イアン・マクレガンの
リアル・ロックンロール・ライフ!





インタビューの原文は雑誌「 Discoveries」第135号(1999年8月号)に掲載されたものです。
翻訳:むさしさん(夜明けの口笛吹き)、編集:Hazex




@【再評価だよマクレガン】

 時代がめぐり、別に古いロックすべてがゴミじゃないと理解されるようになりました。数年前は、「ペット・サウンズ」ボックスのおかげでビーチボーイズが再評価され、そして今年はスモール・フェイセズです。イギリスではキャッスル・コミュニケーションズがイミーディエットの音源を再発し始め、後のロックに強い影響を残した「オグデンス・ナット・ゴーン・フレイク/Ogden's Nut Gone Flake*1」 と 「オータム・ストーン/Autumn Stone*2」 のほか、スモール・フェイセズのイミーディエット時代のシングルを集めたボックスまで、いずれもこぎれいなパッケージでリリースされています。*3  
  もちろんこの再発の問題はといえば、当時あのアンドリュー・ルーグ・オールダムが主宰していたイミーディエットから、スモール・フェイセズは一銭も支払われていないということです。ただ、彼らはこの手の問題には慣れっこになっています。というのもイミーディエットの前に所属していたレコード会社のデッカから印税の支払いを受けるのに、実に長い年月待たされたからです。当時の他の若手のバンドと同じく、彼らもいい様に巻き上げられていたのです。いずれにせよ、バンドの2人のメンバー、スティーヴ・マリオットとロニー・レインにとっては、今となっては遅すぎた話ではありますが。

 しかしイアン・マクレガン(以下マック)の場合は遅くはありません。マックはまだ現役でばりばりで(スモール・フェイセズのドラマーだったケニー・ジョーンズも現役で、現在は「オグデン・・」のアニメ映画の制作に携わっています。*4)、最新アルバム「ベスト・オブ・ブリティッシュ/Best of British*5」リリースと自伝「オール・ザ・レイジ/All the Rage*6」を出版し、まさに絶好調。それに加えてビリー・ブラッグのサポートメンバーとして、世界中を回っています。
 今50代半ばになったマックは、気さくで魅力的、そして気の効いた笑いを絶やさない実に活動的な男です。ここで、マックの自伝と同じ内容を扱って、同じエピソードを焼き直し、同じ人物のことを語れば楽でしょうが、それはやめておきます。なぜかって?彼のホームページ(http://www.macspages.com)に行けば、自伝の抜粋を読んで、さらには彼から直接購入することができるからです。郵便ポストに投函する前に、彼はサインまで付けてくれるのです。そしてまもなく内容を一部書き足したペーパーバック版も発売になる予定で、こちらが売れるのもマックはお望みのはず。ただ、地元の本屋で探すのはやめた方がいいでしょう。この自伝はアメリカでは発売されていないからです―少なくとも、今のところは。閉鎖的な出版界ではイアンマクレガンの存在が知られていないようです。もちろん彼らが損しているに違いないのですが。


*1Small Faces, Ogden's Nut Gone Flake (Remastered) Castle ESMCD477 1998年10月15日イギリス発売
*2Small Faces, Autumn Stone (Remastered) Castle ESMCD478 1998年10月30日イギリス発売
*3Small Faces, The Singles Collection (6-CD box set) Castle ESBCD725 1998年3月19日イギリス発売
*4現在進行中の映画の計画では、ピート・タウンゼントが新たに作曲で協力するほか、ハッピー・スタンの声優としてコックニー訛りのフィル・コリンズが出演するとの話。
*5Ian McLagan & Bump Band, Best of British Maniac 1999年6月1日アメリカ発売
*6Ian McLagan, All the Rage   Sidgwick & Jackson 1998年11月20日イギリス発売
 


