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Naturismと私・・・ by CALATO

エラリー・クイーンの推理小説を読んでいて、初めてこの世に「ヌーディスト」なる人々が存在することを知る。

 この小説が何というタイトルだったかも今では忘れてしまったのですが、今世紀前半(多分)のアメリカのヌーディスト達がやや揶揄的に描かれていて、このイメージから、以来私はヌーディストについて「カルト集団」的なイメージを持ってしまったのでした。

国立近代美術館でムンク展を見る。

 1階に前期の作品(有名な「叫び」等が描かれた時代)、2階に後期(精神の病から回復した後の時期)の作品が展示されていました。私は後期の作品の明るい色調に魅かれ、特に1階から2階へと上がる階段のところに掲げられていた太陽の絵のまばゆいばかりの光に衝撃的な印象を受けました。
 それまで家に閉じこもりがちだった私は、この日以来、外で太陽の光を浴びるのを好む性格に変身したのです。

アレホ・カルペンティエールの小説「失われた足跡」を読む。

 主人公は南米オリノコ川上流で、ある「理想郷」にたどりつきます。そこに暮らす人々は皆裸で生活していて、それは「理想郷」であることにとっての重要なファクターです。
 私の心の中でヌーディズムに対する意識が少し変わってきました。

ポルトガルのアルガルヴェ地方を旅する。

 ポルトガル南部のあるビーチを訪れたときのこと、そこは皆水着着用でしたし、水着を持っていなかった私は服を着ていたのですが、何人かの人に声をかけて話したりしているうちに面白いことに気付きました。それは、トップフリーだったり体を覆っているところの少ない人に限って、私に対してフレンドリーで、とても話しやすいのです。100%当たっているとは言えないかも知れませんが、「体の露出度と心の開放度は比例する」という法則の発見、これは私のこれまでの固定観念を逆転させるものでした。

世田谷区立美術館でムンク展を見る

 前期作品を足早に見た後、私は目当ての後期作品の展示コーナーへと急ぎました。そこで出合ったのはなんと画家ムンクの等身大全裸写真、日本の公共施設に一糸まとわぬ全裸写真が展示されているのにも驚きましたが、そこで初めて、ムンクが当時のヌーディズム運動に共鳴し、実践していたことを知りました。

インターネットサイト<CALA CALATA>を立ち上げる

 以来<CALA CALATA>は全然更新しないので不評を買うものの、その間CALATO自身はヨーロッパ旅行の他、ネット上(とくにUVAさんのサイト)で知り合った国内のNaturist仲間達と露天温泉や国内ビーチでのオフ会を楽しんでいます。


So God created human beings, making them to be like himself. ( Genesis 1:27)


 私はNudism/Naturismが人間のあるべき生活様式であるとか、Nudism/Naturismはこうあるべきだとか声高に主張する能力はありませんし、その気もありません。
それに、全裸で生活するのが人間の本来自然の姿だという考え方にもちょっと「?」です。歴史的、民族学的にも、一糸まとわぬ姿で暮らす、という事例は極めてまれなようですし、「THE IMPORTANCE OF WEARING CLOTHES」(L.Langner著)でも述べられているように、人間社会の形成や文明と「服を着る」ということとは不可分の関係を持っています。もし人間が服を着なかったら、今私たちが利用している「www」の「web(織物)」も存在していなかったことでしょう。

 ですから私にとって、Naturismは個人的な趣味の問題です。

安全・衛生・気候面で条件が整ってはじめて実践できる、現代人にとって最高の「ぜいたく」であるかもしれません。
しょせん現代人は全くの自然の中に生きるということはできないのですから、つかの間であっても自然の景色に触れたり、自然の風を肌にふれたりすることは言わば心身をリフレッシュさせてくれるレジャーのようなもの、裸になるのはまさにその延長線上だと私は感じています。自然の中で

 

 初めて山の中で、周りに誰も人がいないものだから全裸になってみようと思ったとき、ちょっとした決断を要しました。それが一度裸になってみるとその気持ち良さは理屈抜き、病みつきになってしまうものでした。
今、いちばん好きなのは海で泳ぐことです。未経験の方には、ぜひ、だまされたと思って試してみることをお奨めしたい、海水に何の障害物もなく全身を浸す歓びを分かち合いたいと思っています。

