河内荘
 高円寺北口より、歩いて7分。早稲田通りの手前にあった、古賀ひろゆきの住んでいたアパート。表は理髪店の「グッド」今はもう新築され、河内荘はない。'82年頃、長崎から古賀ひろゆきという一人のマイナーフォーク好きのシンガーが、東京の僕(青木)のところに訪ねてきました。そして、はじめてアパートを借りた所が、河内荘。その時はもう、石川浩司が、すでに高円寺にアパートを借りていて、古賀くんは、それもあって高円寺に借りたようです。
 僕らは、高円寺に遊びにくると、古賀君の部屋か、石川君の部屋か、どちらかに行きました。(そのあとになって、ひとりひとり高円寺に部屋を借りる事にはなるのですが・・)古賀君は古賀ちんと呼ばれ、あまーい古賀カレーを作ってくれる事でも有名でした。河内荘の古賀君の部屋は、まだそんなに荷物もなく、何人かで、コーヒーでも飲んで、くつろげるスペースでした。壁にたてかれてあるヤマハのギター、古賀君は「一曲歌います。」と言って、実演ライブをよく聞かせてくれました。一階の道路沿いの部屋だったので、自分のライブのチラシを窓に貼っておいたりしてました。やがて、知久君も隣に部屋を借りて、河内荘、にぎやか黄金時代に入ります。いつもいつも誰かが遊びに来ていました。
 そんなみんなにとって、思い出深い河内荘も'89年頃、建て直すことになり、必然的に古賀君も出なくてはなりませんでした。アパートを出る少し前、さよなら河内荘パーティがありました。みーんな来て、その夜は河内荘で大騒ぎ。今でもよく覚えています。部屋いっぱいに座り、歌ありの大宴会でした。(青木)
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●鬼無里(高円寺店)
 
「おーっ」俺たちは、懐かしい友に手を振る。そこは高円寺の居酒屋・鬼無里の奥の座敷き。待ち合わせは、いつもここだったのだ。日本中からやって来る懐かしい友。この東京のどこで会ってもいいのだけれど、やっぱりここ鬼無里で会いたい。
 「とりあえずビール三本、それからびっくりサラダ」鬼無里といえば、びっくりサラダだ。なにがびっくりかは出て来ないとわからない。たいがいは一緒だったけれど、あるとき、小玉スイカが半分、隠されて入っていた。「びっくりした?」「すげえよ、店長さん」
 僕の記憶の中、一番始めの鬼無里体験は'82年の夏ころだ。そのときは入って左に小さな部屋があって、いろいろ、田舎風な飾り付けがされていた。幹事は石川浩司。大谷、他、みんなでわいわい飲んだ。僕は何を頼んでいいかわからず、ずっと壁の紙メニューを見ていた。あの部屋は良かったなぁ。
 ライブの打ち上げや、飲み会はいつも鬼無里だった。僕らは、いつのまにか御得意さんになった。店長さんは変わっても、いい感じで迎えてくれた。あのお姉さんの店長さんは長かったなぁ。無理がきいたし、仲良くなった。「いいよ!」その言葉が嬉しかった。
 「え、どこで飲むの、鬼無里?」だれもがみんな、僕らは最初にそう言った。「そうそう6時ね」・・
 今は、いろんなお店に行ったりしているが、高円寺の鬼無里は無くなっちゃ困る。なくなったら、俺達は迷子になってしまいそうだ。('00・青木記)
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●「会議できた?」
 
