーリの歌は素晴らしく、前半のハイドンが終わったところで早くもアンコールがあり、さらに、後半では、ロッシーニが終わったところで二十分も拍手が続いたそうだ。その後のベートーヴェンも厳密かつファンタジーに溢れた演奏だったと。後半のロッシーニで合唱が加わるが、前半から既に合唱団が舞台上に着席していたという、その方が音響が良いから、というマエストロの希望だったらしい。聴衆は無人のステージに呼び戻されたアッバードをなかなか帰そうとはしなかったとのこと、幸せな夕べの様子が伝わってくる。

 演奏会のプログラムを掲載しておきました。ハイドンの『オルフェオとエウリディーチェ』はアンコールだったようです。

(2001年6月9日 編集子)

 

落ち穂拾い二題

 イタリアでの『シモン・ボッカネグラ』上演にあたってまたアッバードの談話でも出ていないかとイタリアの各紙を検索してみたのだが、今回はLe Figaro紙のインタヴュー記事以外は見つけられなかった。この談話の内容はいずれ御紹介するが、イタリアの政治情勢についての発言を、すぐにイタリアの新聞が報道したのは面白かった。ベルルスコーニ政権成立をどう思うかという質問に対して、寛大な言い方をするならイタリア人はcreduloniだ(その後にさらに辛辣な発言が続いていたが)と答えたというのである。
 さて、フェッラーラでの『シモン』初日に先立って、ダニエル・ハーディングが同地でマーラー室内管弦楽団を指揮している。ブリテン『シンフォニエッタ』とベートーヴェン『エロイカ』。シューベルト『水の上の精霊の歌』の合唱指揮は、そのあと『シモン』にも参加したガンドルフィだった。この演奏会の客席にはアッバードの姿もあって、若い指揮者に拍手をおくっていたという。

 メールが届かないことがあると以前書きましたが原因がわかりました。今年の1月から5月にかけて五、六通のメールが消えたようです。折角メールを送ったのに反応がない、という方がおられましたら、どうかお気を悪くなさらず、機会がありましたらまたお寄せ下さい。

(2001年6月19日 編集子)

 

新たなる世界に向かって

 クラウディオ・アッバードの側にいると、「年をとって見える」ということは決してマイナスではなくむしろ自然な感覚に似ていると感じる―これは、三年前、マエストロの六十五歳の誕生日に作曲家のヴォルフガンク・リームが寄せた言葉である。リームはアッバードの若さを強調するが、それは決して攻撃的なものではなく、「問いを投げかける」ことにより世界を開いてゆく能力であると語っている。実際、この絶えず世界を新たに開いてゆくという才能は、もちろんアッバードが若いころから持っていたものであるけれども、それは時とともにますます豊かになってゆくように思われる。それとともに彼自身はさらに自由になってゆくようだ。年齢を重ねるということは、より自由になること、さらに新たな世界を開いてゆくことでありたい、マエストロを見ているとそうありたいと思う。
 お誕生日おめでとうございます、日本から心を込めてお祝い申し上げます。

 上記のリームの言葉(Berliner Zeitung, 1998年6月26日付)に関しては三井ゆかり様の御協力をいただきました。

(2001年6月26日 編集子)

 

生きていると伝えてください

 アッバードは真面目な人という印象が強いが、実は洗練されたユーモア感覚の持ち主でもある。例えば、ロッシーニのオペラ・ブッファの演奏にもそれは現れている。『ランスへの旅』にみられた、音楽そのものがどうしようもなく面白いという抽象的な笑いの感覚を思い出せば十分だろう。一方、発言にもしばしばユーモアやアイロニーが感じられる。知っていてとぼけていることもあるから、ときに報道陣も振り回されるのではないか。日本でベルリン・フィルとベートーヴェン『第九』を演奏したときも、記者会見での発言が文字通りに受け取られ、後々までちょっとした騒ぎになっていたものだ。さて、このたび紹介する2001年5月22日付Le Figaro紙のインタヴューにも、持ち前のアイロニーを含んだ笑いの感覚がある。私は生きています、というのはもちろん優しさの現れだろうが、同時に、あらぬ憶測を繰り広げたマスメディアに対しては辛辣な一言だろう。さりげなく冗談を言って微笑んでいるマエストロの表情が心に浮かぶ。

 上記のインタヴューは佐藤京子様に翻訳していただきました。厚く御礼申し上げます。

(2001年7月7日 編集子)

