コンビニ感覚 Text by Kotaro Inaba
1993年6月に『コンビニエンス・マインド』(大蔵出版)という本を出しました。この本のなかでは日本人の宗教観をコンビニエンスという言葉で表現したのですが、ほんとうはもっと幅広く、人類の文明のひとつの方向性みたいなものを示す言葉としても考えていたのです。つまりこの文明はずっと“便利さ”というのを追求してきて、今はそれが先鋭化している。“便利さ”そのものは決して否定するべきものではないのに、それだけを追求してきた結果、大事なものを見失っているのではないか。
そのへんの、本では書けなかったところを、気楽に書いてみたいと思います。断片的な話で恐縮なのですが、読んでみてください。
で、いきなりなのですが、やっぱり宗教の話になりそうです。
最近、引っ越しました。二人目の子どももできて浅草のマンションも手狭になったのです。この家は面白い場所にあります。大きな神社の本殿の真裏、裏門のすぐ近く。隣には『コンビニエンス・マインド』にも登場した日本山妙法寺があり、朝の6時からうちわ太鼓とお題目の声が響きます。そこから3分ほど歩くと金光教の支部があり、踊る宗教・天照皇大神宮教の支部もあります。
さらに、隣の家のお嫁さんはエホバの証人、その隣はお不動さんの信仰があるとのこと。いわば神仏のメルティング・スポット。ないのは既成仏教の寺院だけなのです。どこにでもありそうなお寺がない、というのもヘンですが、このようにいろんな宗教の施設が混在しているというのが、実に日本的。コンドームとおにぎりを一緒に売っているのにも似た、まさにコンビニ感覚だと思うのです。
日本人の宗教感覚がムチャクチャだということは、よくいわれます。日本人の信仰は年末の一週間のうちに、キリスト教(クリスマス)から仏教(除夜の鐘)へ、さらに神道(初詣)へと3段階の変身を遂げます。ようするに節操がないのです。
ぼくたちの先祖は仏教と土着の神との折り合いをつけるため、本地垂迹説というまことに“都合のいい”理論を考え出しました。もともといた日本の神様は、仏様が衆生を救うために仮にあらわれたものとする解釈です。その後明治時代の神仏分離を経ても、その感覚は残っているのでしょう。
もっともコンビニ感覚については仏教そのものの問題もありそうです。ときどき仏教は果して宗教なのか、と思うことがあります。韓国では仏教寺院の裏には必ず道教の神が祭られているし、もっとも徹底した仏教国のひとつであるタイにおいても民衆の間には精霊信仰があります。スリランカでも村落では仏教とシャーマニズムの融合が見られるようです。仏教は、仏教だけで独立して存在することはできない宗教なのでしょうか。
その後日本仏教は本覚思想=山川草木悉有仏性という”ほとんどなんでもあり”の思想?を生み出し、日本人のコンビニ感覚は完成に近づきました。(本覚思想については、また改めて書きたいと思います)
「一切衆生悉有仏性」という言葉を聞いたことがありますか。仏性(buddha dhatu)というのは仏となる可能性のことだから、仏になれるのは人間だけではなく、動物も、自然の事物もことごとく同様の可能性があるという意味です。「草木国土悉皆成仏」なんていう場合もあります。こうした考えは本覚思想といわれ、「大乗起信論」に初めて現れ、日本天台宗を中心として発展していきました。ある意味では仏教の究極の教えであり、和歌・能・生け花・茶道などにも取り入れられています。
これってなかなかイイと思うでしょう。キリスト教のように自然は人間のために造られたなんて考えよりはずっと現代的だし、ジョアンナ・メイシーらのディープ・エコロジーの考えにも一直線につながると思います。でも問題がないわけじゃありません。この本覚思想は、けっこう批判の対象になっているのです。この考えを突き詰めると、あらゆるものが仏になれるということは、仏も迷っている人間も変わりないじゃないか、修業なんて必要ないじゃないか、ということになってしまうからです。実際そのように考え、仏凡不二、凡夫本仏論などと説く者もいましたし、ベンツを乗り回している日本のお坊さんたちは隠れ本覚思想家ともいえるかもしれません。
