便利なボタン生活
最近の生活は快適で便利この上ないとつくづく思います。 テレビは言うに及ばず、エアコンはボタン一つで温度や湿度まで管理できてしまうし、出先からリモート操作もできる。 このような家電製品の進歩と生活の快適度の変化を言うと限がないのですが、個人的に劇的に日々の生活で変わったものと感じるのは「火」ではないかと思います。 つまり一般家庭における「火」そのもので。 早朝のご飯炊きの火からはじまり、晩ご飯と風呂まで。「火」は太古の昔から現在に至るまで人間の生活を支える熱エネルギーの根本であって必要不可欠であることに変わりは無いですね。
その必要不可欠な熱エネルギー源が「薪」や「石炭」から「ガス」や「電気」にとって変わったあたりから私たちの生活が激変したのではないでしょうか。 もちろんこれは私的な感想なので、世の中の全体の移り変わりを指摘している訳ではありません。 人によっては物心ついた頃から電化生活をおくっている方もいて当然なので。
つまりここで言いたいのは 【火をおこす】 作業が家庭から無くなったということに尽きます。 電気にせよガスにせよ「ボタン操作」だけで瞬時に熱エネルギーが得られる生活が可能になったということ。 今では一つの操作パネルで室温から風呂まで管理できるようになりました。 つまりマッチを擦って新聞紙に火をつけて次に薪を燃やすというプロセスが完全に省略されてしまい、火種をとって置くとい手間もありません。
簡単操作になった車
クルマもしかり。 厳寒のエンジンスタートでもアクセル操作を気にせずキーを捻るかボタンを押せば、勝手にエンジンがかかるので何の不安もないようです。 しかも暖気運転なぞは北海道の様な一部の地域を除けば気にする必要もない設計になっているといいます。 AT限定免許もしかり。 各メーカーや車ごとの癖を把握する必要もなく2ペダル操作で、車は難なく走る。 エンジンも同じく、今日はいつもと少し音が違うなとか、臭いが違うなと気にする必要が全く無い。 夏は水温計と相談しながらヒーターのコックを開けてやる必要も無い。 つまり各個人の経験値による操作は一切不要な仕掛けになっているんですね。
これはこれで正直に素晴らしいと思う。 車で通勤するにあたり、或いは商談に出かける際。 今日はエンジンが上手くスタートするだろうかと余計な心配をしなくてすむし、携帯電話のエリアを外れた場所でも余計な不安を抱えずにクルマに乗れることになります。 「そんな事は当たり前じゃん」 と言う訳です。 全くそのとおりで返す言葉もない。 今や車は常に持ち主の予想を裏切らない働きをしてくれる時代になりました。 加えて最近は車の通信技術が格段に進歩して 「ぶつからない車」 の実現化も目の前にきているといいます。
白物家電と車
ぶつからない車の仕掛けはさておき 「イツイカナルトキ」 も車は持ち主の期待を裏切らない働きをするようになりました。 まるで、どこの家庭にもあるコンセントさえ、きっちり差し込んでさえあれば正確に動作する冷蔵庫や洗濯機、炊飯器のように。 最近はこのように進化した車を 「白物家電のようだ」 という言い方をする方もいるようです。 つまり商品としての個性に欠けてあちらの製品もこちらの製品も、機能や価格に大差なく、強いて言えばブランドが違うくらいの商品になったということなのでしょうか。
まぁ、確かにそのような一面があるかもしれないですね。 しかし持ち主の経験値や知識に依存せず、あるいは整備に出資する金額や時間に大差がないにもかかわらず、故障もせずに 「イツイカナルトキ」 も律儀に当たり前の顔をして働いてくれる車は、日本の技術の賜物であるとつくづく思います。 細かいことは分かりませんが、車を構成している部品の精度や品質が以前とは比べ物にならないほど良くなっているのでしょう。
真面目で手抜きがないんです。
このように現代の車。 特に国産車は本当に良く出来ていると思います。 余計な手間とお金をかけなくても車の便利さや楽しさの恩恵にあずかれる時代になりました。
このように当たり前に使えるの日本の車の技術は世界でもずば抜けているし、生産技術はとうの昔に評価されている訳で、海外でも常識のようです。 また今や環境問題とクルマは切っても切り離せない相関関係にあり、最近はハイブリットが注目され有害ガスを減らし、かつ燃料の消費を極力抑える動力源が話題にあがります。 基本的にそれらの技術を実現するには、その設計値をいかなる環境でも間違いなく提供しなけらばならない基本技術が根幹にあるというのを忘れてはならないのでしょうね。