 

アイーダ

 初めて『シモン・ボッカネグラ』を指揮したのはバイエルン国立歌劇場でのことだった。『ドン・カルロ』『仮面舞踏会』はコヴェント・ガーデン、そして『アイーダ』はベルリン・ドイツ・オペラである。三十年余にわたり繰り返し上演し続けている『シモン・ボッカネグラ』に比べると、『アイーダ』を演奏した回数ははるかに少ない。1972年に初めてベルリンで、同じ年にミラーノとミュンヘンで指揮した後は、1974年のモスクワ公演があるくらいで、他にはほとんど取り上げていないのではなかろうか。ミュンヘンでの上演は放送録音が残されているが、強靱なエネルギーに溢れた、覇気のある美しい演奏だった。このオペラに関しては、第三幕の、微妙な心理を描き出す音楽の素晴らしさについて語っていたこともあるし、好きな作品であることは確かなのだろうが、そのまま遠ざかってしまったのは何故だろう。

 ベルリン・フィルの部屋の最上英明様の御協力により、ベルリン・ドイツ・オペラでの『アイーダ』公演の詳細を掲載いたしました。但し、初日以外の公演日はわかりません。

(2001年7月18日 編集子)

 

ヴェルディの偉大なる戯れ

 新しく出た『ファルスタッフ』のCDを愉しく聴いて、爽やかな感動を味わった。冒頭の居酒屋の場面からフィナーレに至るまで途切れることなく軽やかに疾走する音楽を聴きながら、かつてヴィーン国立歌劇場来日公演で聴いた『フィガロの結婚』をふと思い出した。実際、アッバードもこのヴェルディ晩年の傑作とモーツァルト『フィガロの結婚』の親和性について語っている。勿論、『ファルスタッフ』の笑いはモーツァルトとはまた異質のものだ。ウィンザーの女たちは伯爵夫人よりも遙かに奔放だし、もっと辛辣で男たちに容赦しない。第一幕第二場の女たちの陽気なおしゃべりと男たちの姑息な陰謀が同時に重なるところ、聴いていて笑いがこみ上げてくるし、第二幕第二場も実に痛快で舞台で起こっていることが目に浮かぶよう。陽気な笑いのなかに辛辣なアイロニーが効いているところがいい。台本を見ながら音楽を聴いているといろいろと面白い発見がある。

 映像についてもデータベースを作ろうと思い、ベルリン・フィルとの演奏会の一部のみ掲載しました。レコード・CDの録音とはまた違った性質がありますので敢えて同じ形式にはしてありません。

(2001年7月28日 編集子)

 

音楽はこの世の愉しみ

 ジャズはほとんど聴かない。だが、先日FMで放送された、ベルリン・フィルとウィントン・マルサリスのジャズ・アンサンブルが共演したフィルハーモニーでの演奏会は、大いに愉しんだ。前半のストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ガーシュウィンとそれぞれ作風の異なる三人の作曲家を経て、後半のマルサリスの長い曲が始まる頃には、会場の雰囲気はますます盛り上がってくる。音声からでも熱気は十分に伝わってきて、胸を躍らせながら聴いていた。多彩な様式の入り混じった"All rise"、終曲では満場総立ち(新聞によると)になった聴衆の熱狂さえも生々しく感じられるほど。アッバードの愉しそうな笑顔と弾むような指揮ぶりまでが目に浮かぶようだ。異なる個性の出逢いから生まれる、とらわれない自由な精神の戯れが、ここにはある。合唱の澄んだハーモニーが爽やかな印象を残した。

 バイエルン放送響の公演記録を掲載しました。これも山本博史様に教えていただいたものの一つです。同響の演奏会データはもう二つほどあり、いずれそちらも掲載しますが、他にも御存じの方がおられましたら御一報いただければ幸いです。

(2001年8月8日 編集子)

 

