浜百合地蔵尊

 当山の境内に、本当に小さなお堂があり、石の座ったお地蔵さんが安置されています。建立されましたのは先の戦争のさ中でして、当初は、今よりはずっと大きな立派なお堂に安置されていたといいます。しかし、あの熱田空襲で、本堂や観音堂等とともに焼失してしまい、今のお堂は、現住職の若き頃の苦心の作であるとのことです。

 時代的には、半世紀ほど前のことで、決して古いものではありませんが、そのいわれについて知っている人は、おそらくもういなくなってしまったのではないか思われます。住職にそのあたりのことを聞きましたところ、実は、このお地蔵様には、切なくも悲しい物語があったのです。

 このお地蔵様には「浜百合地蔵尊」という美しい名前がついておりますが、それもそのはず、若くして亡くなった、熱田の浜の袂に住んでおられた、百合子さんという方を偲んで造られたものだったのです。それで、お地蔵様の背中を拝見いたしましたところ、次のような記載がありました。

観山儀徳信士廿八日
法輪妙界信女
栄室妙貞信女廿五日
十三回忌建之

(下部に)昭和十七年十月三十日

 ただ、この書き付けを見て、いくつかの疑問が出てきました。

 まず一つは、ここに記された三人の戒名は誰なのであろうかということです。当山の過去帳によれば、真ん中に記された方が、昭和十七年十月三十日享年三十一歳とあり、百合子さんご当人であることは分かりましたが、両脇に記されたお二人が分からないのです。そして、十三回忌の時に之を建てたということなのですが、誰の十三回忌なのかが分かりません。さらに、命日の昭和十七年十月三十日という日付だけがはっきりと記され、しかも、十三回忌との関連が不明なのです。

 住職の見解は、「両脇の二人は、当人百合子さんの両親で、どちらかの十三回忌に建てられた」、というものです。わたしも、おそらくそうであろうと思いますが、なぜ、両親が両脇で当人が真ん中なのか、という記載順序の問題、また、なぜ建立者の名前がないのかという問題も、今ひとつすっきりしないのですが、いかがなものでしょうか。

 そこで憶測ですが、これらの問題を解く鍵は、熱田という土地柄にあるといったら、飛躍に過ぎましょうか。

 以前にもお話したことがありますが、当地は、宮の宿であったところで、戦前までは、その名残が色濃く残っておりました。つまり、陸はもちろん海の交通の要所であったことから、海運業が発達していて、船乗りさんの出入りも多かったわけです。当時、船乗りさんは、一度仕事に出ますと、何日も、何ヶ月も家に帰れませんでした。そこで、世の常と言っていいものかは分かりませんが、それぞれの港々には遊郭がありましたので、そこで用事?を済ませていたようです。一方、羽振りのよかった船頭さんともなると、身請けして、傍妻といいますか、早い話が、お妾さんを囲っていたようです。百合子さんという方は、おそらく、そんな女性ではなかったかと思われます。

 そんな風に考えてみますと、建立者の名前がないこと、大っぴらに一人だけの戒名にしなかったこと、十三回忌というのも、これは一つのカモフラージュのようにも思え、いくつかの疑問が、何となく解けてくるような気がするのです。

 戦後もしばらくの間、お地蔵様を造られた方からは、供養にと、何度か沙汰があったということです。しかし、当時すでにある程度の年輩であったでしょうから、現在はむろん、亡くなられて久しいものと思われます。過去帳と背中の書き付けの外、この件に関する資料は、今となっては何一つ残っていません。何で亡くなられたかも分かりません。が、お地蔵様のお顔を拝しておりますと、若く美しかったであろうその面影が、彷彿としてまいります。また、お地蔵様でも、通称「重軽さん」といって、皆から抱かれる「重軽地蔵」を造られた、願主の「寂しくないように」との切なる願いも伝わってくるようであります。

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