しかし知識で解っていても忘れるのが人間というものかもしれないですね。 何故なら体感や体験が伴っていないから。 【車が故障して困ったと言う経験がない】 【出先で車が動かない】 【深夜走行中にファンベルトが切れてしまった】 これがもし冬ならさっきまで暖房がきいてぬくぬくしていた室内がみるみる冷えて寒くなる。 雨が降っているがレインコートも傘もない。 ボンネットを開けてみたものの、どうしていいかわからない。 「さてどうする?」 しかし心配はないです。 携帯電話があればJAFかディーラーさんの助けを呼べる。 知人に相談しても仕方がない。 どうせアドバイスできる程知識もないし、レッカー車や積載車を持っている訳でもないので。 自分もそんなクチです。
車の文化と言うものの
そんな優秀な車を生産しているにもかかわらず「日本の車の文化は貧しい」とか「日本の車に個性がない」と聞く事があります。 本当にそうだろうか? と私は思う。 文化というからには大多数の共通する認識が必要なのでしょう? 逐一、個人の経験を綴ってもしょうがない。 これだけ車があって人がいる日本に「車の文化が貧しい」なんてある訳がないと思う訳です。 それじゃまるで日本の車の歴史そのものが貧しくなってしまう。 「文化包丁」や「文化住宅」 とはやや趣が違うべきであるはず。 さりとて確かに「文化」を説明するのに日本の自動車史の類や、技術の推移だけでは説明が足りない。 輸出数や現地生産の数の推移だけでは疑問が残る。 デザインに芸術性がない? それはどこの国でも同じで、数千万もする車と大衆車を一緒にするのは無理があろうというもの。
最近はそうとう前に見たことがあるような洋服が人気になったり。 眉毛が細くなったり太くなったり実に忙しいものだと思う。 髪の毛も長くなったり短くなったり、色まで変わったりする。 勿論、日本独特の流行というのがあるだろうが、海外から発信される情報は音楽も含めて実に敏感な国ではないかと思います。 なかには昔から変わらないデザインのジャンルもあるとは思いますが、それとてその時代の流行を取り込んでいるのが一般的ではないでしょうか。 車も同様に色も含めて、その時々の流行がありますよね。 身近なところでは最近人気のミニバン。オリジナルのスタイルを輸入して日本の国や生活の形態に合わせて取り込んでいく例があるように。
トレンドと言うとかっこいいですが、要はハヤリモノ。 はやるというからには大勢の人がスタイルやデザインに共通した認識を持って、似通った価値を見出すことですよね。 つまりは大多数の共通了解がそこにあるわけです。 普段からそんなしち面倒くさい事を考えて洋服や靴を買うわけじゃないですね。 単にカッコイイ。 それでいいと思うわけです。 中にはあまり好きじゃないけれど自分だけ流行らない服を着るのも何だし。。。と思う方もいるかもしれない。 それも充分理解できます。 しかしそんな流行よりもっと個性のあるモノがいいんだと思ってしまった場合は難しくなってしまうのではないでしょうか。 車は特に。 つまり大衆車から、それを探すのは難しいでしょうから絶対販売数の少ない高額な車か、既に生産されていない古い車になってしまうのではないでしょうか。 もしくは現存する車をベースに一点物を作ってもらう。 しかしその場合は金額も時間も普通ではなくなってしまう可能性がありますね。 何故なら国の定める保安基準を満たさないといけないですから。
50〜60年代のイタリアではこのようなケースが時々あったようで、お金持ちが一般車をベースにエンジンを載せ変えたりボディー形状を変えたりしていたようです。 それを担うのは自動車工房の腕のいい職人さんたちがエンジンをチューンしたりアルミをたたいてカタログにない車を造りあげていったようです。 このようなクルマは現在でも高価で取引されることがあるようですが、特徴としては何かに似ているけれども、こういうモデルってあったんですか? と思わせるカタチだと聞いたことがあります。 こういうお金の回り方は何も車に限ったことではなく建物や家具でも同じことが言えるのではないでしょうか。 つまりお金持ちが職人さんに仕事を依頼する。 それを受けた職人さんは腕を振い更に技術を磨く。 やがてその技法は多くの人に渡り、その国の特色となり財産になる。 イタリアに限らずドイツやフランス、イギリスではこういう歴史があったのではないでしょうか。 かつては。
車だけの文化って