A【スモール・フェイセズ参加】

  というわけで、小話もおふざけもなしで、今のマックにそのまま登場してもらうことにします。そのまえに簡単な経歴だけを紹介しましょう。スモール・フェイセズに加入するまでは、彼の愛するR&Bを演奏するマイナーなバンドにいくつか所属して、ハウリン・ウルフをはじめ、アメリカから来たブルース・シンガーたちのバックも務めていました。それからスモール・フェイセズに入って、それはフェイセズへと発展します。1978年にはザ・フーのドラマー、キース・ムーンの妻だったキムと結婚します。(因みに、スモール・フェイセズとフーの絡まった歴史に注目すると、周知の通りケニー・ジョーンズがムーンの死後代わりにフーに入っています。)そのころストーンズと、ロンのバンド、ニュー・バーバリアンズのツアーとセッションに参加し、ロン・ウッドの各ソロ・アルバムで演奏、そしてボニー・レイットの不遇時代にバンドメンバーとして数年活動を共にしていました。イギリスからロサンジェルスに移ったことは、決して幸せではありませんでしたが、自ら結成したバンドのバンプ・バンドで、2枚のアルバムと1枚のEPを発表、そしてついにテ キサス州のオースティンに移り住み、現在まで数年間にわたって幸せに生活を送っています。バンプ・バンドでは最新作を発表したほか、いまでもセッションに参加し(トニ・プライスの最近作で彼のトレードマークであるエレピの音を聞いてみるといいでしょう)、ツアーもしています。我々の誰もが憧れるようなロックンロール人生ですね。

 ただもちろん、いつも楽だったわけではありません。甘い面には辛い面がつきもので、特にマネージメントの問題がそうでした。「鮫のような奴と仕事してきたよ。地球のくずのような連中とね。」とマクレガンは語ります。「ただいいマネジャーも何人かはいた。ジェイソン・クーパーがいただろ、それから…一人しか思い付かないぞ!」その「くず」の一人が、スモール・フェイセズの最初のマネジャー、ドン・アーデンでした。最近、雑誌"Mojo"に掲載されたアーデンのインタビュー*7で、印税を支払うまでにどうしてこれほど時間がかかったかと聞かれて多少の言い逃れの弁を弄したのを除けば、アーデンは一貫して、1人当り週25ポンドでいいと主張したのはスモール・フェイセズの方で、自分は実際にはメンバーの親たちに一人週125ポンドを支払っていたと主張していました。この話をマックは強力に否定しています。「Mojoにはうんざりしたね、それしか言いようがないよ。奴の言ったことは、汚い嘘さ。そんな話をでっちあげて、まったくのでたらめさ。親たちは一銭ももらっちゃいないよ。それだけじゃないんだ。この記事はオーストラリアから帰る飛行機で読んだん だけどね。あいつの嘘は全部下線を引いたんだ、そしたら全部インクで真っ黒さ。奴は大したうそつきだね。僕の本では彼を泥棒とも嘘つきとも書けなかったんだ、名誉毀損になるからね。」アーデンはその後、ムーヴ、ELOそしてブラック・サバスのマネージメントを担当した人物。すでに30年以上の時が経過した今でも、マックの怒りはひしひしと伝わってくるほどです。



B【ソウル・R&Bの影響】

  ただこれはビジネスの話で、音楽はといえば、マックは今でも情熱的です。試しに彼の新作を聴いてみれば、いろんな音楽が少しずつすべて詰め込まれているのがわかります。「ウォーム・レイン/Warm Rainはスタックス時代のメンフィスで生まれたといってもいいような音だし(実際マックは昔からブッカーTの大ファンだ)、「ハロー・フレンド/Hello Old Friend」とともに故ロニー・レインについて歌った「ドント・レット・ヒム・アウト・オブ・ユア・サイト/Don't Let Him Out of Your Sight」はカントリー色がたっぷり出ています。「人にお前の音楽はなんだと聞かれると、僕はロックンロールだと答えてる。」とマックは語る。「でもロックンロールって言うと、僕にとってはバディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイス、エルヴィス、それにチャック・ベリーなんだよね。ただ、ニュー・ウェイヴでもないし、ソウルでもブルースでもないし、もちろんジャズじゃないし、だから何て呼んだらいいか分からないね。ソウルやR&Bの影響は濃厚だよ。『シー・ストール・イット/She Stole It』はすごくモータウンっぽくて、これを演るときは、アール・ヴァン・ダイクとかマーヴィン・ゲイのピアノを弾いている気分になってやるんだ。でも、カントリーの影響も強い。ついこの間、完全にカントリーの曲を書き上げたところだよ。ただ男が嘘つきだという内容はちょっとカントリーっぽくないんだけどね。ナッシュヴィルの誰も書かないようなカントリー・ソングなんだ。

