ヴェトナムの宮沢賢治
ティク・ナット・ハンの世界

文/中野民夫(Web of Life)
「賢次の学校」連載「ディープエコロジーのこころ」より


Part1 「理解」と「愛」を実現する道

1.食前の三回の深呼吸

 わが家では、食事を始めるとき、すべて準備が整って食卓に皆が着くと、しばらく目をつぶって3回ほど深呼吸をして落ちつき、それからお互いに、にこにこと微笑みあってから「いただきまーす!」をするようにしている。特別なお祈りをするわけではなく、ただ黙ってする数呼吸とにこにこ、これが実によくて、わが家では定着している。8才と3才になった子どもたちも習慣になって、目をつぶってそれなりに神妙にやっている。お客さんが来ているときの、「にこにこ」などは興奮して大騒ぎである。

 夕方といえば、子ども達は遊びやテレビで大騒ぎ、母親はあわただしく食事の準備、父親のぼくは時々珍しく早く帰ったとしても、外の世界のストレスや忙しさを連れて帰ってくたくた。そんな、状況で夕食に突入しても、お互い気持ちはばらばら、何を食べているかろくに味わいもせず、あわただしく食べ散らしてしまいがちだ。しかし、まず、外と内の雑音をすべてを止めて、食卓に全員そろい、ちょっと目をつぶって呼吸するだけで、がらっと雰囲気が変わる。一瞬のうちに落ちついて、ともに食事を味わい楽しむ雰囲気に転換する。

 会社やそれ以外の仕事でいつも忙しく走り回っているぼくは、静かな瞑想の時間などとても取れないが、この時折の食前の二十秒が、唯一の「われにかえる」ひとときだ。目をつぶって呼吸に意識を向けるだけで、他になんのルールもないが、実に貴重な瞬間になっている。

 ディープエコロジー・ワークの「進化の記憶」という誘導瞑想に感銘を受けた頃は、少々大げさだが、こんなことをイメージしていた。初めの吸う息で一気に宇宙の始まりの一点までいのちの歴史をさかのぼり、、吐く息でどんどん展開する全宇宙史をたどって宇宙の贈り物である今の自分に戻ってくる。二回目の吸う息で無限の宇宙空間まで自己イメージを広げ、吐く息で万物に溶け入る。三回目の吸う息で今ここ自己を感じ、吐く息で目の前の食事をともにする存在のいとおしさを感じる。そして、ゆっくり目を開け微笑む。わずか二十秒で宇宙の始源や無限の彼方、そして自分自身へと旅してしまっていた。

 こんな貴重な「食前の三呼吸」を教えてくれたのは、ヴェトナム出身の仏教者、「ティク・ナット・ハン」という人だ。カリフォルニアに家族で住んでいた時に、彼の5日間のリトリート1 に参加し、食べることも瞑想として沈黙で味わった経験や、彼の著作の次のようなことばから応用して、わが家でやりやすいスタイルで取り入れたのだ。

 毎日の食事を気づきの心をもって食べることは大切なことです。テレビを消して、新聞を置いて、皆で協力してテーブルを整えれば、準備は5分か10分で済みます。こんな時間はとても楽しいものです。さて私たちは食事がテーブルに並び、皆が席に着くと、「息をすって私は静か。息を吐いて私は微笑む。」と、三回息の観察をします。このように息を見つめてゆくと、すっかり自分自身に戻ることができます。

 次に、テーブルについた仲間と触れ合うために、ひとつひとつの入息・出息を確認しながら一人一人を見つめてゆきます。食卓の仲間を見るのに二時間もかかるものではありません。心が鎮まっていれば、一、二秒もあれば充分です。もし五人家族ならば、この「見つめ気づく」練習は、五秒か十秒で充分です。

 呼吸を整えると、微笑みが湧いてきます。他の人と共に沼沢を囲むとき、偽りのない友情と理解の心を微笑みに託して送ることができます。とても簡単なことなのに、これを行う人は少ないのです。.....

 呼吸と微笑みの練習が終わると、次に食事を見おろして、食物のいのちを思います。食物は、私たちと大地のつながりを教えてくれます。一口ずつかみしめると、太陽と大地のいのちが伝わってきます。.....一切れのパンの中に全宇宙を見いだし味わうことだってできるのです。.....

 家族や友人と一緒にテーブルを囲んですばらしい恵みの食事を楽しむことは、誰にでも許されていることではありません。世界には飢えている人がたくさんいるのです。私はご飯やパンをいただくとき、自分がとても恵まれているのだと気づきます。食べるものすらない人たち、共に食卓を囲む家族や友人のいない人たちのことを思います。これはとても深い気づきの練習です。このようなことに気づいていくのに、教会やお寺に行く必要はありません。食卓について、今ここで練習ができます。気づきの食事は、慈愛と理解の種を育て、飢えた孤独な人々を助ける力を与えてくれます。

 食事の前のひとときが、世界の豊かさはもちろん、苦しみをも感じるこんなにも深いひとときになりうるのか。ティク・ナット・ハンは、とてもわかりやすい言葉と具体的なやり方で、忙しい日常を送る現代人が、自分自身や目の前の人たちの存在、自然や宇宙とのつながり、そして世界の様々な問題にまで気づいていく道を示してくれる。


