木魚の話

  これからお話しするのは、木魚のいわれとして、わたしが、本山で、管長さまにお仕えしていたときにお聞きしたものです。

 むかしむかし、あるお寺に、和尚さんとその弟子である何人かの小坊主さんたちがいました。その中に、元気がいいというと聞こえはいいのですが、横着で、悪さばかりして、和尚さんを、ほとほと困らせていたひとりの小坊主さんがいました。

 その日も、掃除をなまけて、境内の高い木に登って、猿まねよろしく木をゆさぶって得意がっていました。ところが、悪ふざけもほどほどにしないといけません。ゆさぶっていた枝がぽっきり折れて、小坊主さんは、真っ逆さまに落ちて、かわいそうに、頭が割れて、死んでしまったのです。

 自業自得とはいいながら、和尚さんは、このかわいそうな小坊主さんのために、皆といっしょに涙を流しながらお経を読んで、葬ってあげました。

 それから間もなくのことでした。横着小坊主さんは、大海原を、あっちへこっちへとすいすい泳いでおりました。実は、小坊主さん、魚に生まれ変わっていたのです。

 成仏できなかった者は、生前中の業に応じて、六道輪廻といって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六つの世界を、巡り巡っていなくてはならないといわれています。あの横着小坊主さんも、やはり、生前中の悪業が災いして、閻魔さまが命じた往き先は、人間より二ランク下の畜生道だったのです。

 しかし、当の小坊主さんは、もともと元気だけが取り柄のような子どもでしたから、大海原を自由に泳ぎ回れることがうれしくて、魚に生まれ変わったことを、かえって喜んでいるほどでした。しかも、体もどんどん大きくなってきて、見るからに強そうな魚に成長したのです。

 こうなると、やはり本性が出てきます。海の無頼漢を決め込み、小さな雑魚どもを追いかけ回したり、脅かしたりしては、得意がっていました。恐がって逃げ回るのが、面白くてしょうがなかったのです。

 そんな意気揚々とした日々がどれほど続いたころでしょうか、横着小坊主魚の背中に、ニキビの親玉のようなものがひとつ出来ました。最初のうちは、少々むず痒いくらいで、あまり気にもしておりませんでしたが、次第にどんどん盛り上がってきて、ついにウロコを割って、なんと、木の芽が顔を出し、双葉が生えてきたのです。

 これには、さすがの横着小坊主魚も驚きました。しかも、その木は見る見る生長して、しっかりと根を張り、幹の太いりっぱな大木となったのです。

 これほどに背中の木が大きくなると、泳ぐのにも苦労します。ちょっとした風でも、茂った葉っぱがゆさゆさと揺れ、泳ぐのも、帆立船よろしく、風任せで流されるほか仕方ありません。まして、大風でも吹こうものなら、背中がみしみしときしみ、痛いの痛くないの、背骨をむしり取られるような激痛が走ります。

 おまけに、背中に木を生やした間抜けな恰好を、仲間の魚にはもちろん、これまで、威張り蹴散らしてきた雑魚たちにまで笑われ、馬鹿にされるはで、これまでの元気は何処へやら、すっかり意気消沈してしまいました。

 そんなある日のことです。向こうから、一艘の船がやってきます。小坊主魚は、背中の痛さに耐えかね、いっそのこと、あの船に思いっきりぶつかって死のうと考えました。勢いをつけ、まっしぐらに船に向かっていきました。

 一方、こちらは船に乗っている人たちです。海の水面を、大きな木がこちらに向かって、すごい勢いで向かってきます。船内は、大騒ぎです。ところが、因縁とは不思議なものです。その船には、横着小坊主のかつての師僧が乗っていたのです。

 和尚さんは、徳の高い方だったので、すぐさま事情をさとり、声をかけ、やさしく呼び寄せ、その背中の大木を切って楽にしてやりました。そして、小坊主の罪の深さを説き、次のように諭しました。

 「今切り落とした木でもって、お前の姿を型どり、朝な夕なたたいてやろう。そうすれば、お前の罪はいずれ消え失せるであろう」と。

 小坊主魚は、それを聞いて、これまで一度も流したことのない涙を流して喜び、海原に帰っていきました。そして、その後は精進し、無事成仏できたということです。(2001/7)