ライブ「地下生活者の夜」のとき、同時発行される、ミニコミ「地下生活者会議」。もともとは、そのタイトルの前に「官報」と付けられていた。この2001年で、第140号まで発行されている。第一号は'83年発行だ。発行と言っても、ただコピーを綴じた、60ページくらいものだが・・。これは、その初めの頃の話。
 ルルルルル・・。「もしもし!!」ちょっと低い声で、高円寺は三岳荘の石川浩司編集長より、電話がかかってくる。「もしもし、原稿は?」「ああ、今日だっけ? じゃあ、なんか書いて持ってくよ!!」「じゃあ・・、待ってますから」明日はライブの夜。その前日の夜の恒例の電話だ。
 そうやって、みんな何かしら手書きの原稿を書いて、高円寺の三岳荘の石川邸(魔法の部屋)に届けにゆく。そのドアは鍵がかかっていたことがない。木のドアを引くと、見慣れた顔が並んでいる。「おーう」大谷がいる。とっちゃんがいる。山下君は、今、向かっていると言う。
 石川浩司は、なにやらペンでサラサラ書いている。イラスト「ギョウチュウ日記」だ。そういえば山下君の原稿に「プランクトン日記」ってあったなあ・・。僕の原稿は、とりあえず持ってきたものの、まだ書いている途中だった。こんなときは、そのまま高円寺の駅近く、深夜喫茶にゆく。まあ、どうせ家には帰れないので、のんびりと原稿を書く。高円寺の夜はなんだか長くていいなぁ。
 「魔法の部屋」に戻ると、みんなでこたつテーブルを囲んで何か原稿を書いている。のぞいてみると「リレーマンガ」と、タイトルが付いている。大谷→とっちゃん→石川と、ひとコマずつ書いていた。書くたびにみんなでお腹を抱えて笑っている。どうして、こんな展開になるのかと思える内容だ。いや、その前にどうして、リレーマンガを書くことになったのか・・。
 眠たくなると、部屋の隅で、なんとか横になる。あっという間の朝。なぜか、かぶら木が隣りで眠っている。窓からは猫が出入りしている。石川浩司は、身内ニュースの「ヤギの口情報」を、書いている。「えーっ、まだ起きてたのー?」「いやぁ、もうちょっと。そして俺、今日、地下の出演なんだよねー。ああ、練習もしないと・・」
 午後3時過ぎ、新大久保のオフオフ・スタジオ・ジャム2に行くと、PAの健さんが、来ている。しばらくして、石川浩司が、ギターやら、太鼓やら担いで、ガラガラ音を立てながら現れる。「おっ、石川さん!!」と、健さん。「ちゃんと寝たの?」と僕。「いや・・」そして、安いコピー屋さんで、コピーしてきた原稿を、バサッと床に置く。それから、折ったり、綴じたりするのだ。
 やがて、みんなも一人ずつやって来る。入り口には、靴が並ぶ。みんな来て、まず、こう聞くのだ。
 「会議できた?」なぜか、いつもちゃんと、できているのだった。
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●グッドマン
 荻窪駅北口より、歩いて2分。寿どうり商店街にある、ふるいライブハウス、グッドマン。もう、25年以上、続いている、いまだにチャージの良心的なお店。マスターは、ジャズのサックスプレーヤでもある鎌田さん。もともとグッドマンは、名古屋にあったジャズ喫茶で、東京支店という感じで、オープンし、はじめは純粋にジャズ喫茶でやっていたが、ある時、ベーシストの吉沢さんが、ライブをやりたいと言ってきて、それ以来、ライブを続けていると言う。そして、'80年代はじめになって、弾き語りの人もライブをやり、今の感じに落ち着いている。
 僕達も'83年くらいから、グッドマンにてライブを始めました。最初は、企画ライブで、そのうち「ころばぬさきのつえ」の定期ライブが入り、続いて「地下生活者の夜」の開催場所になった。というか、グッドマンに拾われたというか。マスターの鎌田さんは言う「ここはライブハウスではない。音の消えてゆく所だ」「もとの通りにしておいてくれれば、なにをやってもいいよ」とも。そんなマスターへのやさしさに甘えてか、地下界隈のみんなには、とても似合った、歌いやすい、落ち着ける場所になりました。
 '90年代に入ってから、僕(青木)と山下君で始めた「大猫夜会」そして今の「オン・ザ・道草アゲイン」とライブはグッドマンにて続いています。なんといっても、チャージが安く、落ち着いて聞けるという所が、良さかもしれません。まるで、ふるーいジャズ喫茶で、ライブをやっているような感じ(その通りだっていうの!!)で、自由な空気で満ちています。ぜひ一度、足を運んでみて下さい。('00・青木記) 
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高円寺駅伝言板
 
高円寺駅の改札を出た所にも、その昔(はっきり言って、もう昔)チョークで書ける伝言板があった。伝言板。それは白チョークのいたずら書きの嵐。午後3時頃には、どこの駅の伝言板も、空きスペースがなくなってしまう。しかし、今のように電話に留守電機能が普及してなかったあの頃、伝言板は、見事に活躍していた。
 高円寺が、何かと集まる場所だった僕らは、とりあえず、みんな高円寺に来たものだった。そして、まず見るのは、駅の伝言板。そこには、僕らなりのひとつの見方があったのだ。午後6時には、もう書けるスペースどこにもない。だから、伝言板の右下とか、すみっこの方に、書いてあるのだ。「鬼無里で待つ。石川」と言うように。
 誰かに、会えなかったときにも、伝言板は、その淋しさを伝えた「来たけど、誰もいないので帰ります。健」というように。もちろんそれを見ているってことは、誰かが来てるって事なのだ。それは、なおさら淋しい。僕らの行く居酒屋や喫茶店はだいだい決まっていた。そこにいれば、高円寺に来た友達は、伝言板をたよりに、やって来れた。
 あの、毎日ぐちゃぐちゃに書かれていた駅の伝言板だったけど、ほんとに役立っていた。なぜか、伝言はすぐ見つけられたのだ。でもその伝言板は'85年頃、高円寺駅から、なくなってしまった。なぜだろう? 他の駅にはみんなあったのに。僕らには、淋しい限りだった。('00・青木記)  
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●荒野レコード
 
'99年暮れ、こんなニュースが飛び込んで来た。『大谷氏、「OKレコード」から「荒野レコード」に改名!!』 そして大谷氏のコメント。・・「OKレコード」で6枚のCDを製作してきましたが、東京、大阪にも同名のレーベルが存在することが判明し、国内に同じレーベル名が3つも存在するのは紛らわしく、教育上良くないと思い、2000年を機に「荒野レコード」として再出発する事にしました。よろしくお願いします。・・
 2001年、その第一弾として、とっちゃんの「化石のオルガン」のCDが発売された。それを記念して、「荒野レコード」発足時の、大谷氏の意気込みをここに書いておこう。
 ・・・当初は『Northレコード』にする予定だったのですが、「余りにも安易」また、「どこから見て北なのか?」という人権上の問題も浮上し、良識派の妻と討議した結果、『荒野レコード』に決定しました。これなら何の問題も無く、何を言われても「荒野」なのでしょうがないですし、荒涼としたイメージ、非テクノロジーのイメージ、プリミティブかつ硬派のイメージもあって完ペキです。もちろん、たかがネーミングであり、私以外、誰にも関係ない事なのですが、ここに声を大にして『荒野レコード』の発足をお知らせしたく思います。今後ともよろすく、お願い申し上げます。 荒野レコード社長、大谷氏。 2000年、春・・・
 ちなみに「OKレコード」のCDナンバーは『OK-XX』であり、荒野レコードの、CDナンバーは『KO-xx』である。KOっていいね。('01・青木)
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