2.私の微笑みと家族の平和

 忙しすぎる日常から自分自身を取り戻し、微笑むことができれば、その微笑みは伝染する。こちらが仕事や人間関係でごたごたを抱えて眉間にしわを寄せうつむいていても、家に帰ってドアを開けるやいなや、子ども達に飛びつかれ、「おかえりなさい」とにこにこされれば自ずとこちらもゆるんでしまう。子どもが元気で笑顔に満ちていることほど家庭を平和で幸せにする術はない。そして逆に、子どもも親の機嫌の影響をもろに受けるのだ。

 みずからが幸せで平和でないならば、愛する人たちや、同じ屋根の下に住む人たちとさえ、平和と幸せを分かちあうことができません。平和で幸せであるならば、私たちは微笑し、花のように咲きひらくことができます。家族全員、社会全体が、私たちの平和の恩恵を受けます。

 私たちは、忙しさやテレビなどの外側の気晴らしばかりで、みずからや同じ屋根の下の家族と共にいることになれていない。そんな私たちがみずからを取り戻す一つの方法が、食前の三呼吸であり、様々な瞑想だ。一般に、「瞑想」というと、俗世を離れ、特別な姿勢で何十分もおし黙って座ることをイメージするが、ティク・ナット・ハンは、呼吸に意識を向けること、歩くこと、食べること、お皿を洗うこと、電話の取り方、渋滞での赤信号とのつきあい方、など実に様々な形の瞑想法を教えてくれる。(いずれ誌面が許せば紹介したい。)「瞑想」について、彼は端的にこう言う。

 瞑想は、みずからのからだ、感情、心、さらには世界で、何が起こっているかを、はっきりと知ることです。

 毎日、四万人の子どもたちが、飢餓で死んでいます。超大国が、今や五万発以上の核弾頭をそなえています。これは、私たちの惑星を何度も破壊するに足るほどのものです。

 一方では、日の出は美しく、今朝、壁ぎわに咲き開いたバラの花は、奇跡そのものです。人生は、とても嫌なものであるとともに、素晴らしいものです。

 瞑想を行うということは、この両面とかかわることです。

 こういうことをさらっと言ってのけるティク・ナット・ハンが、ぼくは大好きだ。


3.みずからと社会に関わり行動する仏教者

 宮沢賢治は、死に臨んで、法華経一千部を知己に配布するよう父に遺言して亡くなったほど、仏教、特に法華経の信者だったことはよく知られている。彼の膨大な詩と童話の作品は、仏教の精神を彼なりに伝えるために書かれた、と言っても決して過言ではない。

 自己を深く探求する一方で、他者や生きとし生けるものの幸せを願って奔走した賢治。しばしば「菩薩」と呼ばれる、仏教者としての宮沢賢治を思うとき、ティク・ナット・ハンのことを重ね合わさずにはいられない。時代も場所も状況もずいぶん違うが、真摯で確固とした生き方、自然と深く響き合う詩的な感性、その時代を苦難をもって生きる人々への献身、素朴で飾らない人柄、小柄で丸い風貌(写真を見比べていただきたい)、など共通する点は多い。

 連載「ディープエコロジーのこころ」、今回と次回は、ヴェトナムの宮沢賢治ともいえる、ティク・ナット・ハンについて紹介したい。

 ティク・ナット・ハンは、1926年中部ヴェトナム生まれ。現在はフランスのボルドー近くにプラムビレッジという仏教コミュニティを作り、欧米人に仏教を指導したり、世界中の難民を救済する仕事をしている。禅僧であり、詩人、平和活動家でもある。

 16歳で出家し、早くから青年の社会奉仕の組織や仏教大学や出版社を作るなど活躍していたが、ヴェトナム戦争のさなか、寺にこもって修行を続けるべきか街に出て爆撃で苦しむ人々助けるべきか悩んだ末、その両方をやる、つまり寺を出て人々助けるが、それを気づきの心を保ちながら行うことにした。こうして、みずからと社会に関わり「行動する仏教」の一派を創設し、人々の救済や平和のための活動に奔走した。南北双方の苦しみを理解し、どちらにも組みせぬ中立の立場から和解に向けて活動したが、南北双方から敵視され、激しい弾圧や虐殺など大変な危険を強いられ、多くの仲間が死んだ。焼身自殺で身を賭して平和を訴えた僧侶もいたという。

 1966年、アメリカに渡り、ヴェトナムの苦悩と願いを語り、和解による戦争の終結を強く訴え、多くの人々に深い感銘を与えた。深く心を打たれたマルチン・ルーサー・キング牧師によって、「彼ほどノーベル平和賞にふさわしい人物が他にいるだろうか」と候補に推薦されたほどだった。その後、パリ平和会議に向けてヴェトナムの仏教徒平和代表団を組織。しかし、1973年のパリ平和宣言の調印後、その率直な平和提言と影響力の故にヴェトナム政府から帰国を許されず、今に至るまで亡命生活を強いられることとなる。

 73年からパリ郊外に小さな共同体を作ってシャム湾の難民の救済活動などに従事するも、タイやシンガポール政府の阻止にあい、しばらく瞑想や執筆など静かな生活を余儀なくされた。1982年にニューヨークの国際会議に参加して強い印象を残し、その年の暮れにプラムビレッジを創設。翌年からはほぼ隔年でアメリカ招かれるようになり、各地で講演やリトリートを開催している。

 欧米、特にアメリカでの人気はうなぎ登りで、英文での書籍も二十冊を越え、サンフランシスコなどでは講演会に数千人の人が列をなす。フランスのプラムビレッジでの夏のリトリートには、世界中から千人の人が集うという。

