●ダイジェストキング
 
'92年頃の正月、友達の部屋になぜか、男達が集まっていた。それは西川口の健さん宅だ。なぜ、俺達はここにいるんだ? そんなことはいい。正月だ。ビールを飲み、俺達はハッピーだ。「そうだ、バンドを組もう!!」不器用な男5人。全員ギター、それもストロークで。メンバーは、大谷、永尾、青木、山下、菱沼健。バンド名は「ダイジェストキング」(大谷氏命名)にしよう。全員がリーダー。夢は広がる。考えただけでも、わくわくする。その日のことは、伝説になった。「おい、ダイジェストキングはいつやるんだよ!!」でも、なかなか実現はしなかった。
 そしてとうとう'96年1月に、地下のライブにて、初ライブが行われた。もちろん、全員ギター。もちろんはじめに、全員で一弦一弦のチューニング。そして、演奏。「陸路の船」(青木作・民謡風アレンジ、サビとかけ声、全員)「しゃべってみなよ」(山下作・山下メイン、他全員、ハーモニーコーラス)「君の医者を呼んでくれ」(大谷作・それぞれの医者の歌詞で歌った)「降臨」(永尾作・全員合唱)「ダイジェストキングのテーマ」(菱沼健、書き下ろし)そしてラストは「文学かぶれの石山さん」(永尾作・全員で合唱) 。とうとう初ステージは実現した。幻のテープも実在する。(青木)
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●地下生活者'83年度上半期ベスト10
 
ときどき、ふっとその頃、不思議になった。三日に一度は友達のライブがあり、その度に同じ顔がそろい、お馴染みの歌を聞いた。いつのまにか、口ずさむ歌も、友達の歌ばかりになった。新曲ときけば、それは、新しい鼻歌のレパートリーになることを意味していた。どんな歌謡曲のヒット曲よりも、みんなの歌は、身近にあって、各自の中でヒット曲が、生まれていた。
 でも、こんなに自分の中で、ベストヒットしているのに、実際、友達のライブに来ているのは、僕らの仲間だけなのだ。「いい曲、できたねー。こりゃ大ヒットだ!!」と言ってみても、その歌を知っているのは、少ない人数。自分たちだけで、こんなに、それぞれの歌を楽しんでて良いのかな?っと、 僕はいつも思っていた。'83年は特に、みんなの歌が、続々と生まれた時期で、ライブの回数も多かった。そんな中、「地下生活者会議」のミニコミの中で、「地下生活者'83年度上半期ベスト10」の企画があり、とりあえず、知りあいだけで、投票をした。たしか三曲づつ書いたような記憶がある。
 第1位・8票「渋柿食らったように朝はやってきて」(知久) 第二位・4票「クニちゃんのパフォーマンス」(これは歌ではないのですが・・) 第三位・3票「でっちゃん」「みのむし」「背高のっぽになれなかったよ」3曲(知久) 「みなしごのバラッド」「もうひとりの僕に」2曲(大谷) 「ボブ・ディラン大好き少年の唄」「オイラの飼ってた犬の事」2曲(青木) 「This is Folk Music」(山下) 「湾岸道路」(橘高) 「Good-byと言ったのに」「ぬれぬれ予備校」「ファッション・ファッション」3曲(石川)と、こんな感じになったのですが、たしかに知久君の唄は、みんなの耳にこびりついていたのは確かですね。何度も聞いたし・・。ベスト10という企画なのに、こんなに3位があるなんて、そのへんが、地下らしい気がします。(青木)
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●伝染ジェスチャー
 
すぐ影響されちゃうだよね。それがまた、おかしくって不思議だった。'83年頃、友達のライブが週に1・2回あり、僕らは「ヨ!!」と言って、顔を合わせていた。密着関係と言うのはこういう事だろうか。僕らは、それぞれにバイトをしたり、生活があったけれど、みんなの所に戻って来ると言う感じだった。20才ちょっとすぎのみんなだったから、いろんな事の吸収力も抜群。創作する唄にも、影響は現れていたが、普段の会話の中にも、それはすぐ顔を出すのだった。
 流行というより、ヒットに近く、ヒットというより、癖に近かった。そのはじめは誰だったんだろう。'83年から'84 年にかけて、人差し指を立てて、顔の前で、ちよっと押すようにする仕種が、僕らの間で流行った。それはあいづちのようなもの。たいがいは短い言葉と一緒に使われた。その代表的なものはこれだ。
 「イオイ」「なんか!!」「ヤッタネ」「マッ」・・。それはもう、笑っちゃうくらいの伝染力で、手が指が勝手にそうしてしまうのだ。そのうちそれは、ジェスチャー付きの合い言葉のようになっていった。
 僕も含めてみんな、しばらく人差し指アクセントのジェスチャーが、とれなくなってしまい、どうなるかと思った。言葉だけの伝染はしょっちゅうだった。「おおおお!!」という返事のしかたは、はるばる今も受け継がれている。世の中には、こうやって、いつのまにかしてしまう事もあるんだなと知った。密着関係の恐さだった。でも、よく練ってこねて、それぞれにおいしく食べていたようです。(青木)
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●富山組
 
