Claudio Abbado 略年譜

 

 1933年6月26日、父ミケランジェロ・アッバード(1900-1979)と母マリア・カルメラ・サヴァニョーネの第三子(次男)としてミラーノに生まれる。ピエモンテ出身の父はヴァイオリニストで音楽学者、ヴェルディ音楽院で教鞭を執っていた。シチーリア出身の母はピアニストで、子供のための本を書いている。兄マルチェッロ(1926-)、姉ルチアーナ、弟ガブリエレの四人きょうだい。

 7歳の時にラ・スカラでアントニオ・グァルニエリ指揮によるドビュッシー『夜想曲』を聴き、指揮者を志す。16歳までは個人レッスンでピアノと和声を学ぶ。

1949-1955年

 ミラーノのヴェルディ音楽院でピアノ(ヴィンチェンツォ・カラーチェに師事)、指揮(アントニーノ・ヴォットーに師事)、作曲(ブルーノ・ベッティネッリに師事)を学ぶ。18歳の時にトスカニーニの自宅で、父ミケランジェロ・アッバードにより設立されたミラノ弦楽オーケストラとともに、バッハのピアノ協奏曲ニ短調を演奏、ピアノ独奏をつとめる。父、兄マルチェッロとともに同オーケストラとピアノ及び指揮で、ヨーロッパ各地でたびたび共演。また、ブルーノ・カニーノらと室内アンサンブルで演奏する。

 1953年、ヴェルディ音楽院ピアノ科を修了。

1955年

 ヴェルディ音楽院作曲科を修了。ザルツブルクでフリードリヒ・グルダの夏期講座を受講し、アルゲリッチと出逢う。

1956年

 シエナのアカデミア・キジアーナでカルロ・ゼッキに指揮法を学ぶ。ズビン・メータ、ダニエル・バレンボイムと知り合う。

1956年−1958年

 ヴィーン音楽アカデミー指揮科でハンス・スヴァロフスキーに指揮法を学ぶ。メータとともに楽友協会合唱団に入り、ヴァルター、セル、クリップス、シェルヘン、カラヤンらのプローベに立ち会う。

1958年

 ヴィーン音楽アカデミー指揮科を修了。修了時に指揮したのは『ボリス・ゴドゥノフ』であったという。

 7、8月、タングルウッド音楽センターで学び、クーセヴィツキー賞を受賞。アメリカのオーケストラに招かれるがヨーロッパに帰る。

1959年

 トリエステ・フィルを指揮して演奏会指揮者としてデビュー(ヒンデミット『至高の幻想』)。

1960年

 このころから三年間、パルマのコンセルヴァトーリオで室内楽を教える。

 11月、ピッコラ・スカラでアレッサンドロ・スカルラッティ生誕三百年記念公演を指揮する。トリエステ市立歌劇場でゲディーニ『アレクサンドリアのマリア』を指揮して、オペラ指揮者としてデビュー。

1961年

 6月、聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団、ヴィ−ン交響楽団を初めて指揮する。

1962年

 トリエステ市立歌劇場でプロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』を指揮する(ジヨヴァンニ・ポーリ演出)。やはりトリエステで演奏会を指揮(プロコフィエフ『道化師』、ヤニグロ独奏によるシューマンのチェロ協奏曲)。

1963年

 モントリオール交響楽団を初めて指揮する(チャイコフスキー・交響曲第五番)。

 1月、レッジョ・エミーリアでグノー『ファウスト』を指揮する。

 4月、ニューヨークのミトロプーロス国際指揮者コンクールで第一位入賞(ズデニェク・コシュラー、ペドロ・カルデロンが同時入賞)。ニューヨーク・フィルでバーンスタインの助手を務める。この間、セルに出逢う。

 10月、ベルリン放送交響楽団を初めて指揮する。

1964年

 1月、ニューヨーク・フィル定期を初めて指揮する。

 2月、ロスアンジェルス・フィルを初めて指揮する。

 8月、ベルリン放送交響楽団のシリーズ「RIASは紹介する」に客演、カラヤンの注目を得る。

 トリエステ市立歌劇場でプロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』を再演する。

1965年

 3月、ピッコラ・スカラでマンゾーニ『アトムトート』の世界初演を指揮。

 7月、ラ・スカラでマーラーの交響曲第二番を指揮する。

 カラヤンに招かれて、8月14日、ザルツブルク音楽祭にデビュー、ヴィーン・フィルを指揮してマーラーの交響曲第二番を演奏する。

 11月、ハレ管弦楽団を初めて指揮する(イギリスにおける最初の演奏会であった)。

1966年

 3月、ラ・スカラで、カステラーニ演出によるベルリーニ『カプレーティとモンテッキ』を指揮する。

 5月、コンセルトヘボウ管弦楽団を初めて指揮する。

 6月、オランダ音楽祭でベルリーニ『カプレーティとモンテッキ』を指揮する。

 8月、スイス祝祭管弦楽団を指揮してルツェルン音楽祭に初めて出演する。

 9月、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮してエディンバラ音楽祭にデビュー。

 10月、ロンドン交響楽団を初めて指揮する。

 11月から12月にかけて、イスラエル・フィルとの一連の演奏会を指揮する。

 12月、ベルリン・フィルを初めて指揮する。

1967年

 5月、ヴィーン芸術週間でヴィーン交響楽団を指揮してマーラーの交響曲第六番を演奏する。

 8月、エディンバラ音楽祭でベルリーニ『カプレーティとモンテッキ』を指揮する(オランダ音楽祭との共同製作)。

 10月、モントリオール万博へのラ・スカラの引っ越し公演で、エンリケス演出によるベルリーニ『カプレーティとモンテッキ』を指揮する。

 12月、ラ・スカラのシーズン開幕公演で、デ・ルッロ演出によるドニゼッティ『ランメルモールのルチア』を指揮する。

1968年

 1月、ラ・スカラでエンリケス演出による『カプレーティとモンテッキ』を再演。

 6月、ロンドンのコヴェント・ガーデンで、ヴィスコンティ演出によるヴェルディ『ドン・カルロ』(五幕モデナ版)の再演を指揮する。

 7月、ザルツブルク音楽祭で、ヴィーン・フィルを指揮して、ジャン・ピエール・ポネル演出によるロッシーニ『セビリアの理髪師』を上演(アルベルト・ゼッダ校訂版による)。