本覚思想はインドの仏教にはないものです。といっても日本で生まれたものではなく、中国の天台宗に起源があります。でも中国においては、仏の絶対の立場から見ると全世界が平等であるというレベルで、一本一本の草木が悟っているというほど極端にはなりませんでした。どうやら日本の本覚思想には、日本独特の思考が関わっているようです。
日本人の現実肯定的な側面が関係してる、という学者もいます。でもほんとうに現実を肯定しているのなら、成仏する必要なんてないような気もします。それは仏教伝来以前のアニミズム的な世界観と自然観、現世利益的傾向、組織内の和の指向と優柔不断さ、その他あらゆる日本的なものが仏教と合体してできた思想ではないでしょうか。その意味では日本の本覚思想は、最もコンビニエンスな思想かもしれません。
すべてのものが救われるというのは素晴らしい教えですが、その結果、平板な修業不要論に行ってしまうというのは、つまらないと思う。
ここで、救いをモノに置き換えて考えてみると、すべてのモノが手に入るというのは、人間にとって究極の幸せに思えます。でも現実には、24時間欲しいときに欲しいモノが手に入る世の中は、面白みのないものだった。モノがないときにはないなりの楽しみ方を知っていたはずなのに、今のぼくらは待ったがきかなくなっているのです。かといって貧乏を礼賛するのはいやらしい。これは微妙な問題です。
本覚思想は素晴らしい。でもそこから、さらに悟りの実感を深めていく方向へ行くのか、それとも修業不要論へ行くのかは、いい悪いではなく本人の選択です。
ぼく自身の実感でいえば、この世界全体が悟っているというのは分かるのですが、同時に諸行無常というどうしようもなく暗い深遠があるという思いも頭を離れません。この矛盾したふたつの世界観をなんとか統合できないか、というのが今の課題です。ちょっとコンビニエンスな願いでしょうか。
実は前々からCDとレコードの問題について書きたいと思っていたのだが、新聞に面白い記事を見つけた。元音楽教師の富田覚というひとが書いた「CDに隠されていた欠陥」(朝日新聞94年3月19日朝刊)という記事だ。約10年前に、夢の音楽メディアとして登場したCDだが、そのデジタル録音された音は「ピッチ」が破壊されていて、とても音楽と呼べる代物ではないというのである。ピッチというのは音程、つまり音の高さ。これがCDの場合は破壊されているので、「CDの音には半音近い幅があり、一定のピッチはない」という。
僕が聴いている限りでも、レコードの音とCDの音は全然違う。同じ録音を聴いても、レコードは繊細でいて力強く、雰囲気がある。CDの場合は単に音を聞いているという感じがする。もちろん実験したわけではないので正確なことはいえないのだが、このままCDが普及してレコードが駆逐されていけば、もう音楽を聴くことはあまりなくなってしまうだろうと思っていた。もっともCDでしか手に入らない貴重盤もどんどん出てきたし、そのうちCDのお手軽さに心を引かれて、すっかりレコードとは疎遠になりつつあった。逆に世間のマニアが高価な初回プレス物などに殺到するという風潮にも嫌気がさしていた。
そこへこの記事である。もちろん前からCDに記録されている周波数帯域は20ヘルツから2万ヘルツしかなく、レコードのほうがはるかに広い帯域をカバーしているということは知っていた。しかしその範囲であればさしたる問題はない物と納得していたのだ。もしCDの音が欠陥品だとすれば、ぼくのコンビニ理論に新たな展開が生まれると思った。
というのも、アナログとデジタルの問題というのは、それこそコンビニ感覚に関わる大問題だからだ。アナログ・レコードの特徴を上げれば、自然に近い、手触りがある、いい物と悪い物の差が大きい、寿命がある、取り扱いが難しいといったところか。CDの場合はその逆で、先端科学、完璧な形での複製が可能、そこそこのハードでもそれなりの音は出る、理論上は寿命がない、イージーハンドリング。