 彼の音楽的なルーツが全てアメリカ発だというのは、別に驚くことではありません。1940年代に生まれたイギリスのミュージシャンにとっては、自分たちの国にはブルースもロックもまったくありませんでした(あえて挙げれば、イギリスでは新しかったクリフ・リチャードやトミー・スティールが例外といえるかもしれれませんが)。基本的に彼らこそがブリティッシュ・ロックの先駆者の世代であり、大西洋の向こうから発想を得て、新しい物に生まれ変わらせたのです。「もちろんさ。僕が育った頃は、音楽も映画もすべてアメリカ産だったよ。イギリスはひどくさえない場所だった。」しかし、多くのバンドが生まれたものの、成功したのは少数だった。ロックンロールはいつの時代も脳天やら足元に訴えかけるもので、頭脳を使うものではありませんでした。初期のイギリスのミュージシャンにとっては、譜面を読めることよりもアメリカのアイドルたちと同じフィーリングが出せるかどうかがずっと大事だったからです。ブルースだろうが、カントリー、ロック、ソウルでも、フィーリングこそが血の通った繋がりで、それがなければ、音楽は死んでしまうでしょう。マックが長けている のもまさにこの点なのです。「僕は今でも楽譜は読めないけど、僕が恵まれているのはフィーリングさ、音楽を感じて、グルーヴを感じ取る。それしかない時もあるんだけどね、人には内緒にしておくのさ!

 このフィーリングというのは、もちろんスモール・フェイセズにも存在したもの。「レイジー・サンデー/Lazy Sunday」や「イチクー・パーク/Itchycoo Park」といった曲がもっともよく知られているでしょうが、彼らはサイケデリアに移る前は、多分にソウル・バンドでした。マリオットはイギリスの偉大なシンガーの一人で、フィーリングは彼らのオリジナル曲(「ソーリー・シーズ・マイン/Sorry She's Mine」)にもカヴァー(「シェイク/Shake」、「ユー・リアリー・ガッタ・ホールド・オン・ミー/You Really Got a Hold on Me」)にも溢れていました。オリジナル・キーボードのジミー・ウィンストンの代わりに加入したマックは、他のメンバーと同じく身長165センチほどと背が低く、音楽の好みも合って、彼の加入でスモール・フェイセズは本物のソウルフルなバンドになったのです。「彼らに会ったとき、僕が、マディ・ウォーターズとか、レイ・チャールズ、オーティス・レディング、モータウン、ブッカー・T&ザ・MGズなんかが好きな人間だと分かって、そりゃ驚いていたよ。僕たちはすぐロックをかまし、グルーヴを決めた。あの頃僕たちがライヴをやるときはヒットを2曲もやれば、それで観客は大興奮さ。グルーヴに乗ってね。何をやっても女の子たちがわめき叫んで、変わり者たちは大喜びさ。僕たちはラリってたから、ロックンロールできたんだ。最初のころはソウルをやってた。でもだんだん離れていって、ついに『ティン・ソルジャー/Tin Soldier』にたどり着いたんだ。

 ヒットが続き、スモール・フェイセズは概して幸せな時期を過ごしました。しかし、スティーヴ・マリオットが脱退して新バンドのハンブル・パイで自分のサウンドを追求することに決めたことで、グループはだめになったです。「スモール・フェイセズでスティーヴと4,5年も一緒にやってきてね、僕はしまいには奴の顔は二度と見たくないと思ったよ。実際は後で一緒にツアーをやったんだけど。」とマックは回想する。「ケニーとロニー(・レイン)には一度も愛想を尽かしたことはないんだ。ロニーの方は僕にうんざりしたことがあったとは思うけど。ただ少なくとも3年間は僕たちは(スモール・フェイセズとして)仲良くやって、やっている音楽に満足していたよ。一銭も金が入ってこないってことに気付き始めてはいたけど、グループの中は驚くほどうまくいっていたんだ、スティーヴが手に負えなくなるまではね。僕はスティーヴとロニーの間にはさまれてたんだ。今考えると、そう思う。フェイセズではウッディ(=ロン・ウッド)がその役だったね。