 8月、ソヴィエト連邦がチェコスロヴァキアに侵攻、アッバード、クーベリック、バレンボイムが抗議声明を発表する。

 10月、メトロポリタン歌劇場でヴェルディ『ドン・カルロ』(四幕版)の再演を指揮する。フィラデルフィア管弦楽団を初めて指揮する。

 ラ・スカラの音楽監督に就任。12月、ラ・スカラのシーズン開幕公演で、ポネル演出によるヴェルディ『ドン・カルロ』(四幕版)の再演を指揮する。

1969年

 3月、ラ・スカラでストラヴィンスキー『エディプス王』を、アンドレア・ガブリエーリの音楽によるソポクレス『エディプス王』と併せて上演する(ともにデ・ルッロ演出)。『ランメルモールのルチア』を再演。

 ラ・スカラの演奏会シーズンでマーラー・ツィクルスを開始、以後1971年までに交響曲全曲と歌曲を演奏する(客演指揮者・オーケストラによるものを含む)。

 8月、ザルツブルク音楽祭で、ヴィーン・フィルとともに、ポネル演出によるロッシーニ『セビリアの理髪師』を再演。

 11月、フランス国立管弦楽団を初めて指揮する。

 12月、ラ・スカラのシーズン開幕公演で、ポネル演出によるロッシーニ『セビリアの理髪師』を指揮する。

1970年

 1月、ボストン交響楽団を初めて指揮する。

 4月、ラ・スカラで『ドン・カルロ』を再演。

 11月、クリーヴランド管弦楽団を初めて指揮する。

1971年

 ヴィーン・フィルの首席指揮者(ヴィーン・フィルは常任を置かないので事実上の名誉称号か)に指名される。

 1月、シカゴ交響楽団を初めて指揮する。ラ・スカラで『セビリアの理髪師』を再演、3月、イェルネク演出によるベルク『ヴォツェック』を指揮する。同時にピッコラ・スカラでビュヒナー『ヴォイツェク』が上演されている。

 5月、フィレンツェ五月音楽祭で、9月、エディンバラ音楽祭でポネル演出によるロッシーニ『チェネレントラ』を指揮する。

 7月、バイエルン国立歌劇場で、ミュンヘン・フィルを指揮してオットー・シェンク演出によるヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』を上演する。12月、ラ・スカラのシーズン開幕公演で、ストレーレル演出により『シモン・ボッカネグラ』を指揮する。

1972年

 1月、ベルリン・ドイツ・オペラでカポビアンコ演出によるヴェルディ『アイーダ』を指揮する。

 4月、ラ・スカラでポネル演出によるロッシーニ『チェネレントラ』と、デ・ルッロ演出によるヴェルディ『アイーダ』を指揮する。

 6月、ラ・スカラの演奏会で、ポリーニとともにルイージ・ノーノ『力と光の波のように』を初演。

 ロンドン交響楽団の首席客演指揮者となる。

 9月、ラ・スカラとともにミュンヘン・オリンピック芸術部門に参加、ヴェルディ『アイーダ』『レクイエム』を指揮する。

 パオロ・グラッシがラ・スカラのインテンダントに就任。ラ・スカラで「労働者のための公演」の企画が始まる。

1973年

 2月、クリーヴランド管弦楽団、フィラデルフィア交響楽団とともにアメリカ演奏旅行。

 3月、ヴィーン・モーツァルト協会からモーツァルト・メダルを受賞。

 3-4月、ヴィーン・フィルとともに日本・韓国・中国に演奏旅行。

 4月、ラ・スカラでロッシーニ『チェネレントラ』を再演、5月、ラ・スカラのヴィーン演奏旅行で、テアター・アン・デア・ヴィーンで『チェネレントラ』を上演。

 4月から6月まで、ポリーニ、ノーノとともに、レッジョ・エミーリアで「音楽と現実」(Musica/Realta')と題したワークショップを企画、一連の演奏会を催す。作曲家のマンゾーニ、サルヴァトーレ・アッカルド、ブルーノ・カニーノらも参加していた。この企画は翌年以降も続けられた。

 10月、ボリショイ劇場がラ・スカラに客演。

 12月、ラ・スカラのシーズン開幕公演で、ポネル演出によるロッシーニ『アルジェのイタリア女』を指揮する。『シモン・ボッカネグラ』を再演。

1974年

 4月、ラ・スカラで、シェンク演出によるモーツァルト『フィガロの結婚』を指揮する。

 5、6月、ラ・スカラのモスクワ演奏旅行で、ボリショイ劇場にて『シモン・ボッカネグラ』『アイーダ』を指揮する。

 12月、ベーム指揮のベートーヴェン『フィデリオ』でラ・スカラのシーズンが開幕、アッバードは、ストレーレル演出によるプロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』を指揮する。

1975年

 1月、コヴェント・ガーデンで、シェンク演出によるヴェルディ『仮面舞踏会』を指揮する。

 4月、テアトロ・リリコで、リュビモフ演出により、ルイージ・ノーノのステージ・アクション『愛に満ちた偉大な太陽に』の世界初演を指揮する。『アルジェのイタリア女』を再演。

 8月、アバディーンで国際ユース・オーケストラ音楽祭に参加、これをきっかけにECユース・オーケストラの構想が生まれる。

 ロンドン交響楽団の首席客演指揮者に指名される。

 12月、ラ・スカラのシーズン開幕公演で、ストレーレル演出によるヴェルディ『マクベス』を指揮する。『チェネレントラ』を再演。

1976年

  1月、『シモン・ボッカネグラ』再演。3月、ラ・スカラとともにコヴェント・ガーデンに客演、『チェネレントラ』『シモン・ボッカネグラ』、ヴェルディ『レクイエム』を指揮する。入れ替わりにコヴェント・ガーデンがラ・スカラに客演。

 4月、カルロス・クライバーがラ・スカラでシュトラウス『薔薇の騎士』を指揮。ラ・スカラの財政難を機に、インテンダントのグラッシに続いて、アッバードも音楽監督辞任の意を表明する(結局1977年より芸術監督として留任)。

 9月、ラ・スカラとともにワシントンでアメリカ合衆国建国二百年祭に参加、『チェネレントラ』『シモン・ボッカネグラ』『マクベス』、ヴェルディ『レクイエム』を指揮する。

 12月、クライバー指揮のヴェルディ『オテロ』でラ・スカラのシーズンが開幕する。

 この年、ヨーロッパ共同体ユース・オーケストラ(ECYO)が設立され、アッバードが音楽監督を務めるようになる。

1977年

 3月、カルロ・マリア・バディーニがラ・スカラのインテンダントに就任。

 4月、ラ・スカラでルカ・ロンコーニ演出によるベルク『ヴォツェック』を指揮する。

 8月、エディンバラ音楽祭で、ロンドン交響楽団とともに、ファッジョーニ演出によるビゼー『カルメン』を上演する。

 9月、ラ・スカラの芸術監督に就任。12月、ラ・スカラ二百年祭の開幕公演で、ロンコーニ演出によるヴェルディ『ドン・カルロ』を指揮、パリ初演以前に削除された音楽の一部を含む五幕版による上演であった。ゼッフィレッリ演出によるヴェルディ『仮面舞踏会』を指揮する。

