愛と慈悲

 私の高校時代の思い出です。

 現代国語を教えていただいた、永田先生という方がいました。当時、四十代後半か、五十位になっておられたと思います。評判のよい先生で、学級担任をしてもらったことはありませんが、私にとって、多感な時期に、いわば施肥をしてくださった、忘れることのできない恩師でもあります。

 ある時、授業中いきなり「君たち、恋と愛との違いを知っているか?」と聞かれました。あまりの唐突さに、ポカンとしている私たち生徒を尻目に、「恋(鯉)にはヒゲがあるが、愛(鮎)にはヒゲがない。どうだ、分かるか?」と、笑いながらおっしゃったものです。

 ただ、この冗談は、高校生向きではなかったようです。すぐさま反応した者は、ほとんどいなかったと思います。よって、その冗談の解説を一通りされた後、今度は、本題である恋と愛について、興味深く話してくれました。思えば、それから、四十年近い年月が経過しています。私の脳内雑菌のせいで、変質している部分もあるやもしれませんが、そのあたりの誤謬を恐れつつ、次に紹介させていただきます。

 まず、恋と愛との決定的違いはというと、それは、距離感にあるというのです。つまり、恋は、その感情を抱く対象者が、遠くに位置している場合をいい、愛は、対象者が近くに位置している場合をいうというのです。

 確かに、「母が恋しい」という動詞形で使う場合、対象となる母は遠方にいるか、もしくは、死んでしまって、この世にいない場合であります。それに対して、「わが子が愛しい」となれば、その対象は、自身が抱きかかえている、その子に対してであります。これが、男女間に限定されて、近くにいようが、遠くにいようが「もう、たまらない」という状態になったとき、それが恋愛だというのです。

 そして、単に愛といっても、対象となるものに価値を見出して愛する、自己本位な愛(エロス)と、価値あるなしにかかわらず、普遍的に愛する愛や、神から人に向けられる愛のように、崇高な愛(アガペー)とがあるということを教えていただきました。

 以上、恋に恋する青春時代であったためでしょう、微分積分はすっかり忘れておりますが、我ながらよく覚えていたものであります。しかし、愛という概念が、宗教と密接にかかわりがあるということを知ったのは、ずっと後のことであります。

 前述のような愛の概念は、キリスト教において、罪を背負った存在である人間同士が、価値があるから愛するのではなく、愛するゆえに価値があるとするもので、神を媒介として、初めて成り立つものであります。キリスト教が、愛の宗教と呼ばれるゆえんは、ここにあります。

 一方、仏教においては、むしろ、愛は、苦の根本原因として、排除されるべきものとして捉えられています。愛の本質は、動物が持っている本能的なもので、ちょうど、喉が渇いているものが水を求めるような欲望(渇愛)であるというのです。そこには、常に憎しみが同居しており、仏陀の言葉によれば、「愛より愛は生じ、愛より憎しみは生ず。憎しみより愛は生じ、憎しみより憎しみは生ず」ということです。

 しかし、仏教においても、欲望的な愛欲ばかりではなく、法愛ともいうべき、人々をあわれむ心の大切さが説かれます。この場合、愛ではなく「慈悲」と呼ばれます。

 慈悲の「慈」、サンスクリット語でのマイトリーは、ミトラ(友)から派生した言葉で、友情を最上に高めた心のことをいい、苦悩するすべてのものに対する深い慈しみの心をさし、「悲」、カルナーは、同情の意で、深いあわれみの心をさします。

 慈しみの心は、他人の苦しみへの同感から生ずるものです。それは、他人の苦しみを、自己の苦しみとして思い悩む心です。同時にそれは、自己の悲しさが分かるもののみ、他人の悲しさが分かるものでもあります。

 「悲」、カルナーの語義は、〈あわれみ・同情〉でありますが、原義は〈呻き〉であるといいます。つまり、呻き悲しむものの苦を抜き去り(抜苦)、利益や安楽を与えること(与楽)が、仏の心、慈悲であるということです。

 また、戦争が始まろうとしています。どうか為政者には、これら愛(アガペー)や慈悲の心を、と願わずにはいられません。

(2003/2/20)