人はなぜ殺人を面白がるのか
text by Kotaro Inaba 以下は、「ナーム」91年10月号に書いた文章です。映画「羊たちの沈黙」ののちに殺人実録ものはブームのようになっていますが、これはそのずっと以前に書いたもの。果たして現在の状況につながるものがあるか……。読んでみてください。
殺人者は人間そのものである
法務省の統計によれば、日本では毎年およそ千五百人の人が殺されている。一日に四人というこの数字は、はたして多いのか少ないのか。アメリカの殺人事件の犠牲者は、一年に五千人。最近アメリカの平均寿命が短くなっているらしいが、その原因はエイズと殺人事件の増加であるという。
いきなりだが、殺人の話である。「ひとはなぜ殺人を面白がるのか」というタイトルには、ふたつの意味がある。
ひとつは殺人事件の犯人のなかには、なにか理由があって人を殺すのではなく、殺人そのものを楽しむ者がいるということ。動機なき殺人、快楽殺人といわれるこのケースは、日本でもこれから増えそうな気配がある。それはなぜなのか。
もうひとつは、僕たち一般人も実は殺人を楽しんでいるのではないか、という疑問である。
これは決して冗談ではない。女性週刊誌や写真週刊誌を開けば、異様な犯罪や猟奇的な殺人のオンパレードだし、巷には「○□殺人事件」というタイトルの小説や映画のいかに多いことか。6年前の豊田商事会長刺殺事件の時も、各テレビ局が争って陰惨な殺人の現場を放送したのはまだ記憶に生々しい。
これはマスコミの姿勢の問題だけでなく、受け手の側にも殺人を見て聞いて喜ぶ精神的土壌があると考えなければ説明がつかない。ドストエフスキーが新聞の三面記事を熱心に読んでネタを探したというのは有名な話だ。殺人には人間の本質に関するものが含まれている。 殺人者は、悪魔ではない。切れば血が出る生身の体である。そして彼らは“ケダモノ”でもない。動物は決して仲間を襲って殺したりはしない。殺人者はまさに人間そのものである。人間は芸術や宗教など、素晴らしいものをたくさん創造してきた。その一方で信じられないほど残酷なことも平気でやる。このふたつの正反対のものが人間のなかで同居できるのは、なぜなのだろうか。
ごく個人的な幸福
最初の疑問、快楽のために人が人を殺せるのはなぜかと考えているとき、プロレスラーの前田日明選手が面白いことをいっていたのを思い出した。
それは『プレステージ』(テレビ朝日系)という番組でバシャールの公開チャネリングが行われたときのこと。チャネリングというのは恐山のイタコの西洋版と思えば間違いはない。ただし霊媒を通じてしゃべるのはバシャールという名の宇宙人だったり、超越意識だったりする。(チャネリングについては僕は無条件に信じることはできないけれど、まったくのデタラメだと否定するつもりもない)
今回来日したチャネラーはダリル・アンカというアメリカ人で、彼が出した『バシャール』(VOICE刊)は日本でもベストセラーになっている。 朝日ジャーナルの下村満子編集長に続いて質問した前田選手はバシャール=ダリル・アンカにこう尋ねた。
「バシャールさんは、みんなワクワクすることをやるべきだという。でも、ワクワクすることというのは、その人の経験や世界観によって違う。ある人にとっては殺人さえも、ワクワクすることのカテゴリーに入ってしまうこともあり得る。これについてはどう考えたらいいのか」
このとき前田選手は、幼女連続殺人事件の宮崎勤被告のこと頭に置いていたという。
だが、バシャールの返事はテレビを観ている僕らにとっても、満足できるものではなかった。
「ワクワクすることも、統一性をもってやらなければいけない。excitementとanxietyとは違う……」