1978年

 1月、前年に続いて『ドン・カルロ』『仮面舞踏会』を指揮する。2月、テアトロ・リリコでノーノ『愛に満ちた偉大な太陽に』を再演、また、ラ・スカラでヴィーン・フィルとの演奏会を指揮している。

 ラ・スカラ二百年祭の一環として、2月にはヴィーン国立歌劇場が客演、バーンスタイン指揮によりベートーヴェン『フィデリオ』を上演する。4月にはラ・スカラでカルロス・クライバーがヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』を指揮している。10月にはチューリヒ歌劇場が客演、アルノンクール指揮でモンテヴェルディ『オルフェオ』『ウリッセの帰郷』『ポッペアの戴冠』を上演する。また、この年はシューベルトの没後百五十周年にあたり、ラ・スカラの演奏会でもシューベルトの作品が数多く演奏されている。

 ECユース・オーケストラ(ECYO)とともに初の演奏旅行を行う。プログラムはマーラー・交響曲第6番であった。

 8月、エディンバラ音楽祭で『カルメン』を再演。10月、パリ・オペラ座でストレーレル演出の『シモン・ボッカネグラ』を指揮する。

 12月、ラ・スカラ開幕公演で、『シモン・ボッカネグラ』再演。

1979年

 1月、ラ・スカラで『シモン・ボッカネグラ』『ドン・カルロ』を再演。3月、クライバーがプッチーニ『ラ・ボエーム』を指揮している。4月、『マクベス』を再演。

 5月、ラ・スカラでロンコーニ演出の『ヴォツェック』を再演。続いてラ・スカラのパリ公演でも同じ演出でこのオペラを指揮した。一方、パリ・オペラ座がラ・スカラに客演、ブーレーズ指揮、シェロー演出により『ルル』(チェルハ校訂の三幕版)を上演する。同時期にベルク祭が催され、ベルクの作品の演奏会、パリ・オペラ座との共同製作によるベルク展が行われた。

 8月、ラ・スカラでの上演の記録映画が上映される。

 9月、ロンドン交響楽団首席指揮者に就任。同月、父ミケランジェロ・アッバード逝去。

 ラ・スカラ芸術監督を辞任するも音楽監督の地位にはとどまることになる。12月、ラ・スカラ開幕公演で、リュビモフ演出によるムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮する。

1980年

 2月、ロンドン交響楽団とともにドイツ各地とヴィ−ンに演奏旅行。

 4月、ラ・スカラで、ストラヴィンスキー『エディプス王』、シェーンベルク『期待』、バルトーク『中国の不思議な役人』を指揮する。

 5月、ロンドン交響楽団とともにパリ演奏旅行。

 9月、ロンドン交響楽団とともにベルギー演奏旅行、続いて10月にはベルリン公演の後、イギリス各地で演奏会。10月末から11月にかけて、同交響楽団とともにアメリカ演奏旅行。

 12月、ヴィーン・フィルよりニコライ・メダルを授与される。

1981年

 ラ・スカラでムソルグスキー祭(没後百年記念)を企画、1月、自らの指揮で『ボリス・ゴドゥノフ』を上演した他にも、他の指揮者で『ホヴァーンシチナ』『ソローチンツィの定期市』を上演、また演奏会を行う。

 3月、ロンドン交響楽団とともにスイス、ドイツ各地に演奏旅行。ロンドン交響楽団でもムソルグスキー祭を企画。

 5月から6月にかけて、ロンドン交響楽団とともにパリ、ヴィ−ン、イタリア各地に演奏旅行。

 ECYOを母体にヨーロッパ室内管弦楽団(COE)が創設され、アッバードが音楽顧問となる。5月にロンドンで最初の演奏会を行い、前半をジェイムズ・ジャッド、後半をアッバードが指揮。

 9月、ラ・スカラと日本演奏旅行。『セビリアの理髪師』『シモン・ボッカネグラ』を指揮する。

 12月、ラ・スカラ開幕公演で、ストレーレル演出による『ローエングリン』を指揮する。

1982年

 スカラ・フィルハーモニー管弦楽団を創設する。

 シカゴ交響楽団首席客演指揮者に指名される。

 1月、ラ・スカラで『シモン・ボッカネグラ』を、4月、『チェネレントラ』を再演。5月、外傷のためロンドン交響楽団とヴィーン・フィルの演奏会をキャンセル。

 9月、ロンドン交響楽団とともにスイス、ドイツ各地に演奏旅行。

1983年

 4月、ラ・スカラで『ローエングリン』を再演。

 5月、ロンドン交響楽団とアメリカ、オーストラリア、日本演奏旅行、同交響楽団の音楽監督に就任する(1988年まで)。

 10月、コヴェント・ガーデンで、アンドレイ・タルコフスキー演出による『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮する。

 12月、ラ・スカラで『アルジェのイタリア女』を再演。ロンドン交響楽団とヴェーベルンの全作品演奏会を企画(客演指揮者によるものも含む)し、パリ、ヴィーン、フランクフルトでも演奏会を行う。

1984年

 3月、ストレーレル演出の『シモン・ボッカネグラ』を指揮してヴィーン国立歌劇場にデビューする。

 4月から5月にかけてロンドン交響楽団とベートーヴェンの全オーケストラ作品の演奏会を企画する。ポリーニが独奏者として参加。

 5月、ヴィーン国立歌劇場の次期音楽監督に内定する。シカゴ交響楽団で『ヴォツェック』を演奏会上演。

 8月、ペーサロのロッシーニ音楽祭で、ヨーロッパ室内管弦楽団を指揮して、ロンコーニ演出により、ロッシーニ『ランスへの旅』を蘇演する。

 9月、ヴェネツィアのビエンナーレ音楽祭でルイージ・ノーノ『プロメテオ』を世界初演。音響空間設計をレンツォ・ピアーノが担当。

 11月、シカゴ交響楽団で『ボリス・ゴドゥノフ』を演奏会上演。

 12月、ラ・スカラ開幕公演で、ファッジョーニ演出による『カルメン』を指揮する。『セビリアの理髪師』を再演。イタリア共和国大十字功労章を授与される。

1985年

 5月、ラ・スカラで『マクベス』を再演。9月、『ランスへの旅』を上演。ミラノで『プロメテオ』(第二稿)を上演する。

 3月から10月まで二シーズンに渡って、ロンドンで「マーラー、ヴィーンと二十世紀」を企画する。マーラーの全交響曲のツィクルスを開催(交響曲第一番から第七番、第十番アダージョはアッバード指揮ロンドン交響楽団、第八番はコリン・デイヴィス、『大地の歌』はブーレーズが指揮した、第九番はバーンスタイン指揮コンセルトヘボウ管弦楽団)、また、マーラーと併せて、新ヴィーン学派の音楽や、ノーノ、ブーレーズ、リゲティ、リームら、現代の作曲家の作品も演奏された。ロンドン交響楽団のみならず、ロンドン・シンフォニエッタも参加、さらに、オーストリア協会主催の展覧会も開催された。