 

 それにしても、さすがヨーロッパは人生を楽しむことにかけては最先進の国々、Nudism/ Naturismがごく当たり前のレジャーもしくはライフスタイルとして定着しているようです。たいていの欧米の旅行ガイド本には、ビーチの情報として「ヌードになれるかどうか」が、日本のガイド本での「シャワーの有無」「サーフィンできるかどうか」といった情報と同じようなレベルで記載されていたりするようです。
また、たまたま手にする機会のあった新聞や週刊誌に、Naturismに関する記事が(センセーショナルなものでも何でもなく)ごく普通に載っているのを目にすることもしばしばです。

 それにひきかえ日本の現状はといえば、悲観的にならざるをえません。みなさんもこのサイトでスペインの現状をごらんになってますます、あちらと日本との落差に驚かれるに違いありません。
まず、法律的な問題もあり、身体上の「隠された」部位に対するわれわれのヘンな好奇心もしくは禁忌意識は、早々ぬぐい去れそうもありません。
一般人が人と違ったことをすると「出る杭は打たれる」日本社会の特質も、Nudism/Naturismの個人的な実践や社会へのアピールにとって大きな妨げです。
また、60年代の欧米でのカウンターカルチャー・ブームは日本のヌーディズムにとってはあまりにも時期が早すぎましたし、いくら現在が「規制緩和」の時代だと言ってもスペインや東欧諸国で起こったような体制変革と自由化のインパクトには比べようがありません。雑誌

 

 「文化・社会状況の違いだから仕方がない」と少々あきらめかけているのが私の現状ではありますが、最近、日本社会の閉息状況を打開するためにも、Nudism/Naturismの普及は大いに必要なのではないかと感じ始めています。
日本社会の特質である「横並び意識」や「外見で人を差別すること」「マイノリティーへの抑圧」「過剰な規制」等々の障碍を打破することが必要なのは、Nudism/Naturism発展にとってだけではなく急務なのかもしれません。
また低成長期に重要な産業である「観光」後進国からの脱却のためにも、外国人ツーリスト一人一人が何を望んでいるかをフォーローする姿勢が大切でしょう。そうなれば当然Nudism/Naturismへの対応も必要となってくるでしょう。
それに、これはちょっと問題が複雑多大になってきますが、なぜ現代日本が「チカン大国」なのか、前近代に逆戻りしたような「女性専用車両」なるものを目にするにつけ、「からだ」に対する意識がどこかゆがんでしまっているのではないか、この問題の解明・解決のカギはNudism/Naturism普及へのカギとも共通しているのでは? という気がしてきます。

 

海辺で 文化的な個別の要因をわきに置いて普遍的な観点でNudism/Naturismの普及を考えた場合には、そのキーとなるのは「自由・平和・人権」だと思います。「自由」についてはとくに言うまでもありませんが、「平和」「人権」が重要なことは、Naturismがなぜヨーロッパでいちばん普及しているのか、アメリカではヨーロッパほどではなく、アジアは問題外であるのかということを考えるとよくわかります。
「裸」という人間が最も無防備な状態で安全で快適に過ごすことができるためには、個人個人の意識、社会、政治それぞれのレベルで平和と人権が充分に尊重されていることが必要条件だと言えます。

 日本でも個人的なライフスタイルとして裸で過ごすことを楽しんでいたりそれを情報発信する人たちは徐々にはですが増えてきてはいるみたいですし、「からだ」に対する意識が変わってくるきざしも見られます。意外と、「カリスマNaturist」なんかが現われて、一気にブレークすることだって考えられるかもしれません。でも、もし幸いそうなったとしても例によって一過性のブームで終わってしまうようなこともありえるでしょう。

 一過性ではないNudism/Naturismの普及を目ざすためには・・・。
私は、裸で先頭に立ってデモンストレーションするようなことではなくても、一人ひとりがそれぞれの出来る範囲で「自由・人権・平和」を大切にしていくことで、おのずと環境はととのっていくのではないかと考えています。
Naturismが快適に実現できる社会は世の中のみんなが人生を楽しむことができる社会だと思います。

 このサイトもささやかながらそれに寄与することができれば・・・・・・・。

 

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