 著作はヴェトナム語・フランス語をいれると約80冊にのぼり、その詩的でわかりやすい語り口と現代人にも実践的な瞑想法で広く受け入れられ、みずからと社会に関わり「行動する地球仏教」(Engaged Buddhism)の指導者として、欧米では、ダライ・ラマと並び称される大変な信望を得ている。

 そして、彼は欧米のお弟子さん10人と共に、この春、いよいよ来日するのだ。

 「行動する仏教」と言っても、社会的な活動に走り回るだけではもちろんない。冒頭の気づきの心をもってする食事のように、まず自分自身と自分の日常につながり関わることを大切にしている。そして、自分や自分の日常が、より大きな社会や自然と無縁ではないことをはっきり知っていくのだ。


4.「インタービーイング」:一枚の紙に雲を見る

もしあなたが詩人なら、この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいるのをはっきりと見るでしょう。

 「ディープエコロジー」について語る連載の中で、仏教者ティク・ナット・ハンを取り上げるのは、生命や万物のつながりあいについて、彼は大変明解に解き明かしてくれるからだ。

 日本では最も有名な「般若心経」の解説を、彼はこのように詩的に始める。7年間勤めた会社を休職して、家族でバークレイに移り住んだ89年の夏、縁あってシャンバラ・ブックストアでこの般若心経の解説書6 の冒頭を目にした時の衝撃は忘れられない。「一枚の紙に雲を見る?えっ、どういうこと?」思わず目が釘付けになった。

 雲がなければ雨はないでしょうし、雨がなければ木は育ちません。そして木がなければ私たちは紙を作ることができません。紙が存在するためには雲はなくてはならないものなのです。もし雲がなければこの一枚の紙も存在できません。ですから、雲と紙は『相互存在(Interbeing)』していると言うことができます。

 なるほど、そういうことか。雲、雨、樹々、そして紙。

 ティク・ナット・ハンの一枚の紙に雲を見る感受性はそこに留まらず、さらに深く様々なものを見いだしていく。さらに深く見ていけば、紙の中に、森を育てる太陽の光を見る。木を切りだした木こりを、その木こりを養ったパンを、パンの原料となった小麦を見る。木こりを育てた両親やその先祖たちを見る。さらには、その紙を知覚している自分自身をも見いだしていく。こうして、時間、空間、大地、雨、鉱物、陽光、雲、川、熱、あらゆるものがこの紙と共に存在していることを知るに至る。

「存在する(to be)」ということは、「相互存在する、共に在りあう(inter-be)」ということなのです。あなたは、あなた一人だけで存在することはできません。

「インタービーイング(Interbeing)」 という言葉は、ティク・ナット・ハンの重要なキーワードの一つだ。あらゆる物事は他から切り離されて単独であることはなく、多くのことと相互に関係しあい依存しあって存在している。そういう在り様を、彼は"inter"(相互に、間に)という接頭語と"being"(存在する)という動詞を組み合わせて"inter-being"という新しい造語で表現する。まだ辞書には載っていないが、いつの日か載るようになることを願っているという。当然、日本語の訳も定訳があるわけでなく、「相互存在」とか「ともに在りあう」などと訳されている。

 いのちやあらゆるものごとが、相互に関係しあい依存しあいつながりあっていることを、「ディープエコロジー」というのは前号で見てきたが、その意味では「ディープエコロジー」と「インタービーイング」は同義ともいえる。

 西洋近代の影響を受けてきた私たちは、「自分」というものを、皮膚に囲まれた身体の中や殻をかぶった自己に固定的に押し込めがちだ。切り離され、孤立した自己。そのことが、現代の様々な病理の元になっている。しかし、本来の「私という現象」は、もっともっとゆるやかで大きな「関係性の交流の場」なのだろう。

 わが身に流れる暖かい血液は、太古の海から人類に至る生命の歴史、そして先祖や親の中を、一度として途切れることなく脈々と流れて伝わってきているわけだし、今この一瞬も、私たちは空気や食べ物を通じて全生態系から支えられている。私たちは皆、それぞれの境遇の中で多くの人の影響や助けを得て、今ここにある。毎日の生活も、家族や仕事や友人の人間関係の中で、泣いたり怒ったり喜び合ったり、相互に関係しあいながら送っている。この時代の世界の状況とも決して無関係ではいられない。また、親の過度の飲酒や子どもへの暴力、きちんと正直に向き合えない夫婦の問題などが、無意識のうちに子どもに影響を与え、問題が受け継がれ、代々再生産されていく。まさに、なにごともインタービーイングしているのだ。


5.理解すれば、愛さずにはいられない。

 万物を、このインタービーイングの目でより深く見ていくことができれば、もっともっと他者や自分を理解すること、その結果として愛することができるのだろう。

 ティク・ナット・ハンは、深く「理解すること」と「愛すること」について、二つはひとつだとして、こんなたとえから語り始める。

 ある男の子が、朝、目を覚まして遅くなっていることに気づき、あわてて妹を起こす。妹は機嫌が悪く、「うるさい。やめて!」と入って兄を蹴る。当然彼も「親切に起こしてやっているのに」と怒る。母親に言いつけにいくか、蹴り返そうとする。しかし、その時彼は、妹が夜中にひどく咳をしていたことを思いだし、彼女が病気らしいことに気づく。「風邪をひいているに違いない。だから、わがままなのだろう」と。この瞬間、彼はもう怒っていない。理解し、目覚めている。