宇宙人は、なんだか遠い人のようだけれど、越中人はとても身近に感じてしまう。東京の反対側、北陸の富山にこんなに気の合うミュージシャンがいるなんて。物語は遠く近く20年前にはじまる。(そんな大袈裟ではないが・・) きっかけはやっぱり、大谷だろう。
 大谷はもちろん富山県出身だ。「えーと、オオタニといいます」ちょっと違うアクセントで大谷はライブで話しだす。大谷が東京に居た頃、僕らはライブで知り合い、自然と富山弁にも慣れていった。そして大谷は富山に帰り、また地元でライブ活動を再開する。そのうち、大谷のライブに刺激を受け、一緒にバンドもやることになる男達が登場する。ペダルスチールギターの千田佳生とバンジョーの原さとしだ。原くんはマルチプレーヤーで、バンジョーだけでなく、ベースにマンドリン、ギターに笛となんでも出来た。大谷は原くんのことを「一人・ザ・バンド」と呼んだ。
 千田と原くんは富山市の近所に住んでいた。(これがすごい) 原くんはお風呂屋さんの息子。二人ともブルーグラスというミュージックの世界では、すでに知られたミュージシャン。そして二人は、やがて誓った。「ジャンルにこだわらずに、誰もやってない音楽をやろう」と。その通り、二人共、御存じのとおり「音の探究者」となっていった。そんな中、我が道ミュージックを行く、大谷と出会うのだ。そして、地下のライブで、大谷が二人を、東京につれて来た。そして僕らとも、知り合うのだった。
 千田はなんと、'80年頃、僕(青木)を池袋の路上で見かけていて、ずっと歌を聞いていた事があるという。「まさかあの時の人だとは・・」千田はその話を120回くらい僕に言った(笑)。そして、僕らもまた富山に歌いに行くようになっていった。 そのうち千田の昔の相棒だった、ベースの垣地信之も、東京に出てきて、僕らと出会うのだった。
 富山組。富山の人の気質なのだろうか、我が道ミュージックをつき進む人が、富山には多いようだ。そしてみんな、まるで薬売りの行商人ように、東京に定期的にやって来ては、ライブをしてゆく。また、富山県民になった人もいる。それは、大谷の奥さんの、とっちゃんだ。今では、富山弁をあやつる、まるで富山にずっと居たような、とっちゃんだが、出身は東京である。んー、今ではすっかり富山の・・
 バンジョーの原さとしは、東京にいるが、他のみんなは、いつもはるばる東京にやって来る。富山から、長距離パスが出ていて、それが一番安いと言う・・。もうちょっと近いといいんだけどなぁ。(そういえば、大谷が富山に帰った頃、地方生活者会議っていうミニコミをひとりで作ったっけ) ('00 青木)
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●鳥よし(新大久保)
 
夏の夜もあった。寒い冬の夜もあった。新大久保のスタジオジャム2で地下のライブをやった後、僕らはゾロゾロと、居酒屋?「鳥よし」に入っていった。まだみんな20才とか21才で、お酒も飲み始めだった頃、毎月、第一日曜日の夜、そこで、乾杯をしたのだ。
 「鳥よし」には、割烹着姿のやさしいおばさんがいて、こころよく僕らをむかえてくれた。先頭になってお店に入ってゆくのは、もちろん主催の石川浩司だ。大きなバック持って、(途中からは太鼓とか持っていたっけ。) 照れながら、「よろしく」って言って、座敷きに通してもらう。その度におばさんはテーブルを付けてくれて、20人くらいで囲んで座った。日曜の夜に大人数で押しかけているようなものだから、いつもメニューはお任せ。おばさんは言う。「ひとり1200円くらいね。うん、わかっているよ。おでん出してあげるからね」なぜだろう、おでんがいつも出てた印象が残っているなぁ。
 テーブルを囲む20人の僕ら。それは20人一緒の飲み会だった。誰かがしゃべる。誰かが答える。たいがいは石川浩司が話しを盛り上げていた。はじめて会う人も多かったので、自己紹介とかはじめにしていた。狭い中、トイレに立つ。カウンター席の上には日本酒の銘柄の紙が張られていた。実は渋い、飲み屋さんだったのだ。渋いお客さんも座っていた。僕らはほんと、若者だったかもしれない。
 終電まじかになって清算し、店の外に出ると、そこは狭い路地だった。僕らは、やっと話したい人とちらっと話をしたりした。ある夏の日のこと、たしかそのまま、日本縦断のツアーに出かけた時もあった。'85年くらいか。「鳥よし」の店の前で、ツァーの事を初めて知る友達もいた。「え、俺もいくよ。」いつもそんな感じ。もう、そこから、またひと月が始まるのだった。
 「鳥よし」のおばさんと、一度、お店近くの道で逢った時があった。たしか帰り道だった気がする。その日は、おばさんがいなかったのだ。「こんばんわー」「あれ、おばさん?」オシャレな服を着てて、まったくちがう人のよう。「これから帰り? いつもどうもねー」印象ってあるんだなぁ。おばさんじゃなくて、お姉さんだよ。いつもすいません。
 地下の最初の4年間、みんなそれなりにお金がなかった。安い予算で、その上いろいろサービスもしてくれた、あの「鳥よし」。僕らはみんな、あのおばさんの子供たちのようだ。(青木)
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