終わりの客



その日のお客さんは、11時を過ぎたころに帰った一組の男女が最後だと思われた。

私は、グラスを拭き、ブランデーのボトルを棚に戻しながら、時計を見た。もう少しで一時になるところだった。このバーは午前二時までが営業時間となっているが、お客さんが来ないようなら、その前に閉めてしまっても構わない。

私がテーブルの上を拭き、掃除を開始すると、ドアにつけてある鈴が鳴った。

「いらっしゃいませ」

疲れた顔をしたスーツ姿の30代半ばの男性だった。

「あ、まだ開いてるの?」

言葉には覇気がまったく感じられなかった。このバーに来るお客さんに種類のタイプがいる。

ひとつは、お酒を楽しむために来るお客さんで、もう一つは何かつらいことから逃げるために来るお客さんである。どうやらこのお客さんは後者のようだった。

「はい。開けております。どうぞいらっしゃいませ」

男は、ウィスキーの水割りを注文した。銘柄にこだわりはないようだった。やはり、お酒を味わうためではなく、酔っ払うために来ているようだった。

男が杯目のグラスを空けたときだった。


「…なあ、ひとつ、聞かなかったことにしてくれないか」

バーとは、日常から一瞬だけ逃避できる場所である。だから、浮世の話はここでは幻。

バーテンダーはお客さんの会話については他言無用なのである。それがバーテンダーとしてのルールである。

「お客さんの独り言は聞いてもすぐに忘れてしまうタチなもので」

私はそういって、グラスを磨き続けた。

「ハハ…」

力のない愛想笑いのあと、じゃあ、いまから作り話しゃべるかもしれないけど気にしないでくれ、と言って、話し始めた。

***

おれは三年くらい前に結婚した。恋愛結婚だった。職場で一番の美人を苦労の末に口説き落としてね。周りの男からは祝福と一緒にヒンシュクも買っちまったくらいだ。

おれが知ってるだけでも三人はアタックしてたからな。多分、おれが知らない人間も含めたら10人くらいは女房を狙ってたんじゃないかな。まあとにかく、ホントに美人だったんだ。

だからそんな美人と結婚できて、おれは鼻が高かったんだ。結婚してから一年半ほどしてから、おれは地方の支局に派遣された。向こうで問題が起きてね、それの対応にまわされたんだ。

ちょうどおれが開発を担当してたプロジェクトに関することだったし。でもユーザーとかとのやりとりでうまくいかなくってね、結局一年間もそこに赴任するかたちになっちまった。それがいけなかったのかもしれない。

おれが本社に戻ってきたのはつい一ヶ月前のことだ。帰ってきてみてびっくりしたことがある。うちの女房が浮気してたんだ。同じ課の一つ上の先輩とね。

久しぶりのマンションに帰ってみたら、おれの歯ブラシが違ってたり、買ったことのないネクタイが見つかったり…。何より、食事の味付けが変わってたんだ。

おれは聞いたよ、何があったんだ、って。女房は知らん顔してたけど、女房がウソをつくときの癖はよく知ってた。そしてもうひとつ、冷蔵庫には白ワインが入ってたんだ。飲みかけのね。おれも女房もワインは飲まないのに。

白ワイン。ピンときたね。うちの課で白ワインを好んで飲むヤツが一人だけいたんだ。それがその先輩だ。

おれは、二日悩んだよ。でも三日目の夜、とうとう女房を強く問い詰めたんだ。誰と寝たんだ?ってな。

その晩はちょっとおれもおかしかったのかもしれない。ビンタを5,6発与えて、初めての大喧嘩をしたんだ。

女房は、結局泣きながらこう言ったよ。あの人はあんたなんかよりも優しくて、男らしくて、セックスも上手なのよ!、ってね。

その言葉はおれには強すぎた言葉だったんだ。もしそれがもう少し違った言葉だったんなら、多少のブレーキも働いたのかもしれない。

おれはその瞬間に近くにあったモノを掴んで、女房に再び殴りかかったんだ。でも、掴んだモノっていうのが、なぜか包丁だったんだ。

おれは、女房の胸に刺さったままのソレを見て立ちすくんだよ。女房を刺し殺しちまったんだ。いや、刺し殺してしまったはずなんだ。

おれが自分を忘れてから取り戻すまで、実際は数分のことだったのかもしれないけど、おれには数時間のことのように思えたよ。

だって、人殺しになってしまったわけだし、社会的にも人生においても、これでなにもかも終わったってことなんだから。

会社とかこれまでの人生とかたくさん頭に浮かんできてね。叫び出したい衝動に駆られながらも、そんなことできずに、とにかくその場から離れたかった。

で、おれは逃げ出して、街中をフラフラとさまよい歩いたんだ。でも考えてみたら行くところなんてないんだよね。おれは公園のベンチに座って、冷静になろうとしてみたんだ。

もう後悔と懺悔の念しかなかったよ。なんてことをしちまったのか、あんなことしなければよかった、ってね。たとえ浮気したからといっても女房には生きていて欲しかった。

そして、警察に行こうと思ったんだ。おれはもう一度マンションに戻って、現場から電話しようと思ったんだ。

マンションのドアが閉まってたんだ。なあ、どういうことだと思う? おれはマンションから逃げ出して、ドアの鍵なんて閉めなかったんだぜ? 

おれは奇妙に思ったよ。誰が鍵を閉めたんだ?ってね。鍵をあけて中に入ったら驚いたよ。女房が出迎えてくれたんだ。あら、おかえりなさい、ってね。

胸に血もついてない。いつも通りの帰宅の出迎えだったんだ。今日は遅かったのね、って言ったんだ。つまりおれはその日、まだ家にはまだ帰ってなかったんだ。

おれは喜ぶ一方で不思議に思ったよ、あれはもしかして白昼夢だったのかなって。しかしかなりリアルな夢だった。

でも現実にこうして女房は夕飯のしたくをしている。目に見える現実を受け入れるほうが、簡単なんだよね。

おれは血のついた包丁も見つけられなかったし、女房の死体も見つけられなかったし、部屋中に飛んだ返り血も発見できなかったんだ。

その代わり、生きている女房がいた。おれは神様に感謝して、もう二度と悪いことはしません、って誓ったよ。

でも、話は終わらない。いや、そこから始まるんだ。


 
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