ロッシーニの国の国歌論争

 国歌論争というのは日本に限ったことではなく、イタリアにもあるようだ。マメリの賛歌が現在のイタリア共和国国歌としてふさわしいかどうか、という政治的・社会的議論に加えて、素晴らしい音楽をたくさん生み出している国で今の国歌は些か物足りないではないか、という芸術上の理由もあるらしい。今年の5月にもボローニャでこの問題に関する会議が開かれたそうだ。さて、1997年1月にアッバードがレッジョ・エミーリアでイタリア国旗制定二百周年記念演奏会を指揮した折に、Corriere della seraのインタヴュアーがイタリア国歌に関して尋ねている。答えて曰く、「かつてモスクワで国歌の代わりに『どろぼうかささぎ』序曲を演奏しようと企てたことがある。とても美しい曲だし、良い具合に行進曲だし、と思ったので。でも、題名が良くない、と言われてしまった」(1997年1月5日付同紙)。件の三色旗記念演奏会の曲目を補完しておいた。『どろぼうかささぎ』は入っていないが、ヴェルディの他にノーノ『断ち切られた歌』やベートーヴェン『合唱幻想曲』が含まれているのが興味深い。

(2001年8月18日 編集子)

 

もうひとつの談話

 今年の4月7日、ザルツブルク復活祭音楽祭での『ファルスタッフ』初日を目前に控えて、イタリアの二紙がアッバードの談話を掲載した。いずれもヴェルディのこの傑作に触れている。うち一つは既に掲載したが、もう一つは訳稿をしまいこんだまま既に四箇月余が過ぎてしまった。些か時機を逸した感もあるが、ちょうどザルツブルクでアッバードが活動を再開するところでもあるし、埋もれていた原稿をこのたび改めて引っ張り出した。ところで、以前にも書いたように、今年になってからアッバードの談話が新聞に掲載される機会が増えているが、しばしば内容に重複がみられる。同じことを何度も訊かれるので自然にそうなってしまうのだろうが。上記の二つの談話も、後半がほとんど同じ内容だし、また、『ファルスタッフ』について語った箇所の多くは、しばらく前に発売されたこのオペラのCDに寄せたエッセイでも言及されている。とはいえ、演出のアイディアに触れた部分や、主人公の性格づけにおける『ヘンリー四世』の重要性など、この談話にしかない貴重な内容も多い。かくてようやく日の目を見るに至った次第である。

 いよいよザルツブルク音楽祭でアッバードがベルリン・フィルの指揮台に立ちます。新たなシーズンに幸いあれ。

(2001年8月27日 編集子)

 

マーラーの第七交響曲

 今夏のザルツブルク音楽祭でのベルリン・フィル演奏会の第一日はマーラーの交響曲第七番であった。この曲は五月の定期演奏会でも取り上げられていたほか、今秋のアメリカ演奏旅行、来年のイタリア演奏旅行の中心にもなっている。ベルリン時代の最後にこの曲に集中的に取り組んでいるということはとても興味深い。マーラーの交響曲は1965年以来つねにアッバードとともにあり、いつでも、どれか一曲を好んで取り上げていた。それは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してからも変わらず、我々も第九番、第二番、第三番と、心に残る演奏をいくつも聴くことができたが、この第七番はベルリンではこれまでほとんど演奏していなかった。マーラー以降の新しい音楽への予感に溢れたこの交響曲を、ベルリンでの最後の年に精力的に取り上げるというところに、つねに未来を見ているこの指揮者の姿勢がうかがえるような気がする。
 一方、ベルリン時代に初めて取り上げた交響曲第八番と『大地の歌』は、いまだ継続的に取り上げたことはない。とはいえ、特に、『大地の歌』については、「愛と死」ツィクルスとの関係でいろいろと語っていたこともあり、思い入れも深そうなので、今後に大いに期待したいところだ。

(2001年9月4日 編集子)

 

ルツェルン―告別、そして新たなる出発

 「ブラームスの第一交響曲―1988年の夏、それはカラヤンの別れの曲となった。当時カラヤンはとても弱っており、ルツェルン音楽祭でのベルリン・フィル演奏会のうち、二回目は小沢征爾に譲らなければならなかった。だがその演奏はいまでも忘れられていない。その二年後、今度はクラウディオ・アッバードがカラヤンの後継者としてお目見えした―このときもやはり出演は一回だけ、やはりブラームスの第一交響曲、そしてこのときの解釈もやはり現代的であった」―9月3日付Neue Zuercher Zeitungの書き出しである。今回がルツェルンでのアッバード指揮ベルリン・フィルの最後の演奏会となることが強く意識されているようだ。同時に、ベルリンを去った後のアッバードがルツェルンを拠点とした新たな活動を始めることに対する期待も、スイスの新聞報道には感じられる。演奏会は言うまでもなく素晴らしかったそうで、ドヴォルザークの交響曲第九番のあと、オーケストラの退場後の舞台に呼び戻された指揮者に熱い拍手が贈られたとのこと、これもまた心動かされる瞬間であったとNeue Luzerner Zeitungは伝えている。
(編集子注:Neue Zuercher Zeitungの記事では1990年のルツェルンでの演奏会の曲目が同年のベルリン芸術週間と混同されているように思われるが敢えてそのまま引用した)。