 
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C【素晴らしきフェイセズ】

  そして、フェイセズです。読者も彼らは覚えているでしょう、マリオット抜きのスモール・フェイセズに、「トゥルース/Truth」と「ベック・オラ/Beck-Ola」をリリースしたジェフ・ベック・グループ出身のロン・ウッドがロッド・スチュアートが参加したバンドです。彼らはパーティ狂いで、毎晩自分の体重と同じだけの酒を飲んでいるという“名声”を得ました。シャンペンとキャビアの生活を送っていた彼らは、もちろんそれだけでなく、70年代前半では、いくらだらしなくても素晴らしいライヴでも有名でした。「とにかくも金はもらえたからね!もしロッドをもっとスタジオに連れ出すことができたら、録音したレコードで覚えてもらえていると思うんだけど、それは決して楽なことじゃなかったよ。

 5年間の間に、フェイセズは4枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ盤(これはロッド・スチュアート&ザ・フェイセズの名で発表された)を出しました。もちろんロッドは同時にソロ・キャリアも追求していて、いい曲は「エブリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー/ Every Picture Tells a Story」 といった自分のソロ作の方に使っていましたて、ソロは大いに売れました。フェイセズの方で売れたのは、「馬の耳に念仏/A Nod's as Good as a Wink (To a Blind Horse)」と「ウー・ラ・ラ/Ooh La La」だけでした。
 歌手のロッドがいつも注目され、ライブではフェイセズはバンドの曲だけでなく、ロッドのソロ曲も演奏しました。ロッドの人気が高まるにつれて、「ロッド・スチュアート&ザ・フェイセズ」という名前でライヴを主催するプロモーターも出て来ました。「僕たちが『ロッド・スチュアート&ザ・フェイセズ』になったことは一度もないんだ。」とマックは主張している。「あるライヴ会場の外のポスターでその名前を見たときには、僕はビリー・ギャフを解雇したくなったよ!だって、『ミック・ジャガー&ザ・ローリング・ストーンズ』なんて言わないだろう?ロッドはそれを止めさせるのにもっと協力してくれてもよかったと思うんだけど、しなかった。彼の得になるものね。彼の曲を宣伝するのにあの時期ずっとそりゃ素晴らしいバンドをバックにつけたというわけだ。このことを何とも思っちゃいないけどね。ツアーでの僕たちは最高で、楽しかったよ。もっと曲を書いて、もっといいアルバムを出すこともできたはずだよ、ロッドさえいればね、でも彼はやりたがらなかった。僕は、ロッドがラスベガス・ボーイになる前の、はじめの5枚のソロに参加できてうれしいよ。どれもいい アルバムだ。彼のファンクラブのニューズレターを読むと、いつもファンが『"Stay with Me"や"Maggie May"を発表していた頃は素晴らしかった。』って言っているよ。ファンはしょっちゅうそう言ってるんだけど、ロッドは耳を傾けないけど。彼は今でも自分がロックンロールを感じさせるレコードを作っていると思ってるんだ。」

 フェイセズは75年末に解散しました。それまでの最後の2年間は、ロニー・レインが脱退を決めてからというもの、下り坂でした。ロッドはソロを続けて音楽的にはさえなくなって、ロン・ウッドはミック・テイラーの代わりにストーンズに加入したりして、残されて仕事のなくなったマックとケニー・ジョーンズは、スティーヴ・マリオットと再び組んで、新しくベースにリック・ウィルズを入れて、スモールフェイセズを再結成しました。しかしこの試みは、音楽的にも商業的にも成功せず、アルバム「プレイメイツ/Playmates」と「78 イン・ザ・シェイド/78 In the Shade」はともにチャート入りせずに終わりました。これを最後にマックはバンドに見切りをつけ、ソロ活動を始め、また生計を立てるためにセッションの仕事をこなしていきますが、わずが数年後、再びウッディと一緒になって、ストーンズで活動することになるのです。





