03.06.25
期待することされること




他人に対しての期待はやめたほうがいい、という言葉をよく聞く。
期待にそぐわないとき、その人にがっかりすることになるから。
そんな一方的ながっかりは、その人に対して失礼であろう、と。

同様に、自分は、他人から期待されることが迷惑なのか?
まあ、時と場合と個人差に寄るのだろうが、
私の場合は、期待されることはやぶさかではない。
むしろ、他人からの期待無しでやる様々なことは、つまらないといえる。


期待はいいが、その期待の持ち方が問題なのだと思う。
「当然あなたはこうすべきであろう」という押しつけがましさは、
それを「期待」と言い換える人もいるが、是非とも裏切ってやりたい心持ちにさせられる。
いくら理にかなったものでも、反抗心を生む。
「宿題をやれ」「いまやろうと思っていたのに、言われたからやらない」といった親子の掛け合いに似ている。

期待なのだから、「きっと」の部分を持たなきゃいかんのだと思う。
つまり、不確定要素ということを懸念しつつ、それでいて心の中で待ちこがれるニュアンス。
「あなたならきっとできる。やらないかもしれないけど。でもあなたがやればきっと上手くいく」
という、回りくどくて未練たっぷりなオファーをなげかけるのである。
ここで重要なのが、「あなただけにしか上手くやれないでしょうとも」という部分である。
この評価を込めて、はじめて「期待」していることになる、と思う。

って、何でこんなこと書いているのかって、
最近、他人に期待してがっかりさせられたから。
冒頭で「がっかりされるほうは迷惑だ」なんて書いたけど、
がっかりする方だって、そりゃもう、人間不信に陥るほどのがっかりなわけですぜ。
やればできるのにやらない、歯がゆさ。あまつさえ、逆ギレされて、キレ返す、その不毛さ。





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