 理解するとき、あなたは愛さざるを得ません。怒ることができません。

 理解を深めるためには、生きとし生けるものを慈愛の目で見ることを、実践しなければなりません。

 理解するとき、愛します。

 愛するとき、自然に、あなたは、人々の苦しみをやわらげる行ないをします。

 ティク・ナット・ハンによると、ブッダが説いた教えとは、「理解と愛を実現する道」にほかならないという。「理解し、愛し、理解と愛を真実のものにするための方法」だと。そして、私たちが物事を理解している「認識」について、こんな風に語る。

 日常生活において、私たちは多くの誤った認識をします。もし私があなたを理解しないなら、あなたに対して、つねに怒りを抱いているかもしれません。私たちは、互いに理解し合っていることができません。これが人間の苦しみの主な根源なのです。.....

 認識が正しくなければ、悪感情を引き起こします。誤って、苦しみや悪感情に陥らないために、ものごとを深く見て、その真のありようを理解する方法を、仏教は教えます。.....

 目覚めた人は、「あれがああだから、これがこうだ」と教えます。わかりますか。

 あなたが微笑するから私は幸せです。これがこうです。だから、あれがああです。あれがああなのは、これがこうだからです。これは、「相互依存的同時生起」(dependent co-arising) と呼ばれます。.....

 私の安らかさは、私の幸せは、あなたに、大いに依存しています。あなたの安らかさ、あなたの幸せは、私に依存しています。私は、あなたに対して責任があり、あなたは私に対して責任があります。

 また、サーカスで、父の額の上に長い竿を立てて、娘がそのてっぺんまで登る演技をする父と娘の話を仏典から取り上げる。うまく演技をするために、父が、「二人は互いの面倒を見なければならない。」と言うのに対し、娘は、「二人が、それぞれ、自分の面倒を見なければならない」と言う。

「演技の最中、お父さんは、自分の面倒だけを見て下さい。お父さんが、油断せず、安定していれば、私が助かります。竿に登るとき、私が注意して、自分の面倒を見れば、間違いを起こしません。」

 相互に依存していることを理解するのが大切だというと、もともと「個」が自立していない日本では、悪しき「もたれあい」になってしまいかねないが、そうではない。人のことをとやかく言うよりも、まず「私がみずからの面倒を見、あなたがみずからの面倒を見ることが必要」なのだ。こうして、互いの役に立つ。こういう認識の仕方が、相互依存的同時生起の原理に基づく、認識についてのブッダの教えだという。


Part2 新たなコミュニティ、プラムビレッジ

1.プラムビレッジの夜明け

 遠くで鐘の音が聞こえた。朝6時の起床の合図だな、と思いながらゆっくり夢から覚めてくる。あたりはまだ真っ暗だ。簡素なベッドからずり落ちた寝具を引き上げ、また眠りの誘惑へと駆られるが、ここがプラムビレッジであり、もうすぐ貴重な朝の瞑想が始まるのだ、と思い直してゆっくりと起きあがる。天窓からまだ星空が見える。

 2月の夜明け前は南フランスといえども寒い。しっかりと身支度して外へ出る。真正面に煌々と明るく輝く下弦の月が空に残り、あたりを青白く照らし出している。葉を落とした大きな菩提樹の見事な枝振りがシルエットで空に伸び、昨夜の雨が作った水たまりが、明るく月を照り返して輝く。右側に、石造りの素朴な瞑想ホールが存在感をもって浮かび上がる。

 静かである。風もなく、あたりは幻想的な月の光にひっそりと輝いたまま、何ものも微動だにしない。完璧な静寂。完璧な美。完璧な時・・・・・ああ来て良かった、と思う。

 また、鐘が鳴る。ふと人の気配がし始め、あちこちから厚着で膨れた人影がゆっくりと集まり始める。影同士が角で出会うと、沈黙のままゆっくり向き合い、合掌して一礼しあってからまた歩き始める。ろうそくが揺れるトランスフォオーメーション・メディテーション・ホールに次々と入っていく。

 薄明かりの中に、薄い四角の座布団の上に丸い坐布がきちんと並んでいる。適当に好きな所を見つけて、坐布の具合を整え、石を積み上げただけの素朴な壁に向かって座る。しばらくして次々とやってきた人が座り終わり、再び静けさがあたりを包んだとき、また、鐘が鳴り響く。余韻が染みとおる。突然、ヴェトナム語のお経が始まりヴェトナム人の若い僧侶たちが唱和する。短くすぱっと終わり、いよいよ「シッティング・メディテーション」と呼ばれる瞑想に入る。

 一回約三十分、終わると皆で立ち上がり、右回りにゆっくりゆっくり歩いて一周。そしてもう一回座る。そのころには、徐々に明るくなり、明けゆく光の中にくつろぐ。

 こうして、プラムビレッジの朝は始まった。


2.南仏のプラムビレッジへ

 ヴェトナム出身の仏教者・詩人ティク・ナット・ハンとそのお弟子さんたち10名を、この春に日本にお招きするプロジェクトを進めている。彼らが暮らしているのが、南フランスのプラムビレッジという仏教コミュニティなのだ。2月の半ば、なんとか一週間の会社の休みをとり、来日企画のための様々な打ち合わせ資料を持って、プラムビレッジを訪ねた。

