仏門の扉を開く

 流転三界中 恩愛不能断
 棄恩入無為 真実報恩者

 これは、出家する時に唱える偈文です。「恩愛」というのは肉親血族の情愛のことで、これを断つことは非常に難しいことです。しかし、髪を剃り、その思いを捨て去り、仏道に入って目覚めることができれば、本当の意味で、恩に報いることになるというのです。

 「四門出遊」の伝説をご存じでしょうか。釈尊がまだ太子であった頃、都の東南西北にある四つの城門から郊外に出かけ、それぞれ老人・病人・死人・出家者を見かけ、深く心に感じるところあり、身分・妻子を棄て、出家を決意されたというものです。肉親への情、恩愛は深く断ち難く、「恩愛河」「恩愛獄」などともいわれるそうで、釈尊も、出家を思案している時に、わが子の誕生を知って「障り(ラーフラ)が生まれた。繋縛が生まれた」といわれたといいます。結局、その「ラーフラ」が命名されたといいますから、人間釈迦の苦悩がそこには感じ取れます。

 わたしの父であり、師僧でもある当山の現住職は、小学四年生の時に、潮音寺先住の二番目の弟子として出家しました。「饅頭をたくさん食べさしてやる」という言葉につられてとは聞いておりますが、親兄弟と別れての小僧時代は、辛いことが多かったであろうと思います。

 ところで、「出家」の反対を「在家」といいます。では、在家者にとって、この偈文は無縁のものかといいますと、決してそうではありません。我が宗派では、授戒会や五重相伝の時に、剃度式を行います。本当に剃るわけではありませんが、授者の頭に剃刀をあて、この偈文を唱え、仏門に入る決意をしていただきます。また、生前中に、そういう機会に恵まれなかった場合、亡くなった時に「枕経」といって枕元で経を読ませていただきますが、その折りに剃度式を行い、浄土への旅立ちの準備をさせていたいております。

 そこでですが、かようにこの偈文の持つ意味は、時と場合に応じて微妙に異なるわけで、なぜそうなるのかを考えてみようと思います。

 かつて釈尊は、出家集団を対象に修行の道を説かれました。俗世間のしがらみを棄て、出家という自由の身になって、戒律を守り修行に励み、輪廻の世界から脱却(解脱)することを目指していたわけです。ところが、時代の変遷とともに、俗世間の中で仕事に従事しなければならない在家仏教者を中心に、自己の完成にだけに主眼をおき、出家者だけを対象とするような小さな了見ではだめだとして、「大乗仏教」が興りました。大乗というのは、大きな乗り物という意味で、より多くの人を救うことを目指し、それまでの出家主義の仏教を、小さな乗り物、「小乗仏教」といって批判しました。

 大乗仏教の根本思想は「空」であり、『般若心経』にあるところの「色即是空、空即是色」、つまり、物事に「とらわれない」「こだわらない」ことにあります。ですから、剃髪にしても、実際に頭を丸めたか否かを云々するのではなく、その精神を重んずるわけです。恩愛にしても、無理に断とうとすると、かえってよい結果が望めない場合も多いものです。スポーツにおいても、以前はただ歯を食いしばってという風潮であったものが、最近では、科学的に効果的トレーニングをし、スポーツ中にも栄養補給をするようになり、飛躍的によい結果を出しているようです。同様に、仏門に入ることは苦行をすることであるという概念を捨て去っていただき、気軽に、門戸を叩いていただけたら、と思います。(97/09)