(2001年9月9日 編集子)

 

音楽のあとの静寂

「或る意味で異常に静かな演奏会でもあった」と9月10日付Berliner Zeitung紙は書いている。ベルリン芸術週間の開幕、シェーンベルクの作品で構成された演奏会での『ワルシャワの生き残り』の最後の部分である。語りが恐ろしい絶頂に達したとき、突如として男声合唱による「聴け、イスラエル」が割って入る。「アッバードはこの宗教的な瞬間を演奏が終わった後も維持しており、いつものように世俗的な拍手が始まったのはかなりの時間が経ってからだった。興味深いことに、『ペレアス』の終わりでもそれと同じような瞬間が生まれたのだった」。
 安易に所感を書くのは慎みたいが、アッバードがベルリン・フィルとともに芸術週間に登場するのもこれが最後であろうから、この機会に彼がかつてベルリン・ツィクルスの意義について語った言葉をもう一度思い出しておきたいと思う。「このベルリンという都市で、私たちがツィクルスで経験したことが、ヨーロッパの他の地域にとってもモデルとなりうる実験・挑戦という意義を持つようになったのは、むしろ当然のことなのです。ベルリンでは、多くの民族が住んでおり異なった生活様式がみられることにより、ともに生きるという問題を深く考えざるを得なくなります。ユダヤ人の経験したような悲劇と、彼らの歴史がドイツ人に投げかける問いは、この都市に現にまだたくさんみられるのです」(Musica sopra Berlino, 1997)。ヨーロッパだけでなく、おそらく他の世界でも。

(2001年9月16日 編集子)

 

E vo' gridando pace, e vo' gridando amore

 やはり泣いてしまった。DVDで発売された、パリ・オペラ座での『シモン・ボッカネグラ』、舞台は来日公演の録画を観たことがあるし、オーケストラもラ・スカラではないし、気楽に聴くつもりでいたのだが、あっという間に惹き入れられ、深い感動に満たされた。このオペラはマリアの死で始まり、シモンの死で終わる。だが、二人の死は、愛を通じて新たな生を生み出し、それによって死の絶対性を乗り越えるのだと、アッバードは繰り返し強調している(Amore e Morte, 2000)。シモンとマリアの深い愛は、アメーリアとガブリエーレ、アメーリアと父親の愛を生み出すだけでなく、フィエスコとシモン、シモンとガブリエーレの間の憎しみすらも赦しと愛に変えてしまう。のみならず、個人としてのシモンの生き方を変えることによって、最後には対立していたすべての人々の間に愛と寛容を生み出すのである。現実の人生ではそれはほとんど例外的とも言えるほど困難なことであろう。しかし、音楽で表現されたとき、それは何よりも確かな真実となる。

 パリでの『シモン』の公演データを追加しておきました。DVDに記載されているものと同じ内容です。正確な公演日はわかりません。

(2001年9月25日 編集子)

 

ニューヨークのベートーヴェン

 アメリカ公演の曲目は当初発表されたものに変更が加わりベートーヴェンの交響曲を中心とすることになったようだ。ニューヨークでの初日は『エロイカ』、最初に『エグモント』序曲が演奏される。
 十余年前、ヴィーン・フィル東京公演での、生きる喜びが燦然と輝いているようなベートーヴェンは今でも鮮明に蘇る。なかでも『エロイカ』―そして第五交響曲も―は素晴らしく、フィナーレで変奏を繰り拡げながら音楽が次第に高みへと昇りつめてゆくのを聴くのはこの上ない幸せだった。音楽と完全に一体となって呼吸しているような比類ない時間であった。この音楽が存在する、というただそれだけでも、世界は信じるに値する、心からそう思ったものだ。この晩の演奏は世界の見方を変え、人生を変えた。
 世界に対する信頼を呼び覚まし、私たちの人生を新しくしてゆく―ベートーヴェンの音楽にはそうした稀有の力がある。音楽は、今そこで起ころうとしている出来事を変えないかも知れない、だが、私たちのものの考え方、感じ方は変えてゆくだろう。そして、いずれは歴史を動かすこともあるだろう、少しずつ、確実に。