 パリに着いた夜は旧友のアパートメントに一泊させてもらい、翌朝モンパルナス駅からフランスの誇る高速鉄道TGVでボルドー行きに乗る。広々とした田園風景の中を南西に約3時間でリボーヌという駅に到着。そこから東方面へ乗り換え、葡萄畑の中を四十分位で、サンタ・フォア・ラ・グランデという小さな駅に着く。ここがプラムビレッジの最寄り駅だ。

 リボーヌからの各駅停車の電車で、ぼくの訪問に合わせてドイツのリトリート2 から帰ってきたジーナさんと偶然出会った。彼女は、かって福井県の宝慶寺僧堂という曹洞宗のお寺で三年ほど修行していた尼僧で、ティク・ナット・ハンに出会ってからのこの五年はプラムビレッジに暮らし、そこを拠点にヨーロッパ各地で仏教を指導している。アイルランド生まれのオランダ育ちで何カ国語も話し、ホテルのマネジメントやヨーガ教師などをやっていた方で、大変さばけたやり手でもある。今春、台湾、韓国、日本、中国を回る彼らのツアーの日本担当者であり、ぼくの打ち合わせの相手である。


3.簡素な石造りのコミュニティ

 彼女の迎えの車に便乗してプラムビレッジに向かう。プラムビレッジは、十二年の歴史を持つが、今はアッパーハムレット(上の村)、ロウワーハムレット(下の村)など何カ所かの集落に分かれている。まず、男性が中心に暮らすアッパーハムレットに向かう。あたりは冬枯れで裸の枝だけだが、一面の葡萄畑であることがわかる。ときどきプラムの畑もある。二十分ほどで、大きな菩提樹の木の前の駐車場に着いた。夏は、大勢のリトリートへの参加者が木陰で休む大きな木だが、冬で葉っぱは一枚もない。

 カリフォルニアで、ティク・ナット・ハンのことを初めて聞いて関心を持ったのは、一九八九年だから、六年経ってようやくここプラムビレッジへたどり着くことができた。しかし、車から降りて見回すアッパーハムレットは、簡単な石造りの建物がいくつか並ぶとても素朴なところで、少々拍子抜けするほどの簡素さである。インドで訪れたいくつかのアシュラムのような仰々しい門や神殿もないし、カリフォルニアのリトリートセンターのような、白木を生かしたウッディで明るくおしゃれな建物があるわけでもない。神戸の被災地を見てきた目には、石を積んだだけの壁は、あまりに弱々しく頼りなげに映る。

 帰る直前に、ティク・ナット・ハンが、30年以上も前に、初めてヴェトナムで作ったお寺の写真を見せてもらって、深く納得がいった。東南アジア諸国では、寺院はどこでも大変きらびやかに立派に作られているが、当時既成の仏教に批判的だったラディカルな彼は、藁葺きのような粗末な小屋に、立派な祭壇など何もない素朴なお寺をあえて作ったのだ。そうなのだ、当然なことだが、お寺や教会に豪華な施設はいらないのだ。師や教えや仲間を通して自分と向き合う場があれば、それでいい。このプラムビレッジも、廃村の朽ちた家畜小屋を皆で修復しながら作り足してきたものだという。

 また、ぼくの中にも、かってインドを旅していた頃のような、どこかに行って誰か特別な師に出会って何か特異な瞑想体験でもすれば、一気に道が開けるのではないか、悟ってしまえたりするのではないか、という甘い期待ももうなかった。毎日を一歩一歩深めていく以外に、何物もどこへも連れていってくれない、と思うようになっていた。ただ、孤立していては気づきもなかなか深まらない。お互いがお互いの気づきを深め合う「サンガ」=「学びの共同体(ルビ:コミュニティ)」のあり方には大変興味がある。それを実地に体験することがプラムビレッジの訪問の一つの理由であった。


4.ゆっくり歩く人々

 人々は、本当にゆっくり歩いている。ティク・ナット・ハンの主要な瞑想法の一つが、一歩一歩呼吸に合わせてゆっくり歩く「ウォーキング・メディテーション」だが、ここではいつでもその感じで丁寧にゆっくり歩いているのだ。そして、人に出会うと、黙って合掌して一礼し、にこやかに微笑み合う。ぼくもいきなりそのようにして人々に迎え入れられた。うーん、前のめりに走るように歩いている東京のビジネスマン生活から、一気に別世界へ来てしまった。しかし、「これこれ、これがプラムビレッジなんだ」と嬉しくなる。「人の振り見てわが振り直す」というが、人がゆっくり歩いてるのを見て、こちらもはっと気づいてペースを落とす。こうして一人の修行が他の人の気づきになり互いに気づき学び合うのが、サンガなのだ。


5.様々な居住者

 アッパーハムレットには、訪問したときには35人の男性がいた。約半数が、ヴェトナム人の若い僧侶だ。23歳のハップ・ニエムにある日話を聞くと、彼は、80年代初頭にまだ子どもだった頃、ボートピープルとして命を懸けて祖国を脱出し、何日も漂って香港に流れ着き、そこからカナダに移住していたという。すさまじい苦難をかいくぐって生き延びたのだろう。それが今、縁あって祖国の偉大な師ティク・ナット・ハンのもとに来て出家し、フランスの田舎でヴェトナムの伝統を学び継いでいるのだ。また、僧衣がとても様になっているティエン・フォックは、なるほど8歳で出家し、最近ヴェトナムから直接やってきている修行僧だ。また、高齢の方では、77歳になるバック・トゥじいさんは、ヴェトナムの琴を弾くかわいい名物じいさんだ。なんと、かって1945年以前に日本軍がいた時覚えたという日本語でずいぶん話してくれた。みんな素朴で真面目で暖かい人たちだ。