D【ストーンズと一緒に】

 「彼ら(=ストーンズ)とは2回ツアーに出たんだ。まず、パリでアルバム「女たち/Some Girls の録音に参加して、そのときのセッションからは"Miss You"と"Just My Imagination"がアルバムに収録されているよ。ツアーに参加するように電話で誘ってくれたのはキースで、81年にも参加したね。78年の終わりにはロサンジェルスで録音をやって、それからライヴ録音も多少やった。それから、キースのバーバリアンズに関わったよ(すべてのアルバムとツアーに参加している)。もしかしたらあまりに遊びが多すぎたかもしれないね。パーティ三昧の毎日だったから。フェイセズでは素直に楽しんだけど、ストーンズはもう少しビジネスの要素があったかな。
  とはいえ、すべてがビジネスともいえないでしょう。キースとウディは誰もが認めるパーティ好き。そしてマックもただの雇われミュージシャンではなくバンドの一員という扱いを受けたからです。
 「本に書いたけど、『サタデー・ナイト・ライヴ』に出演したときに、1週間ずっとリハーサルをやって、ベルーシとエイクロイドと一緒にパーティで楽しんだんだ。で、カメラマンがグループ写真を撮るというんで、一瞬僕はそのまま動かないでいたんだけど、『待てよ、僕はグループのメンバーじゃないじゃないか』って気付いたんだ。いつも対等に扱ってもらっていたから、まるでバンドのメンバーのような気がしてたんだね。なのに、突然どかなきゃいけなかった。まったく、あれだけ心地よい待遇をしてくれた彼らのせいだね(笑)!
 周知の通り、マックはストーンズと同じ世代のミュージシャンです。同時代に育って、同じような音楽に惚れ込み、同じクラブに出入りしていました。マックとストーンズは一緒に仕事をするずっと前から知り合いで、ロック・スターの社交界という同じ世界に属していました。
 「ユーモアのセンスっていうのが、僕の付合う連中との要になることが多いんだけど、キースはユーモアのセンスがすごく鋭いんだ。あいつはすごく面白い奴だし、ウディも僕が知っている中では最高に面白い奴の一人だね。ウディはいつもよくしてくれて、ずっと友達だよ。最近はあまり話はしないんだけど、会うと『マックゥ〜〜〜!』っていう感じで、すぐ打ち解けるんだよ。

 実際、ロン・ウッドはマクレガンとは仲がいい。マックはロンのすべてのソロ・アルバムで弾いているし、おかえしにロンは「ベスト・オブ・ブリティッシュ/Best of British」 に参加して、"She Stole It!"、"Hello Old Friend"、"This Time"の3曲でギターを弾いています。それだけでなく、金銭的に救いの手を差し伸べたのもロン。アルバムの主なスポンサーが手を引いてしまったあと、レコードをリリースするための資金をよろこんで提供したのが、彼でした。たとえ彼にとっては簡単なことだったとしても、真の友情が表れた行為です。アルバムをプロデュースしたのは、ルシンダ・ウィリアムズと仕事をしてきたガーフ・モーリックス(現在はバンプ・バンドのメンバー)。
 「ガーフは僕のオースティンの大親友の友達だったんだ。彼もオースティンに住んでいるんだ。友達に紹介されてから、すごく仲良くやってるよ。彼はルシンダのアルバムをプロデュースしていて、それで僕も呼ばれたんだ。僕は1曲録音に参加したんだけど、その数日後彼が首になって、それで彼のプロデュースした曲に参加していた僕も首さ。ルシンダは気に入ってくれたんだけどね。後で話したときにルシンダが『あなたがやってくれた演奏が本当に好きだったんだけど。』って言ってたよ。
  もちろんいくら探しても、完成したアルバムにはマクレガンの演奏の跡は残っていません。ただこれはセッションマンにとっては日常茶飯事のことかもしれませんね。いつもバンドの一員ではなく、部外者なのですから。でも、オースティンという、音楽が盛んな小さな町ではそういうことはなく、ここではまるで誰もがお互いのことを知っているよう。仮にそうでないとしても、そのうち知り合いになれる、そんな街です。




