北方領土問題に関する 私の独り言
ぶつぶつぶつ
1946/1/29 SCAPIN-677
日本の行政を停止する地域として、『千島列島、歯舞群島、色丹島』との記述。千島列島には国後・択捉島は含まれるが、歯舞群島・色丹島を含まれないとの考えは、ここから生まれている。
1950/3/8 島津答弁
『ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つておると考えるのです』
1951/9/8 サンフランシスコ条約調印
『日本国は、千島列島…に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する』
1951/10/19 西村答弁
『条約に千島とあるのは、北千島及び南千島を含む意味である』
1951/11/6 草葉答弁
『国後及び択捉の問題は…これはやっぱり千島と…解釈を下すのが妥当であります』
1952/4/28 サンフランシスコ条約発効
1953/3/5 下田答弁
『現在のところ只今御指摘の歯舞、色丹両島とこの竹島以外に何ら紛争の発生が現実にございませんし、又ありそうな島もないわけでございまする』
1953/7/7 領土に関する決議
『平和条約の発効以来、歯舞及び色丹島等の復帰を図ることは、わが国民あげての宿望』
(この時期は、国会決議においても、歯舞及び色丹島等となっており、国後・択捉は返還要求をしていない。ただし、『等』と付いているのは、国内には根強い四島返還・全千島返還要求があったことを反映している。)
1956/2/11 森下答弁
この答弁が、四島返還論の統一見解とされている。これ以降、日本政府は四島返還論になっている。(実際は、数ヶ月前から四島返還論である。)
1961/10/3 池田首相答弁
『私は条約局長の言っておることは間違いと思います』。
池田首相は、1951/10/19の西村答弁を、このように否定した。
(2006年02月18日)
不思議なのですが、日本で竹島返還を主張する人は、問題を国際司法裁判所に提訴することを主張する人が多いようです。北方領土問題では国際司法裁判所の提訴を主張する人はあまり多くありません。
国際司法裁判所は、国際法に基づき、厳密な判決をするところではなく、かなり政治的なところでしょう。
国内の裁判では、職業裁判官が判事ですが、国際司法裁判所は、官僚だった人などが、その国の利益のために、裁判官になっているように思います。実際、雅子様のお父上が、日本の外務省方針に反した判決をするとは思えません。現在、国際司法裁判所長官は中国人の史久繧ナす。この人が、どのような考えで、裁判を行うのかわかりませんが、かつての日本を侵略国と認定した立場で、訴訟指揮をする可能性も否定できないと思います。
国際的な日本の地位と韓国の地位を比較したら、日本の地位のほうが断然高いので、長官がどのような訴訟指揮をしたとしても、マダガスカルのような小国や、貧しい国には経済援助で本国から裁判官に圧力をかければ、容易に日本は勝訴すると思います。しかし、経済援助による圧力無しに、本当に容易に日本が勝訴するのか、私には、はなはだ疑問です。
さらに、政府の説明によれば、日本人が北方領土にロシアの領土であるかのごとく入域すると、我が国の法的立場を害するおそれがあるとのことです。と言うことは、日本人おばさん向けに『ヨン様と行く独島ツアー』を実施したら、日本の法的立場が弱められるのでしょうか。もし、そうだとすると、日本の法的立場は、それほど強固でもないように思います。
実際には、竹島問題は、1954年に国際司法裁判所提訴を韓国に持ちかけた以外、1960年代に外相会談で話題にしたことがあるらしいくらいで、政府内部で検討したことはあまりなさそうです。
なお、北方領土問題でも、国際司法裁判所提訴を求める請願が国会になされることが、たまにありますが、いつも保留(要するに棄却)です。
(2005/5/9)
プーチン発言の真意
Asahi.comの記事です。
日露通好条約150周年、プーチン大統領が祝辞(2005年04月16日22時17分)
ロシアのプーチン大統領は16日、静岡県下田市で開かれた日露通好条約締結150周年式典に祝辞を贈り、その中で同条約を「恒久平和と友情を宣言し、両国関係の発展に特別な役割を果たした」と高く評価した。
1855年2月に下田で結ばれた同条約は、平和的な交渉を通じて国境を、千島列島のウルップ島と北方領土四島北端の択捉島の間に引いた。この交渉態度についても大統領は祝辞で「忍耐と善意のもとに妥協を達成しようという意思が双方にあった」とたたえた。
