『レーシング・カーも含めて、多くの車を作ってきたけれど、多かれ少なかれ自分の意思に反したものを含まざるを得ず、純粋に自分のクルマと呼べるものは、とうとう一台もなかったことになる』 

【クルマよ、何処へ行き給ふや】 中村良男 著 グランプリ出版 1989年より



 これは中村良男氏がホンダに入社後、初の4輪車の開発を任された当時を回顧している文中にでてくる言葉で、ホンダを退職なさるまでの35年間を総括した一設計者の心情を最も端的に表した言葉ではないでしょうか。

 中村氏は1918年(大正7年)開業医の長男として生まれました。生後1年で父を病気で失い山口県に移り住み旧制山口高校を卒業後、1年浪人し昭和15年東京帝国大学工学部航空学科原動機専修に入学。在学中に日米開戦となり半年繰り上げた昭和17年9月、東條英機首相の壮行式で卒業する。

 ちなみに中村氏が生まれた1918年の出来事は国内では1万2000名の兵士がシベリアに向けての出兵や富山県から勃発した米騒動。また国際的には第一次世界大戦の終結やスペイン風邪などがあります。航空関係では中島知久平氏が群馬県太田町に興した飛行機研究所で、中島式一型陸上機を完成させています。

 卒業後の就職は恩師富塚清教授から愛知機械入社を勧められるが、自由な社風を大学時代の実習にて体験済みの中島飛行機入社。しかし卒業と同時に兵役となり、陸軍短期現役で広島の検索第五連隊入隊。陸軍戦車兵二等兵となり一期終了の後、水戸陸軍航空学校入隊。ここで九七戦の射撃訓練や一式戦 隼、二式戦 鐘馗等の実際の整備や飛行を目の当たりにする。また軍人嫌いの中村氏であったが、軍人と技術者との違いを自ら痛感させれたとあり、旧制高校時代に共に過ごしたリベラリズム・デカタ二ズムは国運を賭した教習を受ける現場においては反省する場面もあったようです。

 陸軍航技中尉任官後は立川の航技研と中島飛行機荻窪工場のかけもちとなり航空エンジンの設計に携わるが、やがて捕獲した敵機から入手したエンジンから日米の技術の差を実感するようになる。なかでもロールス・ロイス・マリン61を元にアメリカのパッカード社がライセンス生産した同エンジンはさらに性能向上が計られているのを目にして 「本質を追求することを苦手とし、小手先な技術向上を得意とする日本的な傾向を認めないわけにはいかないだろうと」 と感想を述べています。またB29に搭載されていたライト・ダブロー・サイクロンR3350の排気ターボを用いたエンジンについてもオーソドックスな名機だと素直に認めているように、日米の工業技術の格差を実感し、とくに兵器を設計する際の基本理念の違いについては、捕虜となった米軍パイロットの尋問でも改めて実感することとなります。つまり兵器である以上、大量生産を可能とするべきで、それには複雑な製造工程を避けシンプルな整備性をも提供しなくてはならない。また、それを操作する側にも複雑な操作性を要求させてはならないと。

 この頃になると亜成層圏から進入してくるB29に抗すべく迎撃機の設計が急務となり、中島飛行機では先輩で後の、日産に入社する中川良一氏や、ホンダに入社する工藤義人氏等共に働き、室内過給機の開発等を任せられるが、現実には高高度で迎え撃つことが可能なエンジンの開発もおぼつかず、戦争末期にはドイツから技術輸入されたジェット・エンジン「ネ130」の開発を手がけるが、ほぼ完成間際で終戦を迎えた。1945年 中村氏27歳。

 結果的には生産技術や資源および物資の不足でアメリカを圧する兵器がなかったのが敗戦の理由と戦後になり分析されるようになりましたが、零戦の設計者堀越二郎氏や曾根嘉年氏が後年も一貫して述べているように、軍側の要求は設計者にしてみれば常に相反するものばかりで、要求どおりの航空機を設計すると使いものにならないものになったと述べています。また現在では英雄視されている零戦も同様に、航続距離と空戦性能を最優先させた形であって防弾は二の次に成らざるを得なかった。また非力で小型エンジンだった「栄」を使用しその性能を最大限バランスさせる為にあのような設計になったとあります 【技術者たちの敗戦】 草思社 2004年 このような理に反するような軍側の要求がエンジンを開発する中島飛行機にあったとしても何の不思議もなかったと想像できます。中村氏もこれと同様な事をジェットエンジン開発で経験しています。学校を卒業して3年の若造に、ただドイツとイギリスでジェットエンジンの開発が成功したという理由で、何の基礎もない分野の開発を依頼するのは無茶だったと。
 