E【アメリカでの活動】


 ここはマックにはまったくおあつらえ向きの町です。特にロサンジェルスで数年を過ごして、その間にいくつかの地震に遭い、娯楽産業の世界での浮き沈みの激しさを経験した後ではなおさらです。ここでは生活のリズムは少し遅い。ここで暮らすのは一長一短だとしても、マックは移り住んだことに喜んでいるようです。
「僕は今オースティンに住んでいて、とても幸せだよ。仕事の機会についてはロサンジェルスには全然及ばないけど、ここにいるだけで楽しいんだ。窓から地平線をながめて、視界には木々しか映らない。ロサンジェルスだったら、どの窓からも隣の家が見えるさ。それが一つの理由。それから、人々はもっと親しみやすいし、ひどい競争もない。だからずっと幸せだね、満足しているとは言わないけど。満足っていうのからは程遠いな。たくさん曲をためてあるし、たくさんやりたいことがあるんだ。」

 一つの目標は、ソロ活動でもっと成功を収めること。マックがこれまでソロ・アルバムをすでに数枚出しているのを知って、読者は驚くかもしれません。実のところ、新作の「Best of British 」のほかにも数枚あります。
「アルバムが2枚とEPが1枚あるよ。僕はこの新作をね、日本でCDになって発売された僕のファーストを手に入れたという日本人に送るところなんだ。ファーストは今じゃあちこちで売ってるよ!セカンドは一番知られてないアルバムだけど、この2枚だとこっちの方がいいね。最初のアルバムにはセッションマンを雇ったんだ、ジム・ケルトナーに、それからボニー・レイットと10年間やっていたジョニー・リー・シェル、それにジョン・フォガティだ。フォガティは曲を書いてくれて、"Little Troublemaker"って曲なんだけど、それをアルバムのタイトルにした。仲良くなって数曲一緒に書いたよ。それからケルトナーに、ベーシストのポール・ストールワースだ。2枚目を作るときには、僕はバンドを組みたかったんだ。それでドラムにリッキー・ファタール、ベースには日本人で素晴らしい演奏をするレイ・オハラを入れた。4人でバンプ・バンドという名前にした。アルバムのタイトルが Bump in the Night だったからね。リッキーがツアーには出られなかったんだけど、ボビー・キーズも参加してテキサスでツアーをやって、それから西海岸を北から南まで回った。これが1979年の話だ。あれはすごく楽しいときだったな。2枚目を録音した後で、マーキュリーに契約を外された。マネジャーのジェイソン・クーパーは病気で仕事ができなかったし、すでに僕は予算オーヴァーの赤字で、あれはアルバムを出すのに適した時期ではなかったね。Little Troublemaker より優れたアルバムなんだけど、ほとんど誰も聞いてない作品だ。実のところ、今のバンプ・バンドと演奏するときは、収録した11曲のうち7曲はやっていて、もう2,3曲さらに加えたいのもあるよ。」
 