さらに祝辞は、条約交渉中に地震の被害で沈んだ全権プチャーチン提督の軍艦の代替艦が日本側の援助のもとに建造されたことにも触れたうえで「我々はこうした先人たちの高潔な志を想起しなければならない」と強調している。
新聞の解説では、プーチンの発言を、千島列島のウルップ島と北方領土四島北端の択捉島の間に引いた条項をたたえたかのような記述になっています。NHKのニュースでも同様でした。このような報道に接すると、北方領土が変換される可能性があるのかなーとの印象を受けるかと思います。
しかし、プーチンの発言は、「忍耐と善意のもとに妥協」と言っています。
日本が北方領土の領有を主張する根拠は、最近は『固有の領土論』です。交渉するまでもなく、日本の領土だったから、正当な日本の領土である、というような主張ですが、これは、史実に反した捏造と言っても良いかもしれません。実態は、日露双方が領有を主張したけれども、交渉の結果、「忍耐と善意のもとに妥協」したものだったとのでしょう。プーチンの発言は、日本の固有の領土論に対して反駁を加え、国後・択捉の返還の意思がないことを改めて強調した発言であるとも考えられます。
注意)日本政府が主張する『固有の領土論』は、たとえば、以下のものです。
第104回国会 外務委員会における小和田恒条約局長答弁:
…歴史的にも日本の固有の領土であるという意味では一八五五年の条約にも明らかなように、もともとこれは日本の固有の領土であって、一八五五年の条約のときにおきましてもロシア側があれが日本の領土でないということを主張したことはなかったということ、つまり歴史的に見てずっとこれは日本の固有の領土であったということが五五年の条約でも七五年の条約でも明らかである。それ以降も他国の手に渡ったことがないということ…
1855年の条約は今から150年も前のことなので、詳細が分っているわけではありませんが、はじめ、プチャーチンは択捉島がロシアの領土である事を主張したと言われています。小和田発言は、おそらく、国内向けに政府が正当であるかのような宣伝をしたのだと思います。プーチン発言は、日本による歴史の捏造に対して、拒絶を表明しているとも解釈できます。
なお、小和田恒条約局長は皇太子妃雅子の父親です。
(2005/4/18)
われらの北方領土
外務省国内広報課発行のパンフレット「われらの北方領土」の2004年版をいただきました。2003年版とほとんど同じですが、若干異なったところもあります。全体総括とも言うべき「1.はじめに」を比較すると以下の違いがあります。
2004年版で削除された部分
・(クラスノヤルスク合意により)平和条約締結の具体的な時期について目途をつけることができ、東京宣言からの実質的かつ重要な前進が図られました。
・東京宣言並びにクラスノヤルスク合意及び川名合意に基づき、平和条約交渉を加速させることで、一致しました。
2004年版で追加日露された部分:
・日露両国は1855年に平和的話し合いの結果、日魯通好条約に調印し、国交を開くとともに、択捉島とウルップ島との間に両国の国境を画定しました。2005年は、同条約の調印から150周年に当たります。この日露関係にとって歴史上の重要な節目となる時期に向け、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する、という一貫した方針に基づいて交渉を進めていく考えです。
削除・追加された部分を見ると次のことがわかります。
クラスノヤルスク合意などを日本政府は自分に都合の良いように解釈し、あたかも四島返還が間近になったような国内向け政治宣伝をしていました。しかし、現実には領土交渉は一向に進展しておらず、国内向け政治宣伝には、なんら真実が含まれていない事が明らかになってきました。このような現実を踏まえて、記述が削除・追加されているのでしょう。
ところで、2004年版にあるように、今年は日魯通好条約調印から150年にあたります。同時に、日魯通好条約の効力を完全に失わせる事になった日露戦争の停戦から100年にあたります。(2005/3/12)
(以下は、以前、掲示板等にに書いたものに多少の修整を加えたものです。)
プーチン訪問延期
今日のニュースによると、北方領土問題で両国に隔たりが大きいことを理由に、プーチンの訪日が年内は困難になったとのことです。これまでは、経済優先のロシアと、政経不可分の日本だったのに、日ロのバランスがちょっと違ってきたかもしれない。日本はこれまで領土ばかり言っていたのに、最近は石油・天然ガスを言うようになった。ロシアはこれまで経済的に苦境に立っていたのに、最近は経済が好調。これらはすべて原油価格の高騰が原因です。北方領土問題の解決が、そう簡単では無いことは、変わりないことですが。(2005/03/06)