1986年

 5月、ラ・スカラで、ヴィテーズ演出によるドビュッシー『ペレアスとメリザンド』を指揮する。同歌劇場での最後の公演となった。

 9月より、ヴィーン国立歌劇場音楽監督に就任、インテンダントはクラウス・ヘルムート・ドレーゼ。10月、就任披露公演として、デ・ボジオ演出によるヴェルディ『仮面舞踏会』を指揮し、ストレーレル演出の『シモン・ボッカネグラ』を再演。

 この年、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラ(GMJO)を創設。

1987年

 3月、ヴィーン・フィルと演奏旅行。ベートーヴェンの交響曲とピアノ協奏曲(独奏ポリーニ)のツィクルスを、ニューヨークと東京(交響曲のみ)で行う。

 4月、GMJOとともに最初の演奏旅行。

 5月、国立歌劇場で、『セビリャの理髪師』、『シモン・ボッカネグラ』、『仮面舞踏会』を指揮する。続いて、6月、国立歌劇場で、ドレーゼン演出によるベルク『ヴォツェック』を指揮する。

 9月、国立歌劇場で、ポネル演出によるロッシーニ『アルジェのイタリア女』を指揮する。

 10月、ヴィーン市音楽総監督に任命される。

1988年

 ヴィーン・フィルのニューイヤーコンサートを指揮。1月、国立歌劇場で、ロンコーニ演出によるロッシーニ『ランスへの旅』を指揮する。2月、ヴィーン・フィルとともにパリでベートーヴェンの交響曲とピアノ協奏曲(独奏ポリーニ)のツィクルスを催す。

 2月から3月にかけて、ヨーロッパ室内管弦楽団(COE)とともにアメリカ、日本演奏旅行。

 5月、テアター・アン・デア・ヴィーンで、COEとともに、ルート・ベルクハウス演出で、シューベルト『フィエラブラス』を上演する。

 6月、国立歌劇場で、ヴィテーズ演出によるドビュッシー『ペレアスとメリザンド』を指揮する。

 8月、GMJO、ECYOとともに、ベルリンのヴァルトビューネでマーラーの交響曲第三番を、フィルハーモニーでシェーンベルク『グレの歌』を演奏する。

 10月、ヴィーン・モデルン音楽祭を創設、ブーレーズ、ノーノからリゲティ、クルターク、ヴォルフガンク・リームに至る現代作品を取り上げる。

1989年

 この年、フェッラーラ・ムジカが創設され、ヨーロッパ室内管弦楽団がレジデント・オーケストラとなる。

 1月、国立歌劇場で、キルヒナー演出によるムソルグスキー『ホヴァーンシチナ』を指揮する。

 6月、国立歌劇場で、ハリー・クプファー演出によるシュトラウス『エレクトラ』を指揮する。8月、ザルツブルク音楽祭にて同オペラを再演。

 7月、ヘルベルト・フォン・カラヤン逝去。10月8日、アッバードがベルリン・フィルの次期芸術監督に指名される。国立歌劇場で、ルイジ・ピッツィ演出によるヴェルディ『ドン・カルロ』(五幕最終改訂版)を指揮した後、同歌劇場と日本公演を行い、『ランスへの旅』『ヴォツェック』を指揮する。11月9日、ベルリンの壁が開く。

1990年

 1月、国立歌劇場で、ヴォルフガング・ヴェーバー演出によるヴァーグナー『ローエングリン』を指揮する。

 2月、テル・アヴィヴで、イスラエル・フィルを指揮して、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』を半舞台形式で上演する(マリアーニ演出)。

 5月、テアター・アン・デア・ヴィーンで、国立歌劇場により、リュック・ボンディ演出の『ドン・ジョヴァンニ』を上演する。同月、ルイージ・ノーノ没。

 6月、シューベルト『フィエラブラス』を国立歌劇場で再演。

 9月、ベルリン・フィルの芸術監督に就任、インテンダントはウルリヒ・マイアー・シェルコップ。10月3日、東西ドイツ統一。

1991年

 ベルリン・フィルハーモニー大ホールの改修工事が始まる。

 ヴィーン・フィルのニューイヤーコンサートを指揮。1月、国立歌劇場で、ゼッフィレッリ演出の『カルメン』(再演)を指揮する。

 3月、ヨーロッパ室内管弦楽団(COE)とともに、東京でシューベルトの交響曲とベートーヴェンのピアノ協奏曲(独奏ペライア)のツィクルスを行う。

 5月、テアター・アン・デア・ヴィーンで、国立歌劇場により、ジョナサン・ミラー演出のモーツァルト『フィガロの結婚』を指揮する。

 エーバーハルト・ヴェヒターがヴィーン国立歌劇場インテンダントに就任(副監督はイオアン・ホレンダー)。9月、アッバードは国立歌劇場の『ローエングリン』の指揮をキャンセルし、音楽監督を辞任する。10月、コヴェント・ガーデンのタルコフスキー演出のムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』を原典版により国立歌劇場で再演、音楽監督としての最終公演となる。これはアッバード自らが企画したタルコフスキー芸術祭の一環であり、映画の上映、絵画展、タルコフスキーに捧げられたクルターク、リーム、ノーノ、フラーらの作品の演奏などが行われた。

 12月、ベルリン・フィルとともにモスクワ、ザンクト・ペテルブルクへの演奏旅行。ジルヴェスターコンサートでベートーヴェン『エグモント』他を演奏。

1992年

 ナターリア・グートマンとともに「ベルリンの出逢い」を企画し、若い音楽家にグートマン、ブレンデルとの共演の機会を与える。

 1月、ベルリン・フィルとともに日本演奏旅行、ブラームスの交響曲・ピアノ協奏曲のツィクルスを行う。

 2月、ロッシーニ生誕二百年祭に因んで、フェッラーラでCOEを指揮して『ランスへの旅』を上演(ロンコーニ演出)。

 4月、新装フィルハーモニー大ホールでベルリン・フィル定期公演、シェーンベルク『グレの歌』を演奏する。

 ベルリン・フィルの演奏会シーズンを、一つの文化的なテーマに基いて他の芸術分野と連携して展開させようと提案し、今シーズンがその最初の試みとなる。5月、「ベルリン・ツィクルス」最初の試みとして、プロメテウスをテーマにした演奏会を企画し、ベートーヴェン、リスト、スクリャービンの作品、及びノーノ『プロメテオ』をアッバード自身が編んだ「組曲1992」版で演奏する。