anxietyには不安、心配、に加え渇望という意味がある。マイナスのワクワクといってもいいだろうか。つまりバシャールは、普通の人間のワクワクと殺人者のワクワクは分けて考えるべきだというのだ。だが、それなら最初から問題はないのであって、僕たちがいま頭を悩ませているのは、僕たちがデートに行くときにワクワクするように、おいしいものを食べるときにワクワクするのと同じように、人を殺すことにワクワクする人間が存在するということなのだ。
たとえば「サムの息子」を名乗り、一九七六年から翌年にかけて六人の男女を何の動機もなく、通り魔的に射殺したデビッド・バーコビッツ。「ボストンの絞殺魔」の異名を持つアルバート・デザルボは一三人の女性を凌辱し殺害した。八三年に逮捕されたイギリスのデニス・ニルセンは警察の質問に「一五人か一六人殺した」と話し、イギリス最高の大量殺人犯であることの誇りを感じている様子だったという。
ところが上には上がいる。アメリカのヘンリー・ルーカスは、十三歳で女性を殺害して以来、四十七歳で捕まるまでに三百六十人を殺したと自供した。もしこの数字が本当なら、史上最高の大量殺人者ということになる。
コリン・ウィルソンによれば、こうした動機の分からない凶悪な殺人が起こるようになったのは六十年代に入ってからだという。現代に特徴的な殺人というわけだ。
社会学的にみれば、殺人の起こる要因はむしろ減っているはずである。狂気という言葉を使っても、それは説明にならない。
なぜこんなことが起こるのだろうか。いろいろな殺人事件を当たってみたが、日本は犯罪後進国なので、日本の殺人事件だけを追ってもどうしても分からないところが残る。そこで欧米の殺人事件の研究者に会って、話を聞いてみることにした。
殺人が国民的娯楽だった時代
ここ数年日本でも殺人事件を扱ったノンフィクションの出版が増えつつあるが、そのなかでも異彩を放っているのが中央アート出版の「実録・ヨーロッパ殺人シリーズ」だ。昨年十一月に第七巻が出たところで著者のジョン・ダニングが死去したため残念ながら中断されることになってしまったが、ヨーロッパのいままで知られることの少なかった事件まで網羅したものとしてファンも多かった。
このシリーズを一貫して翻訳してきたのが犯罪研究家の河合修治さん。河合さんは一九三四年愛知県豊橋市生まれ。東大法学部を卒業し自治省に十三年勤めたあと家業に従事、そのかたわら欧米の犯罪に関する出版物を集めてきた。その数三千冊という。八六年には『殺人紳士録』(J・H・H・ゴーテ/ロビン・オーデル著)という本を訳している。
「この分野に入ったきっかけは、学校が法科だったもので外国の裁判に関心があったこと。ただそれも調べていくと、個々の具体的な事件を知らないと見えてこない部分があるのですね」
統計学ではなく、人間学が必要になってくるのだ。
「もうひとつ、個人的なことでいいますと、ミステリー小説が好きだったんですが、そのうち作り物には飽き足らなくなって現実の殺人に関心を持つようになったのです」
小説の場合、あまり荒唐無稽なものはリアリティがない。ところがいくら想像を絶する内容でも、実際にあった事件であれば受入れざるをえない。いわば究極のミステリーの醍醐味である。
「それに加えて、やはり人間に対する興味というのはあります。人間には崇高なひともいれば、ダークサイドの人間もいる。ふつう後者は社会の鼻摘み者であるだけに、一方的に悪人と決めつけられている。警察もそういうイメージを作ろうとする。でもはたしてそうなのだろうか、と思います。逆に、いかなる人間でも、犯罪をおかす可能性はある。そこが面白いですね」
日本はまだそれほどでもないが、欧米では犯罪を取り上げたノンフィクションはひとつのジャンルとして確立され、読者がついているという。専門の雑誌がスーパーにも並び、代表的な「トゥルー・ディテクティブ」という週刊誌は戦前から出ている。犯罪関係の書物を専門に扱った書店もあるそうだ。
こうした傾向は一七七四年編纂された『ニューゲート監獄暦報』に遡ることができる。これはロンドンにある代表的な監獄の囚人の一代記を集めたもので、その後一世紀にもわたって版を重ね、当時聖書よりも普及していた。