 セカンド・アルバム当時のバンプ・バンドはボニー・レイットのバックで数年間ツアーに参加し、その演奏はレイットのアルバム「Green Light」 で聞くことができます。ボニーは半分引退してドラッグと酒のリハビリをしていた頃で、けっして全盛期ではありませんでした。
「それでもあのアルバムは今でも彼女のお気に入りの一つで、僕のお気に入りでもあるんだ。あまり人に知られていないから、正当な評価を受けていないけど、僕は好きだね。」
 もちろんレイットは1989年に大々的にカムバックを果たします。しかし、マックの方はそのままゆっくりとマイペースに活動をしていました。他のバンドとセッションやツアーを行うのも素晴らしいのですが、マックが本当にわくわくするのは、ソロ活動です。
「ソロは大好きだよ。とてもうれしいんだ。自分の曲を弾くのが楽しい。曲を思い付いて、数週間後にはステージで披露するっていうのは最高さ。僕のバンドはすごくすてきで、ほんとうにスムーズにいってるよ。新しく味わう気分だな。最初はフロントマンを務めるのは落ち着かなかったんだ。観客とやりとりする以外にもたくさんやることがあるからね。自分の曲の歌詞を覚えてからライヴに出演しなきゃいけないしね!昔はすごく気楽にやってればよかったけど、今はもっと全般に責任を負っている。これはすごく刺激的だよ。」
 マックがキーボーディスト、サイドマンとして有名なことを考えると、彼がいくら楽しんでいるとはいえ、ステージの中央でピアノを弾くだけでなく、リード・ヴォーカルを担当し、少しはギターも弾くと聞くと、なかなか驚きです。
「今はギターを弾くのは減らしたんだ。ガーフがバンドに入ったから、僕がギターをやるのは1曲だけさ。前は一晩に3,4曲は弾いてたよ。2本ギターが必要な曲とか、キーボードの要らない曲があったからね。ギターを持って歌うのもときには気持ちいいもんだよ。」





イアン・マクレガンのリアル・ロックンロール・ライフ!

F自叙伝の完成

 現在のマックは、オースティン在住のメンツを集めた、固定メンバーのバンドを持っています。モーリックス以外には、ギターとヴォーカルの"スクラッピー"・ジャド。ニューコム、ベースのサラ・ブラウン、ドラムのドン・ハーヴェイがいます。もちろん彼らはスモール・フェイセズではなく、フェイセズですらありません。でも、今のマックは25年、30年前の彼とは違います。ただ、キーボードのパートは昔とほとんど変わっていません。1962年当時と同様、今でも彼はハモンド・オルガンを深く愛しているのです。
「人にある新しい楽器を勧められたんだけど、まだ使ってないから、どうだか分からないね。毎年新しいのが発売されて、『ハモンドよりいい』『ハモンドに負けない』っていうんだけど、残念ながらだめだね。本当にハモンドに負けないならうれしいんだけど。ハモンドの代わりっていう楽器はどれも貧弱に聞こえる。ハモンド社の製品でもだめ。ローランドはいろいろ試しているけど、ハモンドに近い音は聞いたことがない。持ち運びできるような、90キロは軽くしたもので、同じ音が出るものを開発してくれるといいんだけど。昔はロサンジェルスのNAMM(国立楽器製造者協会)の展示会にしょっちゅう足を運んでた。ハモンドのコーナーに行くと、変な奴が弾いている。それで『ごめんよ!』って言ってどかしてから、試し弾きをしたのさ!」

 オルガンの演奏に加えて、エレクトリック・ピアノの演奏も記憶に残っているはず。「Tin Soldier」や「Stay with Me」を思い出せば、彼のフィルやソロが思い出せるでしょう。それは非常に特徴的なワーリッツァーの音色で、マックの細かいタッチのおかげでなおさらユニークな音になっています。
「ワーリッツァーを持ってツアーをしたことはないんだ。すごくいいワーリッツァーの音が出るキーボードを持っているよ。家に置いてあって、人がレコーディングに来るときにはそれを使うことがある。新譜では「Never Let Him out of Your Sight」で使った。すごくはっきりと分かる音だ。」
 これは彼が所有しているキーボード・コレクションの一つにすぎません。ギタリストが部屋一杯にギターを集めるのだとしたら、キーボード奏者が同じことをしても不思議はないでしょう。もちろんキーボードの方がギターより少し余計に場所をとりますが、仕事道具となれば多いにこしたことはない。
「ハモンドを4台に、竪型のピアノを1台、ほかにピアノを2台と、ワーリッツァーが1つある。全部こうして広げていつでも弾けるようにしてあるんだ。」
これは、まるでリック・ウェイクマンが乗り移ったかのようだ。

