心静即身涼

 夏は暑くて当然ですが、地球温暖化が取りざたされる昨今、以前よりずいぶんと暑く感じられるようになりました。しかし、家でも車でも、エアコンをガンガンに掛けて電気やガソリンを無駄に使い、余分なCo2ガスを排出するようなことは、出来るかぎり避けたいということで、今回は、エコロジーな方法で、清爽感や涼味を得ることはできないものか、考えてみることにいたしましょう。

 われわれ、暑いときは、とにかく身体の火照りを何とかしたいと思うものですから、冷房、冷たい飲食物で、短絡的に解決しようと考えがちですが、それにはなにがしかのコストもかかるし、エコロジーな方法とはいえません。

 そこで、昔ながらの方法として考えられるのは、団扇や扇子、庭には打ち水、軒に風鈴、着物には浴衣というところでしょうか。さらに、床の間の掛け軸に、「瀧直下三千丈」「竹葉々起清風」とか「心静即身涼」といった墨跡があれば、万全といえましょう。

 ところが、そんなことで、この猛暑、とても耐えきれるものではないとおっしゃるかもしれません。そう申し上げている私とて、自信があるわけではありません。しかし、暑いと感じるのは、なにも、身体だけではなく、心も大いに関係しているはずで、そうでもなくば、あの炎天下での高校野球、その応援にしても、とうてい我慢出来るものではありません。

 中唐の詩人、白居易は「不是禅房無熱到(是れ禅房に熱の到ることなきあらず)、但能心静即身涼(但だよく心静かなれば即ち身も涼し)」、つまり、「いくら熱い部屋にいても、心を静めればなんのことはない」と詠じています。その一節「心静即身涼」は、坐禅の心得として、禅宗では大切にされている言葉です。

 これに類する言葉として、晩唐の杜荀鶴の詩句、「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水を須いず)、滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)」があります。つまり、「安らかな坐禅をするためには、必ずしも山水自然は必要ではない。心の働きをなくせば、火でさえも涼しく感ずる」というのです。

 この「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」は、甲州(山梨)の恵林寺の快川和尚が、信長の火攻めにあって、この句を唱えながら焼死したというエピソードでよく知られています。「火も自ずから涼し」は「火も亦た涼し」ともいい、精神力によって、どんな苦痛にも耐えられる喩えとして、よく用いられます。おそらく、学生時代、夏休みの部活動で、あるいは受験勉強の折に、先生方からこの言葉によって、喝を入れられた思い出を多くの方が持っておられるのではないでしょうか。

 ところで、芭蕉が、美濃(岐阜)の油商、賀島善右衛門の別邸に招かれた際に、長良川にのぞむ高楼において、その絶景を次のように褒め称えています。

 稲葉山(金華山)がそびえ、近からず遠からず重なる山々があり、杉木立に隠れる寺、川に沿う民家、白くまぶしい晒し干す布、渡し舟、行きかう里人、網をひき釣をたれる漁師、すべての景色が、この高楼にいる私をもてなしてくれているようだ。やがて、暑い夏の日も暮れなずみ、月が上り、鵜飼の篝火が川面に映るさまは、まことに目が覚めるほどにすばらしい。中国のかの有名な瀟湘八景、西湖十景も、この高楼の涼しい景色の中に集約されている。もしこの楼に名を付けるとすれば、「十八楼」がよい――。(『笈日記』意訳)

と、絶賛しています。そこでの句が、「此あたり目に見ゆるものは皆涼し」であります。

 われわれが「涼しい」と感ずるとき、「爽やかである」「すっきりしている」「煩いがない」「潔い」といった、気温とは直接関係のない意味を含む場合があります。ですから、「涼しい顔」のような使い方もし、苦痛、苦難にも動じない、仏教的に見れば、悟りの境地に近い感情表現に用いられる言葉であるともいえます。

 『源氏物語』総角の巻に「涼しき方」とあるのは、極楽浄土のこと、同じく椎本の巻の「涼しき道」は極楽浄土に行く道を指しています。すなわち、ここでは阿弥陀如来にすべてを任せ、何の煩いもない心境が「涼し」なのです。

 芭蕉が、夏の暑さの中で「見ゆるものは皆涼し」といったのは、景色もさることながら、篤いもてなしに「涼しさ」を感じているのであり、「見ゆるものは」と、あえて破調としたところに、感謝の気持ちが込められているような気がします。

 われわれ、どんな状況下でも、煩いを放ち、「目に見ゆるものは皆涼し」でありたいものです。

(2009/7/18)