 7月、ザルツブルク音楽祭で、ヴィーン・フィルを指揮してクラウス・ミヒャエル・グリューバー演出によるヤナーチェク『死者の家から』を上演する。

 8月、ペーサロのロッシーニ音楽祭で、ロンコーニ演出によるロッシーニ『ランスへの旅』を再演する。

 10月、ベルリン・フィルとロッシーニ『ランスへの旅』を半舞台形式で上演する。

 11月、ベルリン・フィルとともにドイツ国内演奏旅行。

 12月、リヒャルト・シュトラウスの音楽によるジルヴェスターコンサートを指揮する。

1993年

 2月、ベルリン・フィルとともに、ベルリン、パリでブラームスの交響曲・協奏曲、『ドイツ・レクイエム』のツィクルスを行う。イタリア各地に演奏旅行。

 2月よりベルリンのヘルダーリン・ツィクルスが始まり、ブラームス、シュトラウス、レーガー、マンゾーニ、ノーノ、リゲティ、ヴォルフガング・リーム、クルタークらの作品を取り上げる。室内楽ホールの演奏会ではクルタークの曲で自らピアノを弾いている。音楽の他、詩の朗読、展示、映画上映なども行われた。

 3月、十年ぶりにコヴェント・ガーデンに出演、ヴィテーズ演出によるドビュッシー『ペレアスとメリザンド』を指揮する。

 5月、ベルリン・フィルとともにヴィーン、イスラエル、アテネに演奏旅行。イスラエルではシェーンベルク『ワルシャワの生き残り』他を演奏する。6月、ライプツィヒ、ローザンヌに演奏旅行。

 10月、ベルリン・フィルとアメリカ演奏旅行、マーラーの交響曲を中心としたプログラムであった。

 11月、ベルリン・フィルとムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』を半舞台形式で上演する。

 12月、ヴァーグナーの音楽によるジルヴェスターコンサートを指揮する。

1994年

 1月、フェッラーラで、ミラー演出のモーツァルト『フィガロの結婚』を指揮する。

 2月よりベルリンのファウスト・ツィクルスが始まる。その開幕として、ベルリン・フィルとマーラーの交響曲第八番を演奏する。この催しは6月まで行われ、アッバード以外の演奏家でも、ベルリオーズ、リスト、ブゾーニ、ストラヴィンスキーらの作品が取り上げられた。音楽の他、文学、展示、映画などの催しが行われた。

 この年からザルツブルク復活祭音楽祭芸術監督を務める。同音楽祭の一環としてコントラプンクテ・ツィクルスを創始、現代音楽の紹介に努める。4月、同音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してヘルベルト・ヴェルニケ演出によるムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』を上演する。

 5月、ベルリン・フィルとヨーロッパ演奏旅行。トリノのリンゴットにレンツォ・ピアーノ設計の新ホールが落成、その開幕にベルリン・フィルとマーラー・交響曲第九番を演奏。続いて、テアター・アン・デア・ヴィーンで、ヴィーン国立歌劇場による『フィガロの結婚』を指揮する(再演)。

 6月、ファウスト・ツィクルスの一環として、ベルリン・フィルとシューマン『ファウストからの情景』を演奏する。

 エルンスト・フォン・ジーメンス音楽賞を受賞。

 8月、ザルツブルク音楽祭で、ヴィーン・フィルを指揮してヴェルニケ演出による『ボリス・ゴドゥノフ』を再演する。

 9月、ヴィーン国立歌劇場来日公演に同行、『フィガロの結婚』『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮する。10月、ベルリン・フィルとの二度目の日本公演を行う。

 11月より、ベルリンで、古代−ギリシア神話のツィクルスが始まる。その開幕にベルリン・フィルとシュトラウス『エレクトラ』を半舞台形式で上演する。12月にはやはりツィクルスに因んだ演奏会でブラームス、ムソルグスキーの作品と、クルターク『ステーレ』(初演)を指揮する。

 12月、シューマンの音楽によるジルヴェスターコンサートを指揮する。

1995年

 1月、フェッラーラ・ムジカ及びレッジョ・エミーリア、パルマで、COEを指揮してヴィツィオーリ演出によるロッシーニ『セビリアの理髪師』を上演する。

 2月、ベルリン・フィルの古代のツィクルスに因んだ演奏会で、ベルリオーズ、ヘンツェの作品を指揮する。

 4月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してレフ・ドーディン演出による『エレクトラ』を上演する。

 5月、ベルリン・フィルとともにヨーロッパ演奏旅行。続いて、ベルリン・フィル定期で、古代のツィクルスの一環として、モンテヴェルディ、ペルゴレージ、ハイドン、パーセルの作品、及びストラヴィンスキー『エディプス王』を指揮する。

 10月、ベルリン・フィルとともにドイツ国内とパリへの演奏旅行。

 11月よりベルリンでシェイクスピア・ツィクルスが始まる。音楽の他にも、文学、演劇、映画上映などの催しが行われた。その開幕にベルリン・フィルとヴェルディ『オテロ』を半舞台形式で上演する。12月、ジルヴェスターコンサートでメンデルスゾーン『夏の夜の夢』他を指揮する。

1996年

 3、4月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してエルマンノ・オルミ演出による『オテロ』を上演する。

 5月、フィレンツェでベルリン・フィルを指揮してレフ・ドーディン演出による『エレクトラ』を再演する(ザルツブルク復活祭音楽祭との共同製作)。続いてイタリア、ヴィーン演奏旅行。

 フェッラーラ・アルテのマックス・クリンガー展と併行して、ブラームスをはじめ、クリンガーと関係の深い作曲家の作品を演奏する(フェッラーラ・ムジカの企画)。

 9月、エルマー・ヴァインガルテンがベルリン・フィルのインテンダントに就任。10月、ベルリン・フィルとともにアメリカ及び三度目の日本演奏旅行。

 11月、ベルリンでベルク=ビュヒナー・ツィクルスが始まる。その開幕にベルリン・フィルとベルク『ヴォツェック』を半舞台形式で上演する。期間中にはベルクの音楽が演奏された他、他の指揮者によるリーム『ヤーコプ・レンツ』の上演、ビュヒナーに因んだ新作の委嘱、ビュヒナーの作品の朗読・上演等が行われた。

1997年

 この年、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラを母体にマーラー室内管弦楽団が創設される。

 1月、フェッラーラ・ムジカで、COEを指揮してマリアーニ演出によるモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』を上演する。レッジョ・エミーリアでイタリア国旗二百周年記念演奏会を指揮する。

 2月、ベルリン・フィルとバッハ『マタイ受難曲』を演奏する。

 3月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してペーター・シュタイン演出による『ヴォツェック』を上演する。

