◆創作仏教落語◆ お歳暮

 

 「やあ、熊さん。どこへ行くんだい?」

 「ああ、ご隠居、ちょうどいいや。うちのかかあが、いつもご隠居には世話になっているってんで、お歳暮にこれを持ってけっていうんでね。」

 「ほほお、新巻鮭とはありがたいね。」

 「えっ、このシャケのことハラマキというんでやんすか? なるほど、このシャケ、熨斗つけて腹巻きしてらあ。」

 「ハラマキじゃない、アラマキというんだよ。もともとは、塩俵の荒莚で巻いたところから荒巻の名がつけられたらしいが、今じゃあ、荒いという字じゃなくて、新しいという字を当てているがな。」

 「へーえ、なるほど、確かに腹巻きじゃあ食えねえものな。だて巻き、春巻き、のり巻きに、ちまき、あん巻き食いてえな。花巻の温泉芸者の赤い腰巻き、ああ、忘れられねえ。」

 「そういう手前の渦巻き、左巻き。」

 「なんでぃ八公、急に横から出て来やがって。俺なんざ、ほれ、見ろ。この一年世話になったご隠居に、新巻だ。お前に、こんな気の利いたことは出来ねえだろう?」

 「へん、どうせかかあにいわれて持ってきたんだろう。俺だって、どうだ。ほれ、新巻だあ。」

 「何いってやがる。そんな小せい新巻があるもんか。どうせ、天神さんの池ですくってきた、メダカにハラマキつけて持ってきたんじゃねえのか?」

 「なにお、熊公がシャケを下げていりゃ、こりゃお笑いだぜ。床の間の置物にでもなってやがれ。」

 「まあまあ、二人とも、ケンカはよくない。一口に、新巻鮭といってもな、海の沖合でとれたものと、川でとれたものとでは違うんだ。」

 「どう違うんで?」

 「ほら、八っあんのは、腹の色が白くてきれいな銀色をしているだろ? 熊さんのを見てみな。黒っぽい色が混ざって、ぶちになってる。これは川を上ってきた鮭で、沖とりのものに比べると、色も味も、ちょいと落ちるといわれておるな。」

 「そーれみろ、熊公。俺ちのがうめえんだとよお。」

 「なんだとお、メダカのハラマキが何いってやがる。」

 「まあまあ、暮れには、子どもや孫がたんと来るんでね、熊さんの大きな新巻は助かるよ。八っあんも、ありがとうよ。よーく味わっていただくよ。」

 「へー、何しに来るんで?」

 「何しにはねえだろう、熊公。だから手前のこと左巻きっていうんだよ。孫がご隠居に、お年玉をせしめに来るに決まってんじゃねえか。」

 「これは参ったな。今じゃあ、八っあんがいうように、子供や孫が親里へ、食事やお年玉をもらいに行くぐらいにしか思っていないようだが、その昔には、盆と正月は、親戚中が集まってな、たんとご馳走を作って、ご先祖様をお祭りしたもんだ。その時に、嫁や婿たちが、食べ物を調理して親里へ届けるのを親の膳、材料を持っていって、先方の鍋を借りて調理するのを、鍋借りなどといったんだな。」

 「じゃあ、何ですかい。この鮭は、子供達が持ってくるもんなんですかい? じゃあ、あっしのは持って帰るか。」

 「おいおい、熊さん。それは昔のこと。その名残が、お歳暮になったんだな。今じゃあ、年の暮れに、平素世話になった人や、目上の人に感謝の心をもって物を贈ることをお歳暮というが、新巻鮭のような生臭いものを贈るというのも、そういう習慣からきたもんだ。夏の中元もそうだが、ご先祖様へのお祭りという意味はすっかり忘れてしまっているようだが、親里へ届けるときは、ご先祖様にという気持ちを、忘れないようにするこったな。」

 「へい。でも、親父はずーと前に、お袋は去年死んじまったんで。」

 「そういえば、そうだったな。で、お盆の時はどうしたい?」

 「かかあが、回り灯籠を持ってけていうんでね、持って行きやした。」

 「そうだろう。初盆の時には、今でもご先祖様に、特別なものをお供えしたり、贈ったりする習慣が残っているが、大晦日の夜に、年内に喪のあった家を訪問したり、物を贈ったりするところが、今でもあるそうだ。在所へはやっぱり新巻を持って行くのかい、熊さん?」

 「ねじり鉢巻きして、考えやす。」

 「ちげえねえ。」

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