またヴィクトリア朝のイギリスにおいて、殺人は国民的娯楽であった。事件の残虐性を煽った記事を人々は貪るように読み、芝居見物の気分で公開処刑に集った。
そのころ社会全体が豊かになってきて、読み書きができる人が増えてきた。そこで一般大衆に教訓を与える意味で、そうした読み物が作られたようだ。
「ところが、それにプラスして、欧米人には殺人そのものに対する興味があるのですね。もちろんただの切った貼ったではなく、ミステリアスな殺人、連続殺人、大量殺人といった人間の常識を越えたものに人気があります。肉食の文化と関係があるのでしょうか」
常識的に考えれば、酷たらしいものから目を背けたくなるのが人間の心理。だが、事実はまったく逆なのだ。
「ヴィクトリア朝以前は、死というものが日常と隣合わせに存在していた。病気、飢餓、事故。特別に殺人に興味を起こさなくても、死はうんざりするほど目についたのです。現代の先進国では人が死ぬのは病院の中。今の子供たちなど、死に触れる機会がほとんどないんじゃないですか。だからこそ殺人のニュースにひかれるのだと思う」
殺人は人間の本能か?
豊かさが、殺人に対する興味を高めているのだろうか。そしてそれと平行するように、殺人事件そのものも、豊かさに起因するものが増えている。
C・ウィルソンの『現代殺人百科』(青土社)の前書きにも次のような例があげられている。
八十年十一月ロサンゼルスでふたりの少年が、二十分足らずの間に四人を手当たりしだいに撃ち殺した。その三日後、信号で停車した車に三人の若い男が歩み寄り、運転していた男の頭を撃ち、笑いながら逃げた。
「退屈しのぎに人を殺すということが、本当にあるんです。その場合犯行はよりサディスティックになる。狭いところに閉じ込められた動物がお互いを殺し合うように、殺人も人間の本能なのでしょうか」
日本での殺人の件数自体は、減少傾向にある。ところがその中身はより凶悪になり、動機も不可解になっている。
「動機なき殺人といっても、実際に見ていくと動機はあるんです。ところが最近の犯人は、他人の痛みを感じていないと思われる者が多い。殺して相手が苦悶する姿を見て喜ぶといった事件が増えそうで、それが心配です」
日本の殺人の特徴のひとつとして、欧米の犯罪の後追いをしていることがある。宮崎事件に類似した幼児殺害はアメリカではずっと以前から問題になっていた。綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件にしても同様で、たとえば夫婦でひとりの女性を箱の中に七年間監禁し、その上にウォーターベッドを置いて寝ていたという事件があったという。
とすれば、日本でも退屈から人を殺すという事件がおこる可能性は大きい。
「殺人も社会現象のひとつです。醜いものは醜いものとして、ちゃんと見つめて乗り越えて行かなければならないと思います」 と河合さんはいう
人間の歴史のなかで、豊かになることは最大の目標のひとつであったはずだ。食べ物に困らないこと、暖かい衣服と住処を持つことさえ出来れば、人間は幸福になれると考えてきた。ところが、いざ豊かになってみたら、豊かさからくる不幸があることに気づいた。なんという皮肉だろうか。
考えてみれば、今の小さな宗教ブームも根は同じである。そこには生死に関わるような問題は見えてこない。あるのは孤独やなんとはなしの不安である。そしてそれだけに、解決は困難に思える。 前回の終わりに、人は誰でも幸せを追求するものだと書いた。でも、こうした殺人が増えてくるとしたら、ことはそれほど単純にはすまなくなってくる。
人類に共通の幸せなんてないのかもしれない。ただし、この問題は人類が共通して立ち向かわねばならない問題であるのは確かだ。
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