 マックはソロ活動もあるが、当面はビリー・ブラッグのバックバンド、ブロウクスでの活動が中心になります。彼らは1998年半ばからツアーを始めており、すでに2000年まで日程が決まっています。
「素晴らしいことだけど、同時にすごく欲求不満にもなるね。家を出てビリーのをやって、それから帰って来てマックに戻るまではちょっと時間がかかる。ただビルとやるのはうれしい。あのバンドのメンバーは全員好きだね。こんなことは珍しいんだ、本当に。確実にクリスマスまでは一緒にやって、それで19ヶ月間になる。その先も続ける計画もあって、僕もいけるところまで一緒に活動したいね。もちろん一生ってつもりはないけど。ビリーはバンドとの演奏を満喫してはいるけど、基本的にはソロ・シンガーだし。彼も周期があって、そのうちまた一人でやるときが来ると思う。ディラン(マックはディランのツアーにも一度同行したことがある)とかビリー・ブラッグみたいな人は、記憶が緻密だね。ビリーにある曲のことを触れれば、すぐ弾き出すよ。」
 マックの場合はそうはいかないようです。というのも、自分が録音した曲で脳裏に刻まれているのは多数にのぼるものの、ポール・ウェラー(スモール・フェイセズの大ファンだ)がスモール・フェイセズの曲「Get Yourself Together」を誉めたときには、マックはメロディを思い出せなかっただけでなく、自分が録音したことも忘れていた。
「あの頃はすごく短い時間で録音していて、同じ曲は数回しか聞かないでおしまいだった。」と説明する。「ラジオでもかからないし、ライヴでも一度も演奏したことがない。だから、たくさんの曲をもう一度コードから覚え直さなきゃだめだね。」

 ブラッグとの仕事を楽しみながらも、彼の本当の野心は、当たり前のことだが、自分の音楽にあります。これまでのところ、マックのソロ作品はあまりに聞かれずに終わっています。「僕は自分のバンドを連れてオーストラリアに行きたいね。アメリカをツアーして、ヨーロッパにも。すごくバンプ・バンドと一緒にロンドンで演奏したいよ。ロンドンでソロでライヴをやったことは一度もないんだから、そろそろやれてもいい頃だと思うんだ。」
 イアン・マクレガンの語りが楽天的な変わり者のように聞こえるとしたら、まさに彼はそういう人間です。過去の浮き沈みはすでに忘れて、しっかりと前進しようとしています。ただ楽天と満足とは違う。
「う〜ん、満足しているとはいえないな。まだもがいているところだ。いまの方向はいいと思っているけど、満足というのとはかけ離れている。そもそも満足できる日なんかこないと思う。」とマックは笑う。
 50代後半をむかえたとしても、現実的な野心を持つのはいいこと。マックはあちこちで活躍してきました。イギリスのポップ界のミュージシャンに2世代にわたって影響を与えてきたバンドの出身で(ポール・ウェラーもノエル・ギャラガーもともに大のスモール・フェイセズ・ファンです)、このバンドはパンクの第一世代が敬意を表しました。フェイセズは同じだけの音楽的な影響力はなかったとしても、ライヴは素晴らしかった。(そして、まもなくライノから出るボックスセットは、マクレガンが編集にかかわっており、歴史的な再評価の契機になるかもしれません。)誰でもトップ・スターの名前を挙げれば、きっとマックは知り合いか、一緒に演奏したことがあるといってもいいぐらいです。アメリカ音楽を基礎に、60年代以来のイギリス音楽でのキーボードの役割を規定するのに貢献してきたのも彼です。ばか騒ぎをやって、人並み以上にパーティを楽しみ、そして、結婚生活はもう20年以上も続いています。決して見栄えの悪い経歴じゃありません。

 そして、彼はゴーストライターの手を借りずに自分で筆をとって本を完成した数少ないミュージシャンの一人です。気さくで会話体の「All The Rage」は楽しい読み物で、これまでに発表されたロックの自伝でも最高の部類に入るでしょう。ぜひ彼自身のホームページ(www.macspages.com)を訪れて、まず抜粋を読んで好奇心をそそられて、それから実際に本を注文するとよいでしょう。それから、マックの音を聞き続けること。間違いなく、マックはこれからもずっと長い間しぶとく活動を続けるはずですから。


END

インタビューの原文は雑誌「 Discoveries」第135号(1999年8月号)に掲載されたものです。
翻訳:むさしさん(夜明けの口笛吹き)、編集:Hazex