 アメリカ公演、来年のイタリア、ヴィーン演奏旅行のプログラムを書き替えておきました。今月のベルリン・フィル定期についてはまた改めて書きます。

(2001年9月29日 編集子)

 

ヴァーグナーからヴェーベルンまで

 昨年の来日直前のベルリン・フィル定期が放送されたのを聴いて、またもや『トリスタンとイゾルデ』の感動が蘇ってきた。プログラムはすべてヴァーグナーだが、冒頭の『さまよえるオランダ人』からヴァーグナーの世界に引き入れられて半ば夢見心地になってしまった。一曲終わってはっと我に返るたびに、指揮しているのがアッバードであることを改めて思い出す、といった調子である。また「愛と死」を聴くことができたのも幸せだった。さて、その『トリスタン』前奏曲と「愛と死」は、ちょうど先月末のベルリン・フィル定期でも取り上げたばかりである。ヴェーベルン、マーラーの歌曲、そして最後が『トリスタン』という、十九世紀末から二十世紀にかけての音楽史の重要な局面を捉えた、魅力的なプログラムであった。ヴェーベルンの作品6は大編成の1909年初版、アッバードは大抵この版を取り上げるようだ。マーラーの歌曲の詳細を掲載しておいた。『角笛』が『レヴェルゲ』で始まり『少年鼓手』で終わる、というのはいかにもありそうに思えるかも知れないが、実は曲順はまだ確認できていない。

 ニューヨーク公演が始まりました。初日の評が既にベルリンの新聞に出ています。既にベルリン・フィルの部屋でも触れられていますように、曲目がマーラーの第七交響曲からベートーヴェンに変更されたのは、安全面に配慮して往復の飛行機をチャーター便にしたことに伴うものとのことです(9月30日付Berliner Morgenpost紙)。

(2001年10月6日 編集子)

 

Wir sind alle New Yorker

 ニューヨーク公演の初日は、演奏も素晴らしかったそうだが、その一方で、この緊迫した状況の中でベルリン・フィルが来てくれた、ということ自体に心から感謝する雰囲気が聴衆の側に満ち満ちていたようだ。ベルリン・フィルも、この危機の中でニューヨーク市民と連帯しようとするメッセージを出し、アメリカでの一連の演奏会をこのたびの事件で犠牲になったすべての人々に捧げるとしている。マーラーの第七交響曲が取り下げられたのは物理的事情によるものだったにせよ、そして、アッバードがこの時期にベートーヴェンの交響曲に特に力を注いでいたにせよ、ニューヨーク公演に『エグモント』序曲と『エロイカ』が選ばれたというのは、意味のあることだっただろう。ベートーヴェンの音楽は、個人の魂が危機にあるときも、世界が危機に瀕しているときも、いつでも私たちを慰めてくれ、新たな生命を与えてくれるのだから。マエストロ自らこう語っている「自由を信じ、大いなる理想を抱いた一人の作曲家の作品は、9月11日の悲惨なできごとを考えると、よりふさわしいと思われたのです」と(10月6日付Corriere della sera紙)。
 来てくれてありがとう、ニューヨーク市民とともにそう言おう。

 公演記録の校訂をしておりますと時に矛盾した記述にぶつかります。1966年にエディンバラ音楽祭でマーラーの交響曲第六番を指揮したという記述は複数の文献にありますが、実は音楽祭の五十年史には別のプログラムが載っています。尤も、五十年史の方が直前の曲目変更に対応していない可能性もありますので、とりあえず年譜の記述はそのまま残してあります。事情を御存じの方、教えていただければ幸いです。なお、年譜に関しても随時細かな加筆修正を行っておりますので、適宜最新版を御確認下さい。

(2001年10月13日 編集子)

 