 4月、ベルリン・フィルともにヴィーンでブラームスの交響曲・協奏曲全曲、及び『ドイツ・レクイエム』を演奏する。

 5月、トリノ王立劇場で、ベルリン・フィルを指揮してオルミ演出による『オテロ』を再演する。パレルモのテアトロ・マッシモの再開にあたりベルリン・フィルと開幕演奏会を行う。

 8月、ザルツブルク音楽祭で、ヴィーン・フィルを指揮してシュタイン演出による『ヴォツェック』を再演する。

 9月、ベルリンで、ベルク=ビュヒナー・ツィクルスの一環として、フラー、ヴァッキ、エッゲルト、W.リームの新作を初演。ベルリン芸術週間で、COEとともにシューベルトの交響曲全曲と歌曲の管弦楽版を演奏する。

 10月、ベルリン・フィルとともにヨーロッパ演奏旅行。

 11月、ベルリンで「さすらい人」ツィクルスが始まり、その開幕にベルリン・フィルとシューベルト『フィエラブラス』を半舞台形式で上演する。12月にはやはりツィクルスの一環として、シューベルト、ヴァーグナー、マーラー、シュトラウス、ノーノらの作品を指揮している。

1998年

 2月、ベルリン・フィル芸術監督を2002年で辞任する意向を明らかにする。ベルリン国立歌劇場で、ジョナサン・ミラー演出によるヴェルディ『ファルスタッフ』を指揮する。3月、「さすらい人」ツィクルスの一環として、ベルリン・フィルとマーラーの交響曲第三番を演奏する。

 4月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してヴェルニケ演出の『ボリス・ゴドゥノフ』を再演する。

 5月、ベルリン・フィルとともにヨーロッパ演奏旅行。

 8月、ジャン・ヌーヴェル設計のルツェルン文化センター新ホールが落成、その開幕にベルリン・フィルを指揮してベートーヴェン・第九交響曲を演奏する。

 7月、エクサンプロヴァンス音楽祭にて、ダニエル・ハーディングとともにマーラー室内管弦楽団を指揮して、ピーター・ブルック演出による『ドン・ジョヴァンニ』を上演する。

 10月、ベルリン・フィルとともにアメリカ及び四度目の日本演奏旅行。

 11月、ベルリンで「愛と死」(Liebe und Tod)ツィクルスが始まり、その開幕にベルリン・フィルとヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』を半舞台形式で上演する。

1999年

 2月、「愛と死」ツィクルスの一環としてベルリン・フィルとシェーンベルク『ペレアスとメリザンド』を演奏する。また、同フィルとバッハ『ロ短調ミサ』を演奏する。

 3、4月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してクラウス・ミヒャエル・グリューバー演出による『トリスタンとイゾルデ』を上演する。

 5月、ベルリン・フィルとともにヨーロッパ演奏旅行。フェッラーラでマーラー室内管弦楽団とともにミラー演出の『ファルスタッフ』を再演する。

 7、8月、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとともに、アメリカ合衆国、キューバ、南アメリカ、ヨーロッパを演奏旅行。フェッラーラ・ムジカと協力してキューバの若い音楽家への支援を企画する。このとき、ホセ・アントニオ・アブレウにより創設されたベネズエラの音楽教育制度「エル・システマ」と出会う。

 9月、ベルリン芸術週間でマーラーのツィクルスが組まれ、アッバードはベルリン・フィルと交響曲第九番と『大地の歌』、GMJOと交響曲第七番を演奏する。芸術週間の開幕にベルリン・フィルとノーノ『プロメテオ』組曲版を演奏する。

 10月、ベルリン・フィルとともにヨーロッパ、アメリカ演奏旅行。

 北ヨーロッパを中心とした前年の「愛と死」ツィクルスに引き続き、イタリア・地中海に焦点を絞った「愛と死」(Amore e Morte)ツィクルスが始まる。11月、ベルリン・フィルとヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』を半舞台形式で上演する。12月、ツィクルスの一環として、ベルリン・フィルの団員らとともにモンテヴェルディの作品を演奏する。

2000年

 1月、この年の夏ザルツブルク音楽祭で指揮する予定だった『コジ・ファン・トゥッテ』と『トリスタン』をキャンセルする意志を表明。

 2月、フェッラーラ・ムジカで、マーラー室内管弦楽団を指揮してマルトーネ演出によるモーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』を上演する。

 4月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してペーター・シュタイン演出による『シモン・ボッカネグラ』を上演する。

 5月、ベルリン・フィルとともに初の南米演奏旅行。

 病気療養のため夏のベルリン・フィルとの演奏会をキャンセル(代役はハイティンク)、9月のイタリアでのマーラー室内管との演奏会も降りた。10月、ドイツ統合十周年記念演奏会で復帰。ベルリンで「音楽はこの世の愉しみ」ツィクルス開幕。

 10月、ベルリン・フィルと五度目の日本演奏旅行。ザルツブルク復活祭音楽祭引っ越し公演として『トリスタンとイゾルデ』を指揮する。

 12月、ベルリン・フィル音楽監督としての最後のジルヴェスターコンサートを指揮し、ヴェルディの音楽を演奏。

2001年

 1月、ヴェルディ没後百周年記念にベルリン・フィルと『レクイエム』を演奏する。

 2月、ローマとヴィーンで、ベルリン・フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲・ピアノ協奏曲全曲演奏会を催す。

 3月、ベルリン・フィル定期でウィントン・マルサリスと共演。

 4月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してドネラン演出によるヴェルディ『ファルスタッフ』を上演する。

 5月から6月にかけて、マーラー室内管弦楽団とともに、フェッラーラ、パルマ、ボルツァーノでマルデゲン演出によるヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』を上演する。

 9月、オーネゾルクがベルリン・フィルのインテンダントに就任。ベルリン芸術週間の開幕に、アッバードはベルリン・フィルとともにシェーンベルク『ワルシャワの生き残り』『ペレアスとメリザンド』他を演奏する。9月11日、ニューヨークで同時多発テロ、その直後、10月に、ベルリン・フィルとともにアメリカ演奏旅行、ベートーヴェンの交響曲を中心としたプログラムであった。

 11月、ベルリンで「パルジファル」ツィクルスが始まり、その開幕にベルリン・フィルとヴァーグナー『パルジファル』を半舞台形式で上演する。

2002年

 3月、ザルツブルク復活祭音楽祭で、ベルリン・フィルを指揮してシュタイン演出によるヴァーグナー『パルジファル』を上演する。

 4月、ベルリン・フィル定期演奏会を指揮、音楽監督としての最後の定期出演となる。この演奏会では、ショスタコーヴィチがコジンツェフ監督の映画『リア王』のために書いた音楽が、映画の上映付きで演奏された。ドイツ連邦功労大勲章を授与される。

