僕と彼女の事情
〜彼女が風邪をひいた〜






従来の定説: 「生物は種族を維持・繁栄させることに生存理由がある。」

1964年、当時ロンドン大学の大学院生であったハミルトン(W.D. Hamilton)によって、こうした“定説”を覆す画期的な理論が提唱された。

ハミルトン: 「生物は“自分の遺伝子”を維持・反映させることに生存理由がある。」

 ダーウィンが『種の起源』の中で投げかけた、働きバチが自らは直接生殖に関与しないのに、一族のために働くという「利他的」な性質がどうして子孫に伝わるのかという疑問に対して、100年以上を経てハミルトンが集団遺伝学の見地から新しい「血縁淘汰(選択説)」を提唱したのである。

簡単にいえば、この「他を利すために働く」行為によって、自分と同じ遺伝子を持つ血縁者である女王バチが多くの子供を残せば、このような利他的な性質の遺伝子もまた子孫に継承されるという理論である。いいかえれば、動物は同じ種族でも血縁関係のない非社会性の個体間で、自分の子供を減らしてほかの個体の子供を増やすようなことはないというわけである。

(http://www.afftis.or.jp/konchu/mushi/mushi05.htm)




生物学の世界では上記のような説が近年有力という話であるが、これを人間にあてはめた場合、若干異なる見解を示さねばならない。

一般的な生物と異なり、人間には「感情」というものがある。

他者に対して共感を得ることのない生物においては弱者に対する慈愛は存在しない。

そのため自動的に本能たる「自分の遺伝子の維持・繁栄のため」、他者救済の活動は行なわない。

しかし人間の場合、弱者の困窮への共感をそのまま自分の感情とすりかえてしまう。

困っている人を助けたくなるのはまさにこの「他者の困窮を擬似的に自分のものと見なす」共感の作用だといえよう。

そう、人間は困っている人や弱っている人を見ると助けたくなるのだ。

*****

冬が始まろうとするある土曜日。

その日はとても寒かった。

前日も冷たい雨が降り、京都の街は冷たく沈んでいた。

グレーの空模様はこれから始まる本格的な冬の到来を告げていた。

僕: 「だいじょうぶ?」

彼女は朝から少し熱っぽいと言っていた。

前日の雨は午後から降り始めたので、傘を持っていなかったのだという。

冬の冷たい雨に打たれて、濡れたまま自転車に乗れば風邪をひいても不思議ではない。

午前中に映画を見たあと、外で食事をしようと思っていたのだが、どうもそれどころではないらしい。

彼女: 「うん、だいじょうぶ・・・」

僕: 「どうする?もう家まで送ろうか?寝てたほうがいいよ」

彼女: 「今日はウチには誰もいいひん・・・。」

クルマの中でも彼女は虚ろな表情だった。

僕は仕方なく、自分のベッドで彼女を看病することにしたのだった。






僕: 「うわ、熱が38度もある。そりゃしんどいはずだ」

彼女の弱々しい一面を見たのは、その時が初めてだったかもしれない。

彼女: 「手、握ってて・・・」

僕: 「だいじょうぶだよ、オレ、ここにいるから」

クスリは飲ませたものの、体力がなくては回復も遅れる。

とりあえず、何か栄養のあるものを食べさせなくてはならない。

僕はしばらく彼女の手を握っていたものの、後ろ髪をひかれる思いでそれをほどき、キッチンに立った。

玉子をかつおだしで溶き、薄味の調味料で味付けをしたおかゆ。

はやくいつもの元気な彼女に戻ってもらいたいという、ただそれだけだった。

しかしそれを持っていっても、

彼女: 「ありがとう。でも熱いのは、今はイイ・・・。なんか冷たいのが欲しい」

荒い息をしながら、彼女はそう言った。

きっとしゃべるのもつらいのだろう。

僕: 「わかった。近所のスーパーで何か買ってくるよ。何を買ってきたらいい?」

彼女: 「じゃあ、冷たいポカリスエットと、」

ああ、そうだった。

汗を出している分、水分補給は重要だ。

スポーツドリンクは普通の水より摂取されやすく出来ている。

彼女: 「ヨーグルトと、」

確かに固形物よりはヨーグルトのようなペースト状のもののほうがノドを通りやすい。

しかも冷やしたヨーグルトは中から熱を奪ってくれるはずだ。

彼女: 「ミカンの缶詰と、」

糖分はエネルギーとなって、体内でウィルスと闘う白血球の活動を促進する。

消化のよい食べ物を摂取すればその分、回復も早くなる。



彼女: 「それとシャネルの口紅・・・





・・・え?

口紅とは、化粧の一種であり、4000年前にエジプトで始まったとされる身体装飾の一種である。

通常は女性のみが使用し、その目的はまさに自己の遺伝子をよりよい男性との配偶によって維持・繁栄させていこうとするところにある。

それじゃ風邪は治らないよ。


僕: 「・・・。」

虚ろな表情のまま、彼女は無言のままの僕に向かって言う。

彼女: 「ナンバー19って言えば分かるから・・・」

問題はそこじゃないんだ・・・。

ニッショーストアには売ってないんだよ。

僕: 「・・・。とりあえず、早く良くなれよ。」


僕は、彼女の額に載っているタオルを新しいものに替えたあと、クルマで高島屋に向かったのだった。



 
教訓「看病って何?」



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