うちにはオーブン・トースター・レンジがある。 男の一人暮しなら電子レンジだけでも不自由ないのだが、なんとなく一番高性能のヤツを買ってしまったのだ。 そのオーブン機能は、かなりのあいだ使われることはなかったのだが、それはある年のバレンタインの日に活躍することとなった。 当時、僕がつきあっていたのは、いわゆる女子高生であった。 バレンタイン・デー。 それは女のコのほうから積極的になって好きな男のコに堂々と「好きです」と告白できる日。 たとえそれが戦後、神戸モロゾフのキャンペーン戦略によって定着した日本特有の習慣でも構わないのだ。 たとえ欧米では「恋人に感謝する日」であっても、日本は日本なりに、“そういう”習慣として全国民が納得していればあえて異を唱える必要もないだろう。 そう、日本ではバレンタインデーとは、女のコが彼氏、または好きな男のコの対して積極的になる日なのだ。 だから当然、彼女のいる男どもは朝からウキウキするし、好きな女のコがいる男どもはドキドキソワソワということになる。 一方で女のコだってある意味、『勝負の日』なのであって、それはまさしくガンダムでいうところの『ア・バオア・クーの最終作戦(=星一号作戦)』に匹敵する緊張感を生んでいるハズなのである。 なかには「あたしを食べて」などというソーラ・レイを彷彿とさせるような最終兵器を持ち出すコすらいるのかもしれない。 しかし、とりあえず当時の彼女にはそういう思考はなかったらしい。 その日、高校まで彼女を迎えにいったクルマはそのままVIVREに向かった。買い物である。 小テストが重なったために手作りのチョコレートを作れなかったという彼女は、一緒にガトー・ショコラを作ろう、と言ったのだった。 ***** チョコレート、バター、卵、小麦粉、砂糖、そして生クリームとイチゴ。 材料はこれだけだが、おいしく作るにはかなりのコツがいるらしい。 彼女「そしたら、●ーくん、小麦粉と砂糖と卵白とバターを混ぜて」 彼女は自分で作ったことがあるらしく、僕に指示を出す。 僕はどこかのサイトで拾ってきたレシピを眺めながら、 僕「え? 卵白はそれだけでちゃんと泡立てないといけないって、コレには…」 彼女「いいの! 」 僕を睨みつけるその眼には殺気さえも含まれているような気がした。 ヘビににらまれたカエル、というのはこういうことをいうのだろうか。 彼女「あたしのほうが正しいの! ●ーくんのいうことよりもあたしのいうことのほうが絶対に合ってるんだから。もうそのことは、紀元前3世紀から決まってるんだからね!!口応えしないの!!」 あなたの言ってる意味、僕にはよくわからないアルヨ 料理人の世界では、入門してきた見習いにはまず、きつくあたるそうだ。 それは、初めに厳しい現実を見せて甘えを捨てさせることに目的があるという。 なるほど、確かに現実や料理の世界の厳しさを知らない見習いには幾分かの甘えがあるに違いない。 初めからしっかりとその点につき認識させておけば、以後、親方との関係、兄弟子との関係において衝突を招くこともなく、自らの位置を理解するはずである。 最初の位置関係の構築がもっとも重要であるということだ。 僕と彼女はどうだっただろう? ボウルに泡だて器を立てながら、思い返してみる僕。 ・・・回想シーン・・・ 初めてのデートは遊園地。 待ち合わせ場所は、彼女の家の前に午前9時。 僕はその前の晩、BARのバイトで帰宅は深夜だった。 寝坊した僕がクルマで着いたのは30分ほど後のことだった。 彼女「おっそ〜い! もう、遅刻した罰としてヌイグルミ買ってもらうからね!」 ・・・回想シーン終わり・・・ あ、この瞬間からだ・・・ サルの世界でも、イヌの世界でも、ミツバチの世界でも、それこそ人間の社会でも、一つの社会構造を構築する場合、一度築き上げられた関係を消去、ないし変更するのはかなりの困難をともなう。 もう、ムリ、ということなのだろうか? いや、もういちどどこかで威厳のあるところを見せたらよいのではないか? 彼女が感嘆するような立派なところを見せつけたら彼女も僕に対する見方を変えるのではないか? よし、それなら・・・。 ボウルを彼女に渡し、それを型のなかに入れるように言う。 これは、あとはオーブンにかけるだけだ。 そこで僕は、卵白だけをまず充分にメレンゲにしたものを、また別に一つ作ることにした。 僕のレシピが正しいことを証明すれば、彼女は僕を尊敬するはずだ。 ***** しばらくした後のこと。 二つのガトー・ショコラがテーブルの上に並んでいた。 ひとつには生クリームで、「●●●(彼女の名前)から●ーくんへ」。 もうひとつには同様に生クリームで「●●●●から●●●へ」。 両方とも、一口分サイズの食べあとがある。 なぜなんだろう? 2月14日はHappy Valentine。 すべてのカップルに幸せが訪れる日ではないのか。 心のなかのB.G.M.では国生さゆりがバレンタインデー・キッスを歌っていた。 シャラランラ〜、すーてきにキーッス♪
しかしそれとは裏腹に、この夕陽差し込む部屋のどんよりとした空気に似合うのは、菅原文太主演『仁義なき戦い』のテーマソングであった。 一般に地球上の重力はどこでも1Gであったが、この部屋のなかだけは10Gくらいはあった気がする。 彼女「●ーくんの作ったののほうがおいしい・・・。もう、なんでッ?!」(怒れる大魔人) なんで?! と聞きたいのは僕の方だった。 なにゆえ僕が怒られなくちゃいけないんだろうか? なにか僕が悪いことでもしたというのだろうか? 理不尽なことには、たとえ死んでも主張し続けなくてはいけない、とは人権派の某弁護士の言葉だ。 いまこそはっきり言ってやらねばなるまい。 男にはやらなくてはいけないことがある。 男には言ってやらねばならない言葉がある。 僕「…ごめんね」 |