ソ連対日参戦
日本では、第2次大戦末期のソ連対日参戦を不法行為であると主張する人がいます。「大東亜戦争は侵略戦争でない」と言う人もいるので、それ自体珍しくないのですが。。。
第2次大戦末期のソ連対日参戦は不法行為なのでしょうか。だいぶ以前、林健太郎・家永三郎の論争の話を聞いたとき、条約解釈はとても素人が手を出せる問題ではないと感じました。難しすぎる。この問題に関する、唯一の有効な裁判である、東京裁判判決では、日本のソビエト連邦に対する侵略的な企図が認定され、ソ連の対日参戦は正当なものとされているので、ソ連が正当であったことは、世界の通説です。
異説があるのは構わないのですが、素人判断で簡単に東京裁判判決を覆せるほど単純な問題ではないでしょう。。。
東京裁判判決の関連部分を掲載しています。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1948Toukyousaiban.htm
ここに掲載してあるものは、判決文の一部だけです。ソ連対日参戦を不法行為であると主張する人は、検察側意見と弁護側意見を読んだ上で、それ以上の議論をしてほしいと思います。
(2005/03/06)
上野界隈
最初は東上野の源信寺で高橋景保・伊能忠敬の墓参。つぎに不忍池反対側にある大正寺で川路聖謨の墓参。さらに、向丘の西善寺で近藤重蔵の墓参。地下鉄で王子に行って、滝野川の正受院にある、近藤重蔵の石造を見学。
川路聖謨は、小さい墓でした。昔の人の墓はもっと大きいのが普通なのだけれど。みつからなくて苦労してしまった。川路は、今から150年前に締結された日露和親条約の交渉当事者です。択捉領有における川路の功績をもっと評価しても良いと思うのですが。。。
「エトロフ島は交渉する前から日本の固有の領土であることは明らかだった」これが、北方領土の根拠の一つになっているようです。本当は、ロシアが領有を主張する可能性は十分に有り、事実、そのような主張がなされたのですが、交渉の結果、日本領と決まりました。必ずしも事実ではない根拠を持ち出した副作用として、川路の功績が過小に評価されているのではないだろうか、そんな懸念を持ちました。
(2005/02/05)
Залив ИЗМЕНЫ
国後島の一番南側の湾を日本では「泊湾」と言います。また湾奥の町を「泊」といいます。ロシア語ではそれぞれ「ZALIV IZMENY」「Golovnino」。ZALIV=湾 IZNENY=裏切り です。
沖に停泊して、交渉を求めたGolovninは日本の背徳的裏切りで捉えられたので、このような名称が付けられました。日本からすれば、レザーノフの海賊行為があったので、裏切りは当然との考えだったと思います。
日露関係・北方領土問題は、日本外交黎明期以来の問題なので、お互いにそれぞれ、もっともな主張があるところです。そこに政治家の票集めが絡むから、たちが悪い。
(2005/01/29)
日本の官僚は優秀です
北方領土問題の啓蒙資料として、外務省は冊子「われらの北方領土」を無償配布しています。この中の記述に、、、
わが国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、クナシリ島、エトホロ島等の地名を明記した地図が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。わが国の松前藩は、十七世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
これに対しロシアの勢力は、十八世紀初めにカムチャツカ半島を支配した後にようやく千島列島の北部に現れてわが国と接触するようになりました。一七九二年にはロシアの使節ラクスマンが北海道の根室に来訪してわが国との通商を求めています。
…しかし、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。
これを読むと、歴史的に見ても日本に正当な領有権があるように思うでしょう。しかし、よく読むとおかしなことが書いてあります。「わが国」「日本人」に対して「ロシアの勢力」になっています。択捉島は、日本人が認識⇒ロシア人が認識⇒ロシア人が到達⇒ロシア人が一部支配⇒日本人が到達⇒日本人が完全支配、の順になります。だから、「日本人」と「ロシアの勢力」を比較したら、日本が先だけれど、「ロシア人」と「日本の勢力」を比較すると、ロシアが先になります。
