中村氏がホンダに入社したのは昭和32年秋でした、入社後はカブの自動クラッチを製品化することから始まります。原型はすでにAからE型まで出来ていましたが、本田宗一郎氏からOKを貰うまでには至っておらず、結局F型でOKを貰うが、そのOKの出し方もいかにも宗一郎氏らしく、騒音だらけのエンジン・ダイナモ室で図面をじーっと見てウンウンとうなずいていたといいます。中村氏はこの時に「私としては、初めて仕事の上で接した本田社長であったけれど、このようなメカニズムには徹底的に強いオヤジであることを、ハッキリ認識させられた」と感想を述べています。
中村氏の初の4輪開発はエンジン部門が3名とシャーシー部門が4名のホンダ組と旧クロガネの混生部隊であったようです。開発条件は排気量360cc以下で全長3m以下という当時の軽自動車枠であり、当面のライバルは同じ中島飛行機出身で、東大の1年先輩でもある百瀬氏が、かかわったスバル360だった。初めて設計したクルマは、試作四輪車A320と呼ばれるもので空冷60°V型4気筒360ccの縦型前輪駆動。4速シンクロ・トランスミッションをハイポイドを介して駆動する機構。
エンジンそのもは戦時中に実際に触れたことがあるB29のV4型の補気駆動エンジンのコンパクトさに魅せられていらい、クロガネ時代に開発した1000ccのV型2気筒からはじまり、後にV4型1000cc水冷エンジンを開発してベンチテストを続けていただけに、軽の試作にも同様のエンジンを積んでも何の不思議もなかったように思われます。この試作車で関東一円を走りに走ってテストを重ねていた頃、思わず社長からダメ出しをされてしまう。理由はフロンド・ドライブは登板性に優れないからだと言う。中村氏は実際に峠の悪路を走行している写真を見せて説得するが「ダメなものはダメ!!」と言う返事が返ってくるだけだったという。
中村氏はこの試作だけで終わってしまったA320型を振り返り「自分の考えだけでマトメあげることができた、ただ一つのクルマとして懐かしいだけでなく、当時としては素晴らしい傑作車であったと自画自賛している」と感想を述べています。【クルマよ何処へ行き給ふや】 現在では2輪車でも水冷V型4気筒は珍しくありませんが強制空冷とはいえ、このコンパクトなV型4気筒で360ccエンジンには大いに興味があります。何故なら気筒数が多ければ回転数を稼ぐには絶対的に有利なわけで、同じ軽エンジンでも空冷のN360や水冷ライフよりも出力を稼げたのではないかと思ったりします。ただし現在の技術からすれば直列4気筒のエンジンがこれだけ進化しているだけに、2輪を別にすれば小排気量のエンジンをわざわざV型にするのはあまり意味がないと結論づけられるかもしれませんが。
昭和36年軽自動車の量産計画が本格化する。タイプは軽トラックと軽スポーツカーで型式はASとAKと呼ばれた。当初の計画はASのスポーツカーエンジンは直4ツインカム2バルブで一方、AKの軽トラックは空冷対抗4気筒で計画されていたようですが、コスト的に不利になるという理由でトラックにも直4エンジンを積む経緯に至りました。これが現在でも語り継がれる高性能軽トラックT360です。直4ツインカムの4連キャブレターで9000回転まで回り30馬力の出力を誇っていました。一方ASは当時の特振法対策に設計されたホンダ初の乗用車であったが結果的に特振法は実施されることなく、ASも排気量を拡大したAS500として昭和39年から発売されました。
しかしここでも中村氏と本田氏は反目しあう形となる。これも有名なチェーンドライブとチェーンケースをアームとするトレーリングアームである。本田氏が、その形にこだわった理由としてはトランクルームの容積を稼ぐ為にあったが、ドライブシャフトを主張する中村氏の考えはここでも曲げられてしまう。やがてS500はS800へと進化していくが、結局はドライブシャフトになった。いま考えてみても加減速時のノーズやテールが著しく沈む癖のあるチェーンドライブは2座オープンスポーツというクルマの性格上あまり好ましくない特性であり、むしろトランクの容積よりも優先すべき事に思うのは一般的ではなかろうかと思う。
