悪い神の必要性

 テレビで、『データスペシャル・未来からの贈り物』という特別番組が放映されました。長時間番組で、じっくり腰を落ち着けて見られなかったのでいけませんが、チベットのダライ・ラマの教え、最先端科学者の話、その他いくつかの話を織りまぜながら、「生命の不思議」あるいは「生命の進化」を問題にしていたように思います。この番組によって、一つの大きな問題について考えさせられたことがあります。

 私が学生の頃は、科学万能といわれた時代で、進化論にしても、ダーウィンの自然淘汰(選択)説を、教える先生も教えられる我々も、そのまま信じていたように思います。ところが、ここへきて、少しずつ変化があらわれてきているようです。強い者だけが生き残っていくという競争原理は、全てに当てはまるものではないということ、いな、いろいろな場面でこの競争原理を当てはめていくと、いろいろな不幸や悲劇を産み出してしまうということに気がつき始めたからです。また、人間を中心としたもの考え方ではなく、生きとし生ける物、さらには、石ころのような無機質のものまでも含めた、全てが生命共同体であるという考え方が、欧米の科学者から唱えられるようになってきました。

 このような考え方は、西洋が産み出したこれまでの科学にはなかったもので、本来、仏教を含め、東洋全般に深く根付いている教えであるということが、近年、いろいろな方面から指摘されるようになってきています。先の番組も、このような視点に立って制作されたものと思われます。すなわち、科学は決して万能なものではなく、東洋的なものの考え方との融合を図っていかなければならないというメッセージを送りたかったんだと思うのです。

 番組の中で、興味深い話がありましたので、メモしておきました。

・バリ島の人は、悪いことを減らし、善いことを増やすことによって、世の中が良くなるとは考えていない。
・大事なのは、善いことと悪いこととのバランスをとること。
・善い神と悪い神との力が同じくらいだと、世界は安定する。
・そうなるように、祭りや日々のお供えをする。
・進歩することより安定が大事。

  【注】バリ島:インドネシア南部、
     独特のヒンズー=ジャワ文化が残っている。

 なるほど、ここには、目の前にニンジンをぶら下げて、尻をたたいて追いまくる、今日の日本社会に蔓延している競争原理というものがありません。日本民話にも、これに通ずるような話が残されています。だいたいはこんな内容です。

 ある男が、貧しい暮らしをしておりました。村の者が見るに見かねて、働き者の嫁さんを世話してやりました。それからというもの、夫婦二人で一生懸命働いたので、家の中は小綺麗になり、暮らしも少しずつ良くなってきました。そんなある大晦日の夜、屋根裏から変な声が聞こえてきます。不思議に思って、覗いてみると、薄汚いじいさまが泣いているではありませんか。事情を聞いてみると、「わしはこの家に以前から住み着いている貧乏神だが、もうじきこの家には、福の神がやってくる。ここを追い出されたら、どこにも行くあてがないんで悲しい」というのです。これに同情した夫婦は、貧乏神に餅を食わして力をつけさせ、夫婦も力を合わせて、せっかくやってきた福の神を、家の外に放り出してしまいます。それからこの夫婦の家は、裕福にはならなかったが、けっこう幸せに暮らしたというのです。

 さて、いかがでしょうか。日本も、かつては、もっとゆったりしていたんだと思います。文部省の「いじめ対策緊急会議」が、三月十三日に、いじめが一定限度を超える場合には、いじめる側の生徒を出席停止にしても、いじめられる側を守るべきだ―などとする内容を盛り込んだ最終報告書をまとめました。つまり、悪は、ばっさり断ち切ろうというわけです。義務教育の現場で、こんな方法でしか対処できない今日の日本は、やはり病んでいるのでしょう。バリ島の人たちの世界観を、少し学ぶ必要がありそうです。

(平成7年4月)