 ヴェトナム人以外にも、様々な国の僧侶がいる。こちらは様々な人生経験を経て出家した方が多く、年齢は様々。日本の岡山の曹源禅寺で8年も修行していたドージさんは、四十代後半のやさしいフランス人。一緒に食事当番をした背の高いアイバーは、五十前後のアメリカ人。大柄なスカチートはまだ若いドイツ人。今や仏教はアジアの枠を超え、世界中に広がっているのが実感される。

 また、僧を中心とした居住者だけでなく、冬の間も一週間単位のリトリート参加者として、世界中から訪問者が来ていた。ヴェトナム人のヘンリーは、やはり難民としてカナダに移住し、今は歯科医になっている若者で、数カ月の滞在中だった。背中までの長髪を束ねていてネイティブ・アメリカンの雰囲気を漂わせていたジョゼフは、中国系のブラジル生まれで、アイルランドとイギリスで育ち、今はカリフォルニアを拠点にダコタ族の長老のサポート活動で世界を回っている。全くユニバーサルなやつだ。

 また、3キロ程離れた女性中心のロウワーハムレットにも、まだかわいらしい面影を残す若いヴェトナム人の尼僧たちや年期のいった尼さんたち、そして子どもも含む世界中からの訪問者など、40名ほどが暮らしていた。


6.一口一口味わう食事

 「食べること」もここでは大事な気づきの練習(プラクティス)である。2〜3人の食事当番が交代で皆の食事を作る。西洋やヴェトナム料理が入り交じり、なかなかおいしい。乳製品は使うが、もちろんベジタリアンだ。食事ができると、外の大きな鐘が鳴らされ、人々はキッチンへと集まる。各自、お皿とお椀に自分で好きなものをよそって、二階の食堂へ上がる。

 皆がそろうと、食堂の鐘が三回鳴らされる。しばし合掌してから、沈黙のまま食事が始まる。一口口に入れる毎に箸やフォークを置き、五十回くらい噛んで、ゆっくり一口一口味わうのだ。日頃朝食や昼食など十分程度でかき込む早飯に慣れているサラリーマンの一人として、まことに異質で貴重な体験だ。相当丁寧に味わっているつもりでも、ふと見回すと、いつの間にか人よりずっと早く食べ物がなくなっている。普段本当に食べているもののことや食べる行為をないがしろにしていたことに気づく。慣れてくると、とにかくひとつひとつの味がよくわかり、実に味わい深い。(このおかげか便通もすこぶる良くなった。)

 二十分たつと、鐘が鳴り、沈黙が解除される。朝などは、その日必要な仕事のボランティアを募ったり、スケジュールなどの連絡事項、新しくやってきた仲間の紹介などが、英語とヴェトナム語でなされる。それからは、おかわりにいったり、近くの人と談笑を始めたり、なごやかなひとときになる。なるほど、最後まで沈黙でもぐもぐというのも堅苦しいが、初めの二十分だけであとは自由に、というのはなかなかすばらしい。


7.マインドフル・ベル

 沈黙は、食事の時だけでなく、突然やってくる。合図の鐘が鳴ったり、電話のベルが鳴ったり、時刻を告げるチャイムが鳴ったりすると、皆一斉に黙って「呼吸」に意識を向け、自分自身に還るひとときを持つ。畑や料理などの仕事に精を出していても、おしゃべりに夢中になっていたり、過去や未来の心配事にひたったりしていても、ベルの音を聞くとすべてをストップして「呼吸」を意識して見つめ、我に還る。これも皆に共有されているコミュニティの基本ルールである。日頃、一瞬一瞬に注意深く気づいていよう、マインドフル3 でいよう、と思ってもなかなか持続できるものではなく、つい心そこにあらずの状態になってしまいがちだが、日常生活の中で、こういう気づきのための「マインドフル・ベル」が時々入ると忘れない。

マインドフルネスは、私たちに道を示してくれる光です。私たちの中にある生きているブッダそのものです。マインドフルネスは、洞察と目覚めと愛をわき起こらせてくれます。私たちは皆、自分たちの中にマインドフルネスの種を持っていますが、呼吸を意識する練習によって、それに触れられるようになるのです。

 まず「止まる」こと。止まって、「呼吸」を意識し、自分を、そして世界を感じること。先へ先へとあせりがちなぼくには、ふと冷静に「いま、ここ、自己」に帰れるとても貴重な瞬間だった。


8.サンガ・ビルディング

 仏教では、「三宝に帰依する」ということが言われてきた。「三宝」とは、仏教を構成する三つの大事な要素で、「仏・法・僧」のことである。「仏」とはブッダであり師であり、「法」とはブッダの「教え」であり、「僧」とは修行する人たちの集団(サンガ=僧伽)である。

 ティク・ナット・ハンは、三つの宝を拠り所にするというのは、まず第一に、「自分自身を拠り所にする」ことを意味するという。自分の中のブッダを拠り所にし、自分の中の法(ダルマ)を拠り所にし、自分の中のサンガを拠り所にすることだと言う。「三宝」は、外にあるわけではなく、自分の中にある。それを見出していくのが、マインドフルネスの練習(プラクティス) なのだ。