ファッションに限らず生活様式だって変わっていきます。近年は戸建にせよマンションにせよ、畳のない部屋を好むのが珍しくないようです。部屋がいくつあっても総て洋間。フローリングか、じゅうたんなのでしょう。私が幼い頃は逆で畳の部屋が多く、強いて言えば台所に畳がないくらいだった。いつの頃からこのように変化したのかわかりませんが、現在の狭い我が家も例外なく畳の部屋は一つしかない。畳の無い家に生まれ育った子供は友達のお宅か旅館にでも行かなければ畳は見れないと言う事でしょうか。また私の両祖母は日頃から着物を着ていました。洋服を着た姿を見た記憶が殆どない。つまり現在のようにイベント時だけ着物を着るのとは全く違い、家事全般からして着物を着て働く姿を見て育った。最近は着物を着た立ち姿はいいものの、歩いたり動くとぎこちなく見えるのはそのせいかと思うこともある。
こんな例を持ち出して何が言いたいのか。あまりにも便利すぎて「アリガタミ」を忘れがちになってしまった車。それは現代の日本の生活様式と妙にリンクしていて「ボタン」の生活になってしまった事と深い関係があるように思えてならないのは私だけでしょうか。本来は人間がすべき操作や仕事を機械や電子デバイスが肩代わりしてくれ、ボタンを押してから、お湯が出るまでのプロセスが全く抜けているのと酷似しているように思えてなりません。それは生活様式そのものの変化のように、変化している最中は気が付き難いですよね。周囲も同じように変化していく訳ですから。食品の安全や自給も決して別次元の話ではないですね。そりゃそうです。世の中全般が忙しいので両親が帰宅してからギョーザを仕込む時間がないです。仮に仕込んでも子供は塾に行って家にいないでしょうし。
「日本の車の文化は貧しい」や「日本の車に個性がない」そんなことはないよ思いますよ。 もしそれが本当なら自らの生活様式も含めて否定されるべきでしょ。 製品精度は欲しい、だけどデザインに個性がない。 ではデザインを優先して製品精度が多少落ちても納得できますか? と聞かれたら.。 私なら、それは困ると答えるでしょう。 基本的に国産車のデザインが貧しいと思う人がどれだけいるのかという疑問もありますが。 また毎日使う車のデザインに芸術性が必要かと疑問もあるわけです。 車の性能やデザインは私たちの生活様式や経済状態やインフラも常にリンクしていて、どれかが一人歩きすると言うのは考えにくいです。
話がとっちらかってしまいしたね。 まぁ仕方がないのです。 常日頃からこういう事を考えている訳でもないですから。 要は総てがリンクしていて成るべくして成った 「カタチ」 が現在の車と思っている訳です。 それは個人的には決して嫌うものではないし、むしろ戦後にスタートした自国の自動車生産はレースカーの技術も含めてよくぞここまでこれたものだと賞賛したいくらいです。 同じ国民として本当に嬉しいと思うし、数々の技術者や細かい部品の生産に携わった職人さんの技術力に感謝すべきと思います。 私はそう思う。
体験で学ぶ
昨年管理釣り場に行ったときの事。小学生の女の子を連れた家族がいました。釣りをするのはもっぱら旦那さんと娘さんで、奥さんは自宅から持ってきたテーブルでくつろいでいました。そこそこ数を釣るのですが総て持ち帰る様子はなく、気に入った魚が釣れると父娘が相談してクーラーボックスに入れているようです。大多数の釣り客はフラシに釣れた魚をギューギュー詰め込んで重そうに持ち歩くか、完全リリースするのが一般的なスタイル。つい興味がわき見ていると、持ち帰るに相応しい魚が釣れると旦那さんが程よい大きさの石で魚の頭を一撃してシメる。それを娘さんがクーラーボックスに入れる。
見た目は残酷で女の子ならしかめ面をするか、悲鳴をあげるところでしょうが、そんな様子は全くありませんでした。持ち帰った魚を美味しく頂くならこれが一番。無駄に苦しめて最後には死んでいたなんて事がないですから。また自分たちが食べ切れない程の数を持ち帰って無駄にする事もないですし。帰宅後はきっと美味しく家族で頂くのだろうと思いますが、この女の子は大切な事を父親から学んでいると思いました。始めと終わりが総てつながって完結していて無駄な殺生がないわけです。 これなんかは文章やボタンだけでは学べない。
最近はキャンプへ出かけても火のおこし方をしらない子供がいるといいますが、この子ならしっかり火をおこして煮炊きできるのかなと思ったりします。こういう事がわかっていると、ご飯茶碗や丼にご飯粒をつけたまま、ご馳走様とは言えなくなってきます。まったくみみっちい話ではあるし、それと車がどう関係があるのと聞かれても困る。ひっくるめて日本人だからと答えるしかないわけです。
近い将来。
「ガソリン車には希望が持てないので数種の電気自動車のみ残し、我が社は車から撤退しました。 現在はロボットの開発が主力になっています」
なんて事がおきるのだろうか。
もし、それで 「用が足りる」 なら、それはそれでいいのかもしれない。
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ボタンの文化と車の文化