●フォークロア・フート
 
両国のライブハウス(部屋?)「フォークロアセンター」では、月に2回、誰もが参加して歌える「フォークロア・フート」と言う日があった。僕らが東京に出てきた'80年頃、まだ歌う所もなかったみんなが、「フォーク」そして「出演者募集」の情報誌の言葉に誘われ、両国まで出かけたのだ。
 「センター」と言うくらいだから、なにか大きな所を想像する人もいるだろう。しかしマップどうりに辿り着くと、一階がそば屋で、右のドアの上に小さな木の板に「FOLKLORE CENTER」と書いてあるだけなのだ。アメリカンな茶色いガラスドアを開けると、そこは階段になっていた。靴を脱いで登ってゆくと、そこは畳敷きの八畳くらいの部屋が二つあった。
 「いらっしゃい」フォークロアのマスターが、挨拶をする。ちょこっとした、鼻ひげが似合っている丸顔のダンディーなマスター。「どうぞ、座って」畳敷きのそこには、低いテーブルがふたつなげて並んでいて、その回りには座布団が敷かれていた。その続きの畳の上のステージには、マイクスタンドがあり、その後ろの壁には、名だたる、フォークシンガー達の出演記録の紙が、多く貼られていた。この一連のフォークロアセンターの洗礼のあと、やっと落ち着いて、ドリンクを注文する。そのメニューの下の方には、「玄米カレー」と言うのがあり、またそこに目がとまる。それもまた、洗礼の一つだ。(玄米カレーってなんだろうなぁ・・)そう思いながらも、オレンジジュースを注文する。さて、いよいよフートの始まりだ。
 お店に来ているシンガー達は、たいがい5・6人だった。自己紹介をしながら、ひとり三曲ずつ歌って行く。その中には、大谷もいた。知久君もいた。その頃フォークロアセンターで、もう歌っていた友達も、フートに来ていたのだ。「大谷っていいます。よろしくうー」って言う感じだ。
 面白い歌うたいが、出てくるとマスターはとっても嬉しそうにして、うしろで「ホッホッ」と笑う。ひととおりみんなの歌が終わると、テーブルをはさんで、いろいろと話をする。それはなんとも、独特な雰囲気で、ちょっとずつ打ち解けてゆくのだ。はじめての人には、それもまたフォークロアの洗礼のひとつだったろう。
 マスターに気に入られると、フォークロアにて、定期的に歌えるようになるのだった。'83年頃、フォークロアセンターで歌っていた友達は、大谷、石川、橘高、知久、とっちゃん、柳原、山下と、みんな、このフートでマスターに気に入られたみんなだ。ぎこちなくも、フートの後、少しずつ話が盛り上がってくると、どこからか、カレーのにおいがしてきて、マスターが、注文の玄米カレーを出してくれた。(これが玄米カレーかあ・・)そして、次回には、堂々と「玄米カレー」を注文できるようになるのだった。
 フォークロアの店を出て、両国の駅にゆくまでが、なかなかに味があった。そこでやっと、友達になれると言う感じなのだ。結局、みんな同じ、駅のホームに立っていた。「今度、ライブに行きますよ」そんなふうに、出会いは続いていった。(青木)
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●ペダルスチールって何?
 
CDののプレイヤーのクレジットにペダルスチールという文字を見かけたことがありますか?「?」「何それっ?」又は「知ってるよ、ハワイアンの楽器だろ!!」現在「通」のバンドファン、音楽ファンでも現在のところ知らないというのが現状なのですが、私は千田佳生と言いまして、この楽器で引き語りをしているのですが、あまりにいつもめずらしそうにされるので、ライブの前にすこし説明させていただきましょう。
 ハワイアンのスチールやブルーズのボトルネックギターと決定的に違うのは、手だけで弾いているのではなくて両足両ひざで弾いているのです。手で半分、足で半分といってもいいすぎではありません。図の様に右手で弾いて、左手はバーを弦の上ですべらせるまではスチールギターやボトルネック奏法と同じですが、演奏中にチューニングを変えながら(ペダルとニーレバーによって)演奏するのです。極めてアメリカ的な発想ですがバーをうごかさず弦をひっぱったりゆるめたりして「となりのフレットを強引に持ってきてしまえ!!」というのが発想の基本のようです。でこのことは多くのコード進行を可能にしスチールならではの早弾きを可能にし、そして弾き語りまでまでをも可能にしました。まだまだ発展途上にあるこの楽器は大きな可能性と歌心を秘めているのです。是非一度ごらん下さい('00記イラストも 千田佳生) 
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●ボビーに捧げる歌
 
ボブ・ディランのフアーストアルバムには、オリジナルが2曲入っている。「ニュヨークを語る」と「ウディに捧げる歌」だ。どちらも'60年代初め、ボブ・ディランがニューヨークに出て来た頃に作られている。ウディというのは、アメリカのフォーク歌手のウディ・ガスリーのこと。「わが祖国」という歌を知っている人も多いだろう。'60 年頃、ウディーに憧れた、ボビーはニューヨークの病院にいるウディに電話をする「今から会いに行きます」そう言って、ボビーはミネソタ州から、ヒッチハイクでウディに会いにゆくのだった。そんなエピソードが、「ウディに捧げる歌」にはあった。
 さて、地下オンに出てくるみんなのキーワードの中に、ボブ・ディランはどうしても外せない。地下オンに限らず、好きな弾き語りシンガーの話の中にも、しょっちゅう出てくる名前だ。僕自身もそうやってボブ・ディランの歌に辿り着いた。そして、その日以来、 ボビーに憧れ出したのだ。田舎では、ボブ・ディランのファンの人に会うということもあまりなかったので、どんどん夢は膨らんでいった。そして、上京。気分は、ニューヨークに出てきたボビーのようだった。東京に出てきても、ボブ・ディランを好きな人には会えなかった。
 そんなある日、両国フォークロアセンターにたまたまライブを聞きにゆくと、大谷という男のライブをやっていた。フォークロアセンターといっても、8帖くらいの部屋がふたつあるスペースだった。大谷という男は、うしろのソファーに座っていた。トイレに行くとき、チラッと大谷という男の歌詞ノートが見えた。そのページには「ボビーに捧げる歌」というのが書かれていた。実は僕も「ボビーに捧げる歌」をその頃作ってあったのだ。山下由もいた。
 僕と大谷と山下は、それぞれに歌を作っていた。今、思うと「ボビーに捧げる歌」はタイトルはちがっても、一度は作る歌のようだ。君も誰かの歌詞ノートのページに「ボビーに捧げる歌」を見つけるかもしれない。(青木) 五十音indexに戻る

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