 5月、ベルリン・フィルとともにイタリア、ヴィーンへの演奏旅行。

 6月、フィレンツェ五月音楽祭にて、シュタイン演出によるヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』を上演(ザルツブルク復活祭音楽祭との共同製作)。

 8月、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとともに、エディンバラ音楽祭でシュタイン演出によるヴァーグナー『パルジファル』を上演する(ザルツブルク復活祭音楽祭との共同製作)。

2003年

 2月、フェッラーラとレッジョ・エミーリアでマーラー室内管弦楽団との演奏会を指揮する。

 新たにルツェルン音楽祭管弦楽団が誕生。マーラー室内管弦楽団のメンバーが中核となり、そこにハーゲン四重奏団など室内楽アンサンブルのメンバー、ベルリン・フィルやヴィ−ン・フィルの(元)団員、さらにナタ−リア・グートマン他の独奏者も加わった。アッバードの「一緒に音楽をする」という理想を実現すべく結成されたオーケストラである。8月、ルツェルン音楽祭開幕演奏会で同オーケストラと、ドビュッシー『聖セバスティアンの殉教』『海』他を演奏。続いて、同音楽祭でマーラーの交響曲第二番を演奏した。

 10月、フェッラーラとポテンツァでマーラー室内管弦楽団との演奏会を指揮する。同月、第15回高松宮記念世界文化賞授賞式のため来日したが、演奏会は行わず。

2004年

 1月、キューバを訪れ、現地の学生オーケストラを指導する。

 2月から3月にかけて、フェッラーラ、モデナ、レッジョ・エミーリアで、マーラー室内管弦楽団を指揮してモーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』(マルトーネ演出)を再演する。

 4月、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとともに、イタリアと東欧で、マーラー・交響曲第九番他を演奏する。

 6月、音楽監督辞任後初めてベルリン・フィル定期演奏会に客演、マーラーの交響曲第六番他を指揮する。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』第二幕、マーラー・交響曲第五番他を演奏する。

 9月にボローニャ、10月にフェッラーラで、マーラー室内管弦楽団と演奏会を行う。

 新たにモーツァルト管弦楽団を創設、11月にボローニャで最初の演奏会を行う。

2005年

 2004年12月から2005年1月にかけて、マーラー室内管弦楽団とともにベネズエラ、キューバで演奏会を行う。

 1月、ベネズエラのシモン・ボリバル管弦楽団を中心に、中南米諸国の若者を集めて編成されたラテンアメリカ・ユースオーケストラとともに、ベネズエラ、キューバで演奏会を行う。帰国後、「エル・システマ」を精力的にヨーロッパに紹介。

 4月、レッジョ・エミーリアとフェッラーラで、マーラー室内管弦楽団を指揮して、ダニエレ・アッバード(クラウディオの長男)の演出により、モーツァルト『魔笛』を初めて演奏する(バーデン・バーデン祝祭劇場との共同製作)。5月、バーデン・バーデンで再演。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演、マーラーの交響曲第四番他を指揮する。

 6月、ボローニャでモーツァルト管弦楽団とノーノ『プロメテオ』組曲とモーツァルト『レクイエム』を演奏。続いてボローニャ、フィレンツェ、フェッラーラで同管弦楽団と演奏会を行う。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でマーラー・交響曲第七番、ブルックナー・交響曲第七番、ノーノ『プロメテオ』組曲他を演奏する。

 9月、モデナでマーラー室内管弦楽団を指揮して、ダニエレ・アッバード演出のモーツァルト『魔笛』を再演する。ボローニャでモーツァルト管弦楽団と演奏会を行う。

 10月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とローマ公演。11月、モーツァルト管弦楽団とボローニャ、レッジョ・エミーリアで演奏会。

2006年

 1月、ベネズエラでシモン・ボリバル管弦楽団を指揮してベートーヴェンの第九交響曲を演奏する。2月、同オーケストラとともに再びベネズエラで演奏会を行う。

 4月、フェッラーラ、レッジョ・エミーリアでマーラー室内管弦楽団と演奏会。グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとともにヨーロッパ演奏旅行、シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』とマーラー・交響曲第四番を指揮する。

 5月、ボローニャでモーツァルト管弦楽団と演奏会を行う。ベルリン・フィル定期演奏会に客演、ヴァーグナー『ヴェーゼンドンク歌曲集』とシューマン『マンフレート』を演奏する。

 6月、ボローニャ他でモーツァルト管弦楽団と演奏会を行う。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でマーラー・交響曲第六番、ブルックナー・交響曲第四番他を演奏する。エディンバラ音楽祭でマーラー室内管弦楽団とダニエレ・アッバード演出のモーツァルト『魔笛』を再演。

 9月、ベネズエラのシモン・ボリバル管弦楽団とともにパレルモとローマで演奏会。アッバードは一曲だけ指揮して後半をグスターボ・ドゥダメルに譲った。モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ、ボルツァーノ他で演奏会。

 10月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とともに東京公演、マーラー・交響曲第六番、ブルックナー・交響曲第四番他を演奏する。アッバード指揮の演奏会と併せて、ポリーニのリサイタルや室内楽公演も行われた。

 11月、モーツァルト管弦楽団とイタリアで演奏会を行う。

2007年

 1月、セビーリアでシモン・ボリバル管弦楽団と演奏会。同月末から2月にかけてベネズエラ、キューバで演奏会を行う。2月から3月にかけてベネズエラ、続いてイタリアで、マーラー室内管弦楽団との演奏会を指揮する。

 4月、モーツァルト管弦楽団とともにイタリア各地でバッハ『ブランデンブルク協奏曲』を演奏する。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演、ブラームス・交響曲第三番他を演奏する。

 6月、モーツァルト管弦楽団とともにイタリア各地で演奏会を行う。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でベートーヴェン・交響曲第九番、マーラー・交響曲第三番を演奏する。続いて同管弦楽団とロンドンでマーラー・交響曲第三番を演奏する。

 10月に予定されていたルツェルン音楽祭管弦楽団とのニューヨーク公演を、健康上の理由でキャンセル(代役はブーレーズ)。

 11月、ボローニャでモーツァルト管弦楽団とともにペルゴレージの作品を演奏する。このあと、2010年にかけて、ペルゴレージの作品を継続的に取り上げ、録音も行った。

2008年

 4月、レッジョ・エミーリア、マドリード、バーデン・バーデンで、マーラー室内管弦楽団とともに、クラウス演出によるベートーヴェン『フィデリオ』を上演する。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演し、ベルリオーズ『テ・デウム』他を演奏する。フィルハーモニーの火災のため、公演はヴァルトビューネで一回だけ行われた。

