航空機と自動車?
戦前から日本には車は勿論存在していましたが、いわゆるアメリカやヨーロッパから輸入したものや、それのライセンス生産した乗用車やバス、トラックがそれにあたります。しかし純国産で本格的に日本で乗用車が生産されるのは戦後になってからのようです。
太平洋戦争。日本では大東亜戦争と呼びますが、開戦前から戦時中にかけて日本で多数の航空機が製造されました。主だったところでは戦闘機や艦上攻撃機、艦上爆撃機、偵察機、迎撃機などです。当時の技術者たちは東京帝大工学部機械工学科卒業するのが一般的だったようで卒業後は船舶、鉄道、航空機関連に就職しますが、時代は船舶や鉄道が主で航空機に進む技術者は少なかったようです。

外地での戦況が苦しくなり撤退を強いられる頃には、本土も爆撃を受けるようになってしまいました。高度1万メートルを超えて悠々と飛んでくる爆撃機B29は高高度でもエンジンに酸素が供給できるようにエンジンに排気ターボが使われていました。

やがて戦争も末期になる頃にはドイツから技術輸入したジェット・エンジンの生産もされるが、実戦に使用できるレベルではないまま終戦を迎えることになる。
戦後日本は進駐軍に航空規制を受ける。つまり今後、日本は米側の許しがでるまで航空機の生産をしてはならないと決まり。いきおい当時の航空技術者は当然職を失う結果になり一部では戦犯を恐れて貴重な資料処分してしまう。それまで航空機や航空エンジンを製作していた中島飛行機、立川飛行機、三菱重工、愛知航空、川西航空機、川崎航空機などは軍需から民需への切り替えを迫られる結果になりました。一部の会社は社名を変更して残っていた材料を元に鍋や釜をはじめ原動機付自転車やスクーターを生産したり、米軍の航空機の修理を請け負うようになります。

しかし人気がある二輪とはいえ物流量を考えた場合限度があり、自ずと三輪や四輪車の生産へ移行していったが初期の頃は燃料のガソリンの入手もままならず、わりと安定して供給されていた電気を元にバッテリー式の小型自動車が生産された。立川飛行機や中島飛行機らのエンジニアたちによって生産された「たま号」は有名でブリジストンの出資で「たま電気自動車」が設立されるが、朝鮮戦争が始まりバッテリーが高騰し富士精密工業と共同でガソリン車の生産がはじまる
このような純国産の自動車の開発を担ったのはことごとく航空機開発にあたっていた技術者たちでした。また乗用車にとどまらず国内の純レースカーやF1の開発にあたったのもまた同じように彼らだったのである。まさに翼をもがれた技術者たちは地上に活躍の場を求めた結果だった。それは国内の経済においても大変重要な意味を持っていて軍需から民需へ移行するためにも大変重要な技術開発だったともいえるでしょう。
ロシアも最近同様な経験をしているはずなのだが、民需への移行はスムーズには行かないようで、それどころから核技術を立ち遅れた国へ売却している有様。そんな例を見ても日本の戦後の復興はまさに奇跡的なことだったたと言えるのではないでしょうか。
一方、日本は高高度から侵入してくる敵機を迎撃すべくエンジンを開発しなければなりませんが、排気ターボの開発もおぼつかず、苦肉の策で液冷酸素を高高度で使用するテストに成功した程度。しかし万が一被弾した場合の危険が大きいため軍側からは歓迎されなかったようです。ただし仮に高高度に使用できるエンジンができてたとしても被弾した際に気密を保てるコックピットを設計できたかは疑問が残ります。
そんな数少ない航空機の技術者たちが手掛けたエンジンは有名なところでは栄、誉、火星、金星、MK9A、DB601などで中島、三菱、愛知などで設計、生産、試験が繰り返されていました。中でも陸海軍が最も期待を寄せたのが「誉」で開戦当初からこの高性能なエンジンを主力に新型機の開発を目論んでいました。しかし開戦当初、海軍が提示した燃料や潤滑油の品質は年を追うごとに質が落ち、それに見合うよう技術者達は設計の見直しを余儀なくされていきます。
当時人気をはくしたスクーターのラビットは中島飛行機から社名を変えた富士産業が生産し、ピジョンは三菱が生産したものだった。なかでもラビットの車輪は銀河や呑竜の尾輪を流用してあり、現在からするととんでもない贅沢な部品構成ということになる。やがてスクーターからオートバイへと生産が移行し戦争で物流手段を失った日本では需要が高かったようです。
時代はトラックがメインで乗用車の生産はさほど多くはなかったし。しかも乗用車の生産は海外メーカーのライセンス生産が主で、タクシーやハイヤー会社が主な顧客だったようです。やがて60年代になると景気の良さも手伝って自家用車の時代がやってきた。それまでオート三輪やトラックを生産していたメーカーもどんどん乗用車生産に切り替えてゆくようになるが軽自動車がメインで普通乗用車はまだ先の事だった。やがて富士精機からプリンスと社名を変更した同社のスカイラインやグロリアなどのように高性能を誇った純国産車登場するが、数年後に日産と吸収合併される。一説にはブリジストン側の都合と銀行との取引だったとも言われています。その頃、トヨタはクラウンを開発して米国に輸出を始めた。両社のサニーやカローラが出現する以前の事だった。