 そして、その練習のためには、師や教えも重要だが、共に歩む仲間のコミュニティが最も不可欠の要素だと言う。

集中的に練習する必要はありません。もし、よいサンガにいることができたなら、変容は自然に起こるでしょう。人々が幸せで、その瞬間に深く在るようなサンガにただいるだけで十分なのです。.....法を説く先生が教えることができる最も重要なことは、サンガ作りの技術です。.....幸せに満ちたサンガを作ることです。つまり、ひとりひとりの面倒を良く見て、だれもが快適で幸せでいられるように、その人の痛みを、困難な問題を、抱負を、恐れを、希望を深く見つめることです。

 サンガといっても、何も特別な場所と集団を必要とするわけではない。「もし、私たちが家族と共に、呼吸や、微笑みや、注意深く(マインドフルに)暮らす練習をするなら、その家族がサンガになる」とナット・ハンは言う。一人の友人を、ゆっくりお茶を味わうティー・メディテーションに来ないか、と誘うことからも、サンガ作りは始まるという。

 「賢治の学校」も、どこかに特別な校舎や先生がいるのでなく、まず身近な家庭や親しい人間関係の中から始めるものであるのと同じだ。そもそも、「賢治の学校」こそ、地縁・血縁・学校・会社など、あらゆる共同体(コミュニティ)が崩壊し様々なつながりが断たれた現代において、真のつながりと信頼と自己の回復をめざす新たな共同体作り、つまりサンガ作りなのだろう。私たちは、どんなコミュニティを新たに作り出せるのだろうか?


9.子どもを修行の邪魔にしない

 プラムビレッジでは、子どもがとても大切にされる。大人は誰でも、子ども達が幸せで安全だと感じられるように手助けする責任がある。子どもが幸せなら、大人が幸せになるのも容易だ。ここでは、ひとつの拡大家族のような、暖かな味わいのあるコミュニティをめざしているのだ。

 子どもが修行の邪魔だとみなしている瞑想センターを、いくつか見たことがあります。私たちは、子ども達が、みんなの子ども達であると見られるようなコミュニティを作るべきです。もし、ある子どもが他の子どもを叩いたとしたら、その子の親だけに責任があるのではありません。コミュニティの誰もが、子ども達を助ける方法をいっしょに探すべきです。ある人は、その子をぎゅっと抱きしめてやるかもしれません。もちろん警官のようにではなく、おじさんやおばさんのようにです。もちろん、両親は自分たちの子どもが他の子を叩いたりしないように止めるべきですが、もしこどもをうまくしつけられなかったら、おじさんやおばさんにやってもらわなければならないのです。7

 ぼくが訪問した冬は、ロウワーハムレットに二人の子どもがいただけだったが、夏のリトリート期間は、子どもも大勢やってくる。ティク・ナット・ハンの法話も、初めは最前列の子供に向かってわかりやすく話す。数十分して、飽きてくると係りの大人と外へ出て、参加者の中のボランティアと用意した様々な子ども用のプログラムで遊ぶようにするという。

 この「子どもを瞑想の邪魔にしない」という考え方は、非常に斬新である。海外で禅の指導をしておられるある日本の禅の老師も、「日本の禅堂で子どもを受け入れようなどとは、考えたこともなかった。」と脱帽していた。しかし、子どもあっての社会であり未来である。また、今世間で一番何かを求めているのは若い母親達だし、子どもがいて大変だからこそ求めているのだ。「賢治の学校」の合宿が、積極的に子どもを受け入れるべく苦労しているように、大人のための学びの場も、子ども達とどう共にあり、どう互いに学びあっていけるかが課題だろう。

 また、老人もここでは大切にされる。拡大化族としてのコミュニティでは、老人も他の社会と切り離されて暮らすべきではないのだ。実際、77歳のおじいちゃんが、お茶会の時に伝統的な琴の演奏を披露して尊敬を集めたりしていた。

おじいさんやおばあさんというものは、こどもたちを腕に抱いて、お話を語って聞かせるのが好きなものです。もしそんな風にできれば、誰もがとても幸せになるでしょう。

 今の日本の私たちに、理想的な家族の形態は見えていないように思う。必ずしも核家族やシングル・ペアレントがベストとは思えないが、大家族に単純に戻りたいわけでもない。気心の知れた仲間同士で、拡大家族のように一緒に暮らせたら、と思っても、居住空間や気の使い方を考えると、なかなか実現は難しい。やはり、新しいコミュニティ像が必要なのだ。


10.様々な社会活動

 プラムビレッジで注目すべきことの一つは、とても具体的な社会活動をずっと続けてきたことだろう。

 ティク・ナット・ハンがアメリカで、ヴェトナム戦争の退役軍人や、平和や環境の運動に関わる人々や、セラピストなど人助けの職業の人々などとリトリートをして、理解することと愛することの道である仏教を教え、気づきとやすらぎの道への具体的な方法を共に実修することも、立派な社会的な活動だ。だが、世界中の難民の救済や祖国ヴェトナムの貧しい人々への支援は、より具体的である。

 現在も、ヴェトナムの主に地方の貧困地域に、スクールホームという学校孤児院や保育園を兼ねた施設を作ったり、数百の保育園の先生に毎月援助をしてサポートしたり、数千人の孤児が学校に行けるように援助したり、無医村にボランティアの医師や看護婦を定期的に派遣したり、橋や学校の建設などの開発を支援したり、実に多彩な社会活動をしている。