 6月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャでペルゴレージの作品を演奏する。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮。この年はマーラーは演奏されず、ベルリオーズ・幻想交響曲を中心とするフランス音楽のプログラムと、ロシア音楽によるプログラムで構成されていた。

 9月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とともにヴィーン公演。

 10月、ボローニャで、モーツァルト管弦楽団やイタリアのユース・オーケストラとともに、ベルリオーズ『テ・デウム』を演奏する。

 11月、フェッラーラ及びモデナで、マーラー室内管弦楽団とともにベートーヴェン『フィデリオ』を再演する。

2009年

 1月と2月に、ベネズエラでシモン・ボリバル管弦楽団と演奏会。

 3月、ボローニャ名誉市民となる。ボローニャとナポリで、モーツァルト管弦楽団と演奏会。

 4月、フェッラーラ、レッジョ・エミーリア、トリノで、マーラー室内管弦楽団と演奏会。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演し、シューベルト、マーラー、ドビュッシーの作品を演奏する。

 6月、モーツァルト管弦楽団とともにイタリア演奏旅行、ペルゴレージ、モーツァルト、シューベルトの作品を演奏。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でマーラー・交響曲第一番、第四番他を演奏する。

 9月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とともに北京演奏旅行。

 10月から11月にかけて、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ他でブルックナー、メンデルスゾーン等の作品を演奏。

2010年

 2月にベネズエラ、3月にルツェルンで、シモン・ボリバル管弦楽団と演奏会。

 3月から4月にかけて、モーツァルト管弦楽団とともにローマとボローニャで演奏会。続いて、マーラー室内管弦楽団とともに、フェッラーラ、レッジョ・エミーリアで、ラフマニノフとベートーヴェンの作品を演奏。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演し、シューベルト、ブラームス、シェーンベルクの声楽作品を演奏。この演奏会の数日後に過労のため療養。アッバードは前年に、ミラノへの植樹を条件にラ・スカラへの客演を受諾しており、6月初にマーラー・交響曲第二番を指揮する予定であったが、この演奏会はキャンセルした。以後、6月に予定されていたラヴェンナ、パリでのモーツァルト管弦楽団の公演はすべてキャンセル。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でベートーヴェン『フィデリオ』を半舞台形式で上演、マーラー・交響曲第九番を演奏。

 9月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ他でペルゴレージ『スターバト・マーテル』、バッハの作品を演奏。

 10月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とともにマドリード、パリでマーラー・交響曲第九番を演奏。

 11月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ、フェッラーラで演奏会。

2011年

 4月、マーラー室内管弦楽団、モーツァルト管弦楽団とともにフェッラーラ、ボローニャ、レッジョ・エミーリア、ローマでドビュッシー、ラヴェルの作品を演奏。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演、マーラー・交響曲第十番のアダージョ楽章、他を演奏。マーラー没後百年記念演奏会で、『大地の歌』を演奏。

 6月、イタリアを中心にモーツァルト管弦楽団とともに演奏会。パルマのファルネーゼ劇場が再開、モーツァルト管弦楽団とともに同劇場での最初の公演を行う。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でマーラー・交響曲第十番アダージョ、ブルックナー・交響曲第五番他を演奏。音楽祭開幕にあたり、同音楽祭による東日本大震災復興支援企画「ARK NOVA」の概要が発表され、アッバードがマーラー・交響曲第十番アダージョを演奏。

 9月、モーツァルト管弦楽団とともにイタリアとヴィーンで演奏会。

 10月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とともにパリ、ロンドンで演奏会。モーツァルト管弦楽団とともにフランクフルトで演奏会。

 11月、モーツァルト管弦楽団とともにローマとボローニャで、ショスタコーヴィチの映画音楽『リア王』を演奏、コジンツェフ監督の映画も同時上映された。12月、モーツァルト管弦楽団とともにフィレンツェで演奏会。

2012年

 3月、マーラー室内管弦楽団とともにフェッラーラ、レッジョ・エミーリアで演奏会。モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ、ルツェルンで演奏会。

 5月、ベルリン・フィル定期演奏会に客演、シューマン、ベルクの作品を演奏。同月末、エミリア・ロマーニャ州で地震発生。

 6月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャとパリで演奏会。

 7月、モーツァルト管弦楽団とともに、ボローニャ、続いてザルツブルク音楽祭で、モーツァルト『孤児院ミサ』とシューベルト・ミサ曲第六番を演奏。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でベートーヴェン『エグモント』、モーツァルトのレクイエム、ブルックナー・交響曲第一番他を演奏。

 9月、ルツェルン音楽祭管弦楽団とともにヴィーン、モスクワ、ハンブルク、フェッラーラで演奏会。

 10月、スカラ・フィルハーモニー管弦楽団、モーツァルト管弦楽団とともに、ミラノでマーラー・交響曲第六番を演奏。ラ・スカラの管弦楽団を指揮するのは、1986年の『ペレアスとメリザンド』以来二十六年ぶりであった。

 11月、モーツァルト管弦楽団とともにヴィーンとボローニャで演奏会。11月末から12月にかけて、モーツァルト管弦楽団の室内アンサンブルとともに、ボローニャ、フランクフルト、バーデン・バーデン、ミュンヘン、ジェノヴァ、パレルモでバッハの作品を演奏。

2013年

 3月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ、ルツェルン、マドリッド、ブダペストで演奏会。

 4月、マーラー室内管弦楽団とともにフェッラーラ、パリで演奏会。

 5月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ、フィレンツェ五月音楽祭にて演奏会。ベルリン・フィル定期演奏会に客演、メンデルスゾーン『夏の夜の夢』、ベルリオーズ・幻想交響曲を演奏。

 6月、モーツァルト管弦楽団とともにボローニャ、パリで演奏会。

 8月、ルツェルン音楽祭管弦楽団を指揮して、同音楽祭でベートーヴェン・交響曲第三番、ブルックナー・交響曲第九番他を演奏。結果的に、8月26日のシューベルト『未完成』とブルックナー・交響曲第九番が、最後の演奏会となった。

 8月30日、ナポリターノ大統領の指名により、イタリア共和国終身上院議員に任命される。

 10月に予定されていたルツェルン音楽祭管弦楽団との東京公演、及び松島でのARK NOVAへの参加を、健康上の理由により中止。9月以降に予定されていたモーツァルト管弦楽団、マーラー室内管弦楽団との演奏会との演奏会もすべて降りた。

2014年

 1月11日、モーツァルト管弦楽団が活動を停止。

 1月20日、ボローニャの自宅で逝去。享年80歳。

 1月27日、アッバード追悼のため、ラ・スカラでバレンボイムがベートーヴェン・交響曲第三番の葬送行進曲を演奏。

 

 

 

 


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