ダニエル・ハーディング

 エクサンプロヴァンスの『ドン・ジョヴァンニ』は、アッバードの指揮ではなかったものの、東京にも客演した。序曲の導入部がいままで聴き慣れていたものの二倍の速さで演奏されたのには意表を衝かれたが、音楽も演技も生き生きとしていて、翌日も当日券で入って二晩楽しんでしまった。さて、エクサンプロヴァンスでもほとんどの公演を指揮したダニエル・ハーディングは、九月にイタリアで演奏会をやった模様で、イタリアの新聞が談話を載せている。そのうちの一つで、彼はサイモン・ラトルとアッバードのことを語っている。アッバードとの関係は、ラトルとの関係とはまた違っていたという。
「アッバードはああしろとかこうしろとか言うことは決してありませんでした。具体的なことは何も。でも、一人の天才のそばで仕事をするというのはとても役に立つことです。私は彼のすることを見て、彼の音楽を聴いて、一緒に音楽のことを話すことによって学んだのです」。
「クラウディオを御覧なさい。エクサンプロヴァンスで『ドン・ジョヴァンニ』をやったとき、彼は二三年前にもうこのオペラを伝統的な演奏様式で録音していたのでした。それから私たちと一緒にそれまでとは違うことを始めて、できることならこのオペラを改めて録音し直したいのだけど、と私に打ち明けたのです。普通はこの年齢になると指揮者は若い連中の考えることなど気にも掛けないものですが、クラウディオはとても興味を持ってくれます。私の考えに対してもそうでした、たとえ私の考えに同意していない時でも」。
 イタリアで『エロイカ』を振ったらしいハーディングは、ベートーヴェンはとても難しい、と語った上で、こう付け加えている「大切なのは始めるということです。待っていれば答えが得られると思うのは馬鹿げています。答えを出す唯一の方法は、やってみることです」(以上9月27日付La Repubblica紙)。

 zerbinetta complexからリンクしていただきました。盛りだくさんの楽しいサイトで、美味しそうなページも。ニューヨーク公演の感想も載っています。
 それにしても、メールをいただくたびに、本当にいろいろな方が読んで下さっているのだなあと励まされます。

(2001年10月24日 編集子)

 

アメリカ公演拾遺

 ベルリン・フィルのアメリカ公演に同行した内科医が報告を書いている(Tagesspiegel、10月25日付)。演奏会を聴いた人たちは異口同音に、ベルリン・フィルが来てくれたということ自体に感謝していたそうだ。初日のベートーヴェンのもたらした感動については既にNew York Times等で報じられたが、一方、クヴァストホフがマーラーの歌曲の「この世の喧噪から私は死んでしまい、静かな世界に安らっている」というくだりを歌ったときには、聴衆も演奏家もみな涙をこらえることができなかったという。Costa Mesaでの公演の前には一日の休養日があって、おのおの自然を楽しんだりLas Vegas観光に出かけたり美術館を訪れたりしたようだ。その後の公演も大成功だった模様、「(アッバードは)他のどんな指揮者も真似できない身振りでオーケストラから比類ない効果を引き出した」云々とあるのは何かの引用だろうか。最終公演の後の打ち上げではフィルハーモニーの団員がジャズをやったりして、アッバードも疲れ果てていたにもかかわらず姿を見せていたそうである。

 エディンバラでのマーラー・第六交響曲については結局はっきりしないため年譜から曲目に関する記述を削除いたしました。事実関係を確認できましたらまたお知らせいたします。

(2001年11月6日 編集子)

 

力と光の波のように

 ノーノの作品のなかでは『断ち切られた歌』と『プロメテオ』に特に魅せられている、と語る一方で、自らミラーノで大変な苦労の末に初演した『愛に満ちた偉大な太陽に』に対しては、今では些か距離を置いているらしい(2001年3月6日付Frankfurter Allgemeine)。確かに、『断ち切られた歌』を除くと、最近取り上げている作品のほとんどは作曲家の晩年の作品である。マーラー・ユーゲント管との演奏会が録音されているそうだが。さて、『偉大な太陽に』と並んでミラーノ時代に初演したものに『力と光の波のように』がある。こちらも最近は演奏していないようだが、ミラーノでの世界初演の後しばらくは精力的に取り上げていたようである。翌年にはミュンヘンで演奏し、録音もしているし、七十年代終わりにはベルリン・フィル定期でも取り上げている。おそらく、他にもあちこちでやっているに違いない。こういう記録を探し出すのも公演記録作成の楽しみの一つである。同曲のドイツ初演のデータを掲載した。出演者の詳細は不明だが、レコードと同じポリーニ、タスコーヴァだろうか。『ワルシャワの生き残り』の語りも誰だったのかわからない。

 バイエルン放送響の公演データの手持ちはこれで全部です。山本博史様ありがとうございました。演奏者等わからない部分もありますので、詳細を御存じのかたは御一報いただければ幸いです。
 1991年頃にザルツブルク音楽祭の記録が全三巻で出版され、そのうちの一冊が公演記録になっています。残念ながら数年前から品切れになっていて入手不能なのですが、もしお持ちの方がいらっしゃいましたら、御協力願えませんでしょうか。

(2001年11月17日 編集子)

 

Nothing could have been clearer!