 ティク・ナット・ハンは、1966年から入国を拒否されたまま亡命の身であり、祖国に帰ることができないが、お弟子さんたちが行き来して、政府ではとてもやれない地道な活動をしているのだ。


11.社会に関わり行動する仏教

 1960年に、二十歳そこそこの大学生の時にティク・ナット・ハンに出会った頃からもう40年近くも、ずっと社会活動に携わっているシスター・チャン・コンから、現在の活動にいたるこれまでの活動について、直接話を聞かせてもらう機会があった。

 ヴェトナム戦争のさなかの1960年、ティク・ナット・ハンが最初の「開拓村」を始めて、翌年に本格的な活動を開始した、僧侶や学生を中心とした「社会奉仕青年学校」(School of Youth for Social Service)では、衛生の概念も近代医療の知識もなくまだまだ前世紀のような生活をしていた地方の貧困地域で、衛生の基本的な知識を伝えてトイレを作ったり、西洋医学を活かした医療所を作ったりし始めた。スラムでの教育なども熱心だったという。30人で始めたが、学生などのボランティアはどんどん増えて、翌年には300人を数えるほど活動は盛んになったが、共産主義と資本主義の間で国中が南北に分かれて敵対しているときに、どちらの味方にもつかずに、社会的な活動をすることは、双方から敵対視され、事務所に手榴弾が投げ込まれたり、若い仲間が何人も虐殺されたりしたという。

 そういう大変な危険に遭いながらも、社会奉仕青年学校は多くの人に支持され、1975年に社会主義政権に解散させられるときには、一万人のソシアルワーカーを抱えていたという。そして、人を助ける仕事に従事するソシアルワーカーこそが、気づきと注意深さを深め、自分を修め、慈愛のこころを深めていかなければいけない、と週に一度は、僧侶のもとでマインドフルの一日を過ごして鍛錬していたというのだ。

 これがまさに「エンゲージド・ブディズム(Engaged Buddhism)」、つまり「みずからと社会に関わり、行動する仏教」の真髄である。

 シスター・チャン・コンは、長年ティク・ナット・ハンに使えているので、プラムビレッジでも重要な地位にあるが、ぼくらが日本で準備している会場が百人程度の定員では少なすぎる、とか、結構厳しい注文を出す人なので、少々困っていた。だが、彼女のすさまじい半生を聞いて、それらの発言も深く納得がいった。彼女は、スラムや開拓村での活動に始まり、爆撃で村を焼け出された一万人以上の人々を急遽受け入れる避難施設を作ったり、戦後も数十万人の難民をどこへ無事に受け入れさせるかなど、ものすごい仕事をしてきているのだ。百人程度で限界だというのが、何ともちっぽけに映っても仕方がないのだろうと納得でき、むしろ彼女のひたむきさに打たれた。まさに、理解することは愛することなのだ。


12.ティク・ナット・ハンに会って

 短いプラムビレッジ訪問の最後に、ようやくティク・ナット・ハン本人に会うことができた。普段、彼は二つのハムレットから少し離れた所に住んでいるが、冬の間は木曜と日曜に、ウォーキング・メディテーションと法話(ダルマ・トーク)があるのだ。

 雨上がりの朝の美しい田園風景の中を、タイと子どもを先頭に70名くらいが後について一歩一歩ゆっくりと歩いた。そして、英仏の同時通訳つきで、ヴェトナム語でなされた法話のあと、退室して自室に引き上げかけていた彼に思いきって声をかけた。

「ご挨拶していいですか?日本から来ているのですが。」

 日本ツアーの準備を進めている者だとすぐわかったのか、戻ってきながら「来なさい」と言って、腕を取って自室まで導いてくれる。いきなりのことで恐縮する。清楚な部屋に通され、お茶をいただきながら、日本での企画や神戸の地震のことなどしばらく話をする。準備している場所の定員のことなどでいろいろ懸案があったのだが、そういう細かいことは何も言わず、「日本の方は、もういまさら『仏教』の話を聞きたいと思っているわけではないでしょうから、講演のタイトルはよく考えてわかりやすいものにしなければなりませんね。」などと、非常にさばけている。本当に、柔和で暖かい人柄で、色々な心配事などすべて忘れてほっとさせてくれる。なんだかすごくうれしくなって、その日は非常に晴れ晴れした一日になった。


13.いよいよ来日

 さて、まもなく来日である。ヴェトナムの伝統と戦争と社会活動の中で培われ、欧米で大きく花開いたティク・ナット・ハンの世界は、日本でどんな出会いを引き起こすであろうか。自分自身の呼吸や感情から始めて、複雑な人間関係の問題から、世界で起こっている大きな問題までをつなぎ、「平和はこの一歩一歩の中にある」と説く彼の真髄と、多くの方が深く出会って様々な種を育む機会となることを祈っている。

あなたの子どもの手をとって外に出て、いっしょに草の上に坐ってみて下さい。二人で、緑の草や、草の間に咲く小さな花や、空を、見つめたくなるかもしれません。いっしょに呼吸し微笑むこと、これこそがやすらぎと平和のための教育です。もし私たちがこれらの美しいものの価値を十分に味わうことができたなら、もう他に何も探す必要はないでしょう。平和は、いつどんな瞬間にでも、ひと息ひと息の中に、一歩一歩の中に、得ることができるのです。


way back

Copyright(c) 1996 BODHI PRESS. All Rights Reserved.