今から53年前、故本田宗一郎氏は1954年3月に本田技研の全社員に向けてホンダがオートバイのT・Tレースに参戦すると宣言していますが、その冒頭に「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった」とあります。しかしこの宣言は何か変だと思いませんか?
そうです。 ホンダは当時はまだ4輪車を生産していないんです!
その11年後、宣言は実際のものとなりました。1965年F1メキシコグランプリでリッチー・ギーガンがホンダに初勝利をもたらしたのです。日本では誰も経験したことが無いレースでしかも現在のF1とは違いシャーシーもエンジンもホンダ製でした。
1963年1月末、ホンダはわずか20名ばかりの4輪車開発スタッフが市販車とF1車両の開発を同時に始める。ホンダチームのマネージャー兼チーフエンジニアは故中村良夫氏。中村氏は東京帝国大学航空学科を卒業し中島飛行機に入社。戦後はクロガネ工業(東急クロガネ)に入社するが経営不振のあおりで1958年ホンダに入社。当時38歳。 その中村氏はただのエンジニアではなかった。
中村氏は本田宗一郎氏との面接の席で「ホンダはF1に挑戦する意思がおありですか」と尋ねています。何故、面接時にそうのようなことを聞いたのでしょうか。一説には戦争に負けたとはいえ航空機の開発に携わった際の知識とプライドが最もかなうものが4輪の最高峰レースだった為と言われています。
F1エンジンの開発と熟成は容易ではなく初参戦は1964年8月2日のドイツ ニュールブルクリングは予選中のエンジントラブルの影響で最後尾のスタートでした。その後レースに勝つべく中村氏が海外現地から本社に発注した部品は注文した物と違う物が届く始末。 原因は本田氏であった。 本田氏は他社製品を使うことを良しとせず自社製品を送ったのである。中村氏の勝つ事にこだわった姿勢とホンダ氏の自社製品で勝利することを夢見た姿勢とが衝突するのはこの頃から珍しくなかったようです。
1964年は相次ぐリタイアに終わりアメリカグランプリを最後に中村氏は同年の活動を休止する。無論、問題を解決して翌年の勝利を狙うためだった。しかし本社に戻った中村氏は前述のごとく社長の本田氏と意見の違いを悪化させ1965年にチームマネージャーから外されてしまう。
後のチームマネージャーは同じ中島飛行機出身の関口久一氏が任命されることになった。関口氏はマン島時代の初代チーフメカニックでありレース部門RSCの社長を務められる。中島時代は伝説のメカニックと言われた。

中村氏が現地から本田技研に送ったジュリアス・シーザーの言葉を引用した電報 Veni Vidi Vici 「来た・見た・勝った」 はあまりにも有名ですね。
しかし翌1966年からF1のレギュレーションが大幅に変更され排気量が3000ccになりました。ホンダはRA272の改良型としてRA273を出しましたが好成績を出すまでに至っていませんでした。
明けて1967年ホンダは元ワールドチャンピンのジョン・サーティースをドライバーと迎え入れ彼の発案でイギリスはローラ社のフレームを使うことになりました。この新しいF1カーはRA300と呼ばれデビュー戦のイタリアのモンツァで見事優勝しました。しかも車両の完成は6週間の急ピッチな作業となりシェイクダウンなしにいきなり本番で優勝となったわけです。しかし当の本田氏は以前のような喜びは見せなかったようです。

しかし期待のRA301は9月イタリアのモンツァでジョン・サーティスがドライブして優勝を狙っていたが現実はそうはならなかった。9週目先に行していたフェラーリがスピンして、その衝突を避けようとしたジョン・サーティスはガードレールに接触、左側の前・後輪を失い停止した。フェラーリのドライバーを救うためのジョン・サーティスの咄嗟の判断だった。
当日レースを終えた中村氏は後の4代目の社長になる川本信彦氏にこう語っている。「俺は今日ふたつ負けた。一つはレース。二つめはグランプリに」つまり勝とうと思えば勝てたレースだったのだがサーティスは自らの勝利を捨ててまで、フェラーリのドライバーの命を救った。それは彼らには当然の事なんだと。
空冷式の軽自動車N360を発売した翌年、こうしてホンダは1勝もできぬまま1968年F1休止宣言をした。
資料
本田宗一郎本伝 毛利甚八著 ひきの真二絵 小学館 1992年

マン・マシンの昭和伝説(上・下) 前間孝則著 講談社文庫 1996年

54年前のF1参戦予告
しかしその後もホンダのF1は不調にあえぎます。そこで中村氏に声がかかりました。もう一度F1へ戻ってくれというのである。一度はF1から降ろされた身の中村氏にとって心中複雑なものがあったのは言うまでもないことだったでしょう。
しかし中村氏はF1へ戻っていきました。そして1500cc最後の年にメキシコで優勝したのです。勝因は標高2400メートルでの混合気だった。他のメーカーはエンジンが絶好にも関わらず混合気の調整がうまくゆかず出力を出せなかった。そこへ中村氏の航空機時代の技術がものをいった。つまり酸素が薄い高高度で飛行する航空機は酸素濃度の問題は不可欠だったからで、それらの知識を備えていた中村氏はホンダRA272を独走させることができました。
1968年はホンダに不運が訪れました。いままでのF1カーは重量が問題にされていたので本田氏の一声で空冷式が導入されたのです。これが有名になったRA302です。しかしオーバーヒートの問題を抱え未成熟なままフランスはルアーンでデビューした、この車両は事故を起こしジョー・シュレッサーを失ってしまいます。この時ホンダは本田氏発案の空冷と以前から使用していた水冷式のRA301との2本立てだったのですが、水冷のRA301は完走して2位になっています。