 サイモン・ラトルはベートーヴェンの第四番と第七番の後でアンコールにフランスの音楽をやっていたが、同じプログラムの後で『こうもり』序曲を振って、私たち聴衆を大いに喜ばせてくれた指揮者もいた。この人物が、ヴィーンで、当時まだ若かったアッバードのプローベに立ち寄り、興味深い証言を残している。下手に訳など付けるより原文で読む方が面白みが伝わるだろうからそのまま引くことにしよう。

"Claudio made the clearest speech: at some point in a Schubert symphony when he didn't like what he heard, he stopped the orchestra and asked, 'why?' Just that. And nothing could have been clearer!"(Matheopoulos : Maestro : Encounters With Conductors of Today. 1982)

 いかにもアッバードらしい挿話であるが、これを聞いて、あいつははっきりものを云うなあ、と感心していたカルロス・クライバーの方もやはり味のある人だ。

 腰を据えて読まねばならない文献が届いてしまい、また更新が滞りそうです。まだ掲載していないインタヴューなどもあるのですが、今後しばらくは手持ちの資料から少しずつデータを足してゆく予定です。
 1994年のヨーロッパ室内管弦楽団との演奏会を追加いたしました。

(2001年11月27日 編集子)

 

プローベと実演のあいだ

 演奏家にはときに先入観に基いた固定されたイメージがつきまとうことがある。アッバードに関しても、十数年前には、自然体=何もしていない、といった批評を見かけることがあった。流石に今ではそんなことを言う人はいないだろうが、プローベであまり喋らないとか、プローベが面白くない、といった発言はときに耳にする。プローベには入るわけに行かないし、映像も断片的にしか残っていないので、いったい何が問題なのか検証のしようがない。従って反論のしようもないが、さりとて納得しているわけでもない。
 このことに関して、ドイツ・グラモフォンのプロデューサーの証言がある。原文はドイツ・グラモフォンのウェブサイトに掲載されているが、このたび、Club Abbadiani Itinerantiのサイトに日本語訳が掲載されたので紹介しておく。つまらない、などという世評が生まれる理由の一端がうかがわれて興味深い。プローベで昂揚しすぎて実演がうまくいかないのでは、とアッバードが憂鬱になっていた話はとりわけ含蓄が深い。

原文:Christopher Alder : Claudio Abbado in Rehearsal
翻訳:アバドのリハーサル、アバドの本番(佐藤公俊氏による翻訳)

 上記の佐藤公俊様による訳文は、Club Abbadiani Itinerantiのサイトの一部としてドイツ・グラモフォンの許諾を得て掲載されたものです。当該ページに直接リンクしておりますのでわかりにくくなっておりますが、「資料館」に帰属するものではありませんので御注意下さい。リンクを許可して下さいました関係者の方々には厚く御礼申し上げます。
 ベルリンの『パルジファル』についてはまた改めて書きたいと思います。

(2001年12月3日 編集子)

 

パルジファル

 『トリスタンとイゾルデ』や『ニーベルンクの指環』についてなら具体的なイメージをいろいろ思い浮かべることができるのだが、『パルジファル』に対してはこれまでずっと些か距離を置いていた。音楽のいくつかの箇所には心を動かされたこともあるのだが、今ひとつオペラの全貌が見えてこないのだ。台本が晦渋で自分にはまだまだ意味の解らない部分が多々ある、というのも一因だろう。アッバードとベルリン・フィルの『パルジファル』のことを知りたくて、新聞の批評を読んでみようと試みたのだが、ドイツの批評には難しいことがたくさん書いてあって、思わずははーっと畏まって平伏してしまう。とはいえ、マエストロの偉業を讃えているのを読むのはやはり嬉しいもの、半舞台形式の上演がいかに成功したかを表す部分を引いておこう。
 「フィルハーモニーでは、歌手たちが情景を暗示する程度に切りつめられた演技をするなかで、ヴァーグナーが第二幕を作曲している間じゅう口にしていた『見えざる舞台』への願いがほぼ成就されていた。それだけにオーケストラはいっそう目に見えるようになったのである。アッバードがバイロイト祝祭劇場の特殊な音響効果を模倣することをどれほどよく心得ていたか、それは、もしかするとこの公演で最も驚くべきことであるかも知れない」(Berliner Zeitung、12月1日付)。
 かくて、この機会に『パルジファル』を勉強しようと決意を新たにした次第である。ともあれ、マエストロにとっても初めての『パルジファル』、御成功おめでとうございます。