昭和36年欧米自動車技術調査団に中村氏は参加して初の海外旅行を経験する。その際、イタリアのバダリーニ氏に会い彼の特許である油圧無段変速の交渉も任せられていた。実際にバダリーニ氏に会ったのはドイツのホッケンハイムでいきなり彼の参加するレースのサポートを命ぜられるが、ここでレースの勝敗よりもレースそのものを楽しむ雰囲気を見て、当時の日本との違いを大きく感じる。調査団のメンバーは、後の日産の副社長になられる高橋氏や、マツダの技術担当専務になられる光成氏が同行している。この旅行で中村氏はヨーロッパでの自動車産業に感嘆したものの、やはり米国デトロイトは世界一であり日本の自動車産業に危機を感じながら帰国されたようです。また同時期に本田氏は早くも航空機エンジンにも興味を示していて高性能小型航空機エンジンの開発をテーマとしてだされていたようです。
ヨーロッパでホンダのF1参入が噂されていた頃、日本のモーターショーを取材するべく来日していた記者が、本田氏へインタビュー行っている。その席上で本田氏は「F1グランプリはやります、そしてやると決めた以上、何か今までにない、ホンダらしい多くの新しいものが含まれるはずです」と答えています。同席した中村氏は記者に英語に翻訳するまえに本田氏に確認をしていますが「構わん言ってしまえ」と答えを頂き、記者へそのように伝えています。また中村氏は、この時がホンダF1プロジェクトが本格的なスタートだったと感じていたようです。
そのF1も終わりを告げようとしていた頃、中村氏はメキシコで伴侶の死を知る。そしてF1活動休止を発表した時、中村氏50歳だった。
乗用車の生産が手薄だったホンダは軽にターゲットを絞りN360を開発しスバルを追い抜いてナンバー1にのし上がる。この頃には本田氏もFFに対し特に反対するわけでもなく、むしろ積極的なFF支持者になっていたとあります。一方、排気量を600ccまで拡大した輸出用のN600好評で、似たようなコンセプトのオースチンミニより安価でヨーロッパでは人気をはくすことになる。 しかし、そのN360が欠陥車として訴えられてしまい、結果はホンダ側の勝訴となるが、販売数は激減した。また空冷エンジンにこだわった本田氏はDDACという機構をもったH1300を開発した。中村氏は排気ガス汚染物質を減少させるためには水冷でなけらば不可能に近いし、また「一台あたり5万円の原価割れで販売したのではホンダはつぶれてしまいます」と反論したが、本田氏は耳をかすわけもなく退社の決心をする。そのとき「エネルギーと力のちがいすらわからない上司と技術論争をするのはもうたくさんであった」と述べています。
しかし竹島氏や原田氏等の説得や、後の社長になられる河島氏の提案で昭和44年にロンドンのホンダUKに駐在することになる。ロンドンではフィアット128をはじめ参考になるクルマを日本へ送っていました。また空冷・水冷論議に決着をつけるべく研究所長だった杉浦氏が日本から来た際にポール・フレール氏を介してVWの空冷の実態やポルシェの空冷技術について情報を集めた。しかし集めたとはいっても、もちろん空冷化を推進するためではない。この杉浦報告を受けてホンダ社内での水冷論の決着をみる。
昭和47年中村氏がロンドンから帰国すると9月にシビックが発売され、ヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーは日本車として初めて3位になり、その後3年連続して最優秀賞に輝いた。ホンダは早く空冷から脱出して水冷化した小型車を開発すべきという中村氏の考えは他の若手社員の努力と共に実を結ぶことができた。それはシビック開発に伴うべく中村氏がヨーロッパで実際に乗って走り回ったフィアットやアウディの研究報告が生かされてのことで、サスペンションの設定まで吟味されていました。その後、低公害車といわれたシビックのCVCCも数年後には一般的な触媒技術を用いるようになる。
社長と副社長がホンダから退かれた後、中村氏は2輪のモータースポーツに力を注ぎCB750をベースに活躍する。また国内2輪市場は限度があり海外現地生産を目標に東南アジア、中南米、ブラジル、アフリカ諸国、東欧圏を巡った。125ccの2輪とN600を現地生産するべく特に東欧圏では現実味を帯びてきたものの、オイルショックで目前にご破算となるケースもありご苦労も多かったようです。そして昭和52年ホンダ技研を定年退職後、ホンダ技研特別顧問となる。中村氏59歳。
「モータースポーツは、クルマと人間を結びつける、一つの大きな原点なのである。人間社会ではなく、個々の人間である」 中村 良男
1994年 平成6年 永眠 合掌