1877年、日本政府は竹島を日本の領土外としたか?   1900年、韓国政府は竹島を韓国の領土としたか?


@韓国は鬱陵島の東南東42里の島を韓国領土と定めた(石島は鬱陵島東南東42里の島である)


 1900年、韓併合前の大韓帝国政府は勅令第41号で「鬱陵島と竹島と石島」を行政区域と定めた。ここで言う「竹島」とは、鬱稜島近傍にある「竹嶼」のことである。「石島」とは、現在の竹島であるのか、そうでないのか判然としない。日本は、1905年に竹島を日本の領土と定めたが、もし、勅令第41号の「石島」が、現在の竹島であるならば、1905年の日本の処置は、領土の略奪になり、日本の竹島領有主張は根底から覆る可能性がある。(ただし、石島が現・竹島であるとする確たる証拠はない。)

 2008年2月22日の山陰中央新報WebNewsによると、大韓帝国時代の「皇城新聞」の1906年7月13日付の記事として、「郡所管の島は鬱陵島と竹島(チクトウ=現在の竹嶼)と石島。東西六十里、南北四十里」としている、とのことである。
 山陰中央新報は『韓国の1里は0.4キロで、東西24キロ、南北16キロ。現在の竹島は鬱陵島の南東92キロで、数字が郡の範囲を示すものとすれば、韓国側の主張は崩れる』としている。 
 当時の新聞記事がどうだろうが、新聞記事は大韓帝国の見解ではないので、韓国側の主張を証明する効力も無く、また、主張を崩す効力も無いので、山陰中央新報の主張は、我田引水的説明といえよう。
 竹島領有問題はともかく、紹介されている「皇城新聞」の記述には興味が持てる点がある。
 
鬱陵島は、東西、南北ともにほぼ10kmの島なので、朝鮮里で言えば、直径25里の島ということになる。
 鬱稜島と石島の範囲が、東西60里、南北40里であるとすると、石島は鬱稜島の東南東(あるいは東北東)42里にあることになる(図、参照)。
 ここで言う『里』とは、朝鮮里のことで、1里=0.4kmなので、石島は鬱稜島から17km離れているということになる。実際には、そのような場所に島は無いので、石島がどの島のことであるか、判然としない。


A日本政府は鬱陵島の南東40里の島を領土外と定めた

 1877年3月、日本政府は太政官の指令により「竹島外一島を版図外」と定めた。竹島外一島は、鬱稜島ともう一つの島であることは明らかであるが、これが、現在の竹島なのか否かという点で議論がある。もし、現・竹島であるならば、「竹島は日本の固有の領土」との日本の主張は根底から崩れる。このときの、内閣公文録によると、外一島は「松島」であり、それは、竹島(現・鬱稜島のことであって、現・竹島ではない)の南東40里にある島とされる。ここで言う「里」とは、普通に考えたら、日本里であるので、1里=3.9kmであり、40里は156kmになる。しかし、現・竹島は鬱稜島の東南東92kmであって、鬱稜島の南東156kmに島は存在しないので、太政官指令の「竹島外一島」とは、どの島であるのか不明との主張がある。(位置だけを見ると、不明との主張も成り立つかもしれないけれど、島の大きさや島の地図が添付されており、それを見ると、日本が領土外と定めた島は、島根県の報告では、鬱陵島と現・竹島であることは明白です。)


B実際には、竹島は鬱陵島の東南東48里にある

 現・竹島は鬱陵島の東南東48里(海里)にある。



以上まとめると次のようになる。

 1900年、韓国政府は鬱陵島の東南東(あるいは東北東)42里(朝鮮里?)の島を韓国の領土と定めた
 1877年、日本政府は鬱陵島の南東40里(日本里?)の島を日本の領土ではないと宣言した
 竹島は鬱陵島の東南東48里(海里)にある
 
 1877年に日本が領土で無いとした島、1900年に韓国が領土とした島、実際の現・竹島は、すべて、鬱稜島の東南東ないし南東方向40〜50里と一致している。里程は一致するが、朝鮮里と日本里とでは10倍も異なるので、実際の距離は大きく異なる。里程が一致しているのは、いかなる理由だろうか。たんに、偶然の一致だろうか。
 


北方領土問題  竹島(独島)問題の概要 鬱陵島から竹島は見えるか(計算で推定)