このCDの特徴はぼくが思い描いているコンビニエンスな社会には不可欠な要素。人間が自分の都合だけを考えて、頭で作り出した便利な社会は、イコール、デジタル社会になるだろうと思っていた。
そのデジタルがちょっと問題だというのである。人類の輝かしい未来を約束するはずだったデジタル技術が、実はむしろ人間に有害だという。コンビニ社会の到来は、幸いにも夢物語に終わるのか。
そう思った矢先、数日して同じ朝日新聞に反論が掲載された。富田さんのいうとおりCDにはピッチがないというなら、ピアノの白鍵と黒鍵が同じ音になってしまう。それはどう考えてもありえないし、採譜の専門家は今では皆CDから採譜する。そのCDが音楽でないとするなら、採譜されたものも欠陥音楽のはずだ。しかし今のところ楽譜についてそれに類する苦情がきたことはない、という。
うーん、どうも良く分からない。両者の言い分はまったく折りあいそうもない。それに、どちらもその分野の最先端の研究者ではないようだ。もっと音響理論の専門家による研究はないのだろうか。人間にとって、その感性と創造性にとって、かなり重要なことなのに、きちんとした研究がされていないとしたらこれは変なことである。
もしかしたらCDを開発したフィリップスとソニーの陰謀? まさかね。
●この記事はもう2年以上前に書いた物だが、このCDとアナログ・レコードの問題はいまだにきちんとした結論が出ていない。こんな大事なことがなんとなく、やりすごされてしまうなんて、う〜ん、これこそコンビニ感覚である。
パソコン通信というものを始めて2年くらいになる。最初の熱は冷めた感じがあるけれど、仕事の関係もあって、一日2回はNifty-Serveにアクセスしている。そこで感じるのは、パソコン通信というものはとことんコンビニエンスなメディアだなあということ。
まず、机の前に座っていながら、全国どことでも通信できる便利さ。全国どこにいても、市内通話の料金で、アクセスできる。たとえば日本からクリントン米大統領に手紙を出すなんてことも可能なのだ。電話やファクスと違って自分の都合のいい時間に通信できる。相手もまた都合のいいときに通信を受け取ればいいのである。もし相手の手紙を受け取りたくない場合は読まなくてもいいのだし、返事をしたくないときは無視すればいい。パソコンの機種が違っても問題はないし、入力方法ももちろん関係ない。
伝えることができるのは今のところ文字情報と画像情報である。Nifty-Serveのような商業用ネットワークの会議室=フォーラムでは、文字情報がほとんどになる。このことには利点と欠点があるように思う。まず利点についていうと、あるていどこちらで文章をまとめてから送信できるため、自分の考えをきちんと知らせることができること。すでに自分で書いた文書や他人の書いた文章からの引用も自由自在。電話と違って記録に残すことができるので後でのトラブルの心配は少ない。
文字のみによる通信の欠点としては、理論的になりすぎる傾向があること。理論的であることはもちろん悪いことではないのだけれど、理論に走りすぎるとかえって自分がほんとうにいいたいこととは違ってきてしまうことがある。さらに理論の積み重ねが理論による反論を呼び、それがやがて揚げ足取りに発展し、理論のやりとりだったものが結局は感情のぶつけあいに終わってしまうことも珍しくない。普段ぼくらがひとと会って話をするときに「内容」以外のところ、たとえばそれをいうときの表情、しぐさ、目の動き、双方の関係性、でいかにコミュニケーションを作り上げているかというのが分かるエピソードだ。
その欠落部分を補うために、パソコン通信者たちはさまざまなレトリックを生み出している。(^_^)のようなフェイス・マークもそうだし、自分のことを多少口は悪くても憎まれないキャラクターとして、相手に認識させるということもしばしば行われる。きわめてコンビニエンスなレトリックという他はないが、ストレートな意見表明やストレートな感情表現は、嫌われる原因である。
