Tell Me Baby.mp3
(4:14  2MB)

ジプシーアイズ  左から柳、つのだ、成毛
柳ジョージ Vo. Slide G.
成毛 滋  G.
上綱克彦 Kb.
宮田和昭 B.
つのだ☆ひろ Drs.
Keep On Trying.mp3
(6:58  3.3MB)
柳ジョージ Vo.
成毛 滋  G.
江藤 勲 B. 
つのだ☆ひろ Drs.

プシーアイズ 左から柳、つのだ、成毛
B-Side Blues.mp3
(5:26 2.6MB)
柳ジョージ Vo. G. (1st guitar solo)
成毛 滋  G.
上綱克彦 Kb.
江藤 勲 B. 
つのだ☆ひろ Drs.

 

 


客席はテープレコーダーの山

1970年、成毛 滋は柳ジョージ(Vo. B.)、角田ヒロ(Drs. まだ名前に☆は無い)と「ジプシーアイズ」を結成、日比谷野音や野外コンサート、学園祭等で活躍した。
基本的にはギタートリオであったが、たまたま柳田ヒロ、ミッキー吉野等がその場に居た時はゲストでキーボードが入る事もあった。
ジプシーアイズが演奏する時はいつも他のバンドのメンバーがステージのかぶりつきにズラリと並び、彼等の演奏を喰い入るように見つめ、演奏が終わると控え室に 「ねぇ、あの曲のイントロどうやって弾くの‥?」等と聞きに来る事もよくあった。

しかし当時柳ジョージはゴールデンカップス、角田ヒロは渡辺貞夫カルテットに所属していたため、仕事がかち合うと三人揃わない事もあり、角田ヒロが出演できない時は他のバンドの手のあいているドラマーに臨時メンバーを頼んで演奏した。
又、柳ジョージが出演できない時はヴォーカルとベースの二人分いなくなるため代理を務められる者が見つからず、やむなく成毛と角田は二人だけで演奏し、これが後に「ストロベリーパス」になった。つまりストロベリーパスは意図的に二人でやった訳ではなく、「ジプシーアイズ マイナスワン」だったのである。

 

ジプシーアイズは人気が上がるにつれてコンサートの直前になって主催者から出演をキャンセルされる事が多くなり、ついには全く仕事が入らなくなってしまう。これは他のバンドの所属事務所がコンサートの主催者に「ジプシーアイズが出るならうちのバンドは出させない」‥と言い出した為で、マネージャーも所属事務所も無かったジプシーアイズは次第に演奏する場を失い、自然消滅する事になる。
そしてこの時の経験が、音楽面でもマネージメントの面でも、その後の成毛の活動の原典となった。

一般に成毛は、エレキブームの時代は「ザ・フィンガーズ」、ニューロックブームの時代は「フライドエッグ」として知られているが、どちらも色んなしがらみから本人にとっては甚だ不本意な物であった。成毛が自分で納得してやれたバンドは唯一このジプシーアイズだけだったのだが、残念ながらジプシーアイズの演奏を記録した物は現在残っていない。
(※ その後デモテープが一本見つかった)

 


75年のツアー。左から成毛、柳

 


ベースを持っている柳ジョージ

 


 

1975年、約2年半のイギリス生活から帰国した成毛は又ジプシーアイズをやりたいと思い、柳ジョージ、つのだ☆ひろ(名前に☆が入った)と話をしたが、この時柳ジョージはレイニーウッド、つのだ☆ひろはスペースバンドを率いていたためジプシーアイズはできず、その代わりジャムセッションという形でツアーをやる事になった。
ここにあるmp3ファイルはこの時の演奏で、ゲストとして江藤 勲(B)、上綱克彦(Kb)、宮田和昭(B)が参加しているが、演奏は1970年当時のジプシーアイズと殆ど同じである。

そしてこのツアーは某レコード会社がTAMCOのモービル・スタジオで16トラックの2インチ・テープ13本に録音し、ミックス・ダウンまでしたのだが、発売はされなかった。 テープを聴いたレコード会社の上層部が「こんなわけの分からない曲が売れるか!」‥と言ったそうである。

 

 

 

 

 

 

(写真は東京写真工房)