 Leonetta Bentivoglio : Il mio Verdi (Roma, 2000)所収の、『シモン・ボッカネグラ』に関するアッバードの談話について、読者の方からお問い合わせをいただいたことがあります。このオペラについて具体的に語った興味深い談話です。近日中に同書の邦訳が出版される模様ですので、当資料館では御紹介できなくなりましたが、御一読をお勧め致します。

(2001年12月13日 編集子)

 

再びヴェルディに戻って

 ヴァーグナー自身が何を考えていたかは知らない。ただ、アッバードは、『パルジファル』について語った談話のなかで、このオペラを一つのユートピアと捉えている。そこでは、ひとは、他者の苦しみをともに分かち合うことによって救済されるのである。この、他者の苦悩を共有する、というのと色合いはやや異なるが、異なる世界に生きる人々との間に愛と寛容を生み出す、ということもまた、アッバードはこれまで繰り返し強調している。Musica sopra Berlinoでも重要な基調音となっているこの想いは、アッバードが愛して止まないもう一つのオペラのなかに、通奏低音として流れている。しつこいようだが、マエストロの談話を引用しよう。
 「パオロを唯一の例外として、このオペラでは、最後に勝つのは一人一人の人物の愛なのです。特に、シモンの場合は、遂に全人類を抱擁するようになるまでに成長していくのが目を引きます。オペラ全体を貫く大いなる音楽的緊張は、まさに、こうした平和の勝利へ、憎悪と無理解と怨恨に対する寛容の勝利へと流れ込んで行きます」(Leonetta Bentivoglio : Il mio Verdi, 2000)。
 愛と寛容が何にもまして必要とされるこのときに、今年で没後百年になる作曲家のメッセージをもう一度思い起こしておきたい。

 それにしても、ドイツの新聞の『パルジファル』評は内容が難しくて、何を言わんとしているのか理解するのに骨が折れました。前回の編集後記を起稿しながら、いっそのこと更新を一日延ばして赤穂浪士の討ち入りのことでも書いてお茶を濁そうか、と考えていたくらいです。かくてマエストロの最新の談話も訳稿の推敲が進まず、年内に掲載するのは難しそうです。  
 1995年のヨーロッパ室内管弦楽団との演奏会を追加いたしました。

(2001年12月23日 編集子)

 

年の瀬に

 今年はオペラ公演の前売りをつい買いそびれがちであった。一年前の『トリスタンとイゾルデ』から受けた感動があまりに大きかったため、爾来すっかり虚脱状態になってしまったためである。もちろん演奏会は聴きに行ったし、オペラ以外の舞台ならいろいろ観た。新たな出逢いもあったし、人生は美しい、としみじみ思う夕べもあった。
 一方、資料館だが、こちらは一年前とあまり変わりばえしない。データの量は増えたものの、基本的には開設以来の地味で不器用なやりかたをそのまま続けている。いろいろなサイトを見るにつけ、わが資料館の野暮ったいのに呆れているが、さりとてこれという気の利いた知恵も浮かばぬゆえ、当分はこのままの路線で進むことになるのだろう。とはいえ、掲載したデータのなかには、何かの機会に役に立つものも必ずやあるものと確信している。記憶というのは頼りにならないものであるから、実のところ編集子自身も折に触れて参照してはいろいろと発見し直している次第である。

 これまで御紹介しそびれておりましたが、Commediaからリンクしていただきました。マエストロに関するページもいくつかあります。今年も皆様からたくさんの御支援をいただきました。情報を提供して下さった方、資料を翻訳して下さった方、メールで御意見をお寄せ下さった方、そして、その他、いつも読んで下さっている未知の方々に、改めて御礼申し上げます。これからも宜しくお願い申し上げます。

(2001年12月30日 編集子)

 

 


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