文字のみによるコミュニケーションのもうひとつの側面は、顔が見えないということ。顔が見えないから、たとえ相手がどんな大物でも、恐れずに発言することができる。一方では発言のニュアンスが伝わりにくい。人は同じせりふを、笑いながら、泣きながら、顔をひきつらせながらいうことができるのだ。顔が見えたってごまかすことは可能なのに、文字だけで相手がなにを考えているか即座に見抜くということはほとんど不可能。POP心理学でいわれるように、人間は自分の思いを言葉=理論の部分だけで表現するのではない。そのときの服装、姿勢、しぐさ、表情、声のトーン、目の動きなど、あらゆるチャンネルを使って表現するのだ。そういう部分がパソコン通信では、どうしても欠落してしまう。
あえて好意的に仮定するならば、パソコン通信とは、そうしたモノラルな表現手段を得意とする人間たちのメディアなのかもしれない。チャンネルを言語に限ってしまったほうが、居心地がいいのだ。
パソコン通信にくわしい友だちに聞いてみると、パソコン通信というのは徹底的にオタクの世界であり、ふつうの人間を相手にしている気もちでいると、突然相手が怒りだしたり、脅迫状めいたものを送ってくる場合もあるという。コワイ。
さて、パソコン通信はこれからどうなるのだろうか。今、世の中は猫も杓子もマルチメディアで騒いでいるが、もっとマルチメディア的な通信手段が開発されれば、今のパソ通は消えてしまうのだろうか。それまでの、あだ花メディアなのだろうか。蛇足ながら、パソコン通信者は「パソコン通」信者につながる。やはりメディアは宗教なのだ(^_^;
この前、京王プラザの方向にむかって新宿を歩いていたら、地下道の様子がずいぶん変わっているのに気がついた。地下道に沿って点々と存在するホームレスたちの段ボールの家が、グレードアップしているのだ。素材は段ボールそのものなのだが、材料をふんだんに使って、作りもしっかりしているし、かなりぜいたくな作りのものもあった。段ボールに穴を開けてビニール紐で補強してあるものもある。
そこに住んでいる人々もいわゆるホームレスのイメージとはちょっと異なるひともいた。ごく普通の背広にネクタイというのが何人かいたのだ。おそらくサラ金から逃れてきた男たちだろうが、ホームレスの世界も、だんだんと優雅になっているのだろうか。
そういえば地下道や公園で野宿しているひとたちに対して、「ホームレス」というどちらかというと優雅なひびきの呼称が使われるようになったのはいつのことだろうか。それまでは単に「浮浪者」とか、「アオカン」と呼ばれていたはずだ。差別語の問題とかでホームレスと言う当たり障りのない言葉が使われだしたのだろうが、どこが少しピントがはずれているような気もする。彼らが青空の下で寝ているのは、単に家がないから仕方なくそうしているとは限らないからだ。浮浪者のなかには、何度施設に収容しても、いつのまにか抜け出して野外生活に戻ってしまうひとがいるという。それがある種の精神的な障害から来るものにせよ、彼は外で暮らしたいから外で暮らしているのだ。別に家が無いからではないのだ。
空の下で暮らすことは大変なことも多いだろうが、ある意味では現代社会というがんじがらめの状態からは自由でいることができる。その部分を隠蔽して、家が無いから可哀想という一面的な見方がまかり通っている。
ホームレスというきれいな言葉によって、ホームレスたちの生の本質が隠されてしまうのだ。
ところで今回なぜ彼らのことを書いたのかというと、コンビニエンス・ストアも彼らのお世話になっているからだ。みなさんはコンビニの弁当が売れ残ったとき、どこへ行くかご存じだろうか。まあ、アルバイト学生の腹のなかに収まることも多いのだが、実はごみ箱周辺の掃除と引き替えに浮浪者たちの手に渡るケースも多いのだ。あるコンビニでは毎日決まった浮浪者がやってきて掃除をし、弁当を受け取っていくと聞いた。
一見実に清潔極まりないコンビニも、彼らの力を借りて初めて本来の姿を保てるのだ。
いくら人間がコンビニエンスな方向へ走ろうとしても、それを支える影の部分が絶対に必要なのだ。