二輪から四輪車へ
 ホンダは戦時中に東海精機という社名で航空機エンジンのピストン・リングを中島航空機などへ納入していましたが、終戦と同時に生産停止を余儀なくされました。そこで本田宗一郎氏は当時の豊田織機(後のトヨタ自動車)に株を総て売り払い1946年(昭和21)に「本田技術研究所」を設立し自動織機に乗り出すも不振に陥る。そんなおり従業員が軍の倉庫から見つけてきた無線機用の発動エンジンを自転車に取り付けて発売開始しています。この時期に後の2代目の社長になる河島好喜氏が入社しました。




 しかし1954年(昭和29)に本田に危機が訪れる。順調だったカブ号は追随した、他メーカーの参入で売り上げが激減。しかも改良を重ねながら進化したE型に欠陥が発覚した。そんな会社の存続を賭けた手形決済を控えた時期に藤沢氏は本田氏にあえてマン島行きを提案した。むろんE型の欠陥を克服した後で気落ちした全従業員を奮起させる目的でもあったが、本場の2輪レースを実際に見て世界の2輪のレベルや技術を取り入れる目的があったに違いなかったと思われます。



 1959年(昭和34)藤沢氏は国内で売れに売れているスーパー・カブを持ちながらもアメリカに新たに市場も求めるべく川島喜八郎氏を送り現地法人アメリカ・ホンダを設立。同年6月河島喜好を監督としてマン島TTレースの125ccクラスへ4台初出場し34台中6、7、8、11位でゴールしてティーム・メーカー賞を受賞。1960年(昭和35)藤沢氏は本田技研工業を分断し新たに「本田技術研究所」を設立。
 
 わずか1年の間に北米の市場開発からヨーロッパでの2輪レース。そして社内の分割まで精力的に行っているのがいかにも常に攻撃的に前進する「ホンダ」という印象を受けます。
 
1962年(昭和37)10月ホンダはモーター・ショーに2台の4輪車を出陳しました。1台は(S360)で、もう一台はAK360(T360)で特振法に備えての対策であったと言われています。(一般的にはこの2台がホンダ初の四輪車となっているようですが、実際は多種の開発車が存在しとも言われているので、それは別ページをさきたいと思います)







 しかしこのように好成績を残したN360があったにも関わらずホンダは時期乗用車の準備ができていなかったと思われます。時期はまさにF1に集中していたため乗用車を開発する余力がなかったのではないでしょうか。また本田氏の有名な空冷理論がF1をはじめ社内にまかり通っていた時期でもあり、この時期に空冷に対し強固に反対した中村氏をはじめ久米氏や河島氏、そしてF1に全面協力していたジョン・サーティス氏まで本田氏の無謀と思える空冷案に翻弄されたと言っても過言ではないと思われます。







 1970年(昭和45)ホンダでは2台目の水冷量販車にあたる水冷ライフが発表されました。あれだけ空冷にこだわっていた本田氏の考えを変えさせたのは藤沢氏の「本田技研の社長を選ぶか技術研究所の技術者を選ぶのか」と助言があったと言われています。折りしもアメリカで発効したマスキー法の対策で大気汚染対策プロジェクトが生まれる1年前の出来事でした。そして1973年12月(昭和48)にCVCCを搭載したシビックが発売されました。(CVCCの発表は前年の1972年)この低公害車シビックのお陰で国内はもとよりアメリカでも人気を呼びH1300で失敗したホンダに活気が戻ったと言われています。

 そして1973年は本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長が揃って退任した年でもあった。本田氏67歳。





 
 中村氏は戦後仕事を始めるべく中島飛行機時代に親交があった三国へ気化器を求めて尋ねるが、静岡から来た本田氏が在庫になっていた気化器を袋一杯に買い求めたことを聞かされる。この時、両者はまだ面識がなかった。

 自転車のパイプフレームに1馬力ほどのエンジンを取り付けた原動機付自転車は好調な売れ行きでしたが1949年(昭和24)にはフレームの強度を問題を解決すべくプレス型のフレームを採用するようになります。そして同年8月運命の人、藤沢武夫氏が本田技研工業を訪れる。 1951年(昭和26)頃は強固なフレームを持ったドリームD型が年産531台になりましたが、一方では先述のラビットは3000台、そしてビジョンは1000台を超えていた。藤沢氏は将来を見据えて本田氏に2サイクルを止めて4サイクルのエンジン開発を提案し同年10月にはOHV146ccのE型が完成し箱根でテスト走行を成功させる。しかし藤沢氏はE型の成功に安座せず、気軽に乗れるオートバイの開発を提案し「カブ号」が誕生し1952年(昭和27)12月には月産7000台を超えるほど成功した。
 1958年(昭和33)現在でも日々目にするカブの原型にあたる「スーパーカブC100」が登場する。空冷4サイクル50ccで4.5馬力なんとリッター90馬力になる。このスーパー・カブの出現でホンダが日本一のバイクメーカーの地位を築き上げ、3年後の1961年(昭和36)にマン島で初優勝。さらに1966年(昭和41)にはマン島で5クラスを制覇して世界一のオートバイ・メーカーになる。
 1963年(昭和38)にS500が商品化され、45万9千円で発売開始。翌年1964年(昭和39)にはS600が発売され、1966年(昭和41)からS800となり1974年(昭和49)まで生産されるが、ホンダはスポーツモデルばかりでなく前頁で紹介したホンダ初の量産車、空冷360ccのN360を1967年(昭和42)から発売して空前のブームを巻き起こす。当時ライバルだった軽自動車は20馬力ほどであったが、一気に14馬力も多い34馬力のデビューとなる。また当時の販売価格は31万3千円と低価格の設定で2年間で累計40万台を売る。
 そして1969年(昭和44)空冷1300ccのH1300が発売されました。このエンジンはシリンダーとシリンダー・ヘッドをアルミ鋳物で包む二重壁構造となっていてファンで強制的に冷やす方式でした。しかし構造は複雑でコスト的にも到底、収支のバランスが保てる製品ではなかったという話もあります。重ねてアメリカで起こった日本車の欠陥車問題が日本にも上陸しユーザー・ユニオンが本田氏を起訴した。裁判の結果はホンダは無罪となりました。しかしこの結果が出たのは10年後で、その間に流れたマスコミのバッシングで助長されN360の販売を急落させてしまいました。この時期のホンダは二重苦を味わうことになってしまいました。
 本田氏は1906年(明治39)静岡県磐田郡光明村於 鍛冶屋 本田儀平の長男として生まれる。幼少期から自動車に大変興味を持ち1922年(大正11)16歳 東京湯島の自動車修理工場アート商会へ丁稚奉公にはいる。1928年(昭和3)奉公を終えて浜松市内にアート商会浜松支店開業。1935年(昭和10)アートピストンリング研究所開設。1939年(昭和14)東海精機重工業株式会社設立。戦後本田技研を興し1991年(平成3)8月5日死去84歳。藤沢氏は1988年12月30日死去78歳.。

続く

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