外務省冊子では、「日本人」と「ロシアの勢力」という、異なったものを比較して、あたかも日本が先であるような印象を持つように細工されています。良くこんな、姑息な手段を思いつくものだと、日本の役人の優秀さには感心します。
こんな姑息な細工を見る限り、日本の北方領土の取り組みは、国家の利益ではなく、政治家個人の集票、役人個人の出世、こんなレベルに過ぎないのではないかと。
北方領土問題は理解すればするほどに、バカらしくなってくる。
(2005/01/10)
ソビエト侵攻
第2次大戦末期のソビエト侵攻がポツダム宣言違反と考える人がいます。
千島への侵攻・占領は8月下旬からなので、ポツダム宣言受諾後のことになります。特に、歯舞群島の武装解除・占領は停戦後です。ここをもって、ポツダム宣言違反で不当だとの主張があるのかと推察していますが、残念ながら、国家としてのどの行為がどの条文に違反しているのか、その論拠は何か、これらを聞いたことがありません。
実は、北方領土問題で言われる事のうち、一番理解できないのが「固有の領土論」です。2番目が、「侵攻・占領がポツダム宣言受諾後」の問題です。(後者は何が問題なのかが分らない。)
国会議事録を調べると、ポツダム宣言違反を問題にした討論は結構多いのですが、日本再軍備やレッドパージなどが問題として取り上げられていることが多く、ソ連を取り上げているものは、比較的少ないという印象です。では、どんなことが議論されているか、こんな感じです。(見つけ方が良くないので、探せばもっといろいろ有ると思います。)
@ソ連侵攻自体をポツダム宣言違反としているもの
ありませんでした。
A占領をポツダム宣言違反としているもの
ありませんでした。
B占領が継続していることをポツダム宣言違反としているもの
1件、見つかりました。
26年2月5日参議院外務委員会で斎藤秀雄参考人は、千島占領をポツダム宣言違反と供述しています。ポツダム宣言では北海道は日本の領土になっています。ポツダム宣言英文ではこの場合の北海道とは、単一の島のことであることが明白なのですが、日本語訳は行政区域と誤読の可能性があります。参考人はこの部分を誤読し、誤解により主張していることが明らかです。
C捕虜帰還問題でポツダム宣言違反ありとしているもの
24年11月19日衆議院外務委員会で中曽根代議士が主張しているのを始め、いくつもの議論があります。
このうち、昭和31年3月27日衆議院外務委員会では、かなり突っ込んだ議論がされています。ポツダム宣言「違反あり」と「違反無し」の両説が論議されているようです。
D北方四島の領有問題
31年以降、日本政府は北方四島を日本の領土であると主張しています。その立場に立てば、いまだに返還されていないのは、ポツダム宣言違反との主張も成り立ちます。しかし、ソ連以外とはサンフランシスコ条約が、ソ連とは共同宣言があるのだから、中間宣言でしかないポツダム宣言を持ち出すことも無いという気がします。
北方四島の領有問題でポツダム宣言違反との主張は、51年10月12日衆議院内閣委員会でなど、最近のものが幾つかあります。
結局、「ソビエト侵攻・占領をポツダム宣言違反」とする主張の根拠はわかりませんでした。そのような主張自体見つかりませんでした。
また、捕虜帰還問題では、単純にポツダム宣言違反なり国際法違反なりと主張する人が居ます(多い)が、国会議事録を見ていると、それほど単純・自明なことではないようです。この問題は、法律の問題なので、国際法廷における判例がないと判断が出来ません。残念ながら、日本は敗戦国で戦勝国を国際法廷で裁判する権利が無かったので、そのものズバリの判例はありません。類似案件を探すのは、法律の素人の手におえませんので、私には手が出ません。
ところで、北方領土問題で理解できないことの3番目は、「ウルップ以北とは異なり、四島は日本の固有の領土であることを、ソ連も認識していた」との政府の主張の根拠です。
ウルップまでを占領した部隊はそれより南下せずに、四島の占領は樺太占領部隊によって行われています。この事実を根拠としているようです。しかし、分っていることは、ウルップまでを占領した部隊には、ウルップ以南を占領する命令が与えられていなかったために、南下しなかったということです。なんで、「日本の固有の領土であることを認識していた」となるのだろう。根拠を聞いたことがありません。
日本政府説を聞く前は次のように思っていました。(根拠はありません。)ウルップ以北には民間人がほとんど居ないので赤軍と少数のKGB将校で足りるけれど、樺太やエトロフ以南は民間人が多いので、KGBの管轄になり、KGB将校が多い部隊が必要だったのだろう。