 戦後、中島飛行機はGHQにより解体され富士産業となる。中村氏は前橋の田中工場長や先輩の工藤氏の誘いを受けて前橋に移り住み、そこで関口氏等の協力を得て2ストローク90ccのバイクエンジン・プピーを10台ばかり製作する。そんなある日、気化器を入手するため三国商工を尋ねた際に丁度、前日に静岡の浜松から本田宗一郎という人が来て陸軍小型発電機の中古気化器をリュックサックに山盛りにして買ったことを聞かされる。この時、両者はまだ面識がなかった。 本来、前橋工場では石油エンジンで農耕用耕運機を生産する予定だったが、GHQから工場操業許可が、なかなかおりなかった。そんな最中、肺浸潤を患い前橋を離れ家族と共に山口に戻る。
 
 昭和24年、病が回復した中村氏は恩師の勧めでトヨタの面接を隈部副社長、豊田英二常務、斉藤尚一常務の同席で受け採用が決まる。しかし人事部との行き違いから自ら辞去してしまう。運命とはわからないもので、もしそのままトヨタに入社していれば立川飛行機でキー94を設計した長谷川龍雄氏と共にカローラを設計したかもしれない。

 再び恩師の紹介で今度は日本内燃機(クロガネ)を勧められる。内燃機は中島時代の室内過給機以来の旧知の仲だったので採用は即座に決まる。こうして昭和25年日本内燃機に入社。当時の陸上輸送の主力はオート3輪で戦後のブームを迎えていた。またメーカーも多数存在していてクロガネの他にダイハツ、マツダの戦前派とアキツ(新明和、旧川西航空機)サンカー(日新工業)などが活発に生産していた。中でもクロガネはオート3輪の老舗で他に「モンキー」という自転車用補助エンジンも製作していたが販売網が3輪主力だった為、好成績は残せなかった。

 当時の運輸省の新型車のテストといえば役人が同乗のうえ、横浜駅を出発して芦の湯峠の頂上を終点とする箱根登山が常用コースで、この間の燃費の計測と規定の錘を載せ動力テスト行い、経過時間も計測された事から、各社が競って記録を更新していたようです。なかでもクロガネには強者のドライバーが在籍していてテスト前には焼酎をひっかけてから出発したものだという。しかし事故を起こす事はなかったと言うのだから、正に気力・体力の勝負だったに違いないし、また勇ましい話でもある。

 中村氏が実際にクロガネで手がけたオート3輪車は空冷2気筒1500ccのKFというタイプで、荷台の長さは4メートルもあったという。昭和27年頃には横浜市神奈川区の沢渡に家を買い求め寒川工場と蒲田工場に通った。寒川時代には3輪ばかりではなく、オートバイレースに参加すべく2サイクル100ccの「タへ」を開発し、実験走行では100キロを超えライバルのホンダやトーハツに勝利を確信するが、レースの再開はなかった。また蒲田でも2気筒500ccのオートバイを開発したが、とうとう生産には至らなかった。やがてオート3輪の需要に陰りが出始めたころ、日本内燃機は東急の五島慶太氏に売り渡され、戦前の高速機関工業と戦後のオオタ自動車と合体し東急クロガネとなる。

 会社が売り渡される前に、中村氏は1000cc90度V型2気筒に強制空冷ファンを取り付けたセミキャブ・オーバーの4輪トラック「クロガネNA」を開発していたがクロガネ首脳陣からは理解されなかった。丁度その頃に東急資本で合併が決まったオオタは既に新型開発車のオオタPLの量産試験に入っていて、新体制の川鍋社長もクロガネNAとオオタPLの二本立てで3輪のクロガネから4輪のクロガネへ移行するチャンスだと認めていた・、その矢先トヨタから出た1000ccの4輪トラック「トヨエース」が3輪市場をあっと言う間に食い尽くしてしまった。急速に営業不振に陥ったクロガネ社員の再就職先を求め中村氏は奔走し、ホンダに24名。トーハツに12名の採用を決めてもらった。三国商工にきた浜松の本田氏の会社は今や本田技研工業となり日本一のオートバイ・メーカーになっていた。


資料
クルマよ、何処へ行き給ふや 中村良男 著 グランプリ出版 1989年
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ひとりぼっちの風雲児      中村良男 著 山海堂      1994年


技術者たちの敗戦        前間 孝則 著 草思社     2004年


あるエンジニアの軌跡 (1)
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続く