(2004/12/01)
「ロシア大統領、2島返還で決着示唆 交渉の主導権狙う? 」
こういう新聞記事があります。日本の世論に対する揺さぶりなのか、本気で解決したいのか、色丹島がお荷物になっているのか、真相は定かではありません。
思えば、二島返還が実現しそうになったのはフルシチョフ時代でした。その後は日ソ冷却時代が続いて、再び対話の機運が生まれたのはゴルバチョフ時代になってからです。そして、プーチン時代に、何らかの前進があるかもしれません。フルシチョフ・ゴルバチョフ・プーチン、共通する点は---ハゲです。
北方領土問題がホットニュースなためか、私の北方領土問題のページも最近クリック数が増えています。読み返してみると、細かいことをごちゃごちゃ書いている割に、固有の領土論(北方領土は日本の固有の領土であるという主張)には、ほとんど触れていません。現在、北方領土返還論の最大の論拠が固有の領土論です。実は、固有の領土の意味が良く分らないのです。
(2004/11/16)
北方領土宛郵便料金
小学生の頃、郵便局に行ったら、窓口に料金表がありました。
「北方領土宛て郵便物は当分の間、外国郵便として扱う」このように書いてあったと記憶しています。愛国少年だった私は「ソ共・中共・朝共がぐるになって、日本の国益を盗み取っているのだ」そのように感じました。少年の頃、露西亜・シナという言い方が嫌いでした。共産主義の脅威から目をそらして、単に相手を馬鹿にしているだけのような気がしたのです。なぜ、ソ連・中共と正しく言わないのか、愛国少年だった私には、不真面目極まりないと感じていたのです。(一体どういう教育を受けていたのだろう。)
中学生くらいになると図書館の本を読んだり(町に本屋がなかったのです)・・・だんだん考えも変わってきました。
しかし、郵便局にあった「北方領土宛て郵便物は当分の間、外国郵便として扱う」の記述の記憶には誤りがなく、日本政府は一丸となって、北方領土返還を主張していると、つい昨日まで思っていました。ところが、郵政庁のページを見ると、「北方諸島」と書いてある。これでは、日本の固有の領土との主張が無いではないか。
http://www.post.japanpost.jp/service/intel_service/ko_johken/185/185h.htm
少年の頃に見た料金表も「北方諸島」となっていたのだろうか?
外国郵便の世界は、UPUが取り仕切っているので、日本政府の勝手には出来ません。北方領土宛て郵便物の値段を内国料金としたり、引き受けを拒絶したりすることは出来ないのです。しかし、北方領土と書くことも出来ないのかなー。不思議です。役人の考えることは微妙です。
(2004/10/01)
地図教科書
最近の小中学校の教科書は、すべて、択捉・ウルップ間、北海道・樺太間のほかに、千島・カムチャツカ間、樺太中央と、合計4本の国境線らしきが入っています。
自分が使った教科書には、どのように記されていただろうかと記憶をたどると、小学校で使った地図には4本線は無かったように思います。北海道・国後間と択捉・ウルップ間に国境線が入っていたかも知れない。私が小学生の頃、日本最北端は宗谷岬でした。今の子は、択捉島が日本最北端です。宗谷岬は日本最北端ではないのです。自分の教科書はどうだったか覚えていますか。(戦前は、はっきりしていますね。)
教科書出版社の東京書籍株式会社にこのあたり、どうなっているのか聞いてみたところ、やはり以前の教科書地図は現在のような4本国境線ではなかったそうです。
ところで、北方領土に観光旅行をした人は、いらっしゃいますか。今は、サハリン経由で普通に観光旅行できるそうですが、日本人向けツアーを募集していないので、ロシア語が出来ないとちょっと大変かも知れません。(日本政府は北方領土観光旅行に行かないように要望しているようです。公務員のかたは、もし、北方領土の観光旅行をしたとしても、黙っていた方が良いかと思います。)
(2004/08/25)
千島返還を求めている人たちへ
ここ2ヶ月ばかり、北方領土に関する本を数冊読んだのですが、いろいろとわからないことがあります。一般に『この土地は自分の先祖が開墾したんだぞ』と言った場合、先祖は領主なのでしょうか。不在地主なのでしょうか。小作人なのでしょうか。日雇い労務者なのでしょうか。国後択捉の漁民が全員漁業のライセンスを持っていたとは思えないので、このあたりどう考えたらよいのか良くわかりません。それから、返還を叫んでいる人が多い割には、返還後のビジョンが見えてきません。返還を叫んでいる人たちの多くは、千島に住んで、漁民になりたいのかなー。返還されっこないって思っているのかなー。
(2004/05/07)
8月9日
1945年8月9日0時、ワシレフスキー参謀総長率いるソ連軍は、ソ満国境を突破し、中国東北部(満州)駐留日本軍との、戦闘を開始した。広島原爆の3日後のことであり、この数時間後には長崎に原爆が投下される。
このとき、ソ日間には不可侵条約が形式的に存在していたので、そのことをもって、ソ連の不当性を宣伝する人がいるので、このような欺瞞を真に受けている方も多いことと思う。もともと、日ソ不可侵条約は当時の政治的動機により締結された欺瞞的条約である。中国東北部(満州)は中国の不可分の領土であり、日本が傀儡政権を樹立したことが、すでに犯罪行為であり、その前提に立って、中国と無関係に締結された不可侵条約は、もともと不当なものであった。
実際、日本政府にもこの条約を正直に履行する気などさらさら無かったことは、関東軍特別大演習(関特演)を実施し、独ソ戦で極東ソ連軍が手薄になったら、ソ連に対して武力を行使しようとしたことからも明らかであった。(なお、このとき、日本の侵略準備を見抜いたスターリンは極東部隊を手薄にすることは無かったので、日本の武力行使の機会はなかった。)それにもかかわらず、日ソ不可侵条約がその後も存在したのは、日ソ双方ともそれぞれ南方、西部での戦線に勢力を取られていたためである。独ソ戦が終了した時点で、日ソ不可侵条約は、その欺瞞的な存在意義さえ失っていたわけである。
さて、1945年8月9日のソ連進攻に話を戻そう。ソ連の中国東北部進攻は、延安の毛沢東指導部はもとより、重慶の蒋介石の了解するところであり、国際法的にも、道義的にも何ら問題ないばかりか、中国解放という視点から見ると、人道上の行為であった。すなわち、中国東北部を不当に侵略して、中国人を弾圧していた、日本軍の掃討作戦であるので、たとえて言うならば、隣家に強盗入ったときに、隣家に加勢して強盗を逮捕したようなものである。
ソ連と蒋介石政権の間には、戦争終結後3ヶ月でソ連が撤退するとの条約があった。1945年12月3日が撤退期日になるが、蒋介石の再三の申し入れにより撤退は延期される。1946年3月12日、ソ連は蒋介石に対して事前の通告なしに、瀋陽から撤退を開始し、その後長春、ハルピン、チチハルなどからも相次いで撤退し、ついに5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。このことから見ても,ソ連の目的は侵略軍(日本軍)の掃討(中国東北部の解放)であり、不当な領土的野心でなかったことは明白であった。
中国東北部に傀儡政権満州国を樹立して中国人を弾圧していた日本軍やその統帥者であった天皇裕仁を神聖視するまり、中国人を人と思わない誤った視点で歴史を認識してはならない。再び強調しておこう。中国東北部は中国の領土である。外国軍が支配・弾圧することは許されない。
参戦したソ連兵の中には、ならず者や犯罪者も結構いたようであり、ソ連兵のモラルは決して高かったとはいえない。実際、戦闘の初期段階においては、ソ連兵による略奪や強姦が一部報告されている。ただし、当時の日本人はそのことに対して抗議を行ってはいないようである。これは、占領地での日本軍人の略奪・強姦は日常的なものであったため、当時の日本人社会では「兵隊とはこういうものだ」という諦感があったためある。しかし、ソ連兵による不当行為は奉天入場後は殆ど起こっていない。これは、ソ連兵のモラルが向上したためではなく、奉天日本人長老会が慰安婦を集めて、ソ連兵相手の慰安所を設置したためであった。当時の日本兵には慰安所が欠かせなかったようで、現地女性に売春を強制していた。日本兵相手に徴用された慰安婦を集めてソ連兵相手の慰安所に鞍替えしたものであった。なお、ソ連には慰安所など無かったので、ソ連兵に慰安所は大変好評だったそうである。
戦闘の初期段階における、日本人の犯罪被害は、ソ連兵が犯人ではなく、現地中国人が犯人であることが多い。ソ連進攻を好機到来とばかり、日本人に対する積年の恨みを晴らさんとばかりに、日本人に暴行を働いたり、略奪したのである。このことを、ソ連の責任であると、責任転嫁する日本の論調があることはあきれた次第である。中国人が略奪したものは、本を正せば、中国人から日本人が略奪したものではなかったか。満州に傀儡政権を作った天皇裕仁の政策の責任を覆い隠そうとするあまり、中国人を弾圧していたと言う事実を無視するような態度をとってはならない。(2002/8/9)
扶桑社「新しい歴史教科書」シベリア出兵の記述と、その問題点
(2001.7.19)